第三章 幕間狂言
プー横丁にぽつぽつ新しい家が建ち始めたのは、風の吹きあれた年だった。強い大きな風で、それは「百ちょ森」や「カンガの家」や「ハチの木」を走り抜けただけではなく、「ノースポール」のもっと向こう、いや、プー横丁と地続きのあらゆる町や村を吹き抜けていった。風の向きを変えようとした人々は、腕を組み、風男たちの家を取りまき、「風よ、さらば」の歌を繰り返した。風害について語っていた一人の男は、風のように飛び込んできた一人の少年の手でこの世から消されたし、風にさからう一人の娘は、一陣のつむじ風にまきこまれてそのまま昇天してしまった。
ようやく風が吹きぬけたあと、多くの人びとの口も目も、胸にも胃袋にも、にがい砂の層ができていた。
「安保条約は採決され、僕たちの味わった挫折感は大きかった。僕個人の場合でも、今のベトナム問題にいたるまで無関心をよそおわざるを得ないほどだ。敗戦の時のショックよりも激しかったといえる。」
永六輔は、『わらいえて・芸能一〇〇年史』(朝日出版社・一九六五)のなかでそう書いている。「要約すれば、この年は戦後最大の規模でたたかわれた政治決戦の年であった。『若い日本の会』では、芳村真理までが安保反対演説をおこなっていた。(中略)とりわけ『青春残酷物語』『太陽の墓場』で実質的にも、"あてた"旗手大島渚の奮闘は、松竹ヌーベル・バーグの人びとに大きな勇気と確信をもたらした。しかし昴揚期は短く、十月には『日本の夜と霧』が上映中止になる。」
これは、内外タイムス文化部編『ゴシップ一〇年史』(三一書房・一九六四)のなかの一文である。その頃『思考の科学』に連載されていた「小さな雑誌」(一九六一年一月)にはこう記された。
「安保闘争は、東京だけの運動だったかどうか、安保の自然承認後はじめての総選挙をおえた今もなお、論議されている。だが、すくなめに見ても、これだけのことは言える。安保闘争のもっとも見事なたたかわれかたは、一九六〇年五月―六月の東京にあったものではなかったかということである」(のち、鶴見俊輔『不定形の思想』文藝春秋・一九六八に収載)
風は、イーヨーの住んでいる湿地帯にも吹きよせてきた。しかし、イーヨーは風のなかに飛びださなかった。それどころか、プー横丁に新しい家が建ち始めたことさえ知らなかった。イーヨーは、湿地帯における二つの出来事のため、プー横丁に自分の小屋を建てることさえ忘れ果てていたのだといえる。
A・A・ミルンによれば、熊のプーとコブタが、イーヨーの家を松林のわきに建ててやろうとする。そのため、イーヨーの小屋をそれとは知らず解体して、別の場所に移してしまう。物語に描きだされたことが、その頃、現実にもあったのかどうか。物語とはそっくりおなじでないとしても、それなりにあったような気がする。
「・・・旅行ののち、十五日夜こっちへくるというのはむりだろう。それより、ただちに三百枚ぐらいの長篇にとりかかった方がよい。
五月には、おれは行けそうにない。きのうほぼ確定的な大阪児童文学講座のプログラムが出たが、おれははいっていない。ただ、鳥越は確定。そこで鳥越にあって話してくれるか。気がすすまなければ、むりにあうこともないが。
しかし、仕事をさがすには、やはり鳥越たちのせわにならなければならない。プライベートなことは、おれに対してであれ、鳥越に対してであれ、話す必要はない。(中略)こちらへきて、おそらく二年間をどうすごすかということが問題だろう。(中略)それまで、仕送りができるか、どうか。何か職業について、一方で書くことだろう。その職業をさがすことに力をいれたい。(以下略)」
これは一九六二年(昭和三七)四月消印の古田足日の手紙の一部である。「アンポ」という風が吹きあれた二年後のものである。
古田はコブタでもプーでもない。だから、イーヨーの小屋を勝手に別の場所に移すはずがない。湿地帯から「百ちょ森」の向こうへ小屋を移そうと考えたのは、イーヨーのほうなのである。「なぜか?」「なにがゆえに?」「いかなればこそ?」と考えているうちに、灰色ロバのイーヨーは、じぶんでも何を考えているのかわからなくなったと、A・A・ミルンは記している。物語の外にいるイーヨーはどうだったのか。じぶんのやろうとしていることが、その時にはわかっているつもりであった。それから二十年経った今、その時のことをふりかえってみると、ほんとうは灰色ロバ同様、何もわからなかった気がしてくる。小屋をゆるがす風は、なにも風男だけが吹かすものではない。人はそれぞれ、考えもしなかった時にじぶんのねぐら(```)を吹きとばそうとするものである。
ある日、イーヨーが、プー横丁にふらりと舞いもどるまで十年近い時間が経っている。「児童文学実験集団」の発足、また「西部劇」に取り組んだその時から数えての話である。十年という時間は、ずっとあとになって考えればほんの一またぎに見えることがある。しかし、その時間のなかに取り込まれている時、十年は気の遠くなるような長い潜水競技である。もう一だけA・A・ミルンのあの灰色ロバをふりかえってみよう。灰色ロバは、ひょんなことから川に落っこちてしまう。仰向けになったままぐるぐる流されていく。それを見てウサギがいう。
「いったい、きみ、そこでなにをやっているんだね、イーヨー。」
「ウサギさん、三度であててごらん。地面に穴をほっとるのかな?ちがった。カシの木の枝から枝へと、とびうつっとるのかな?ちがった。だれかが川からひっぱりあげてくれるのをまっとるのかな?あたった。(以下略)」(石井桃子訳による)
誤解を避けるためにいえば、イーヨーは、この灰色ロバのように、だれかにぶつかられて川へ落ちたのではない。気がついた時には、じぶんひとり川のなかにころげ落ちていたのである。それを川と呼ぶことができるならば、の話である。
湿地帯における二つの出来事といった。川にころげ落ちたことをその一つとすれば、その前に暗い谷をさまよった出来事がある。その谷は、アーシュラ・K・ル=グウィンが『影との戦い』で描きだしたロー・トーニング島でのゲドの垣間見た世界に似ている。ゲドは、その島で、船大工のせがれの命を呼びもどすため黄泉(よみ)の国への坂道をくだっていった。イーヨーのさまよっていたのは、たぶん、そんな世界だったに違いない。一九五八年(昭三三)九月のある夜、昏睡状態に陥ったイーヨーは、一週間目ざめなかった。それは暗闇だけの時間と空間で、すでに意識も無意識も溶解した棒切れのようなイーヨーがいた。
「日本脳炎には薬というものがないんですよ。なおるなおらないは、もう本人の生命力を待つしかないんです。」(主治医H先生)
「なおっても頭のほうがおかしいままやったら、かえってみんなが苦労する。阿呆になって生きるくらいやったら、いっそのこと、このまま死んだほうがええのかもしれん」(今は亡きイーヨーの父親)
「日本脳炎=日本脳炎ビールスによる流行性脳炎。法定伝染病の一つ。コガタアカイエカなどによって媒介され、多くは夏季に発生。発熱、嘔吐、頭痛、意識混濁などの症状を示す。死亡率は約20%〜50%。なおっても脳障害が残る。特効薬はないが、予防接種が有効。ヒトのほかウマ・ウシなどにもみられる」(『新世紀大辞典』学習研究社より)
突然の発病だった。勤め先で同僚のA先生に、前夜みた市川崑の映画『炎上』について話している途中、ふいに気だるくなってきた。話を切りあげて早退することにした。市電のなかで、イーヨーは激しい悪寒に見舞われた。停留所から家まではどんなふうに歩いたのか、じぶんでもわからなかった。やっとこさねぐら(```)にたどりつくと、布団をひっぱりだして倒れこんだ。四十度に及ぶ熱だった。イーヨーのかみさんが、近くの医者を頼んできた。医者は注射を打った。つぎの日も注射を打った。夜までに熱がさがらなければ、連絡するようにといった。熱はさがるかわりに四十度を越した。医者は近くの病院に緊急患者として連絡した。病室に空きベッドがなかった。イーヨーは産婦人科の病室の片隅に、衝立で囲われて寝かされた。医者と看護婦があわただしく出入りした。イーヨーはうつぶせにされ、背骨の隙間に注射針を刺し込まれた。骨髄液のなかの血球数を調べるためだった。痛くはなかった。痛みを感じる気力など残っていなかった。まわりにだれがいるのかもわからなかった。電球の黄色い光が、遠くに涙のようににじんでいたり、つぎの瞬間、見えなくなったりした。真夜中、移動が始まった。病院車は、イーヨーを市民病院の隔離病棟に送り込んだ。切れぎれに夜ふけの町の空が見えて、それが消えると、イーヨーは深い闇のなかに沈み込んでいた。
深海の底から水面をすかすように、遠くに再びおぼろげな光を感じ始めたのは、ほぼ一週間経ってからである。さわやかな目ざめではない。頭のなかに煙がいっぱいつまっている。体はどこかへいってしまって、どこにじぶんの手があり足があるのか、まったくわからない。目が物の形をとらえる。形のあるものが、じぶんのまわりを取り囲んでいる。それが何なのか、知っているはずのものなのに、どうしてもわからない。わかろうとする前に、頭のなかを雲の塊が流れ始める。ひどい頭痛がひろがる。目がひとりでに閉じる。混濁した暗闇が始まる。
「あのね、おしっこというものは、どうしてだすか、というようなもんやないんでね。ひとりでに、ま、でるもんなんやね。それでも、下腹に力を入れるとか、マッサージをするとか、多少やってみたらええのかもしれん。しかしなァ、どうしてもでんというのなら、こら困ったな。どっかに、おしっこのでる神さん、ないやろか」(前出H先生)
「先生、アワシマさんはどないでっしゃろ。アワシマさんは、女の下(しも)の病気の神さんです。今でも、女の人はぎょうさんお参りにいかはります。よお効くいう話でっせ」(イーヨーの付き添いのおばさん)
「あんた、ちょっとはきばりなさい。そら、うちらは仕事やから導尿はしますよ。そやけどね、こんなこと繰り返していたら、いくら消毒してあるいうても膀胱の病気になりますからね。一日三回というのは多すぎるんです」(看護婦さん)
意識がもどった時、イーヨーはじぶんの下半身がなくなっているのに気づいた。腰から下の感覚がまったくなかった。仰向けに寝たまま目だけ動かして、自分の足のあったあたりを見た。毛布に包まれた体の線が、ベッドのはしまで続いていた。確かに毛布の向こうに、足の形をしたものが見えた。それはまぎれもなくじぶんの足なのに、じぶんとはまるで切りはなされていた。
下半身の感覚は、熱が三八度台にさがるに及んでもどってきたが、もどってこないものに排尿機能の作動があった。尿意をもよおすのに小便は一滴もでなかった。手術のあとに閉尿現象が起こることはある。しかし、それはせいぜい二、三日で、イーヨーの場合は記録的に長く、三ケ月に及んだ。高熱のせいで膀胱の入口にある排尿をつかさどる括約筋が麻痺したのだろう・・・・・とH先生はいった。熱さえさがれば、おしっこもでるに違いない。たぶん、おそらく、そうなるはずである。H先生は、絶対に・・・・・とはいわなかった。
イーヨーは、体を動かすこともできなかった。高熱で衰弱したじぶんを、くる日もくる日もベッドの上に投げだしているしかなかった。看護婦さんは、朝、昼、晩、交代で導尿をやってくれた。直径一ミリないし一・五ミリの硬いゴム管(カテーテル)を、イーヨーのペニスの先から膀胱まで挿入するのである。ピンセットで、まず、なえたイーヨーのペニスがつまみあげられる。赤チンで亀頭部の消毒がおこなわれる。つぎに、萎縮してただの小さな割れ目にしか見えない尿道の入口に、ゴム管がぐいぐい押し込まれる。イーヨーは、じぶんの尿道が、どんなふうに膀胱まで続いているのか、知らない。わかっているのは、それが、高速道路のように広く快適でもなく、また、竹のようにまっすぐでないということだけである。ゴム管は尿道の途中でつかえる。看護婦さんは眉をしかめ、ゴム管をすこし入口のほうまでひきもどす。再度、膀胱への突入が試みられる。先端が膀胱に達した時、苦痛はストップする。尿道をぐいぐいと進むあの硬い異物の感覚が突然消えるからである。膀胱にたまった尿は管を伝って溲瓶に流れ込む。昏睡状態のあと、最初の導尿で取り出されたおしっこは、溲瓶二つでもまだ足りなかったそうである。しかし、この導尿が恒常化した時、そうした多量の尿はもうでない。持続する熱のため、イーヨーが、食事も水分もほんのわずかしか採らなくなったためである。
イーヨーは、秋から冬にかけての入院期間中、ただじぶんの苦痛だけみつめていた。三十八度台を行き来する熱のため、目覚めているということは、体の節ぶしの疼き、気だるさ、頭痛を感じ続けるということにほかならなかった。首をまわすことはできるが、首を起すことはできなかった。眠りとは、苦痛のあまり意識がもうろう(````)とし、そのまま混濁の暗闇に陥ることだった。朝がくるたびに、熱っぽい肉体が待ち構えていた。病室には、すぐ頭の後ろのところに窓がついていたが、それを見る気力さえなかった。目でとらえることのできるのは、ベッドの
足もとのほうに見える粗末な木の扉だけだった。そこから、H医師が姿を見せ、導尿の看護婦さんがあらわれ、そして、一日に一度、イーよーのかみさんがやってきた。
イーヨーのかみさんは疲れていた。子どもが生まれてまだ七ヶ月しか経っていなかった。ようやく這い這いをし始めたばかりの赤ん坊を、目の見えないばあさまに頼み、がたごとと電車にゆられて病院までやってきた。家には、重度身体障害者であるそのばあさまのほかに、停年退職をしたじいさまがいた。イーヨーのかみさんは、じいさまとばあさまの世話と、赤ん坊の世話があり、その上、だんなである隔離されたイーヨーの精神的支えにならなければならなかった。伝染病であるため、子どもを連れて病院には通えなかった。子どもをばあさまに預けるということは、不安だった。ばあさまは、目だけでなく、手も足もふつうではなかった。心配事は、子どものことだけに限らなかった。病院のほうで世話してくれた付き添いのおばさんの支払い、入院費。じぶんたちの生活費。それらは、その頃私立高校の国語の教師であったイーヨーの給料ではとうていまかなえなかった。この病気が治るものなら、どんな苦労も耐えるつもりだが、もしこのまま治らないならば、どうすればいいのか。廃人となった夫。生まれたばかりの子ども。この二人を抱えてどう生きていけばいいのか。イーヨーのかみさんは、病院からの帰りの電車のなかで、何度も泣きそうになった。
イーヨーとかみさんのあいだに生まれた子どもは、まだおしめを当てていた。古い浴衣をつぶして縫いあげた昔ふうのおしめである。そのおしめを、イーヨーにもさせてみたら・・・・といいだしたのは、H先生か付き添いのおばさんか、どちらかである。二ヶ月経ったのに、まだおしっこがでない。思い切ってたれ流し方式で排尿をうながしてみたら、ということである。三十歳になったイーヨーは生まれたばかりのわが子のおしめを、わが子と共同で使うことになった。
毎朝、付き添いのおばさんが、イーヨーの股ぐらからおしめをはずした。それを窓のほうに向けて陽にすかして見た。おしめは昨晩あてたままで、しみ一つない。付き添いのおばさんもがっかりするが、イーヨーもがっかりした。H先生も、看護婦さんも、イーヨーのかみさんも溜息をついた。しかし、おしめは当て続けられた。閉尿状態にはいって三ヶ月目、それがある朝、かすかな黒いしみをつけて確かにぬれているのが発見された時、付き添いのおばさんはそのおしめを高だかとかかげて廊下に飛びだしていった。ユレイカ!浮力の原理を発見した喜びで、裸で町に飛びだしたというアルキメデスさながらだった。その日、病室を訪れる人は、誰であれ。おしめを鼻の先に突きつけられた。でたの!でました!でたか!はい!イーヨーは、わがおしっこのしみを眺める人を見て、はじめて人間の微笑を浮かべた。
「きみ。江戸時代に有名な俳人がおったでしょう。古池や蛙とびこむ水の音・・・というのを詠んだ人。あれはだれでしたかいな。」(市民病院の副院長)
熱が三十七度台にさがった時、やっと退院の許しがでた。副院長も、H先生に劣らずいい人だった。最後の回診を終えた時、副院長はなにげなくイーヨーに右の質問をした。そら、芭蕉です。松尾芭蕉です。『奥の細道』を書いた人です。イーヨーは、脳の具合をためされているとわかっても、すこしも不快でなかった。これで、ただひたすら目で追っていたあの病室の木の扉から、向こうの世界にでられるのだと胸がおどった。
「イーヨー先生。先日の尿検査の結果がでたのですけれど・・・。今、体の具合はどうですか。しんどいということはありませんか。実は、あまりよくないのでしてね。潜血反応がでているんです。」(一九八二年五月。校内保健室にて)
イーヨーは目下、慢性腎炎である。目下というのは、いずれよくなるという意味ではない。さしあたり、死ぬ日まで、この病気とはおさらばできないということである。『からだの読本・1』(暮らしの手帖社・一九七三)には医師の言葉としてつぎのように書いてある。
「慢性腎炎はなおらないとしても、そのためには死なない。しかし人間はいずれ死ぬわけですから、ほかの病気で死ぬかもしれない、そういうふうに考えればいいのです。つまり慢性腎炎の経過を延ばせばいいのです。(中略)現在ある状態のままで悪化させないで、どこまで持っていけるか、ということですね」
心細い話だけど、これが現実である。イーヨーは看護婦さんに血が混じっていたといわれると、どきりとする。忘れかけていた「急性憎悪」という言葉を思いだす。病気が過去の出来事ではなく、現在生きてじぶんのなかにあるから敏感に反応するのだろう。
はじめておしっこのでた日、アルキメデスのように頭のなかで跳びあがったあの喜び、それはそこにいくと嘘のように遠くなっている。この感動を決して忘れることはないだろうと、その時のイーヨーは考えた。それはどこにいってしまったのか。退院のあと、道尿係の看護婦さんの予言が当たって、イーヨーはひどい膀胱炎にかかった。京大病院の泌尿器科でふたたびペニスの先から膀胱鏡を突っ込まれた。今度はゴム管ではなく金属性の管状顕微鏡で、ナチスの拷問を即座に連想したものだった。しかし、その時の痛みと恐怖感は、まるでスナップ写真か絵葉書のように遠い風景になっている。体験も感動もすべて風化するのである。もしそれが化石にならないならば、病室のベッドから救世主のように仰ぎ見たじぶんのかみさんを、裏切るようなことは起こらなかっただろう。
「そんなら何故この日記をローマ字で書くことにしたか?何故だ? 予は妻を愛している。愛ているからこそこの日記を読ませたくないのだ、―――然しこれはうそだ!愛しているのも事実、読ませたくないのも事実だが、この二つは必ずしも関係してない。
そんなら予は弱者か?否、つまりこれは夫婦関係という間違った制度があるために起こるのだ。夫婦!何と云うバカな制度だろう!そんならどうすればよいか?」(岩波書店・一九五四『啄木全集・第十六巻』ローマ字日記より)
明治四十二年四月七日の項で、石川啄木は右のように記している。イーヨーは、この日記を何度か読み返している。はじめて目を通した時、それは週刊誌のゴシップをのぞく心情がどこかにあった。啄木の呪咀の言葉が他人事とは思えなくなったのは、隔離入院のあと二年ばかり経ってからである。イーヨーは、かみさんや子どもと、これ以上いっしょに暮らしていくことができないと思い込むようになっていた。かみさんとは別の人間に、イーヨーは傾斜した。よくある話かもしれない。しかし、よくある話が、じぶんに持ちあがるとは考えてもみなかった。情念の下層から黒い煙が湧きだして、それがイーヨーを包み込むだけでなく、まわりのものすべてを包み込んでしまった。
はじめに古田足日の手紙の一部を引いたが、(それをここで今一度、読み返していただくとわかるはずだが)イーヨーは、じぶんの生まれ育った湿地帯と、それに家族をさえ捨てることを考え始めていた。なんと一人よがりな、身勝手な発想だろう。イーヨーは今、その二十年前のことをふりかえってみて、じぶんの残酷さにかすかな身ぶるいさえ覚える。啄木は「夫婦」という「制度」を呪ったが、彼が呪うべきだったのは、じぶん自身であったはずである。人間の内部にひそむ暗闇に、まずおそれおののくことだったはずである。啄木の言葉をわが事のごとく受け止めていたイーヨーは、その時、おのれを制御する冷静さがまったくなかった。
事件は一九六二年(昭三七)、夏のある午後、突然起こる。イーヨーはボートをこいでいる。人影のまったくない湖である。蒼い水面は、どこまでも凪いでいる。ボートをだした岸辺の店店が小さく見える。舳先に座って掌で水をかきまわしていた娘が突然立ちあがる。泳いでみたいという。イーヨーは、ボートを止める。娘はボートのまわりを一周する。それから、ゆっくりとボートを離れる。イーヨーは、煙草をくわえる。まぶしい光が真上から降りそそぐ。煙は、光のなかに散っていく。突然、娘の声がする。イーヨーは、ボートが流されていることに気づく。オールをにぎりしめた時、遠い水面で娘の両手が高くあがる。手が消える。イーヨーの前に水面だけが残される。
水深十五メートルの湖底から遺体が引きあげられたのは、一時間後である。警察の水上艇、岸から繰りだした和船やボートが、つぎつぎに引きあげていく。無数の声がイーヨーの上に降りかかる。検死官、調書作成の担当官、新聞記者、ボート屋の若い衆・・・。夜になっている。目の前にひろがる湖に、昼間のあの輝きはまったくない。岸辺と水面の境も、水平線と空の境も、ただ暗闇のなかで溶け合っている。
遺体を運ぶイーヨーがいる。車を運転しているのは、同僚のMである。Mは、イーヨーが連絡した鴨原一穂さんといっしょに、じぶんの車でやってきてくれた。深夜、何時間もかかって、湖のほとりから京都の西にある娘の家に着く。娘の親たちの言葉が、イーヨーに突き刺さる。イーヨーはどうしていいのかわからない。鴨原一穂さんのねぐらに着く。コップに酒がそそがれる。水面に手が高くあがる。それが消える。降りそそぐ声。何もいわないがイーヨーをじっと見ている無数の目。コップにまた酒がそそがれる。「寝ろや」鴨原一穂さんはいう。手が、見える。手が、消える。電話口から聞こえるかみさんの苦痛をこらえた声。
一つの時間がそこで止まっている。イーヨーは、その時間のなかに釘づけにされる。それなのに、つぎの日が始まり、また、そのつぎの日もやってくる。それからの十年を、イーヨーは正確に書くことができない。パンドラの箱を開くように、そこには脈絡のない無数の出来事がつまっている。どこかですべてはつながっているのに。あえて、もつれたままになったイーヨーの時間がある。教壇に立って、さり気なく日本の古典を解釈しているイーヨーがいる。一人で映画館にもぐりこみ、ほうけた顔でスクリーンをみつめているイーヨーがいる。そうかと思うと、水瓜をさげて暑い道を歩いているイーヨーが見える。それは、古田足日の家にいき、彼が鳥越信の家にいったと聞いて、石神井の鳥越の家を訪ねていくところである。夜、佐野美津男の家にあがりこんでいるイーヨーがいる。探し探してたどりついた新章文子の家で、おなじことを繰り返しているイーヨーがいる。
こうした話は、児童文学に関係があるのだろうか。児童文学の話なら、イーヨーの発病前年にでた石井桃子の『山のトムさん』(当時、光文社)について語るべきではないのか。プー横丁にも、「アンポ」の風が吹きぬけた翌年、坪田譲治のだした短編集『昨日の恥。今日の恥』(新潮社)について語るべきではないのか。この二冊は、深い興味をもって(ずっとあとの話だが)イーヨーが二度も三度も読んだ本である。もし、「公的」な児童文学史を書くつもりなら、当然そうすべきだろう。それがいいに決まっている。しかし、イーヨーはあくまで「私的」な児童文学との関わりを語ろうとしている。そして、「私的」という場合、イーヨーは、右の二つの出来事を抜きにして先へ進むことはできないのである。鶴見俊輔さんは書いている
「私は自分につごうのわるいことはトップに言っておくのだが、自分につごうのよいことばかり言って、つごうのわるいことをのこしておく人がいる。それが、おとなだ。(告白について)」(『不定形の思想』文藝春秋・一九六八・収載「苔のある日記」より)
都合の悪いことといえば、イーヨーはまだまだ残している。たとえば、一九八一年(昭五六)秋、淡路島の灰谷健次郎のところへ泊りがけでいった。その時のことも、都合の悪いことの一つかもしれない。まさしくしたたか酔っぱらったイーヨーは、彼のいちばんいい布団の上に、それこそ存分に小便をしてしまったのである。坐り込んだまま、それが便器ではなく彼の布団だとわかった時には、「がくぜん」という言葉が、目の前を、南座のまねき(```)ぐらいの大きさで行ったり来たりした。イーヨー一人が泊まっていたのではない。若い娘さんが十数人雑魚寝をしていたのである。イーヨーがじぶんの不始末をどんなふうに手早く処理したかは、さすがにまだいいかねる思いである。灰谷健次郎の起きてくるのが、いかに遅く感じられたことか。ようやく白み始めた空の下、鶏小屋の前で彼にそのことを告げることが、どれほど辛苦に充ちたものだったことか。それなりに語ることができないというのは、イーヨーが今(`)を(`)「構えて」生きているからであろう。先に記した二つの出来事にしても、かつてはそれを語ろうとする時、血が吹きだしたのである。
「痛い目にあうごとに、わたしは、自分のえりくびをつかまれて、真理のほうに向けられる。真理は、痛い方角にある。しかし、真理は、方角としてしか、わたしにはあたえられない」(鶴見俊輔「退行計画」より。既出『不定形の思想』収載)
イーヨーの「痛い方角」はどちらだろう。四方八方にあるような気がする。それは「過去形」ではなく、「現在形」で語らねばならないだろう。イーヨーの児童文学は、すべてそれらの事柄とどこかで関わっている。
それにしても、風の吹きすぎたあとの、新しい家の建ち並んだプー横丁にもどる必要があるだろう。いろいろあったが、イーヨーもそこに、おくればせながら小屋を建てようと考え始めたのである・・・・・。
(これを書いている時、鴨原一穂さんの葉書が舞い込んだ。「雪国通信」NO.71である。岡山の奉還町に住んでいるこの詩人は、じつはイーヨーの「先生」なのである。イーヨーには「わが師」と呼べる人が二人いる。敗戦の虚脱状況のなかで、イーヨーに「歩み方」をそれとなく教えてくれた人である。一人は国文学者の岡本彦一さん。もう一人がこの詩人である。これらの「わが師」については、ふたたび「幕間狂言」を書く機会があれば、ぜひ語りたい)
テキストファイル化上原真澄