今回はまず、長編ファンタジー二作がしめした、同一性について書いてみたい。
まず『虚空の旅人』(上橋菜穂子・作)から。本の帯に「外伝」とあるように、前三作の主人公バルサは登場しない。主人公はかつて精霊の守り人であった新ヨゴ王国の皇太子チャグムと、若き星読博士でチャグムの教育係シュガである。チャグムは海を領域とするサンガル王国の新王即位式に列席することになった。祝いの席であるとはいえ、相談役としてつけられたのはシュガ一人。専門的な外交官がついていないというところに、チャグムの皇太子としての地位の危うさがある。その危うさとは、チャグムが下界、つまり議の人々の愛憎深い猥雑な生活を知ってしまったからなのである。帝とは「深山の泉」のような、下々とはかけ離れた存在でなければならないとされている。しかしチャグムはサンガル王国の武骨な王子クルサンから見れば「まるで貝の奥に秘められた極上の真珠のような印象」を持たれる。この両面性が物語にとっては重要なポイントになっている。
サンガル王国は多島からなり、各島は地方長官ともいうべき島守りが統治しているが、その島守りたちの間にあたかも新王即位の空白を狙うように、反乱のあやしげな空気がただよいはじめていた。一方、ラツシヤローと呼ばれる「海をただよう民」がゆえ知らず、兵士を乗せたサンガルの商船に襲われるという事件が起きていた。もう一つ、「ナユーグル・ライタの目」と呼ばれる少女が登場する。サンガル王国にはナユーグル・ライタという海の底の別世界の住民がおり、ときに海上に現れて人間に憑くという伝承がある。憑かれるのは五歳くらいの子どもで、人の世が悪しきものかどうかを見る目となり、悪ければ人びとを滅ぼすのだという。そこで、ナユーグル・ライタの目となった少女は目隠しをされて王宮につれていかれ、最大級のもてなしを受けた後、海に返される、つまり殺される習わしがある。新王の誕生に合わせるように、ヤタという漁師の娘エーシャナが「ナユーグル・ライタの目」になって王宮に連れてこられる。かつて水の精霊に身体をとられていたチャグムとしては、その少女を気にかけないわけにはいかない。
物語はこのような要素をはらんで、王の即位式直前に多くの客人のまえで王の三男であるクルサンが、新王となるべき長男のカルナンに巨大な鎗を投げつけて大怪我を負わせるという事件が起きる。これにはサンガル王国を狙うクルシュ帝国の呪術師がかかわっているわけで、このあと、物語は呪術、陰謀、それに対抗するサンガル王国の人々とチャグム、シュガという構図となり、二人は最後に魂をとばして呪術師と対決をする。
もう一作『えんの松原』(伊藤遊・作) は平安時代中期を舞台にした怨霊物語である。ただ平安時代といっても、会話などをふくめて、かなり現代的な物語になっているといっていい。
音羽丸は女童姿で温明殿の伴内侍のもとに仕えている。内裏の東の端にある温明殿は三種の神器の一つ鏡がおかれ、女官だけがいる場所だからだ。そこにひそかに男の子がしのんでくる。それが十一歳の東宮憲平で、やがて二人は深い友情に結ばれるようになる。東宮は怨霊に崇られており、次第に心身とも衰弱している。怨霊の正体は、孫が東宮になれなかったため憤死した藤原元方なのだという。音羽丸も両親を怨霊に殺されており、東宮の災難はとても人ごととは思えない。
一方、武徳殿の「えんの松原」には黒い鳥の姿をしたさまざまな怨霊が住んでおり、人々の近づかない場所となっている。実際の松を切るように命じられた男たちは災難に出会う。東宮をおびえさせている怨霊もここにいるらしい。その東宮はある夜、怨霊の姿を見る。それは女の子だった。
物語はその女の子とはだれなのか。そして東宮とそっくりな顔立ちはなぜなのかをめぐつて展開されていく。後半、女の子は東宮の魂をえんの松原に追いやり、身体を乗っ取って自分の無念の思いを語る。
この『えんの松原』については、物語がやや直線的すぎるのではないかという気がするし、えんの松原になぜ怨霊がすみついたか、どんな怨霊たちなのかがはっきりしないなど、物語のなかではっきりした形をとりきれなかったようにも思う。また内裏の全体像が見づらかったこともつけくわえておきたい。
それはさておき、現在の出版事情ではかなりの長編であり、力作であるこの二作を並べて粗筋を紹介したのは、その類似性のためである。もちろん、主人公がかたや皇太子、もう一方が東宮という、将来は国の最高の地位につくべく運命づけられた存在であるということもそうだが、それだけではない。まず二人の性格づけである。チャグムも東宮憲平もきわめてやさしい。そしてそのやさしさが国を危うくすることを、二人とも知っている。チャグムはいう。
「わたしは、あやうい皇太子だな。」
「神聖なるヨゴの皇太子としては、あまりにあやうい性格をしているな。」
このあやうさというのはたとえば兵士を駒のようには見ることができないということである。国のために生きなければならないと知っていながら、なお下々の生死にこだわってしまう性格なのだ。
憲平もそうだ。彼はまず怨霊と対決するより、死をさえ選びかねない弱さがある。
「(怨霊の正体だとされる)元方は一の宮をさしおいて東宮になった者を恨んでいるのだもの。その東宮をとり殺せばしずまるはずなんだ‥‥。怨霊がしずまったそのあとで、弟が東宮になればいい。」
と語る気弱さなのだ。そして自分を取り殺すかもしれない存在に手を差し伸べるやさしさと、勇気もまた持っている。主人公の弱さ、危うさ、やさしさ、勇気。児童文学を性格づけてきたこれらの要素を、まちがいなく二作の主人公も身につけているといえばいいのだろうか。
類似のもっとも見やすいのは超自然的現象を、まさに自然なものとして受け取っている世界であるということだろう。チャグムはいう。
「かつて、わたしは、自分をはぐくんでくれるこの世界に、やわらかな雨を降らせる精霊の卵を抱いた。しかし、そういうつとめをいだいたわたしを、父上も聖導師も、ひたすらに殺そうとした。‥‥‥彼らには人の世しかみえなかったからだ。異界の精霊が、われらにとって、どんな意味をもつか、彼らは、まったく思いやろうともしなかった。‥‥‥わたしの命さえ、思いやってはくれなかった。」
音羽は怨霊がいない世の中はほんとうにいい世の中といえるかと自問してから、憲平にむかっていう。
「うまくやるやつがいて、そのあおりを食う者がいる。そのしくみが変わらない限り、この世から怨霊がいなくなるとは思えない。それなのに、怨霊がいなくなつたとしたら‥‥‥、それはいないのではなく、だれにも見えなくなっただけじやないか、という気がするんだ。だれも怨霊のことなんか思い出しもしないし、いるとさえ思わない‥‥‥。忘れてしまうんだ、悲しい思いをしたまま死んでしまった人間のことなんか。それはもしかすると、今よりもずっと恐ろしい世の中なのかもしれないぞ。」
まさに「この世ならぬ世界の存在である怨霊や呪術」を認め、前提にして生きている者たちのことばだ。いわば陰の世界をこのような形で取り入れることで、物語の探さやおもしろさがでたことはたしかなのだと思う。同時に、かんたんにこの世ならぬ世界を物語の核とすることに、わたし個人としてはいささかの危惧を抱かざるをえないものがある。それは人間世界の単純化につながりかねないと思うからなのだ。ナユーグル・ライタの目にしろ胎内で性を変えるという変成男子法にしろ、どこか危うさを感じる。
ほかにも、二作にはいくつかの共通点がある。皇太子や東宮は少年であり、必ず命がけの手助けをする少年がいること、高貴な身分であるゆえ真実を知らされないにもかかわらず、いつかはその真実と対決することになるなどである。そのうえ、なによりもこの二つの作品に共通しているのは、高貴な身分を主人公にすることで、読者に、自分だけが特権的に愛され、たいせつにされるというロマン的世界を与えているのだということを確認す
る必要があるのだと思う。
楽しいファンタジーを二冊紹介したい。まず『紳士とオバケ氏』(たかどのほうこ・作 飯野和好・絵)から。都会の古い家に一人住むマジノ・マジヒコ氏の日常は文字どおり判でおしたようなきまりきった生活である。ところが、ひょんなことからきっかり十二時間生活がずれて、真夜中に目がさめる。すると、家の中には自分そっくりのオバケがいたのである。「オバケだって? わたしの、オバケだって? じゃあ……、わたしは、死んだのか。」とあわてる、きまじめなマジヒコ氏。もちろん、マジヒコ氏は生きており、オバケの話によれば、自分は家つきのオバケで、便宜上、その家の主人と同じ顔になっているのだという。
ここから、人のいいマジヒコ氏とオバケのゆかいな交流がはじまる。まず手紙のやりとり。真夜中の十二時までがマジヒコ氏の時間で、それから朝までがオバケの時間なので、重なりあうことがないからだ。このオバケ、本もすきだし、マジヒコ氏の朝食だって作れてしまう。マジヒコ氏は規則正しい生活をすて、オバケの時間に登場してチェスをさしたりするようになる。
『十一月の扉』で少女の心の襞をていねいに描いたたかどのだが、この作品では作者自身が物語作りを楽しんでいるようだ。とぼけたユーモアは、ストックトンの「幽霊のひっこし」などを思いおこさせる楽しさである。飯野の絵も、物語の雰囲気を盛り上げていて秀逸だ。
もう一作は『ボーソーとんがりネズミ』(渡辺わらん・作)。千葉県の外れの市の、その外れに引っ越した田中中(あたる)一家。中中で串なので中はクッシーと呼ばれている。引っ越し荷物の整理中、母親がスリッパでたたいたのが、体長三センチというネズミだった。調べていくと、これは人語を解し、音楽を愛する房総トガリネズミという珍種で、とっくに絶滅したと思われていたものだった。
ここから、ネズミを守ろうとする中と、「保護」して飼育しようという大人たちのせめぎあいが始まる。素直な文で書かれた物語で、読者はいつか中とトガリネズミを応援するようになるという気がする。市役所につとめながらエッセイも書くという父の存在がなかなかいい。作者はこの作品で昨年度の講談社児童文学新人賞を受けている。
最後に岩瀬成子の『金色の象』についてふれておきたい。花という小学校六年生を主人公にした六編の連作短編集である。
花の両親はスナックを経営している。岩瀬の他の作品の登場人物と同じように、花は周囲に溶けこもうとするが、うまくいかない。自分自身の顔さえ、「鼻も口もばらばらで、美人じゃないというだけではなく、やさしさとか、賢さとか、そういうものも感じられない、ふくらんだだけの顔だった。」と認識している。一重まぶたを二重にするため、セロハンテープを使ったりする。つまり自分自身ともなじめない感情を持っているのだ。スナックの客である青年由之に恋心を抱いているが、もちろん実らぬ恋である。しかし、おばあさんの見舞いにいった病院で、夕焼けを見ておそろしいと感じる豊かな感性の持ち主でもある。
花が見る他人は、ミスをして監督である父にしかられるクラスメートや、家出をともにする親友とはいえない友、昔の夢に生きる老人、迷子などである。みんな、日常のなかでどこかずれている。このずれは、どうしても自己を現在の生の中心におけないところからきているように読める。花の「気分」は小さい子どものように、もう自己中心的ではいられないが、かといって、他人を突き放す、あるいは利用するエゴイストにもなれない、そんな年齢にとっての必然として描かれているようだ。
いま、このようなリアリズム作品はほとんど書かれていないようだ。そればかりではなく、作品としても良質だとは思うが、読者層を考えると、暗い気持ちになることもまた、事実なのだ。
鬼ヶ島通信38号2001.11.30