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アメリカ大陸にわたってきたのは、白人たちばかりではありませんでした。黒人たちもまた、「安価な労働力」として、狭く不衛生な船に「積まれ」て、続々とアメリカへやってきました。インディアンの少女アマナが村にしのびよる「不吉な影」に気づいたちょうど同じ頃(十九世紀後半)、黒人奴隷の数は既に、なんと四百万人を超えていたのです。 『どれい船にのって』(フォックス作/ホゥゴー政子訳/福武書店刊)には、十九世紀にアメリカとアフリカ大陸を行き来して黒人を「輸入」していた商人たちの姿が、たまたまさらわれてどれい船に乗りあわせた少年の目をとおして、生々しく描かれています。何人かの商人は、確かに強欲で冷酷ですが、大半は大ざっぱで気のいい船乗りにすぎません。なかには、自分自身の先祖が、黒人と同じようにさらってこられてアメリカで売られた、という、アイルランド系の男もいます。それなのに、全員が「黒人は獣と同じで、単なる商品なのだ」という点では意見が一致しており、主人公が少しでも黒人に同情しようものなら、ふだんは優しい男までが豹変して、怒り狂うのです。 「白人だけが人間であり、アメリカは、神が白人に与えてくれた土地なのだ」―というのが、白人たちの「アメリカン・ドリーム」を陰で支えた考え方だったと思う時、大平原の開拓者たちの生活の喜びに満ちた暮らしにも、二十世紀に入ってからの陽気で元気のいいアメリカの子どもたちの姿にも、苦い影が落ちるのを感じずにはいられません。 『ひとりっ子エレンと親友』『いたずらっ子オーチス』(クリアリー作/松岡享子訳/学習研究社刊)には、'50年代の子どもたちの姿が生き生きと描かれています。エレンやオーチスの毎日は、学校の劇や親友とのけんかやバレエのレッスンをめぐる喜びや悩みに満ちていて、まっすぐで、明るく輝いているようにみえます。エレンたちには人種の異なる友だちはいませんし、子どもたちのだれもが、自分たちの家や学校が建っていたあたりが、数百年前には「バッファローのひづめの音が響き、丈の高い草が歌をうたって」いたインディアンたちの世界であったことなど、実感としてわかってはいません。もちろん、それはエレンたちのせいではありません。エレンやその友だちや家族が、黒人やインディアンを迫害したわけではありません―彼らはただ、‘知らなかった’のです。 けれども、いつまでも知らないままではすみませんでした。エレンやオーチスの物語は、子どもの生活をリアルに描いた楽しい読み物としては、最高のもののひとつでしょう。でも、アメリカは、いつまでもそうした物語ばかりを生みだし続けるわけにはいかなかったのです。エレンやオーチスがちょうど大人になった頃、'60年代から'70年代にかけて、アメリカは新しい大きな変化にみまわれることになります。 (続く)
福武書店「子どもの本通信」第8号 1989.8.20
テキストファイル化富田真珠子 |
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