児童文学この一冊

18.声にならない声
上村令

           
         
         
         
         
         
         
     
 傷ついた子ども、苦況にある子どもの声は、さまざまな形で伝わってきます。たとえば『愛しあっていたのに、なぜ?』(クレメンツ著/箕浦万里子訳/偕成社刊)には、親が離婚した子どもたちの声が、『勇敢な心』(ジレスピー著/桜内篤子訳/飛鳥新社刊)には、小児がんに冒された少女の声が収められています。どちらも率直で、真摯で、心打たれる本です。けれども、これらの本の価値とはまた違ったところで、忘れたくないと思うのは、声すら出せない子ども(子どもだけでないかもしれませんが)の存在です。
 『話すことがたくさんあるの』(マーズデン作/安藤紀子訳/講談社刊)はそんな子どもの心の内側で、何が起こっているのかを、日記の形式をうまく使って伝えてくれる物語。初めのうち、日記は混乱した絶望的な言葉で一杯です。寄宿学校に入っている14歳の主人公マリーナは、ほかの子たちが面会の家族と談笑しているのを見て、こう書きます――“みんなに警告したかった。信じちゃだめ! あなたは憎まれているわ!”テニスの授業があると“むかしはテニスがうまかったと思う。死ぬまえは”と思わず書いてしまったり、同室の子が何気なく肩にふれたのにショックを受け、壁ぎわに小さくなってしまった……といった記述が続きます。中盤まで読み進んでようやく、彼女が父母のいさかいに巻き込まれ、誤って父親に顔を傷つけられて、それ以来口がきけない、等々の客観的な事実がわかってきます。
 同時に中盤から、固く閉ざされていた彼女の心に変化が見え始めます。友達の好意を受け入れたり、信頼している先生には助けを求めたりできるようになり、自分がまだ父親を愛していることも、認められるようになります。やがてその先生の家に招かれた時、先生の小さな娘が彼女にすっかりなついて、「お姉ちゃん、お顔痛い、痛い」と言った時、彼女は一年以上声を出していなかったのに、思わず泣き出してしまいます。そして彼女がついにもう一度言葉を口にしたのは、父親と再会した時でした。
 私たちの社会では、評価を得たり、注意を払ってもらうためには、「自分の意見をはっきり述べる」ことが必要だ、という認識が一般的です。それができなくても、少なくとも何らかの行動を起こすこと――子どもだったらすねるとか、泣くとか――が重要だと思われています。口がきけず、感情も伝えられないマリーナは、そんな世間の基準からみれば「無」でしかありません。
 けれども、本当に傷ついた時に、何があってどう感じたかを、筋道たてて説明できるものでしょうか。本当にショックを受けたら、大抵の人は一瞬ウッとつまってしまったり、それこそ「言葉を失って」しまうのではないかと思います。前述の二冊の本にしても、子どもたちが危機的な状況をひとまず脱し、だれかに支えられて落ち着いた心理状況になった時に、初めて書かれたものなのです。
 沈黙の殻のなかに痛む心があることや、その心が、自分を守るためにまとった殻を、だれかが溶かしてくれないかと切望していることを、どんどん騒々しくなっていく世界のなかで、見過ごしてしまいたくないと思います。
福武書店「子どもの本通信」第20号 1991.8.10
テキストファイル化富田真珠子