|
過去にあった大きなできごとを語り伝える力をもつ作品、というのは、どんな作品だろう、と時々考えます。そんな時必ず思い出すのが、『やぎのあたまに―アウシュビッツとある少女の青春』(シーガル作/小柴一訳/草土文化社刊)という本です。 ハンガリー国境に近いウクライナの町に住むユダヤ人の少女ピリが、1939年9歳のとき、川に浮いている若い兵士の死体を目撃した日から、1944年、14歳でアウシュビッツ行きの列車に乗せられた日までを回想する、という形式のこの本は、事実をたんたんと伝えて、決して声高に戦争そのものを糾弾したりはしていません。けれども、少女の感じる漠然とした不安や、家族が一緒にいることの喜び、ゲットーの中で芽生えた淡い恋心等がきちんと描き出されているため、読者はいつのまにかピリと一体となってゆきます。 そして列車の扉が閉まるラストの後、短いエピローグで、彼女とすぐ上の姉は九死に一生を得たものの、二度と他の家族に会うことはなかった、という記述を読むとき、本当にやりきれない気持ちになり、“二度とこんなことがあってはならない”と思うのです。 少女ピリが実は作者であった、ということも、このエピローグで初めて明かされます。言いかえれば、エピローグまでの間、大人となった現在の作者の意見や視点はほとんど前面に出てこない、ということです。この抑制のきいた筆致が、“少女ピリが語る”という形式を生かし、“事実の重みを伝える”ことを成功させている要因のひとつではないでしょうか。 過去の大きなできごとを伝えるとき、事実を離れ、ひたすらその時の思いを伝える、という方法もあります。『ブラッカムの爆撃機』(ウェストール作/金原瑞人訳/福武書店刊)に収められた二つの作品はその好例です。表題作“ブラッカムの爆撃機”は、第二次大戦中の英空軍の少年飛行兵たちの物語、もうひとつの作品“チャス・マッギルの幽霊”は、同じく大戦下のイギリスの疎開先で、謎の兵士と出会う少年の物語です。 物語はどちらも、ファンタジーの要素の入ったもので(ウェストール独特の迫力で、ぐいぐい引きこまれてしまいます)、実際にあった事件というわけではないし、作者のウェストールも、従軍経験はあるものの別にこれらの物語に書かれたような状況を自ら経験したわけではありません。けれども、これらの質の高い物語を読むと、少年たちのやりきれなさや恐怖、極限状況下で抱く友だちへの愛情、といったものがせつせつと伝わってきます。それはやはり、終戦時に15歳だったというウェストールが“語り伝えたいこと”なのだと思います。 体験した人の肉声と、さまざまなアプローチの“フィクション”がともにあって、初めてひとつのできごとというのは生き生きと伝えられるのではないかと思います。そしてそのどちらの場合も、作品が、事実のもつインパクトによりかからず、質の高さを保っていればこそ、多くのことが、“伝わる”のではないでしょうか。
福武書店「子どもの本通信」第14号 1990.8.20
テキストファイル化富田真珠子 |
|