南吉が、県立安城高女の教諭となったのは、昭和十三年、春のことである。東京外語を卒業したあと、(昭11・3)……というより、第一回の喀血のあと(昭9・2)、この年に至るまでの数年は、南吉にとって失意の時代だったといっていい。
 従妹の婚礼の席で、
 <酒宴がたけなわとなるころ、私は彼ら、無知な男たちから、一種の圧迫を感じた。私は彼らのたくましい肉体を、うらやましいと思った。そして彼らこそ、ほんとうの人間であるというように思えた。では、私はなんだろう。私は一種の、ひこばえの如きものかもしれない。しかし不幸なことには、生活力のないひこばえが、ひと一倍、思考力をもっているのだ。私という人間は、なんという無価値な、あさはかな人間であろう。私は、こうした人びとの中にあってさえ、虚栄心をすてることができないのであった>(昭10・3・24/日記)
と考えてみたり、自分の家族について、
 <私は母の強情さ、子どものときから私を、いじめてきたところの、あの憎悪の念を、いまだなお持っているということを知って、怒りにかっとし、半日中不愉快であった。(中略)貧しさが、人間に与えうる影響を、みなうけてしまった、卑しい、ガリガリ亡者の父母のことを思うと、そのようなものの子どもとして、私が生まれてきたことを、ひどくさみしく思う>(同・6・5/日記)と書いてみたり、
 <余は結局、一介のディレッタントにすぎないかもしれぬ。というのは、体内にひとつの、のっぴきならぬテーマが生じて、それを中心に真理を追求するというのではなく、なんでもかんでも、手に入りやすいものを読みちらし、読むもの読むものに対し感想しているにすぎぬからである。余には、小説はどうも不向きで、感想文なら、らくにかけそうな気がする>(昭12・2・26/日記)と思ってみたりしている。
 しかし、そうはいっても、南吉が、全く何も書かなかったというのではない。前章にも引いたように、小説『塀』『雀』『父』を昭和9年に、『借銭』『老年』『鞠』『しゃくやく』『小さな魂』『除隊兵』を昭和10年に、また、『決闘』『蛍いろの灯』『帰郷』を昭和11年に、そして、『空気入れ』を昭和12年に書いている。これらの作品は、比較的暗く、先に記したように、充たされぬ恋心を、また、かなえられぬ愛のかなしみを、その底辺にたたえている。もし、これらの作品の中から、後年のユーモアとペーソスのからんだ作品に通じるものをひろいだすとすれば、『除隊兵』くらいのもので、『蛍いろの灯』にいたっては、通俗恋愛小説のレベルを出るものではない。唯、これらの作品の多くは、新美南吉の生活体験を反映している意味においてと、それらの中で、初期の作品から晩年の作品に通じる「美しいもの」「かなしいもの」を描こうとしている点においては、一つの価値を持っているといえよう。
(たとえば、『鞠』における春太、『しゃくやく』における研の、アサコという少女に対するあこがれ。それが、そのまま受け取められずに、すっぽかされていく構成。これは、『塀』における少年・新が、那都子に抱く気持と同質であり、いずれも報われない点では『ごんぎつね』に通うものだといえる)しかし、ここでは南吉が、次に引用するように、自分と、自分の生活について内的葛藤を持っていたということにとどめる。
 <父と母は、店で火鉢をかこんで、もうこうなればきりつめて生活するより致し方ない、新聞もよそう、ラジオもよそう、離れの方に便所と火たき部屋を作って、人に貸そう。もう今夜は風呂をたく元気もないから今夜はよそうなどと話している。いちいちきいているこちらの胸をえぐるようで、やがて息までつまってくるのであった。死ねたら死にたい。(中略)父の、あんなものはもう死んだっていいという言葉が聞こえてくるのに。これは死刑の宣告のように恐ろしい言葉だった。がーんと頭が鳴って動悸が急に速くなってきたほど。だまって父母の傍を通りぬけて離れへくる途中、一かばちか半商の先生を志願してみようか、志願する意気だけでも父と母を元気づけるだろう。それならば、己の体はどうなろうと──いや、まて、すぐおれは己の体などどうなろうと、と考える。こいつがいけない。現に死ぬのはいやだと、つくづく思ったばかりではないか……。(以下略)>(昭12・3・2/日記)
 <僕を救ってくれるものは信仰ではない。金だ、金がほしい。暗い日曜日だ。またしても思うは自殺のこと>(同・3・7)
 <昨今、父母の邪慳な態度は甚しいものがある。朝遅く起きたとて、極道呼ばわりをし、夕方早く家へ帰らなかったとて、聞くに耐えぬ苦情をいう>(同・3・14)
 <偉くもなれない、金ももうけられない。妻もめとれない。美しい仕事を残すこともできない。それをよく知っていながら、死にきれないのがくやしい>(同・5・28)
 南吉の、この苦しみは、安城高女に就任するまで続いたと考えられる。もちろん、県立高女の教諭となることが、南吉の肉体的不安や心理的動揺を消去したというのではない。しかし、その日記は、暗い嘆きの声や呪詛に近い表現を少くし、生徒のこと、学校のこと、かつて、未成熟な……と記した国家のことにまで、その関心領域を拡げるまでになっていく。たとえば、昭和十三年の、
 <日本の子どもたちが十人が十人まで、兵隊ずきであるということ、日本の大衆がほとんど全部、ミリタリストであるということは、明治のころの教育、または国家思想、ミリタリズミ宣伝の結果だと思われる>(11・18)とか、また、昭和十五年の、
 <門の前に国旗をはためかせ、日本精神を、大きな見出しのもとに、……中将、……修養団長という肩書の講演者がしるされた看板が立ち、昨日午後、われわれの講堂で講演会が行なわれた。このごろはやりの、なんでもかんでも日本はありがたい国、よい国、なんでもかんでも西洋は個人主義のいやらしい国という、千ぺん一律の話をする、くそおもしろくない会のひとつだ。(中略)現代日本の風景。なんという暗い、なんという非文化的な>(2・15)が、それである。しかし、これらのことばにもかかわらず、(つまり、心情的平和主義者であり得たとしても)意識的に、国家の方向なり、個人のあり方について、反戦主義を標榜するにはいたらなかったと思えるのだ。そのことは、たとえば、軍隊の療養所へ、生徒と共に慰問に行った時、そこにいた兵士たちが、あまりに野卑であったことに憤慨し、
 <政府が最近になって、全体主義、滅私奉公、忠君愛国ということを、手を拍ち口を酸っぱくして唱えはじめた理由が、ようやくわかった。僕も学校で、日本のよさを説き、お国のために死ぬことの尊さを、強調せねばならない>(昭15・12・8)
と考えた個所や、開戦(昭16・12・8)の日の、
 <いよいよはじまったかと思った。なぜか体が、がくがくふるえた。ばんざぁいと大声でさけびながらかけだしたいような衝動を受けた>
という反応ぶり、また、同月二十二日の日記の注に、
 <僕は、そんなものは(というのは、神社造営費)寄付したくないのだ。その金は、陸海軍に献金すべきだ。日本戦う今日にあっては>
と、書いたことによっても解るのである。しかし、南吉が、このように感動したからといって、決して好戦的であるとはいえまい。むしろ、南吉のように、無批判・素朴な村人の中に、その主人公を選び、唯、営々と労働するその世界を自分の作品世界としたものにとっては、こうした反応が、当時の大多数の国民同様、しごく当然の態度であったとも考えられる。もし、南吉が、意識的に、戦争に協力しようという姿勢をとっていたならば、次章で考えようとするような多くの代表作は生まれなかっただろうし、また、『草』(昭17)や、『耳』(同)の中にみられるような時代状況の反映では、終らなかっただろうと思うのだ。つまり、軍隊に献納する草を刈るために、二つのグループの少年たちが休戦するといった『草』や、主題から突然はみ出したように開戦の報に緊張する久助君の提示の仕方では、(『耳』のことをいっているのである)生ぬるすぎただろうと、いっているのである。もちろん、南吉が、当時のナショナリズムの風潮を「非文化的」などいっておきながら、時代の芻勢に流れこんだ点は無視することが出来ない。それは、とりもなおさず、南吉の主体形成のあいまいさであり、その思想・心情にかかわる問題である。人生を「うつくしさ」「かなしさ」でしか把え得なかった対人生態度に関係する。また、これは同時に、日本の童話が、従来、純粋な観念世界でのみ人間や世界を考えてきたことと無関係ではない。しかし、塚原健ニ郎が、
 「童話は、その弱さの故に、戦局の苛烈化とともに、存在さえ否定されるようになったが、作家側からいえば、その弱さこそ、自己の文学を守るたてであったともいえないことはない」(文学は生きものであるから/昭30・8)
と、かつていったように、この閉鎖性、あるいは抽象性の故にこそ、時代との妥協を『草』や『耳』程度にとどめることが出来たのだともいえる。戦後の南吉評価は、いずれにしても、そうした国策童話によって生まれたものではない。失意の時代が終り、
 <婦女界に『銭』が発表されたことと、新児童文化に『川』がのること、それだけの「成功」に、このごろの僕は酔っている>(昭15・12・26/日記)
と、南吉が記した時代、この小さな成功を大きな幸せと感じている時期の、他の作品にむけられたものなのである。すなわち、そこには『鳥山鳥右衛門』があり、『百姓の足、坊さんの足』があり、また、『かぶと虫』があるわけである。次に、それらの作品を考えてみよう。
テキストファイル化佐藤佳世