『日本のプー横丁』(上野瞭 光村図書出版株式会社 1985/12/24)

第二章 続・一九五八年

 ―乗客のみなさん、こちら機長です。当機は唯今、グランド・キャニオン上空を通過しています。左手、下のほうをごらんください・・・・・・。

 一九七五年(昭五〇)八月二十二日のことである。その朝、七時にサンフランシスコ空港を飛び立った「ウェスタン航空」474便は、ほんの数えるほどの乗客をのせてアメリカ南西部の山岳地帯を通過していた。ヒューストン、ニューオルリンズを経由して、この便は、夕方五時にフロリダ州北東部のジャクソンビル空港に到着の予定だった。

 イーヨーは、数えるほどの乗客の一人として、窓ぎわの席でやたらに煙草をふかしていた。ひざの上にのせた地図には474便の航路が、ふとい赤線で四頁にわたって引かれている。アメリカをこんな形で横断するとは、ましてフロリダくんだりまで一人ででかけるということは、イーヨーのそれまでの生活からは想像もつかないことだった。戦争時代に中学生だったイーヨーは、英語は敵性語だと教えられていたし、その教えを堅く守ったせいではないが、戦争が終わったあとも、英語にはそのまま背を向けて暮らしてきた。それが、敵性語ではなく、日常生活に必要な道具だとわかった時には、イーヨーはもう四十代の半ばにさしかかっていた。
 ジャクソンビルには、『クローディアの秘密』や『魔女ジェニファーとわたし』を書いたE・L・カニグズバーグが住んでいる。彼女はイーヨーが深い関心を抱いているアメリカのプー横丁の住人の一人である。一年前、夫君といっしょにイーヨーの住んでいる京都にもきている。「もしアメリカにくる機会があれば、ぜひうちへもいらっしゃい。ベーグルをごちそうするから」というのが、別れぎわの言葉だった。ベーグルは、いわゆる「ごちそう」ではない。ユダヤ人の家庭で焼く一種のドーナツ型のパンである。カニグズバーグは、それを『ロールパン・チームの作戦』という作品の中でうまく使っている。「アメリカにきたから、いつかお話のベーグルを食べにいきます」というのは、訪問のためのイーヨーの口実である。じぶんが関心を抱いている作家が、どんな所に住み、どんな生活をしているか、イーヨーはそれを知りたいだけである。「のぞき趣味」といわれれば、確かにそのとおりである。
 そのために飛行機にのっているといっても間違いではない・・・・・・。
 機長が、グランド・キャニオンを告げたのは、ラス・ベガスをあとにしてすぐだった。これから出会う彼女のことを考えていたイーヨーは、その声で一観光客に引きもどされた。窓に顔を押しつけると、はるか下にひろがる大自然の景観に息をつめた。巨大な峡谷は、上空から眺めると、峨々たる岩山というよりミニアチュアの世界に見えた。断崖の上部が白い台地となって、北へどこまでも続いている。見えかくれする光の帯はコロラド河である。幌馬車隊が、あの台地の上までやっとたどりついて、そこに跳び越すことのできない深い亀裂を発見した時、西部劇映画のように、かつての開拓移住民たちは、絶望と焦燥のあまり怒鳴りあったのかもしれない。そうした物語を、ジェームス・フェニモア・クーパー(一七八九〜一八五一)の小説で読んだことがあったような気がする。それはクーパーの小説ではなく、別のだれかの「西部小説」だったのかもしれない。いずれにしてもイーヨーは、グランド・キャニオンを眺めているうちに、カニグズバーグのことを横に置き、長いあいだ忘れていた一冊の本のことを思い出していたのである。
 一冊の本とは、イーヨーが最初に書いた長篇小説。そののち「著者紹介」の「主著」の中に、ついに書き入れることのなかった「西部小説」のことである。一九五九年(昭三四)、金の星社発行の『ゲリラ隊の兄弟』。この一冊の本のことを考えると、時間は一九五八年(昭三三)に舞いもどってしまう。そして、その物語と背中合わせになってイーヨーの病気のことが浮かんでくる。
 飛行機は物体だから、人間の感傷に付き合うことはない。474便は、イーヨーの回想におかまいなしにアリゾナの山岳地帯を通過する。ニュー・メキシコを斜めに横切り、テキサス州の上空にさしかかる。やがて、ミシシッピー河を飛び越えてジャクソンビルに到着する。そこには、カニグズバーグの夫君が待っていて、バークレイからだしたイーヨーの速達をハンケチのようにひらひらふっている。
 カニグズバーグ家での三日間については、すでに別のところで記したことがある。(「しっぽか鼻か」すばる書房・一九七六『子どもの国の太鼓たたき』収載)だから、イーヨーはそのことを繰り返すつもりはない。
 474便を持ちだしたのは、イーヨーが、この時はじめてアメリカの西部を見たということをいいたいためである。西部の峡谷さえ知らずに、二十数年前、一篇の「西部小説」を書きあげたことに触れたいためである。イーヨーは、一九五八年の春から夏にかけて、無法者(アウトロウ)と呼ばれるジェイムズ兄弟についての物語を書いた。それはどうして可能だったのか。というより、なぜ「西部小説」をイーヨーが書くことになったのか。

 「啓上。児文協の総会以来御無沙汰しています。(あたりまえですが――)
 気候の挨拶抜きでブッツケ本番といきますがよろしく。
と言うのは、当社の編集部に居ながら、新人を売り込めないのは残念と思い、新しい企画と共になんとかしようと思っていました。そして、"西部劇シリーズ"十点を企画に持ち込み、古田、鳥越の両氏を西部劇のオーソリティに仕立て、十点のうち五点を新人にという事にしたのです。
 作家のメンバーは、古田、鳥越、山中、佐野、野長瀬正夫(編集長)、小西茂木、筒井敬介、塩谷太郎、関英雄の十人です。と言うのは、勿論、上野さんにも一篇いく訳です。條件は、三百枚で三月末迄。三千五百部〜四千部。発刊の七分の印税になります。定価はおそらく二百円になり、B六判、九ポイント活字でしょう。
 書き直しを頼む場合もあるかも知れませんが、よろしくお願いしたいと思います。書いてもらいたいものは、"ジェイムズ兄弟"で、表題に良いものがあるようでしたら、御一報下さい。古田さんからも、この事に付いて便りがあるものと思います。今月二十七日には、作者が集まり、打合せ会を新宿メイフラワーでする予定ですが、遠いのが残念です。でも結果をまたお知らせします。(以下略)」

 日付は、一九五八年(昭三三)二月十七日になっている。児童文学実験集団の発足パーティを持った年である。
 差出人は「金の星社」編集部の近藤亮。彼は、この手紙を皮切りに、それから一年半にわたってイーヨーに手紙を書き送ってくれることになる。それは、今考えてみても、編集者と執筆者の事務的な手紙のやりとりとは思えない。仕事の話が中心にすえられているが、言葉のはしばしに、日本のプー横丁におなじ関心を持った仲間どうしの手紙のやりとりといった気配がある。イーヨーが近藤亮を、編集者としてよりも古田足日のそばにいる青年、いつも佐野美津男や佐々木守と連れだっている同世代人と思い込んでいたから、そう感じるのかもしれない。
 右の手紙でもわかるように、近藤亮は、無名のイーヨーたちに仕事をくれようとしたのである。その仕事が、たとえ書き手の中に、多少のためらいや疑念を呼び起こすものだとしても、また、「良心的な父兄」のひんしゅくを買うものだとしても、近藤亮は「西部小説」を企画することによって、日本のプー横丁に新人抬頭の機会をつくりだそうとしたのである。
 現在のプー横丁のにぎにぎしさを知るものにとっては、「西部劇シリーズ」がなぜプー横丁の「新風」になるのか、首をひねるかもしれない。それは当時の西部劇映画が、安直な善悪観と力の論理に支えられた紋切り型の活劇であったように、ただの俗悪読物を生みだすことにつながるだけではなかったのか。この疑問は、今だから指摘できる・・・・・・といった御大層なものではない。イーヨーは、近藤亮からその企画の手紙をもらった時、すでに感じていたことである。それは、イーヨーならずとも、この企画を受け入れた全執筆者の胸や頭の片隅を、煙のようによぎった疑問ではないかと思うのである。そういうものはなかった、という書き手もいるのかもしれない。それはわからない。わかっているのは、一九五八年というその時代が、三百枚の原稿を書いて、それが一冊の本になるというような状況ではなかった、ということだけである。
 その時期(正確にいえば一九五九年三月)、「日本児童文学者協会理事会」の名でだされた「新年度の活動方針と協会の性格・組織に関する討議の問題点」という長ながしいアピールの中に、つぎのような言葉がある。

 「―創造的な作品・評論・翻訳はきわめて少ない。例えば昨年度(一九五八年=イーヨー注)児童図書の年間出版点数約二千七百冊のうち、個人の創作単行本はわずかに十七冊である。そのうち、いわゆる専門児童文学者のものは五冊しかない。

 ―いわゆる専門児童文学者たちの多くは、以上のような情勢の中で主体性を失い、流されてゆく傾向を見せはじめた。創造的な作品活動は、全著述活動の中の一割にも満たず、質的にも低下をきたしている。しかも、一部には、日本の現代児童文学作品を再話するという文学放棄現象までが登場するに至った。

 ―新しい方針をどこに求めるか。(1)以上のようなどん底の現状を、ごまかすことなく、意識的・自覚的にみとめる。(2)社会的信用を失墜し、社会的責任を問われるような非文学的行為を一切排除する。(以下略)」

運動草案ともいうべきタイプ印刷のアピールは、すでに黄ばんで変色している。イーヨーは、これを書き写しながら変にもの悲しい気分になってくる。そこに書かれていることももの悲しいが、それを読む側にももの悲しい暮しがあったということである。近藤亮が、こうした沈滞したプー横丁に波紋を起こそうとしたことは、それなりに想像のつくことである。
 イーヨーはそれでもためらった。最初の「長篇」が「西部劇」であるということもあるが、それよりも、近藤亮のいう「ジェイムズ兄弟」についてまったく一かけらの知識もなかったからである。その時点でのイーヨーの「西部」認識は、ジョン・フォードの西部劇映画に依っている。『駅馬車』『黄色いリボン』『リオ・グランデの砦』と、その頃までに見た映画の題名は思いだせるが,それが果してジョン・フォードのものだったかどうか、それさえあいまいなのである。フレッド・ジンネマンの『真昼の決闘』や、ロバート・アルドリッチの『アパッチ』も見たはずだが、記憶に残っているのは、ゲーリー・クーパー扮する保安官がやたらにいらいらと歩きまわる姿だけである。映画『ソルジャー・ブルー』や『俺たちに明日はない』は、まだ製作もされていなかったし、のちに独自の『アメリカ史』を書くハーヴィ・ワッサーマンは、まだミシガン大学に入学さえしていなかった。また、ジェームズ・ボールドウィンの『悪魔が映画をつくった』を読むには、それから十七年待たねばならなかったのである。

 「拝復。我社の企画に新人五人が入った嬉しさに、意味の通じない手紙を出してすみません。といっても、これは新人でないと無理な所もあるような気がするのです。
 ぼくはやはり、新しい西部劇作家の出現を望む訳ですから。
 佐野美津男等は、『トルー・ストーリー』その他の雑誌と、アメリカ史等二、三冊を見つけ出し、<事実と事実のあいだのフィクションではなくて、フィクションとフィクションのあいだの事実だ>と冗談を言いながら書き始めたようです。彼は、アメリカ・インディアンの大酋長ジェロニモです。特にインディアン等は、映画その他で悪人に描かれているので、インディアンの立場から書くといっています」

 これは、第一の手紙から三日後(二月二十日)にイーヨーのところに送られてきた近藤亮の手紙である。その頃、花田清輝もまた、「西部劇と戦争映画」(未来社・一九五八『映画的思考』収載)という一文の中で、つぎのようにいっていたのをイーヨーは思いだした。
 「・・・わたしは、西部劇をみながら、開拓精神のあらわれだとかなんとかいって、射殺されるインディアンよりも、射殺する白人に夢中になって喝采したりしている日本人の気が知れないのである」

 「現在(未来も)社に種本はありませんが、そのように事実と添いながらも(元にして)新しい文学作品にしてほしいのです。なおタルピさん(古田足日のこと=イーヨー注)の所に、ジェイムズ兄弟の略伝くらいはありそうですから(これも『トルー・ストーリー』)、二、三日中にその箇所を破いて送りますが、映画雑誌は時々西部劇特集をしていますから少し古本屋を廻ってみて下さい。
 又、昨年九月号アサヒグラフ別冊「映画と演劇」も西部劇特集をしている筈です。チャンバラばかり観ず、これからは西部劇も少しはのぞいて下さい。『地獄への道』『地獄への逆襲』は皆、ジェイムズ兄弟の物語でした。
 こんどの十点は、全部実在の人物ばかりですから、適当な時代的背景も考えて下さい。
 ぼくの始めての企画・編集ですから、売る事と良い物を作る事にけんめいです。そのために資料も探しているので、東京で見つけたら送ります。(以下略)」

 「以下略」の個所には、イーヨーにいよいよ子どもが生まれることについて、先まわりした祝辞が記してある。イーヨーのせがれは今二十四歳である。近藤亮が祝辞を述べてくれた時、せがれはかみさんのお腹の中にいたのだなとわかる。イーヨーはもうすぐ三十歳になろうとしていた。野球学校といわれる平安高校に勤めて六年目を迎えようとしていた。今も「登校拒否」衝動に駆られることは変わりがないのだが、その頃はもっと「学校嫌い」な国語の教師であったことを思い出す。
 就職は偶然の産物だった。極度に貧しいイーヨーが、就職という人生のハードルが存在することに気づいたのは、大学の卒業式がすぐ目の前に迫ってきた時である。働かなければ何をするつもりだったのか。通学の電車賃もないイーヨーが、働くことさえ思いつかなかったというのは嘘ではない。三食・書物付きで居候させてくれた片山悠がいて、突然仕事先に連れていってくれた鴫原一穂さんがいる。それから結婚・せがれの誕生までには長い時間がある。そもそも古田足日と知り合ったのは、その期間にだしていた児童文学誌『馬車』のせいである。これについては別の章をもうける必要がある。今は、一九五八年である。イーヨーは、近藤亮の手紙を読んで、あとに引けないじぶんを感じた。

 「申し出の件わかりました。(中略)もし時間さえあれば、書き上げる決意でしたら一ヶ月位のびたってかまいません。何度もいうようですが、このシリーズを新人の足場にして、二、三年後には出ていかないと十年位はチャンスがなくなってしまうでしょう。(以下略)」<近藤亮・四月十日の手紙より>

 「手紙拝掌。またタタキ売り。はい、まけた。〆切は七月十日だよ。それにしても枚数が少しのびてもかまわないから、やはりジェシイは殺された方が面白いようですね。この未完成の書き出しでも(最後の章)充分わかると思います。あまり理屈は賛成できないけれど。(以下略)」 <近藤亮・六月九日の手紙より>

 締切りは何度ものびた。三月末が四月中旬になり、それが、五月、六月、七月とのびていった。途方に暮れていたのではない。方向さえ定まらなかったのは三月末までで、イーヨーはそのあたりから、ジェシイ・ジェイムズとフランク・ジェイムズを爪の先ほどにしても理解し始めた。雑誌『トルー・ストーリー』も映画雑誌も、結局、何の役にも立たなかった。かつて実在したこの「無法者」が、アメリカのどこで生まれ、何をしでかし、どのような最期を遂げたかということを、イーヨーはやっと探り当てた一冊の分厚い本で知った。それは、思いあまってでかけた「アメリカ文化センター」の書棚にあった“MISSOURI”という本だった。ミズーリ州の人口、地勢、産業、文化、歴史を記したその本は、ほんのちっぽけなスペースだが、当地出身のこの「有名人」を無視してはいなかった。イーヨーは、大学受験時代にもどったように英語の辞書を引いた。そこに書かれていたことは、直接、物語の役には立たなかったが、一篇の擬似「西部小説」を仕上げた時、イーヨーのつぎのような「あとがき」として生きてきた。

 一八四三年―というと、今からざっと百年ばかり前です。がたがたと、ゆれる幌馬車にのって、ひとりの牧師さんが奥さんと共にアメリカのミズーリ州にやってきました。牧師はロバート・ジェイムズといい、奥さんはゼルダ。ふたりは、クレイとよばれる土地で、家つきの農場を買いとりました。まもなく、ひとりの男の子が生まれ、数年たつと、ふたり目の男の子が生まれました。これが、フランク・ジェイムズとジェシイ・ジェイムズで、この物語の主人公です。というよりも、アメリカの歴史の中に、銀行ギャングとしてその名を残している有名な兄弟です。
 「無法者」(アウト・ロウ)、その頃はそうよばれました。
 もちろん、この兄弟は、はじめから列車強盗だったわけではありません。(略)はじめは普通の少年として育っていったわけですが、その頃、アメリカにひろがっていた自由州と奴隷州の対立、すなわち、北部と南部のあらそいにまきこまれたことから横道にそれていったのだといえます。

 本当だろうか・・・・・・とイーヨーは考えている。このあたりを、イーヨーは推測で書いている。そうした推測の上に立って、イーヨーは物語を展開させたから、二人の「転落」がどうしても南北戦争に起因したような言葉を記してしまった。

 それに、この兄弟の幼い頃、父のロバートは、またもや幌馬車にのって、今度はひとりでカリフォルニアに行ってしまい、そのままそこでなくなってしまったのです。
 母親のゼルダは、新しい夫をむかえました。ふたりにとっては、新しい、しかし、二度目の父親です。兄のフランクが、まず家をとびだしました。続いてジェシイが家を出ました。この物語では、ふたりいっしょに家を出たことになっていますが、本当は別々です。兄のフランクは南北戦争のはじまった年に、弟のジェシイはその二年後に、南軍のゲリラ隊に加わっているのです。
 南北戦争は、それから二年後に終りました。そして、この時ミズーリ州にいた黒人奴隷十一万四千九百三十一人が解放されたわけです。(略)しかし、解放後九十年もたっているのに、今日のアメリカでは、まだ本当の黒人の自由は生まれていないようです。白人による圧迫、人種差別の問題が残っています。
 さて、南北戦争終結と共に、戦争にまけた南部の人々は、生活を建てなおさなければならないことになったのですが、ジェシイたちはもとの生活にもどりません。荒々しい戦争生活が、若い心をゆがめてしまったからです。それに、根強い北部への憎しみが頭にしみついています。ジェイムズ兄弟は、ゲリラからそのままギャングにかわってしまうわけです。(中略)
 ところで、ジェイムズ兄弟のあばれまわったのはミズーリ州だけではありません。テネシー州でも、ギャングをはたらいたことがわかっています。テネシーにいた時は、あやうく鉄道探偵の襲撃で、命を落すかというところまでいきました。探偵が、兄弟のかくれ家に爆弾を投げこんだのです。ミズーリ州の歴史の本には、その時、ジェシイたちは不在で、ジェシイの母親が右腕にけがをしたと書いてあります。(略)それから七年して、ジェシイは友人に撃たれて死にました。その友人の名はボブ・フォードです。しかし、ボブが、賞金の一万ドルをもらったかどうかは知りません。兄のフランクの方は自首して出ました。明治十五年頃の話です。(以下略)

 イーヨーは、「史実」として残っている事件をそのまま書いたのではない。「史実」には反するが、二人を、同時に家出する少年として描くことにより、ゲリラからアウト・ロウに横すべりするところに焦点を当てようとした。のちに、山中恒が、「驚いたねえ、イーヨーは西部劇の中で“ぼく”なんて言葉を使わすんだからな」そういってイーヨーを赤面させたが、その赤面は今も続いている。
 三百枚の、ほぼ真ん中あたりまで書き進んだ時、イーヨーは「もうだめだ」とペンを投げだした記憶がある。朝六時半起床。七時半出勤。満員電車である。八時半の始業から夕方の四時、五時まで「教師の仕事」をする。順調に帰って仕事に取りかかれるのは夜の二、三時間である。昼間の疲れが滞積していく。机の前で眠りこけそうになる。眠らないまでも集中力は散漫になる。物語には「流れ」がある。それにじぶんをのせようとしても、どうしてものらない状態が続く。昨日ひどくおもしろかった事柄が、今日は索漠たるただの思いつきに変わってしまう。原稿用紙の枡目の中に、ペンの先から無意味な文字がこぼれ落ちる。インキのしみのようにひろがったそれは、昨日までのすべての着想や進行部分をダメなものに染め変える。それだけではなく、昼間の屈辱的な出来事や、明日に続く「教師の仕事」の内容が、物語をはねのけて頭の中にひろがる。
 それは、「西部劇」に取り組んでいた時にだけイーヨーに起こったことではない。ある日、そうした暮しからふっと抜けだすようになるまで、通算二十一年も続いたものなのである。二十代の中頃から四十代の半ばに至るまで、イーヨーの一日は、ほとんどイーヨー自身の自由になるものではなかった。もし、ここに、イーヨーたち三人家族が、六畳一間を、あるいは六畳・四畳半の二間を、「家」としてきたと付け加えれば、「貧しさ」を絵にかいたようになるだろう。
 いずれにしても、イーヨーが途中で「西部劇」を投げださなかったのは、近藤亮のシッタゲキレイのおかげである。それと同時に、「投げだす」つもりで、半分ばかり仕上がった原稿を送ったところ、編集長であった野長瀬正夫がつぎのような手紙をくれたせいである。

 「前略、あなたの西部物を拝見しました。このシリーズは、十人の作家に(私を含めて)依頼したのですが、実をいうと、私はその十人のだれにも、あまり期待していませんでした。案の定、みんな、なかなか書けないようです。書いた人もありますが、三百枚の小説となると、西部映画を見ているようなわけにはいきません。やたらにピストルを撃ったって、小説にはなりませんからね。
 ところが、あなたの作品には敬服しました。(中略)かなり純度の高い西部小説なので、子どもがよろこんでついてゆくかどうか、それは私にはわかりませんが、いずれにせよ、あなたのペースにのせて、ここまでまとめたのは見事です。気のいい兄と、ややドライな弟をかみ合わせたのはよかったと思います。
 ぜひ結末をつけて下さい。もう峠を越したのですから、あとは楽だろうと思います。もちろん、ぬかりはないと思いますが、善良な兄が悪へ踏み切るというか、やむを得ず悪を是認するに至る心理にも何行か費しておいて下さい。(中略)とにかく、あなたの作品に、私は編集者としての情熱を感じました。なるべく早く本にしたいものです。(以下略)」 <六月六日の手紙より>

 「おだてりゃ豚でも木に登る」という。そののち、イーヨーは何人もの編集者に出会ったが、仕事がうまくいった場合を考えてみると、そこに、相手の仕事を理解してやろうというあたたかい姿勢の編集者がいつもいたように思う。これは、もちろん「ほめ上手」ということではない。口先だけの「ほめ言葉」ほど、書き手を白けさすものはないからだ。
 その時、手紙をくれた野長瀬正夫とは、そののちほぼ二十年経ってからはじめて会っている。手紙をくれた時も、それ以後も、一度も顔を合わしたことのない人である。イーヨーの中には、野長瀬正夫といえば、抒情的な詩集をだした詩人というイメージがあって(敗戦後、たまたまその一冊を読んだということである)、出版社の編集長という姿は思い浮かばなかった。電話があって、夏の暑い午後、野長瀬氏はイーヨーの研究室になってきた。
 「あの西部劇の本を、もう一度だすというわけにはいきませんかね。いや、あなたに、だすつもりはありませんでしょうね」
 氏は、すでにイーヨーの返事を予期しているように語った。イーヨーは、氏が予期していたとおりの返事をした。
 氏は、もう編集長ではなかった。出版社の嘱託だということだった。『晩年叙情』(金の星社・一九七二)という一冊の詩集があって、それはイーヨーの胸にくいこむ言葉が並んでいた。イーヨーは、「西部劇」ではなく、そこに収められた、たとえば「眠られぬ夜の老人ブルース」に衝撃を受けたことを語った。

 ねぐるしい夜である
 おれは健康で、べつに心配ごともない
 それなのにどうしてだろうなー
 老人はまた 寝返りをうった
 となりから妻の寝息がきこえてくる
 あれは毎晩 床にはいると
 五分とたたないうちに あのとおりだ
 女の季節を終わった女房というものは
 どうしてこうも あわれがなくなるのか
 ところが、おれの男の季節はまだ終わらぬ
 ねぐるしいのは そのせいかもしれん
 「おい、そうだろうな」と老人は
 パンツのわきから手をいれて
 自分のものにさわってみた
 しかし、かんじんのものは
 骨ばって かさかさした干潟の
 うらがれた枯れ芝のしげみで
 行きだおれになった小人のミイラのように
 ちいさくしなびて うずくまっている
    (以下略)

 『晩年叙情』には「老いる側」からの言葉がある。「老いることを見つめる側」の言葉ではない。日本のプー横丁に、「老いる」ことを中心に見すえた力作の生まれたのは、平方浩介の、『じいと山のコボたち』(童心社・一九七九)が最初だとイーヨーは考えている。この年六十五歳以上の老人人口は一千万人に達し、日本の小学生一千二百万と、ほぼ肩を並べるほどになった。数字にすればそれだけの話だが、そこには数字で片づけられないさまざまな葛藤がある。個々の人生がある。野長瀬正夫は、その一つを、「ブルース」として持ちだした。イーヨーは、たぶん、そうしたことを語りたかったのだろうが、そうしたことを充分語りきれずに氏と別れた。
 時間をもとへもどそう。
 近藤亮と氏のシッタゲキレイで、イーヨーが三百枚の「西部劇」を脱稿したのは、七月の終りである。今、手もとにあるその本を見ると、昭和三十四年(一九五九)四月五日発行となっている。
 「これは西部アメリカの荒野を自由の天地として、そこで生き、そこで死んだ男たちの記録である」として、奥付のあとの広告頁に既刊本が載っている。
  谷間の銃声      小西茂木
  西部の男       塩谷太郎
  大酋長ジェロニモ   佐野美津男
  荒野の星       関英雄
  ゲリラ隊の兄弟    上野瞭
  まぼろしの騎兵隊   山中恒
  西部一番のり     鳥越信
  無法の町       古田足日
               以下続刊

 カバーの見返しに「国立国会図書館長・金森徳次郎先生」の「西部小説選集に期待する」という推薦文が刷り込んである。イーヨーは、この「先生」が、イーヨーたちの物語をほんとうに読んだとは信じられない。もし、読んでいたとしたなら、「おそらく西部劇映画以上の正義感に富んだ興味ある読物」などという言葉を書きつらねただろうかと考える。イーヨーは、「ワーナー・ブラザーズ映画日本支社提供」のじぶんの本のカバー写真を見た時、ひどく恥しかったのである。それは、数十行の「史実」に基づいて、数百枚の下手な嘘をついた恥しさだった。西部を知らずに西部を語ったことについてのやましさだった。その気持は、最初から最後までつきまとい、イーヨーを長いあいだ赤面させた。そうした気持をじぶんの中に収めておくことができなかったのだろう、イーヨーは、本のでた時点で古田足日に手紙を書いた。古田足日は、長い返事をイーヨーに送ってきてくれた。

 「『拳銃王』(たぶん表題が変わったのだろう=イーヨー注)、抵抗を感じない。きみの場合には抵抗を感じたことが、作品にもあとがきにも出ている。もちろん、これこそオレの文学だという感じはない。しかし、オレの文学の一部分だという気持はある。
 『児童文学のおもしろさを実験するのだと主張しても、実名西部小説の方向が、その第一歩である――という論』は、だれも立ててはいないはずだ。『児童文学のおもしろさ』というより、『エネルギー溢るる児童文学』へのとっかかり、ほんの一部を、実現しやすい商業ルートの上にのせたにすぎない。(中略)
 再話とか短い伝記をやっているより、ずっと本質に近いしごとであることを、オレは感じていた。そして、オレたちは、さまざまなものを書かねばならぬ。東映時代劇の沢島忠(いまはちょっとダメだが)のあり方に、おおいに心をひかれた。与えられた條件のなかで、最大のものをおしだそうとするその態度にだ。
 児童文学者は一般に創作偏重の気分がある。アルバイトでかせいで、創作は金にならないところで書く。それで、不振だの停滞だのという。アルバイトそのものに力をこめ、そこでのよりよいものを作りあげるべきだ。
 たとえば、オレの片々たる書評、これにも当然それなりの力を注ぎ、できるだけ自分を出そうとする。『拳銃王』はそれと同じことだ。すくなくとも、こういう素材は、オレには協会の良心的ヘンサン物より、ずっとオレに近いものだ。
 ただし、金とのカネアイ、また、商業ベースの問題、このふたつで素材を徹底的に追求することはできなかった。ということは、自分自身の関心がまだ浅いところにとどまっていたことだ。つまり、こうしたものには、やはり限界はある。素材をつきつめた時には、おそらくオレは、オレの文学にすることができたろう。(以下略)」

 この手紙を転載するため、イーヨーは古田足日に電話をかけた。めったとないことだった。古田は、「おれは筆不精だけれど、そんなに長い手紙を書いたのかな」といった。ほんとうにそれは長い手紙だった。イーヨーがここに書き写した三倍はある手紙だった。児童文学実験集団のその後の状態、そこに加わった仲間の消息を、古田は独特の字で書き綴っていた。
 そんな時代があった。そんな時代がまぎれもなくあった。それは嘘のように遠くなってしまったが消すことのできない一時代だった。
 「ところで、近藤亮はどうしているんだろう」
 電話のついでにイーヨーはたずねた。
 古田足日は、それが癖の低い呟くような声で答えた。
 「それがまったくわからないんだなあ。ほんとうにどうしているんだろうな」

 西部劇に難渋していた梅雨の頃、イーヨーの母親が死去した。胃癌である。
 九月、イーヨー、入院隔離さる。擬似日本脳炎。
 五味川純平の『人間の条件』(三一書房)全六冊完結。
 松本清張、『点と線』『眼の壁』(光文社)出版。
 テレビの中では正義の味方「月光仮面」が走りまわっていた。

  付記 「なぜイーヨーなのか」と読者から質問があったそうである。そのことについては、いずれ触れるつもりである。ちなみに「イーヨー」はA・A・ミルンの『くまのプーさん』に登場する灰色ロバの名前である。
テキストファイル化土川晶子