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こんな仕事をしていると、こと絵本に関して「完壁」なんぞという言葉を使うことは、まず、ありません。それはもちろん、日々の暮らしの中で、今日のお味噌汁は完壁だ!とか、ジャズのCDを聴きながら、ジョン・コルトレーンのサックスは完壁だ!とか、独りごつことはあります。けれど、仕事で何かを評論するときに、完壁とか完全無欠だとかいう言葉は、使わないものです。大人になるということは、自分の発言に慎重になると同時に、臆病になるということでもあります。ですから、これは完壁な絵本…なんてことは、ついぞ、書いたことがないのです。が、実は密かに、そう思う絵本があります。それが、西巻茅子の『わたしのワンピース』(1969年)です。私がこの絵本に出会ったのは1974年頃、大学生の時でした。私の学生時代は、「絵本ブーム」と呼ばれた頃で、絵本作家という、ひとりで絵もお話も作る絵本作家が多く登場し、次々と個性的な創作絵本が誕生した時代でした。絵本が子どものためのものだけでなく、大人も楽しめるものという認識が少し広がった時代でもあります。また一方では、IVY(アイビー)ルックでテニスのラケットと絵本を小脇に抱えているのがカッコイイ、と言われ、いささか絵本がファッション化した時代であったかもしれません。話が少々横道にそれました。さて、『わたしのワンピース』です。「まっしろなきれ ふわふわって そらから おちてきた」「ミシンカタカタわたしの ワンピースを つくろっと」で、この絵本は始まります。登場人物(?)は、うさぎひとり。ララランロロロンと歩いて行くにつれて、ワンピースは、花畑で花模様に、雨の中で水玉模様に、草原を歩いていると草の実模様に変化していく。草の実を小鳥たちが食べにきて、小鳥の模様になったかと思うと、一斉に舞い上がり、虹、夕焼け、星空へとうさぎは浮遊していきます。やがて、眠くなって流れ星となり、野原に降り立ち目がさめる。ワンピースの模様の変化で、時間と空間を自由自在に、しかも何の無理なく行き来するあざやかさ。ことばは、うさぎがぽつりぽつりとつぶやいているような温かさを持ち、繰り返される「ララランロロロン」を、読者も思わず口ずさんでいる。絵はリトグラフで、まるで子どもが描いたようにシンプルな線に、優しく鮮やかな色彩と、背景の白のコントラストが、美しい色のハーモニーを生み出している。それぞれに魅力的な「ことば」と「絵」が調和し、見事にストーリーを運んで行く。もう感心するばかり。脱帽ものです。何より、こんな理屈っぽい解説を全くもって必要とせず、大人も子どもも、ゆつたりと安心してこの絵本の世界で遊べる、愛され続けている、そのことこそが、完壁なる所以なのだと思います。(竹迫祐子) テキストファイル化富田真珠子 |
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