児童文学この一冊

15.現代のサバイバル
上村令

           
         
         
         
         
         
         
     
 一昔前、児童文学に現れる“子どもの不幸せ”は、貧困や肉親の死によるものが主でした。社会や家庭の状況が、その良し悪しはともかく安定していて、子どもに影響を及ぼさなかったのです。でも、今は、圧倒的に“社会や家庭の問題”が多くなっている気がします。たとえば――
 『夜の鳥』(ハウゲン作/山口卓文訳/旺文社刊・絶版)の主人公ヨアキムは八歳。ヨアキムのパパは仕事になじめず、神経を病んで家にいます。ママが働いているので、ヨアキムが学校から帰るとパパがいる―はずでした。ところがパパはよくいなくなります。遠くへ行く時に着るヤッケと、近くへ行く時用の木靴を身につけて、ふらっとでていってしまうのです。ヨアキムは脅えて思います―「遠くと近く……パパはどこへだって行ってしまえるってことなんだ」
 ママは疲れ、苛立ち、家の中に不協和音が広がるにつれ、“夜の鳥”が力を増していきます。ヨアキムの部屋の洋服だんすの中には“鳥”が住んでいて、夜になるとたんすから溢れでて襲いかかってくるのです。たんすに鍵をかけても、鳥の爪音や羽音に脅えるヨアキムは眠れません…。
 一昔前、洋服だんすがナルニアへの入り口だったことを思うと、この作品はきわめて現代的です。結局ヨアキムは、次作『少年ヨアキム』でパパの回復とママとの離婚という変化を経た後、友だちをみつけ、“鳥”の恐怖を克服していきます。でもヨアキムはもう“守られる子ども”の幸福を取り戻すことはなく、自分自身で“行きぬく力”を身につけたのです。
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 『夏の夜の貘』(大島弓子作/角川書店刊。『つるばらつるばら』に収録)の主人公走次も八歳。お父さんもお母さんも働いている上、それぞれ別の恋人がいます。十九歳のお兄ちゃんはそんな家に反発して出ていってしまいました。ねたきりのおじいちゃんのヘルパーの小箱さんが帰ってしまうと、家にはおじいちゃんと走次だけ。「その静けさがぼくを大人にしたんだ」と走次はいいます。
 その言葉どおり、この作品では、漫画という表現形式を十分に生かして、子どもの走次が青年として描かれ、お父さんやお母さんやお兄ちゃん、先生等は子どもの姿で登場します。大人として登場するのは小箱さんだけ。「ぼくはまるでガリバーのようだ」……。
 ねたきりだったおじいちゃんが亡くなったとたん、両親は離婚してそれぞれの相手と再婚し、大好きな小箱さんはなんとお兄ちゃんの恋人だったことが判明、大人の姿をとり戻したお兄ちゃんと暮らし始めました。走次はみんなの所に交代で住みながら、それでも“大人として”生きていきます。でもある日、家族そろって暮らしていた家に無意識のうちに戻ってしまった時、ついに走次は大声で泣き出してしまいます。すると、その姿はみるみる子どもに還ってしまうのです。
 生きぬくための大人の姿を失ってしまった走次は、それでもまた一人で考えます―「いいんだ、現実にはぼくは子どもなんだから、泣いてもいいんだ。それに十二年後にはほんとの大人になるんだから」と。
福武書店「子どもの本通信」第17号 1991.2.10
テキストファイル化富田真珠子