登場人物:Tさん(3歳1ヶ月)、Mくん(5ヶ月) 昨年の4月、Tさんは1歳10ヵ月で、「たんぽこ」(=タンポポ)が大好きだった。NHKの子ども番組で流れていた「タンポポ団にはいろう!」という歌をこよなく愛していて、公園のタンポポを抜いては手に持ち、「たんぽこよ」と喜んでいた。「どこでタンポポ団したの?」「コーエン!」といった、意味の通る会話の始まりがその頃だったのも、よく覚えている。 やがて数ヶ月が経つとタンポポも枯れ、「たんぽこ、ないねー」「来年の春になったらまたね」という会話が増えた。そのとき、来年の春なんて、どんなにか先と思っていたのだけど、夏を過ぎ、どんぐりに夢中になる季節がやってきて、冬は足早に去り、そして再び本当にたんぽこの季節になった。今年の春も、昨年ほどの情熱ではないけれど、Tさんはたんぽこに再会したことを喜び、綿毛を飛ばして笑っていた。 春と同様、どんなにか先と思っていたTさん3歳の誕生日も6月にやってくる。昨年6月の満2歳の誕生日、友人仲間で誕生会をしてもらって、「おたんじょうびおめでとう、ハッピーバースディ」を覚えたTさんは、それからほぼ1年間、「ハッピーバースディ」のフレーズを口にして遊び、おままごとで見立て遊びをしてはごちそうを盛り合わせ、おめでとうパチパチパチと手をたたいていた。 誕生日遊びを見ながら、私は、自分の子どもの頃の1年の長さを思い出して、彼女にとって本物のハッピーバースディはどんなにか遠いかしらと思っていたのに、やがて、3歳の誕生日も、本当にやってきてしまった(実感として「ほんとに誕生日ってくるんだなあ」という妙な感じだった)。 何が欲しいの?と聞いたら、アンパンマンのおふろおもちゃとのこと。普段、Tさんのものは、服にしろおもちゃにしろ本にしろかなり親のバリアをかけて選んでいるのだが、年に2回、誕生日とクリスマスには、その年齢のときにこそキラキラ輝いて見えるものをプレゼントしたい。私は喜んで準備した。 3歳は、数の概念とも多少関係している。 Tさんが数を数えるようになったのは2歳何ヶ月頃だっただろうか、最初は、1、2、3、だったのが、だんだん長く言えるようになると1、2、3、4、5、6、8、10になる。長いこと、7と9は飛ばされていた。特に修正せず、おふろで数を数えるときにだけ一緒に唱えているうちに、Tさんは全体を暗記していった。 今はさらに少しずつ増えて、「1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12、30、16、18、40」である。11、12で「に」というと、次は「さん」と自然に言いたくなるのだろうか。 実際の数と抽象的な数はもちろん一致しているわけではなく、数えることはできても、数の概念的には1、2、3、わあいっぱい、くらいのものだ。 数ヶ月前に、鈴木出版の濱野さんが下さった絵本の中で、Tさんが一番気に入ったのが『ねこのかぞえうた』(せなけいこ作・絵、鈴木出版、2001年1月)だった。せなけいこらしい色合いと切り絵細工の絵で、「ひとつ ひなたで ひとりでひるね にゃーんにゃん」から始まる、まさに「ねこの数え歌」だ。表紙の題字の「ねこのかぞえうた」もそれぞれ猫がポーズを取って描かれているのだが、Tさんは、「え」の猫だけ読めなかった(読みにくかった)。読めないけれど、「ね、こ、の、か、ぞ、う、た。ねこのかぞえうたね」と全体で理解していた。 「ふたつ ふりむきゃ ふとった ねこが ふふふと わらう にゃーん にゃん」と続いていく、1から10までの猫たちの様子をTさんはうれしく私に読ませる。そして、「とおで とうとう ともだち じっぴき とっても うれしい にゃーん にゃん」まで読むと、おごそかにページをめくって、無言で手を上げて私を制し、最後のページだけ「Tちゃんがよむの」と言う。 「ゆうやけ こやけ あしたもみんなであそぼうね、にゃんにゃんにゃんにゃん にゃーんにゃん」(本当は「ゆうやけこやけ あしたもあそぼう にゃんにゃん〜」)。Tさんは、夕焼けを背にシルエットになっている猫たちを人差し指でテンテンテンテンと強く指差す。ちょうど、未就園児保育などで「みんなで遊ぶ」楽しさを知り始めた頃と、数への興味とが一致した頃に頂いた絵本だったのがありがたい。 春が過ぎ、「もうすぐTちゃんは3さい」という意識が芽生えてから、Tさんは文字通り、1、2、3、と指を折り、「もうすぐさんさいよ、ハッピーバースディ、クリスマスおめでとう」といろんなものを一緒にして誕生日を心待ちにするようになった。 『あなたがうまれたひ』(デブラ・フレイジャー/井上荒野訳、福音館書店、1999年11月)は、私にとって特別な1冊だ。妊娠中にBook Galleryトムの庭から頂き、出産前の荷物の一番下に詰めて、出産したその日の午後に、Tさんと指をつないで、読んで聞かせた絵本だった。 だいたい親の思い入れというのはあまり伝わらず、この科学絵本にこめられた思想と、少しくすんだ色合いの美しさに私が惚れたのに反比例するように、Tさんはそっけなく、オープン棚に置いておいても持ってくることはなかった。 だけど、Mくんが2月に生まれ、Tさんのもうすぐ3歳が射程に入った4月ごろから、Tさんは、不意にこの絵本を持ってくるようになった。お誕生日とは必ずしも結びつけていなかったのだが、自然にこの絵本を引っ張り出してきたのは、Tさんなりに感じるところがあったからなのか。 最初のページだけ「おさかなが、とりとちょうちょにおはなしして、これはなに? かめさん?」と指さす。ページをめくって「ちきゅうは くるりとまわり」「ちきゅうは くるりとまわり」「ちきゅうは くるりとまわり」と同じことを何度も言う。これは、宇宙から見た地球、ぼうぼうとマグマを内部で燃やす地球、太陽の半円形、28日でひとまわりする月……と、絵が「くるりとまわる」(=球体)連続だからだろう。 『あなたがうまれたひ』は、「あなた」が生まれる前、地球も地球上の生き物も、海も大地も月も星も太陽も、どんなにか「あなた」を待ち、「あなた」を迎え入れる準備をしたか。ひそやかでダイナミックな自然のうごきと、生まれてこようとする赤ちゃんへのメッセージと、最後の「あなたがうまれてとってもうれしい」という一言に至るまでのall for oneの豊かさが満ち溢れたすばらしい絵本である。 3歳の誕生日当日は小さな遊園地に出かけ、メリーゴーランドや観覧車に乗った。係員さんは、大人ではなく子どもに「おねえちゃんいくつ?」と聞く。Tさんは、恥ずかしそうに、誇らしそうにOKマークを出して、「3さい」じるしを見せた。 Tさんは、3歳になってお姉さんになり、お料理してみんなにふるまえるほどに「大きく」なった。「Tちゃんがやる!おかあさんあっちいって」と主張したり、今までは簡単にその下をくぐっていた冷蔵庫の扉にぶつかるようになって背が伸びたことを思ったり。 最近では、リサイクル資料で手に入れた『ジェインのもうふ』(アーサー=ミラー作、アル=パーカー絵、厠川圭子訳、偕成社、1971年)にもはまりはじめた。赤ちゃんのときの愛用の「もーも」(大好きな毛布)を、なくしたり取り戻したりしながら、最後に鳥がすべて持ち去るまでを見届けて、成長に一区切りつけるジェインの物語を、Tさんは、未来のシミュレーションに見ているのかもしれない。 しかし、3歳は、同時に、それほど前向きだけというものでもない。テレビでローラーコースターを見て、Tさんは「Tちゃん、3さいになったら、あれにのろうね」とよく言っていたのだが、実際に3歳になってみると、「Tちゃん、まだ3さいだからのれないの」とちょっと腰が引けてきた。遊園地でも、コースターは見るだけで充分楽しい、といった表情で、スリリングなものへの怖れはしっかり持ったまま。3歳になったばかりなのに、「Tちゃん、もうすぐ4さい、もうすぐ5さいよ。そしたらのろうね」に変わった。 週に2日の保育でプールがあると告げると、「Tちゃん、3さいだからまだはいれない」と言う。この場合は、「だいじょうぶ、3さいプールだから」とよく分からない理屈で励ましたら、結局ものすごくエンジョイして帰ってきた。慎重派のTさんは、初めてのものへの心の準備が必要なタイプである。うどん作りの企画でも「3さいだから、まだよ」と言うので、またもや「さんさいうどんだから大丈夫」と答えたが、まるで掛詞のようだった。 Tさんの場合、「3歳」は、大きくなってOKのしるしであると同時に、まだまだ小さいからだめなのよ(=だからやりたくないことやこわいことはやらない)のエクスキューズにもなる。一直線に成長街道を走るのではなく、ゆるやかに行きつ戻りつしながら、彼女が3歳になじんだ頃、少しずつ4歳が射程に入ってくるのかもしれない。 7月の初め、Tさんがすっかり気に入った『ぐりとぐら』のシリーズをもう1冊買おうと思って、『ぐりとぐらのえんそく』(なかがわりえことやまわきゆりこ、福音館書店、1979年4月)と『ぐりとぐらのかいすいよく』を手に取った。 ところが、『かいすいよく』をぱらぱらめくると、大きなフォームで泳ぐ人間のすぐそばに、小さな小さなぐりとぐらが見えてしまい、私は焦って本を閉じた。ドキドキしたのは、魔法の種明かしのように、人間と比べたぐりとぐらの小ささを突きつけられたからである。ストーリーは追わなかったけれど、そうか、のねずみのぐりとぐらって小さかったんだ、というのが、とてもショックだった。『ぐりとぐら』で、2匹が見つけた大きな卵も、当たり前の卵だったのかもしれない。私は、本当に六畳間くらいある卵を想像していたのだ。 ぐりとぐらが「実は小さい」ことに驚き夢破れるほど、私は、のねずみサイズにコミットしていた。本当は小さいムーミンの世界が、他と比べられることなくムーミン谷で閉じているように、ぐりとぐらも、幸福な林であって欲しかったというわがままで。 結局、私は『ぐりとぐらのえんそく』だけ買った。たしかにぐりとぐらは小さいけれど、一応それは大きいクマとの対比だし、ぐりとぐらのたっぷりのお弁当でクマももてなされうる奇妙な大小関係は、まだ『ぐりとぐら』のカステラ・マジックを引きつぐものである。小さいばかりでなく、自分が一人前であるという感覚を、絵本の中で実感できるように、私はねがっていた。 ところが、この前、何度目かに『ぐりとぐら』を読んでいると、最後のカステラをふるまう場面で、Tさんは「くまさん、かめ、わに!、うさぎさん、かたちゅむりもいるねえ、これは?ふくろう? これは?いぬしし?(=イノシシ)」と見ながら、「ひよこちゃんがねえ、ぼくもほしいなあっていってる」と言う。 ふるまわれていない動物がいたかしらと思ってよくよく見てみると、オオカミの肩にちょんととまった黄色い鳥にだけ、たしかにカステラがなかった。「そうだね、今度、Tちゃんホットケーキ作ったら分けようね」と言いつつ、Tさんが「より小さいもの」に向かうシンパシーを強く持っていることにも、改めて気づかされた。 3歳はお姉さんであるのと同時に「ちいさい」のだろう。幼稚園にもまだ行っていないひよこさん。幼稚園児が「お兄さん、お姉さん」であるほどに、自分はまだ小さい。ふとした瞬間に、Tさんはその「小ささ」をつきつけられる。自我の芽生え始める3歳は、大きい自分と小さい自分のバランスへの気づきの始まりでもあると思う。 Mくんは、4ヶ月過ぎて寝返りをマスターし、違う世界の見え方に喜ぶようになった。口を▽の形にして笑い、美しい喃語でしゃべる。この前、Tさんに絵本を読んでいると、「ふぁふぁふぁふぁ」と笑い、それは何への反応かというと、ページをめくる音がおもしろかったからだった。 抱っこしたり母乳をあげようとしたりしても、たまに(私が疲れて)無言だと、そのまま抵抗してぐずるMくんに、「なんなのよー、何が不満かねー」と思わず投げやりに言うと、投げやりな言葉なのにそれだけで笑顔になったりする。まこと、人間はコミュニケーションを糧として生きる動物なのだ。 スーパーのレジ袋がくしゃくしゃいう音にも「ははーん」と笑う。「みょみょみょ」とか「もももも」とか変な擬音でつっついたりくすぐったりすると、やっぱり反応よく笑う。絵本を読んでいても、ページをめくる音でMくんが笑うと、私もTさんもおもしろくて、絵本読みは中断し、私が「もももも」とMくんをさすり、Tさんが「みょみょみょみょ」と真似し、Mくんが「ふぇふぇふぇーん」と笑うおかしな空間に変わってしまう。絵本もいいけど、こんなコミュニケーションも、ぐっと楽しい。 (鈴木宏枝 「絵本読みのつれづれ」バックナンバー http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/ehon.htm) |
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