『日本のプー横丁』(上野瞭 光村図書出版株式会社 1985/12/24)

第4章 ヤサカニノマガタマ

 その映画が封切られたのは、一九三七年(昭一二)の十一月である。年表で確かめるとそういうことになる。四十五年前の冬である。
 イーヨーは、小学校の3年生だった。
 その頃、映画といえば、阪妻か千恵倉の時代劇しか見なかった、そうでなければ、ロッパやエノケンの喜劇映画しか見なかったおやじさまが、どういう風の吹きまわしか、イーヨーやおふくろさまをその映画の最終回に連れていってくれた。
 上映館は京都座。新京都座。新京極の、三条通りから坂道をくだった左手にあった映画館である。何分、夏になれば、天井の、飛行機のプロペラのような大型扇風機のまわった時代である。客席と休憩室を仕切るのは、扉ではなく重い暗幕。暗幕を潜ると、すぐそばの壁際に、懐中電灯で足もとを照らしてくれるおばさんが椅子に座っていたりした。居間と同じに館内は禁煙だったのだろうが、その映画館は煙が立ちこめているのうに息苦しかった記憶が残っている。イーヨーはそれでも、すぐに、ちかちか光るスクリーンの世界に引き込まれていった。
 少年二人が登場する。仲のいい兄弟である。二人の父親が、突然警察へ連れていかれる。父親は、二人に向かって、「すぐもどってくるからね」というようなことを言い残す。二人は、木に登って父親の消えていった方角を眺める。毎日毎日、父親の姿のあらわれるのを待つ。父親はなかなかもどってこない。二人は、祖父の家に預けられる。父親のことを忘れることができない。長い不在のあと、やがて父親のもどってくる日がやってくる。父親は、警察に拘留されるような不正を働かなかったのだ。その証拠が見つかったと告げられる。二人は、その喜びを木に登ることで表現する。久しぶりにわが家の人となった父親の前に、二人はすぐに飛びだしていけない。嬉しさと、それをまっすぐ示せない気恥ずかしさで、二人はかわるがわる父親をのぞきにいく。「おとうさん」声をかけては、かくれんぼのように二人は姿をかくす。
 これは、イーヨーの記憶のなかにある映画の大筋である。ほんとうは、大筋よりも短い一場面一場面のほうをなぜか覚えている。数学の記号のように覚えているのではない。列車の窓外の風景が、ふいにあらわれては消えるというそんな覚え方である。兄弟の一人を「爆弾小僧」という芸名の子役がやっていたのではないかしら…というかすかな記憶もある。大筋のほうは、その時の映画からたぐりだしているつもりだが、それから十年以上経った時、たまたま読んだ原作の記憶と混ざり合っているのかもしれない。
 それが、清水宏監督の松竹大船製作映画で、原作者は坪田譲治だったとは、子供時代を終わってからの認識である。イーヨーはその時、『風の中の子供』というタイトルと、善太三平というその兄弟の兄弟の名前だけ頭に刻み込んだのである。
 日本のプー横丁に古くから家を構えていた、そしてこの夏、昇天してしまった一人の作家との、これがイーヨーの最初の出会いだったのだな、とわかる。坪田譲治は、その時四十八歳。イーヨーは九歳。のちに、この作家に向かって、イーヨーが紙つぶてを投げるようになるなどとは、想像さえできなかったのである。

 「突然はがきなどをさし上げ失礼に存じますが、お許し下さい。あなた方でおつくりの雑誌『馬車』を、この間乾さんから拝借してよみました。『芽を出さない柿の種』というあなたの評論も拝読致しました。東京の私の友達でも、あれを読んだものはみな力作だと関心して居ります。それで、もう一度熟読したいと思いますので、『馬車』一部、ご恵送下さいませんか。願上ます」
 坪田譲治から、右の葉書が舞い込んだのは、一九五五年(昭三〇)のことである。映画『風の中の子供』を見てから十八年経っている。ちなみに、坪田譲治は六十六歳、イーヨーは二十七歳。この十八年という時間は、イーヨーにとって、急き立てられるように子供時代に別れを告げ、大人の時代にぎごちなく足を踏み入れる過程だったといえる。すでに「日本のプー横丁の三種の神器」など呼ばれるようになっていた坪田譲治は、老成の道を歩みだしていたに違いない。
 イーヨーは、葉書を見て、複雑な気持ちになった。
 坪田譲治のそれは、文字通り取ればイーヨーのエッセイに一定の評価を与えているように見える。しかし、「芽を出さない柿の種」(『馬車』・一九五五年・2号)は、「坪田譲治に関する覚書」である。それも「称賛」の言葉ではなく「否定」の覚書である。すでに借りて目を通していたとすれば、愉快であるはずがない。

 「   『風の中の子供』の正義や自由や愛は、その閉鎖した観念性の故に存在を確保することができ、その理想的側面性の故に人々の支持をうけた。それは『三太郎の日記』や『愛と認識の出発』と同じ理由で読まれ、その裏側にあって、それを支えるものがどんなものであるか、ということは抜きにしてであった。この不幸はやがて明らかになったのである。それは戦争である。対中国戦争。第2次世界大戦。それは、シンガポールが日本の手に落ち、アメリカのドゥリトル航空隊が最初に東京空襲を試みた年であった。坪田譲治の『寅彦竜彦』が発表されたのである」

 これは、ほんの一部である。書き写しながら、その時とは違った複雑な思いがイーヨーの中を駆け抜ける。異を立てる、という言葉がある。ともかく異を立てる、ということがある。坪田譲治に関するこの「覚書」は、『寅彦竜彦』(新潮社・一九四二)のなかの言葉尻をとらえ、「あなたもまた戦争に協力したではないか」と、その一点に向けて、すべての作品を引き寄せようとする、はなはだせっかちな発想に充ちていたのである。
 愉快であるはずがない、と記したが、そうした気持ちを通り越して、坪田譲治は激怒しても当然だったろう。
 イーヨーは、そうすることが、新しい日本のプー横丁の誕生につながると考え、何はともあれ、プー横丁の古い住人に「異を立てる」ことを当面の課題だと思い込んでいたきらいがある。つい昨日まで、三八式歩兵銃を肩に校庭を走ることが学校生活だったイーヨー。舞鶴海軍工蔽でガス溶接に専念することが「国を愛することだ」と叩き込まれていたイーヨー。そこで培われた「単眼の発想」が、敗戦後にもなおイーヨーの中で消滅せず、日本のプー横丁を考えようとするとき、よそおいを変えて作動していたのかもしれない。
 イーヨーは『馬車』を送った。返事はなかったが、坪田譲二がそれを読んだことは確かだった。つぎの年(一九五六年)、京都で「児童文学者協会創立十周年記念講演会」が開かれた時、(七月七日、毎日ホール・注一参照)坪田譲二、与田準一、菅忠道の三氏が演壇に立った。坪田譲二は「童話と人生」という題で講演した。

 「   私は、京都の『馬車』はおそろしいと思った。それは、芽の出ない柿の種というか、児童文学は波にもまれない、つまり大人の文学ほども批評家の論題にならないところで、案外呑気にかまえていたところがあって・・・・・・(以下略)」(『馬車』一九五六年19号収載、講演要旨より)

 話の冒頭にそれがでた。イーヨーは当日、受付という役割をいいことにして、かたくなに話に背を向けていた。反論がでたとしても冷静に受け止められない気持ちだった。「あんたのことを話していやはるよ」同じく受付の鳥居一夫が、会場のようすを伝えにでてきた。イーヨーは、胃袋のあたりがひきつるのを感じた。じぶんの言葉が、ブーメランのように、じぶんに帰ってくることを知った。
 その日はそれで終わらなかった。講演会終了後、協会からの参加者と『馬車』の同人でお茶を飲みにいった。その茶房で、イーヨーは与田準一から突然面罵されたのである。
 「馬車、読みました。あれは何です。敬老精神とは何だ!」
 与田準一はその言葉を繰り返すと、つかみかからんばかりにイーヨーに顔を近づけた。
 突然のその怒りが、イーヨーの何に起因するのか、とっさに理解できなかった。
 イーヨーはうろたえた。うろたえながら、たぶん、『馬車』十八号に書いた「時評」のことなのだろうと推測した。それは、そのとしの雑誌「児童文学の近代」を書き、与田準一が「坪田譲治・人と作品のある要素」を書いていた。イーヨーは、それに触れて次のように書いた。

 「・・・・・・与田準一は、坪田譲治を、日本文学の流れの中で果たした役割、あるいは位置において、正確に測定するかわりに、波を湖水にたとえ、その新人育成の努力をたたえた。言ってみれば、これは共鳴と讃仰であって、およそ児童文学評論といった類ではない。随想あるいは随感であって、児童文学の新しい展開を阻んでいる一つのテコ、大家崇拝のワクを出ていない。(以下略)」

 二十六年前の文章である。イーヨーは読み返してみて、そこに、「異を立てること」だけに急な、やせた若者の姿があることに気づく。「異を立てること」だけが、辛うじてじぶんの存在理由になっている鬱屈した青年の暗い影が見える。屈辱的な貧しさのなかにあって、それに対処する方法さえ知らず、ひたすら活字の世界にのめりこんでいった若もの。苦渋に充ちた日常の暮しから脱出するために、やたらに高い観念の壁をその前に立てかけようとした青年。その若ものは、言葉にまたがって空を飛ぼうとさえしている。そうかと思うと、無数の言葉を撒き散らすことによって、暗い海底に沈みそうなじぶんを、何とか水面に押しあげようとしている。
 「若さ」というものはそういうものかもしれない。無数の正硬な言葉を、自己存在顕示のために撒き散らすものかもしれない。
 イーヨーはその時、与田準一の面罵を、理不尽な怒りとして受け止めたが、(その場は、片山悠が間にはいることで収まったが)今はすこしだけ距離を置いて見ることができる。理不尽というなら、イーヨーの「きめつけ」こそ、与田準一にとってそうだったのだろうと考える。理不尽としか思えないなら、与田準一が怒るのは当然だったし、またそれを理不尽と考えるなら、イーヨーのほうも怒るべきだった。イーヨーがそうしなかったのは、気弱さのせいというより、じぶんの放った言葉の結果にまったく戸惑っていたからだろう。言葉を、ただの紙つぶてくらいにしか考えず、それがおのれにもどってくることなど、まったく予測もしなかったからだろう。
 少なくとも、発行部数わずか3百部のガリ版雑誌の中の一文に、面罵にせよ、真っ向から返球があるということは、いい時代だったのかもしれない。

 イーヨーは、坪田譲治の「思い出」を書くために、右のエピソードを持ち出しているのではない。イーヨーが、いかに長い間、坪田譲治を、その一面においてしか見ようとしなかったか、ということのために書いている。確かに坪田譲治は、つぎのように語っている。
 「   私の望みは、子供に現実の世界をみせたいということです。(中略)端的に私の気持を言えば、成人に対すると同様、子供も人生の姿を  暗黒な方面もさらけ出して示して差しつかえないとも思うのであるが、しかし、それをほんとうに子供に理解されるように表現することは、人間業では不可能です」(「私の童話観」より。『児童文学入門』朝日新聞社・一九五四・収載)

 坪田譲治は、こうしたことをいいながら、結局「暗黒の方面」に背を向けていたのではないか・・・・・・というのが、その頃のイーヨーの考え方である。映画『風の中の子供』に引き込まれながら、ついに「善太」にも「三平」にも、じぶんを重ね合わせることのできなかったイーヨーの、子ども時代のかすかな疑念が尾を引いていたのかもしれない。善太と三平こそ「子どもなのだ」という評価。ほんとうは、だれも、子どもはもっと複雑で個別的な存在だと感じているくせに、文学として形象化された故に、いつのまにか、子どもの典型像のように定着してしまった善太と三平。イーヨーはそこだけを見て、それを描きだした人間のほうを見ようとしなかったのだといえる。
 イーヨーが、坪田譲治に新たな関心を払うようになるのは、それから十年後のことである。一九六五年(昭四〇)、坪田譲治は『賢い孫と愚かな老人』(新潮社)をだす。七十六歳である。この年齢と、この表題とから、イーヨーならずとも、この短篇集に一定の先入観を抱い読者は多いだろう。事実、表題にもなった作品は、「まき」という孫の自慢話から始まる。「私」こと老人は、孫の遊び、孫の関心の方向、孫の言葉の一つ一つに感心する。話はそこから、狼に育てられた子どものことに移り、母の思い出話につながっていく。
 「私」が中学の卒業試験のとき、徹夜で数学の勉強をしようと決意する。そこで夕食後、母に、一時間したら起こしてくれと頼む。まず仮眠をとって、それから机に向かおうというのである。一時間、経過する。母が声をかける。眠いので、もう一時間したら起こしてほしいと頼む。母はいわれたとおりにする。
 「そしてまた一時間、母に、小遣いをせびるようにせびりました。こうして私は、一時間一時間で実に朝までねたのです。母は私に代って、朝まで起きていたのです。三角こそ勉強しなかったけれども、母が徹夜をしてくれたわけです。そのせいででもありましょうか。その時の三角、私は全然一問も出来なかったに拘らず、卒業だけは出来ました。慈愛の母のおかげです。きっと神様がこの母の献身に免じて、私の卒業をおゆるし下さったのです。お母さんありがとう   」

 この個所は、事改めて引用しなくても、「慈母の思い出」ですむところかもしれない。よくある話だし、さして目新しい出来事は一つも書かれていない。そういわれそうに思う。確かに、ここまでの話は、一老人の身辺雑記であり懐旧談にすぎないと、言い切れば言い切れる。とりわけ、「お母さんありがとう」と記されているあたりでは、この老人の、(おそらく作者自身の)手放しの讃歌に鼻白むものもでるだろう。こんなふうに大仰に(いや、感傷的とも思える作者の言葉を書きつらねることによって)じぶんの母を押し出す「私」に、あるいは、子どもに帰った老人を見るものもあるかもしれない。
 しかし、この老人の心境は、決して澄みきっているわけではないのである。慈母讃歌に見られるように、超俗・万事感謝の域に達しているわけでもない。
 この個所に続いて、話はじぶんの「息子」のことに及ぶ。海にでて遭難寸前までいった大学生だった「息子」が、あわやという時、母(「私」にとっては妻)の顔を思い浮かべ、それによって九死に一生を得たという話になる。

   「どうして、この悪妻が息子を助けたんだろう。その九死に一生の場合、息子の心にナゼ、私、即ちこの善良にして、愛情の深い父親が思い浮かばなかったのだろう。」
 口に出してこそ、云いませんでしたが、それから二十年もたつ現在でも、まだ私は不服なのです。

 この作品は、ここで終わるわけではない。すこし長いが、最後の個所をそれなりに引用しないわけにはいかない。

   講演はこの辺で終となりました。これからは、私がその後、心の中でした講演です。いや、家の中で、吾が悪妻とやった口論です。(中略)ある日のこと、私は悪妻に云ってやったのです。
 「私は、秋になったら、信州の黒姫山麓へ行くつもりだ。」
 すると、彼女は申しました。(中略)
「行って、どうなさるんです。」
「行くだけだ。別に山登りをするわけでも、開墾するわけでもないよ。」
「そうですか、それで、いつ帰られるんですか。」
「なるべく永くいるつもりだ。」
「そうですか。それなら、私も行きましょう。」
「あんたは来なくていいよ。」
「ナゼですか。」
「ナゼって、私は一人になりたいから、そんな処へ行くんだ。あんたに来られちゃ、台なしだ。」
「どうして、私に来られると、台なしなんですか。」
この辺から形勢次第に険悪になり、いつもの論争が開始されました。
「つまり、あんたが悪妻だからだ。」
「私がどこが悪なんですか。事実を仰言って下さい。」
「いつか、縁がわの外にあった下駄を、押入れに隠していたろう。」
「雨にぬれるから、縁の端っこにある、押入れに下駄を入れたのです。それが、どうして悪妻となるんですか。」
(イーヨー・注。この下駄の話は、一九五七年・筑摩書房刊『せみと蓮の花』   一九七七年・新潮社出版全集では第5巻   収載「戸締り合戦」にややくわしく書かれている。老人と妻のこの会話からは、他愛ない言い合いとしか受け取れないが、そうではない。しかし、引用を続けよう)
「それなら、毎朝9時頃になると、2階の窓から、道の方を見張っていたのは、ナゼだい。二十分も三十分も見張っていたじゃないか。」
「うちの仕事が終わって、ホットして、2階の窓から、外を眺めていたんです。それに、どう云うインネンをつけて、悪妻なんて云うのです。」
(イーヨー・注。この話は、一九六一年・新潮社刊『昨日の恥・今日の恥』   既出全集第六巻   収載「まずお爺さんの話」に書かれている)
「それじゃ、いつか、冬の夜の二三時頃、戸をあけ放してフトンをあげて、自分の部屋の掃除をしていたのは、どうしたわけだ。」
「どうしたわけって、掃除したくなったから、掃除したんですよ。それだけですよ。」(中略)
(おなじく『昨日の恥・今日の恥』収載「老人独白」に記されている)
「とにかく、あんたと顔を合わせたくないから、信州へ行くんだ。」
「そうですか。とにかく、私の方は、あなたに悪妻なんて言われる理由は、これぽっちもありませんからね。あきれて、ハラも立ちませんが、云っておきます。」
これで口論は終わりました。(中略)
「やれ、やれ。」
そして補聴器をはずしました。ここ何十年、次第に耳が遠くなって、悪妻とも話をしなくてよくなり、有難く思っているのですが、つい、口論となると、補聴器を出して来て、大いに力み、力み甲斐もなく、まけてしまうのです。早く黒姫山麓へ行くか、でなければ、眼でもつぶれるよりほか、彼女撃退の方法がありません。困ったことです。ナムアミダブツ。

さり気なく、できればユーモラスに、坪田譲治は「老夫婦」の口論を書こうとしている。それは、この個所を読んだ限りでは成功している。老いたりといえども、人間、まことにくだらないことで言い争うものである、ということを読者に伝える。しかし、この悪妻論議を、その前段にあった慈母讃歌とつないで読み返してみる時、そこにあった好々爺然とした「私」の姿が、突然凍りついた仮面のように見えるのは、イーヨーだけだろうか。孫への愛を語り、母への追想を語ることが作者の主眼だったとしたら、この短篇は当然、「お母さんありがとう」で終わっていただろう。そうした母親に比べ、じぶんの妻は、妻としては「悪妻」だが、「息子」にとってはりっぱな母だったという話なら、口論の前の、「私」の独白の個所で打ち切った方がずっとすっきりしただろう。坪田譲治は、そこで短篇を打ち切らず、突然「悪妻」との口論に筆を進めたのである。それを短篇の締めくくりとして持ってきたのである。それは、坪田譲治にとって、語らずにはおれないものであり、「賢い孫」の話や「慈母」の話を書こうとした時から、すでに見すえられていた主題ではなかったのか。あるいは、発想はまったく逆で、何よりもまず、「悪妻」を語ることが坪田譲治の念頭にあり、それを直截に語ることの陰湿さが、孫や慈母の挿話を思いつかせたのではないか。『賢い孫と愚かな老人』という表題にもどっていえば、人間の「光の部分」である「孫」の話に比重をかけるように見せながら、坪田譲治は、おのれの内なる「闇の部分」を、「愚かな老人」としてより語りかけたかったのだろう、とイーヨーは考える。

  ところで、或夜のことです。二三時頃だったでしょうか。私が便所へ起きてみると、家内の部屋にアカアカとあかりがついております。
ふすまの端っこから、まるで火事ででもあるように、光がさしているのです。私は驚き気味で、そこへ行って、サッとふすまをあけました。見れば、何と、この夜ふけに、家内は縁側の雨戸や障子をあけはなして、床もすっかり、押入れに入れて、サッサ、サッサと、部屋の大掃除をしております。
「どうしたんだい。」
気おいこんで、私はたずねずにおれませんでした。
「部屋がくさいからです。」
「どんなに臭いんだい。何もにおわないじゃないか。」
「ゴムのにおいがして、気もちがわるいんです。」
とっさに私は、コタツの火をかきまぜて見ました。然し、火はあっても、何の匂いもしません。(中略)
「ゴムの匂いなんか、しないじゃないか。」
これには家内は返事もせず、さっさ、さっさ、と箒をつかい、私なんか、無視の形です。(一九六二年「虚虚実実」より)

   結婚から薬二十年経っていました。私が四十三か四でした。彼女が四十四五でした。晩になると、彼女は買物に出かけ、それに2時間ばかりもかかりました。不思議なこともあるものと、或日、後をつけて行きました。すると、彼女はまるで走るようにして池袋の駅に行き、そこから電車にのります。いや、乗ろうとしております。ビックリして、私が呼びとめますと、彼女、まるで人が違ったようなあいきょうです。
「まあ、あなたでしたの。よかったこと。」
聞けば、帰りがこわいので電車にしたと云うのです。家は池袋まで、歩いて十分、電車で二十分くらいのところなんです。然しこの時から、私に解からない一面を彼女が持っていることが解かりました。彼女はまるで妖怪変化のようなもので、宵の口二時間ほどぐっすり眠ると、夜のふける十二時以後、目をさましている、おそろしいものになりました。(「後悔先に立たず」より。一九六五年『賢い孫と愚かな老人』収載)

    五十くらいまでは、彼女は私にとって、女だったわけです。もう人生も終わり近くなっては、私は彼女に人間を求めているのです。人間同士の愛情を求めているのです。少し美しすぎる言い方かもしれませんが、とにかく、私が胸を割って近づこうとするのに、彼女はヒタ隠しに、何か隠そうとして居ります。
「何かある。何があるんだろう。」
私には、そんなことが思われてなりません。
(一九五七年「女のこと」より)

  そこでです。私はもう七十三ですから、そろそろ老いぼけてもいいと思うのですが、ぼけるわけに行きません。黒雲のような、この魔性のものが、側にいて、都合のいい時だけ返事をし、勝手なことだけ話しかけ、あと、ノウコメント、知らぬ顔の半べえで、きれいな顔をされていたのでは、ぼけるわけに行かないのです。(中略)そこで、家に帰って、息子たちにあてて遺言を書きました。遺言を書いたからと云っても、私が自殺などするのではありません。

何もい云うことはないが、ただ一つ、頼みがある。私の墓は、私一人にしてほしい。近くに他人の墓ならあってもいいが、身内の墓は、一切ごめんだ。特にミナコの墓は、一里以上近づくべからず。右厳重に守られたし。

五十年もだまされつづけて、まだ、その上、墓まで列べられては、たまらないと云うのが、私の気持なのです。墓になったら、ホッと、息をつけたいと思います。めでたし、めでたし。
(一九六四年「ぼけた老人とぼけぬ老人」より)

 これらは、アト・ランダムに抜き出した「悪妻」記述の個所である。ゴシップ的発想で抜きだすなら、もっと衝撃的な個所もひろいだせるだろう。それほどまでに、短篇集『昨日の恥・今日の恥』は、「私」の「妻」についての記述に満ちているのである。それ以外にも、『坪田譲治全集』(前出)第5巻・第6巻には、単行本未収録の何篇かの「悪妻」小説が並んでいるのである。事は「小説」だから「事実」ではないかもしれない。かりに「事実」に立脚しているとしても、それなりの潤色はほどこされているだろう。そのことを計算に入れたとしても、坪田譲治が、「妻」について語らずにはいられなかったということが、残る。
「然しねえ、お父さんが変なことを言ったり書いたりしているの、親類じゃ、みな気が違ったのかとおもっているんだよ。(以下略)」
 「・・・お父さんは、あんた達に同意してなんか貰いたくないよ、誰にも同意して貰おうと思って書いてるんじゃないよ。苦しいから、一人の心におさめかねるから書いてるんだ。」
 「母さんは、気の毒な人だよ。あんな事を書かれていても、一言も弁解しないんだ。黙って、耐え忍んでるんだ。さぞ苦しいだろうと、僕は思ってるんだが、何も言わないよ。(中略)とにかく、弁解出来ない人を、これでもか、これでもかと、変な小説を書いて、攻撃するの、それこそ言語道断だ。
 私はもう黙りました。それは息子と論争出来る性質のことがらでないのです。息子にまけるより手のない論争なんです。そこでハラの上へ毛布を着せてトンネルのように冠せてある鉄のワクの中へ顔を引きこめました。(中略)私も、昔は、彼女に優しかったように思うのですが、然し不幸な結婚生活になりました。そう思って、私は鉄のワクのトンネルの中で、ポロポロ、涙を流しました。(一九六一年「息子シカル」より)

 引用を続ければキリがないなと思う。坪田譲治という人間を考えようとする人には、それらの短篇をすべて読んでもらうしかないな、というのがイーヨーの気持である。坪田譲治は、六十歳になってから「悪妻」小説を書き始め、七十代に足を踏み入れてもなお、そのことを考え続けていたのである。(注2参照)ちなみに、『昨日の恥・今日の恥』が出版されたのは、坪田譲治七十二歳のとき、『賢い孫と愚かな老人』の出版が、七十六歳の時である。坪田譲治は、いわゆる老年期に入って、三十年前、四十年前の「妻」の行動を責め立てているのである。疑いと不信と怒りの思いで問いつめているのである。
 イーヨーは、そこに、坪田譲治の「闇の世界」を感じる。それは、小説同様、現実世界で、「妻」が不貞を働いたかどうかという「事実」への興味ではなく、事実の有無にかかわらず、一人の作家が、そう思い込み、そう考え、執念のあかしとして無数の短篇を書いたことへの興味である。それはまた、「熟年期」が決して、万事感謝の平穏な時期ではなく、そこにも「人あり」ということを、一人の作家が身をもって示したことへの感動である。
 坪田譲治は、二十六年前、「『ばしゃ』はおそろしい」と講演の冒頭で語った。イーヨーもまた、どこかで講演をすることがあれば、「坪田譲治さんは、おそろしい人です」と、冒頭にいってみたい気がするのである。しかし、そのおそろしさは、坪田譲治一人のものではない。イーヨーのなかに、人間すべての人のなかに息づいているものである。問題は、そのどろどろした情念を、どのようにじぶん自身で超克するかということだろう。悪妻クサンチュッペのおかげで、ソクラテスは、しなやかな対話と自己省察をおのれのものとした。坪田譲治は、そのおかげで『風の中の子供』を生みだしたのかもしれない。
 イーヨーは、もう一度だけ、坪田譲治を見ている。一九六六年(昭四一)の「日本児童文学者協会創立20周年記念」の「児童文学討論会」の時ではなかったかと思う。会場になった明治大学の講堂に、後ろからイーヨーは一人ではいっていった。その時たしか、会場の外で、十何年ぶりに山中恒に声をかけられた記憶がある。彼は出席しなかった。通りすがりに、偶然イーヨーと会ったのである。イーヨーは、その時、討論参加者の一人ということになっていた。講堂の後ろで、さて、どこへいけばいいのかと下のほうを見おろしていると、イーヨーの入った扉から、坪田譲治があらわれた。七十七歳である。足どりは、ややおぼつかなかった気がする。ソフト帽をかぶり、補聴器をつけ、ステッキを持った好好爺然とした坪田譲治だった。坪田譲治も、さて、どこへ坐ればいいのかというふうに下のほうを見おろした。イーヨーは声をかけようかと迷った。その時、風のように一人の男があらわれて、坪田譲治を横から支えた。「みなさん、唯今、坪田先生がお見えになりました。拍手でお迎えください」
 大声をあげた。
 すでに会場にきていた人びとは、ふりかえると、拍手した。
 その男は、坪田譲治を抱えるようにして坂になった通路を降りていった。平塚武二だった。

 注1 京都公演会は、講師三名以外に、関英雄、猪野省三、岡本良雄、小林純一、柴野民三、平塚武二、大石真、清水たみ子、神戸淳吉、吉田足日がきている。「馬車」の会からは全同人が出席した。なお、与太準一に面罵された件で、イーヨーは『馬車』22号に「釈迦に説法」という一文を書いている。関英雄もそのあとの『馬車』に長い原稿を寄せてくれたが、この章の話とは離れた事柄なので割愛した。
 注2 坪田譲治は、大正十五年発表の小説『ピンと鶏』でのちの「悪妻」小説につながるような「妻」の一面を書いている。また、昭和三年から四年にかけての「山陽新聞」連載の小説『激流を渡る』の「夫婦の状況設定は、作者の「悪妻」意識の投影と考えられるだろう。

付記 ヤサカニノマガタマ=「三種の神器」の一つ。
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