この評論集の書名は、今江祥智とライナー・チムニクに負っている。というのは、ここに収めた雑誌のたぐいが、コピーの状態で長谷川佳哉氏の手元にあった頃、いつものように、ぼくは『6』で今江祥智と会っていた。いつものように・・・・・というのは、こういうことだ。日曜日の朝、時どき、ぼくらは『6』で落ちあうことにしている。『6』は、たまたま、ぼくらの住まいの中間地点にある喫茶店である。いろいろな話をする。児童文学のこととは限らない。読んだ本、見た映画、職場の問題、健康状態、時には、きわめて私的な生活報告もやる。それが、ここ何年来の習慣になっている。その日も、かれがコーヒー代を払い、ふたりは自転車に打ちまたがった。(どういうわけか、『6』の支払いは、常に今江祥智がやることになっている)その時、かれは、「ところで、評論集の題はどうした・・・・・」とたずねてきた。かれは本屋へいくというので、家にもどるぼくと自転車をならべている。ぼくは、半分くらい困ったような顔をした。当然のことながら、何も考えていないからだ。「絵本・児童文学で何ができるか」という仮題のまま、ほおってある。きわめて怠けものだから、書名が決まらなければ、仮題のままで出してもいい・・・・・くらいに考えている。ところが、今江祥智は違う。たとえば、『ヒナギクをたべないで』(偕成社)にしても、『優しさごっこ』(「少年補導」連載中)にしても、考え抜かれた結果の書名である。内容を練りあげたなら、それを包むにふさわしい書名を・・・・・という姿勢がある。その配慮が、ぼくには欠けている。仕方なく困惑の表情を浮かべてペダルを踏んでいると、かれは、いくつかの書名をあげて、それがいかに内容にふさわしいかを、みごとに解説してくれた。その中に、ルイ・アラゴンのものや、たとえば、山下洋輔の『ピアニストを笑え!』(晶文社)などがあったと思う。しかし、その時、ずらりとならんだ書名の大半を、もう、忘れてしまった。しかし、かれがあげた最後の書名、いや、「チムニクの『タイコたたきの夢』は実にうまいな・・・・・」という一言は頭に残った。なるほど、内容を伝えて、しかも、おもしろい。「書名はどうするの・・・・・」など長谷川佳哉氏から電話でつつかれていた時だから、よけいに頭にこびりつく。ではまたな・・・・・と、かれと別れる時、うん、これだなという思いは強くなっていた。今江祥智には悪いが、そう決めると、かれの書名も借用することに決めてしまった。というのは、今江祥智に、『子どもの国からの挨拶』(晶文社)という評論集がある。これとそれ・・・・・である。書名の「弁証法的統一」などといえば聞こえはいいが、どっこい、こちらは、洋の東西の作家の書名の「切り張り」である。二、三度つぶやいてみると、なんとなく書名らしくも聞こえる。かくして『子どもの国の太鼓たたき』は誕生のはこびとなったのだが、考えてみると、そこには、つぎのような思いがなかったとはいえまい。今江祥が、さわやかな顔で、「挨拶」を送るなら、「挨拶」のにがてなぼくは、せめて、うしろに立って太鼓でもたたいていよう・・・・・。
いずれにしても、ライナー・チムニクの太鼓たたきとは、雲泥の差である。かれらは太鼓を打ち鳴らし、山をこえ、海を渡り、野原を横切って旅を続ける。こちらは、本棚の間を歩きまわる。しかし、ぼく個人の当否はさて置き、よくよく考えると、本棚の旅を続けるものも、実は、チムニクのあの太鼓たたきとおなじ思いを抱いていたのではないか。『タイコたたきの夢』を見ると、太鼓たたきであることの条件が示唆されている。太鼓たたきには、一定の資格はない。太鼓のたたき方、また、その上手・下手も問題ではない。ある日、ふと「知らない土地」へいこう、「新しい暮らし」をはじめよう・・・・・と決心するだけでよい。それだけで、すべてのものは、太鼓たたきになれる。そんなふうに描かれている。要は、太鼓たたきの専門家になることではなく、現在唯今、じぶんの置かれている立場、安住している生活を、「よし」としないことである。ぼくらの可能性を閉じこめている日常性を、どこまでも相対視して、別の生きざまを追い求めることである。太鼓たたきは、果てしなく旅を続けるが、本来、その旅は、「じぶん」からの旅立ちだろう。繰りかえし、今のじぶんから抜けだすことであろう。やがて到達するかもしれない「知らない土地」「新しい暮らし」。それも、「見慣れた町」「知りすぎた暮らし」になる日がくる。その時また、太鼓たたきは、太鼓を打ち鳴らして旅にでる・・・・・。
本棚の旅を続けるものにも、そうした思いがないとはいえない。一冊また一冊、本を手にとる時、「知らない土地」との出会いを求めて、はげしくじぶんの中に息づくものがある。それは、交錯する利害関係、あるいは因襲や諸規則の中にあって、それをこえた「新しい暮らし」を求めることと深いところで結びついている。「正義」や「価値」が偏在しない国への願い。唯一のこの生が、特定の人間関係の中で消滅させられることのない在り方。そうしたものを探り出し、そこで志をおなじくしたものと生きようという思いである。もちろん、世の中には、こうした思いとは反対に、じぶんを取りまく日常の諸関係、あるいは、じぶんの置かれた立場を肯定するために、また、それに、より適応しようというために本棚の前に立つこともある。しかし、それは、本棚の旅ではないだろう。本棚の旅という時、ぼくらは、じぶんの在りようを問い直す。じぶんから旅立とうとする。
ぼくが、チムニクの『タイコたたきの夢』に惹かれるのは、繰り返すようだか、そこに、特定のヒーローがいないからである。もし、この太鼓たたきが、号令するものと号令されるものに分かれていたなら、長々と、太鼓たたきについて感想などのべなかっただろう。特定の太鼓たたきがいて、その太鼓の音に、多数のものが唱和する話など、くさるほど、ぼくらのまわりにはある。そんな太鼓の音は聞きたくない。小さくてもいい。弱々しくてもいい。それぞれが、それぞれの太鼓を打ち鳴らし、その共鳴音の中に、旅を続けることを思ってしまう・・・・・。
ここに集めた雑考は、そういう意味で、ぼくなりの太鼓の音である。とても太鼓のひびきなどといえたものではないかもしれない。それにも関わらず、『ネバーランドの発想』についで、これをひとつにまとめてくれた長谷川佳哉さん、また、担当の大賀美智子さん、小口宏さんに感謝する必要があるだろう。とりわけ小口さんにはお世話になった。
最後に、この一冊を、ユニークな装幀やイラストで、楽しいものにしてくれた長新太さんに、はるか京都から最敬礼するしだいである。(’76・7・5)
初出一覧
T.
「飛ぶ」発想『月間絵本』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1945年3月号
「待つ」発想『月間絵本』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1974年11月号
子どもの本・恋の辻占『Reed』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1974年8月号
バンナーマンおばさんの本『月間絵本』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1974年12月号
モリース・センダクに関する覚書『絵本の世界』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1974年1月号
「もこもこさん」のいる世界『月間絵本』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1975年8月号
いろいろないろ『月間絵本』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1975年6月号
サリイ・アンの手紙『月間絵本』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1976年2月号
U.
「ハエかて命や」という発想『Reed』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1974年9月号
ぼくらの中の「インディアン」『Reed』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1974年10月号
「黄金狂時代」の楽しさ『Reed』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1974年2月号
「この湖にボート禁止」『Reed』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1974年4月号
「モモちゃんとアカネちゃん」『日本児童文学』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1974年12月号
「マアおばさん」も「ネコ」もすき『日本児童文学』・・・・・・・・・・・・・・・・・1973年11月号
本棚の太鼓たたき『読売新聞』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1975年3・31〜1975年12・15
今、ぼくの読んでいる本『日本児童文学』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1974年7月号
V.
カニグズバーグに関する「つぎはぎ」的覚書『日本児童文学』・・・・・・・・・・1975年7月号
しっぽか鼻か『年刊児童文化』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1975年第1号
砂、あるいはタウンゼントの風景『子どもの館』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1973年6月号
爵位の発想『日本児童文学』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1975年5月号
W.
児童文学で何ができるか『小さな図書館』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1975年第19号
架空のインタヴュー『日本児童文学・臨時増刊』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1973年8月号
なぜ猫なのか―ということ『月刊絵本』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1975年11月号
SFに関する支離滅裂なる感想『児童文学一九七三』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1973年第2号
映像の中の「夫婦」『放送文化』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1974年12月号
わたしの遠野物語『子どもの館』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1974年8月号
続・わたしの遠野物語『子どもの館』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1974年12月号
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