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この作品は、1935年から37年にかけて執筆されたものである。今回の復刊は、1967年に刊行された、ジュニア版吉野源三郎全集『君たちはどう生きるか』をもとにしている。 今回の復刊を期にこの本と出会った私は、最初から大きな関心を抱いた。それは、この本を思春期に読まれた周りの方々が、当時たいへんな感銘を受けたらしいことに興味をおぼえたからである。それから、『君たちはどう生きるか』というタイトルにも心がひかれた。この問いは、今も昔も変わらず、誰もが思春期にぶつかる問いだと思うが、50年以上も前に書かれた本書が今復刊された意味は、どこにあるのであろうか。そんな疑問をもちながら本を開いた。 主人公の中学生コペル君は、ある日ビルの屋上から町を見下ろしていて、人間はまるで水の分子みたいなものだと思う。そして、自分の身のまわりにある物が、数え切れないほど多くの人の手を経て私たちの手に届くのだということを思いやり、世の中というものは、人間一人一人が水の分子のように寄り集まってできているものであることに気づく。コペル君は、それを「人間分子の関係、あみ目の法則」と名づける。それからというもの、彼の眼は、しだいに社会に向けて開かれ、やがて自分自身にも向けられていくようになる。 コペル君のクラスメートの浦川君が、お弁当のおかずが毎日油揚げであることをからかわれるというエピソードがある。コペル君は、浦川君との交流をとおして、貧富の差の不条理を知り、「ありがたい」ということばのもともとの意味―「そうあることがむずかしい」という意味で、自分の受けている幸せが、めったにあることではないと思えばこそ、それに感謝する気持ちになるということ―を叔父さんから教わるのである。 しかし、今の子どもたちは、日々クラスメートとまったく同じ給食を食べている。給食に限らず、子どもたちの生活の大部分を占める学校でお互いの家庭の貧富の差を感じることは、コペル君の時代に比べてはるかに少ないことだろう。コペル君の時代に望まれた、この平等であるということは、今の子どもたちに「豊かである」という自覚を得がたいものにし、「ありがたい」ということも感じ得なくしてしまったのではないだろうか。 また、社会全体を見渡してみても、私たちは、コペル君の時代から今に至るまで、物に対し、徹底的に清潔であることや見た目の美しさを求めてきた。そのため、コペル君が思いやったような、物ができるまでに関わる多くの人たちのかげを排除してきた。その結果、まだ眼が開かれていない子どもたちは、コペル君のように、「人間分子の関係、あみ目の法則」を発見する機会を失ってしまったのではないだろうか。 本書は、50年の時を経て、物質的な豊かさが本当の意味での豊かさにつながるか、という新たな疑問を私たちに投げかけているように思えてならない。私にとっての今回の復刊の意味は、そこにある。(鈴木真紀)
「図書館の学校」TRC 2000/10
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