物語のほうへ04

思春期から青年期というあやうさ
千葉幹夫



 思春期といえば、おおむね十五歳前後を指すらしいがその一年、一年が同じようにくくられるわけではない。もちろん共通している部分もあるだろうが、成長していくごとに背負うものは、かなり違ったものなのではないか。そんなことを考えさせられた作品を三作とりあげてみたい。
 椰月美智子『十二歳』は、題名どおり十二歳をまるごととらえようとしているようだ。主人公鈴木さえは小田原市木成小学校六年生で、ポートボールのポイントゲッターである。将来は学校の先生になることを夢見ている。それは直人という二十五歳の先生への憧れもまじっているわけだが。さえの学校にはいじめもあり、さえ自身は母親と感覚的になじまないものを感じはじめる年齢になった。いじめられている子をかばったり、男子生徒の縫い物を手伝ったりする一方、人前に出ることが苦手になりはじめている。そろばん、スイミング、ピアノと手を出してきたが、長続きはしない。「ある程度できるまでは一生懸命やるけれど、なんとなくできるようになると、もうなんだかどうでもよくなってしまうのだ。」という少女である。つまりなにか快いものを探すが、人に秀でたものを身につけて自意識を満足させるほどではない段階ということになるだろうか。さえは偏頭痛に悩まされているが、それがひどい状態になった日は水泳大会だった。「クラスごとに整列して、ふと足元を見たときは、私はくらくらとめまいのようなものを感じた。女の子の足、足、足、足、足。たくさんの足が重なり合うようにひしめき合っている。
 今まで気がつかなかったけど、それは女の子の足ではなくて女の人の足だった。まっすくだと思っていた足には、太いところと締まったところがちゃんとあった。」
 さえは自分も女の子から女へと変化しているという自覚に、頭痛とめまいを感じたのだ。
 ポートボールチームのオール木成のコーチは、「やさお」というニックネームのある遠藤先生と直人先生だが、さえは、やさおやキャプテンの金谷とはそりが合わない。さえは、チームではどのポジションも無難にこなせるなんでも屋である。しかし、ほんとうに気持ちをこめてチームのために戦うという姿勢ではない。やがて金谷が練習中に骨折する事故があり、さえは必然的にレギュラーの地位を確保する。しかし、それはさえをポートボールに夢中にさせることにはならない。クラスメートに木下という絵の上手な女の子がいる。さえもそこそこに絵は描けるが、「何かになれない程度のあたりさわりのない絵」にすぎない。だから、「私が先生になれたとしても、絶対に木下さんにはなれないのだ。残念だけど、今のこの十二歳の時点で決定されていることは、たぶんいくつもあるはずだ」という、苦い自覚にいたる。
 さえは急激な運動が禍したらしく骨髄炎になる。そのせいもあって、柳瀬小との練習試合で得意なはずのフリースローを二本もはずす。初めて恐ろしさを感じ、足がすくんでしまったのだ。おまけに直人先生を本気で恋してしまったらしく、「悲しくはかないやりきれないような痛み」を覚える。もう無邪気な子どもではない。
 同級生の男の子を見る眼も変化する。「やんちゃな姿に見えかくれする、ストレートな素直さが胸に響く。男の子の素直さというのは、いじらしさに直結している。まっすぐな気持ちをかいま見てしまうと、逆にこっちがやさしい気分になって、守ってあげたくなってしまうのだ。」
 そしてさえは、「人間離れ」をおこしてしまう。「自分がふわふわ得体の知れないもののようにひどく頼りなく、心細い」存在に思えてくるのだ。ただ、姉の愛、昔の母の姿などを思いだすと人間離れは軽くなる。まったくの他者とは違う家族の間では「そのまま」でいい関係がある。しかし、友達やひそかに恋する人は違う。人を好きになるとは痛いことだという経験もする。ついには、「知らないうちにどんどん離れていく。みんな私を置いて先に進んでしまうのた・・・・・・。」「今の私には、真剣に打ちこめるものがなにもない。すべてがあやふやでぼんやりしている。すべてが中途半端ですっきりしない。」という自覚にいたるのだが、これは人がひそかに胸に秘めているはずの「私が世界の中心」という自覚にいたる痛みなのだろう。
 物語は、クラスメートのソフトボール試合を応援しているうちに、かなり回復し、直人先生の結婚による衝撃もなんとか乗り越え、ついに『運命は決まっているけど、自分の気持ち次第でどうにも変えられる』と思うにいたるのだが、この自意識のドラマの結末としてはすこし甘い気もする。もちろん、作品にこの先を求めることは酷な話だ。わたしはこの新人作家が、さらに他者との関係で生きる少女の姿を描いてくれることを期待したい。
 草野たきの『猫の名前』は、『透きとおった糸をのばして』に続く新人第二作である。主人公佳苗は中学三年生。隣家の紗枝子は三十八歳。母と同じ年齢で無料の家庭教師を引きうけてくれている。ベランダを乗り越えていく間柄なのだが、むしろ年上の友人という関係になっている。友人という意味は、親には内緒のルールを二人で持っている共犯関係ということでもある。ファーストフードでおしゃべりをしたり、カラオケで遊んで遅くなるときは、紗枝子の家で勉強していることにしてくれるし、派手な格好でライブハウスにいったり、夜の遊園地で遊ぶときは付添いをしてくれる。紗枝子は小さな猫のぬいぐるみを収集する趣味がある。学校では田島絵理と親しく、遊び仲間でもある。絵理は、「流行とかおしゃれに敏感で、メイクも、マニキュアも、アクセサリーも、キュートな服も、みんな絵理のためにあるみたいによく似合う。」という中学生である。
 ある日、佳苗は生活指導担当の加曾利先生に呼び出され、平野春名の見舞いにいってほしいと頼まれる。春名は登校拒否をしていて、最近、手首を切ったのだという。佳苗は春名をほとんど知らない。だから、佳苗が見舞いにいかないと、ビルの屋上から飛び降りるといっていると伝えられてもピンとこない。
 結局、佳苗は春名を見舞うことになる。佳苗になぜ私に会いたいのかと問われて、春名は「復讐したいの」と答える。佳苗には復讐される覚えはない。しかし、強引な春名におされて、佳苗は何度も病院に通う破目になる。
 そのうち、絵理が紗枝子に十万円の借金を申し込む事件があり、反対した佳苗と絵理の関係があやしくなってくる。絵理はイエローカラーというバンドのシンという男に貢ぎたいのだという。しかしシンは援助交際の紹介料をもらっているなどの噂のある男だった。二人が喧嘩別れをしたとき、絵理はいう。「いてもじゃまにならないところだけがとりえなのに、私の行動にケチつけないでよ。」
 この捨て台詞に傷ついた佳苗は、原因は紗枝子にあると考えるようになっていく。紗枝子は、佳苗の母由貴子には告げられないという、絵理の絶対の秘密を握っている。だから、いさかいがあっても「いちばん大事なふたりだけの秘密」のため、仲直りをしてきたのだ。そんな秘密めいた関係を母は好ましく思ってはいない。ところが、佳苗はその秘密とはなにか、わかってはいないのだ。
 やがて、その秘密とは、佳苗が五年生のとき、弟をジャングルジムから落としてけがをさせたことだったと知る。佳苗はしかし、胸をはっていう。母にいってもいいよ。私を責めはしないし信用もしないだろう。さらにつけくわえる。「母さんは、紗枝子さんとちがって大人だから。」
 佳苗にしろ絵理にしろ紗枝子にしろ、自分と友人の関係を保つために作ってきたルールを破ることで自分を保ち、友を失いかけることになっているのだ。一方、佳苗はうっかり、チケットがあることを口にしたため、春名をライブハウスに連れていくことになる。そこで、春名の手首には傷もなければ包帯もないことに気づき、「壊れちゃった」と感じてたおれ、つぎの日、学校をさぼって病院にいった佳苗は、春名の入院は狂言だったとわかる。
 すべてが崩壊しそうなとき、佳苗は動きだすのだ。春名を問い詰め、小学校五年生のとき、春名から友を奪ったことが憎悪の原因で、それなのに学校生活を楽しんでいる佳苗が許せないのだという。また紗枝子は乳がんで片方の乳房を失っており、そこに小さな猫のぬいぐるみをいれていたことを佳苗に見せることで、関係を回復しようとする。
 しかし、春名のまえで、佳苗はたとえ春名が自殺しても逃げないといい、紗枝子との関係もめんどうで、うんざりだが、その人が必要だといいきる。ここで、佳苗は春名も紗枝子も、仲直りした絵理も引きうけて生きることを決意したのだ。
 えんえんと、しかも恣意的に物語を要約してしまったが、この物語を通して思春期中期という時期の人と人の関係の成り立ちと危うさ、親子の絆の確かさと危うさを語ってみたかったのだ。私たちは「家族」と「他人」に囲まれて生きているのであり、その人たちの目を通して、自分とは何かを確認しているような気がする。他人から見られているようにだけ自分が存在するのなら、人生はそんなに難しくない。自分が見ているようにだけ他人が生きているのなら友情などたやすい。家族同士ならその落差は少ないはずだが、それでも子は親を見ながら育ち、ひそかに親と違う道を構築しているはずだ。「友人」は必要不可欠な存在であるとはいえ、絵理が最後に吐いた捨て台詞のように、あるいは紗枝子が秘密をほのめかして佳苗をつなぎとめ、春名が狂言を演じたように、「自己のための他者」という自己中心性を抜き去ることはできない。抜き去るとは解体を意味しているのではないだろうか。
 この二作に、萩原規子『樹上のゆりかご』を繋いで考えてみると、性や性差の問題という色が濃くなり、もはや思春期という言葉ではくくりきれない重層性を帯びてくる。舞台は東京郊外の名門辰川高校である。男女数の比が三対一で、男子クラス四、男女クラス四というクラス構成になっている。そのせいで「女の子にそうじさせない、重いものを持たせない、喫茶店でお金を払わせない」という不文律があるらしい。合唱祭、体育祭、演劇コンクールと二年生以下は一年中行事に追われている。上田ひろみは頼まれて合唱祭のパン売りを手伝うが、だれかがパンにカッターの刃をひそませたところから、事件にまきこまれ、やがて親友の中村夢乃とともに生徒会執行部に参加することになる。執行部への脅迫状、屋上からカナヅチ落下と不気味な事件が起きるなか、クールでルックスのいい鳴海知章会長のもと、祭の準備はちゃくちゃくと進んでいく。
 ひろみは、ふとしたきっかけで美少女近衛有理と会話をかわすようになる。有理は辰川高校には女子生徒の居場所はない、女子の存在は認められていないという。「名前のない顔のないものがそう言うのよ。」「偽善がいっぱい。いろいろな意味で、偽善がいっぱいな上に成り立っている場所よ――この学校は。」
 とまどうひろみだが、男子の中にすんなりと入っているはずの夢乃も何かの壁にぶつかっていることを知り、名前のないものを考えだす。そして、文化祭の直前、放火騒ぎが起きる。どうやら、鳴海と夢乃はその犯人を知っているらしい。
 この先を詳しく語ることは差し控えるが、近衛有理が演劇コンクールで、「そこにいるのは、辰川高校の女子生徒ではなく、清純さとみだらさを兼ね備えた、しなやかなサロメ」という姿を衆目にさらし、ついに自分をふりむくことになかったヨナカーンの首に語りかけたことは、つけくわえておかなくてはならない。
 最後に「顔のない名前のないもの」の正体を作者はこう書く。「辰川高校が明治の旧制中学だったころから、めんめんと途切れもなく卒業していった生徒――その大半はもちろん男子生徒――の総体なのかもしれない。」「そのものは、どんなときも異端をゆるさない。価値観のちがいを唱えることはゆるさない。まるでヨナカーンの神なのだ・・・・・・。」
 しかし、作品の沿うかぎり、この問題はこれ以上追及されることはなく、むしろ狂気すれすれの愛の強さ残酷さが強く印象に残る。『これは王国のかぎ』の続編として読める作品なので、さらに続編を期待したい。

 あとは駆け足で語るしかないのだが。いしいしんじ『麦ふみクーチェ』は、物語の面白さを存分に味あわせてくれる。町の楽団をひきいる厳格で偏屈な祖父、困難な数学の問題を証明しようと狂奔する父に育てられた男の子の物語である。自身、祖父によって、猫の声を出す楽器として育てられてたため「ねこ」と呼ばれているのだ。ねずみの雨とか、町中の人が詐欺にあうとか、そのほか、すべて非日常的な物語でありながら、人の懸命さ、健気さ、愚かさ、愛などがそくそくと伝わってくる。物語は「ねこ」が聴く麦ふみの音とクーチェの正体がわかることで、全体の像がくっきりと結ばれる。
 森絵都『DIVE!!』が4巻で完結した。坂井知季、沖津飛沫、富士谷要一という三人の天才ダイバーを、それぞれの家庭や環境、コーチの思惑や愛を交えて、物語はついに大団円を迎えた。ダイビングというマイナースポーツを素材にしたことから始まって、過不足なく描いてみせたスポ根小説を完成させた腕力はさすがというしかない。三人を中心に脇役もすべて、くっきりと印象に残った。
鬼ヶ島通信40号 2002
テキストファイル化茂原真理子