『日本のプー横丁』(上野瞭 光村図書出版株式会社 1985/12/24)
第八章 続・ひげのプーさん登場・前後
お茶の水駅西口。これがプーさん(今江祥智)とはじめて会うことになった取り決めの場所だった。
理論社はそこから近い場所にある、だから、まずそこで三人落ち合って、顔合わせと簡単な打ち合わせをやればいい…。電話でそう言ってくれたのは古田足日である。
雨が降っていたような、そうではなく、強い陽ざしであたりが白く浮きだしていたような、そんな記憶の混乱がある。その年(一九六六年)イーヨーは、その場所で、二度プーさんや古田と落ち合っているからだろう。一度目は、はじめて理論社へ行った時、二度目は、理論社まで後生大事に原稿を抱えていったとき。この間、わずか二ヶ月しか開いていない。それがイーヨーのなかで混ざり合っている。
いずれにしても、イーヨーにとって、ほぼ十年ぶりの東京だった。
「児童文学実験集団」のころ(一九五八年)、新幹線は走っていなかった。東京にでるには、夜行列車にのり、一晩中よく眠れないでもそもそと体を動かし続け、はれぼったい瞼のまま、白じら明けの「花のお江戸」に着くことになっていた。八時間は固い座席に座っていなければならなかった。
新幹線が開通した時(一九六四年)、テレビは、その新型列車の快速性を試乗中継した。窓外の風景を映し、車内の情景を映し、振動の具合とスピードを記録計で示し、試乗客のコメントを交えながら、「科学の粋」「夢の列車」の誕生を、興奮した声で視聴者に語りかけた。アナウンサーは、新幹線こそ「新時代」の到来を告げるシンボルに他ならないと繰り返した。
イーヨーは、画面を眺めながら、何が始まったのか、よくわからなかった。称えられるその快適・快速さが、自分の暮らしとどう関わるのか、まるでわかっていなかった。わかっているのは、たぶんそれに、自分がのることなどないだろうということだった。その時、イーヨーに、三時間という短縮された時間を利用して、急いで東京にでかける用件など、何一つなかったし、また思いつきもしなかった。
「新時代」を繰り返すアナウンサーにしても、それから十年経って、快適・快速の乗り物が、騒音公害の一つの元凶となり、沿線住宅二万四千戸に不快と苦痛を強いることになるなど、夢にも考えていなかった。当然のことながら、新幹線に象徴される「新時代」が、高度経済成長政策のスタートと共に始まり、やがて農村の家族構成を破壊し、都会中心型の「核家族」化に拍車をかけ、「消費は美徳」という「使い棄て時代」を出現させ、主婦蒸発や離婚率を急増させ、偏差値重視の輪切り教育を生み、当然、そこからふるい落とされる子どもたちを軽視することによって、今日の「非行」や「家庭内暴力」や「校内暴力」
の土壌をつくりだしていくことなど、だれも想像さえしなかった。だれもということがいいすぎなら、少なくともイーヨーに限っていえば、予測すらついていなかった。
主婦蒸発と女子高校生売春を「家の連続性の喪失」の視点からとらえた千田夏光はいっている。
「風潮による人間の崩壊は、常に弱いものから巻きこんでいくが、封建時代の残滓の残る社会の中で女性は男性より弱いとすれば、その弱い部分から喪失した連続性の余波をうけていったということだろうし、昭和四十二年以降に生まれた子供たちはもろにその被害者だということだ。(中略)上から金と権力をもって人為的につくられたものには、つくられていく者の個々の意思も意識もないのだから、おこった混乱の被害をもろにかぶるということだ。(中略)よく『個々人の問題を社会のせい、政治のせいにするな』と言い、それは『無責任者の弁だ』と言う者がいるが、明らかにこれは強者の弁である。もしくは強者のもたらしたマイナス現象を糊塗するための強者の側にたった言い訳であろう」(『ハンカチ売りの非行少女』汐文社・一九八二)
「もっと言えば、少年少女をはじめ青年の非行までふくめ、状況をあえて放置し、一般大衆、とくに子を持つ親達のいらいらが嵩じてきたとき、かねて下地をつくっておいた『スパルタ教育』さっと復活させようとしているのではないかと思えるということである。私はこれを単なる杞憂だとは思わない」(『暴力非行』汐文社・一九七九)
イーヨーが、新幹線の開通を、まるで他人事のようにテレビで眺めていた時、イーヨーの国で、イーヨーを巻き込んで「人間の荒廃のうねり」が始まっていたことを、千田夏光は指摘している。千田夏光だけではない、斎藤茂男の『教育ってなんだ』(太郎次郎社・一九七六)『死角からの報告』(同・一九八三)もそうなら、佐田智子の『新・分身社会』(同・一九八三)もそうである。
快適・快速の「新時代」は傘下に四千五百軒の学習塾を擁する、「私的教育企業」を生み出し、一方に「差別と体罰と不条理」を標榜する戸塚ヨットスクールを生みだしたのである。
「教育は大量生産・大量販売の経済合理性のもとで、売ったり買ったりされる薄っぺらなものになり下がってしまったのだろうか。見せかけの繁栄を築いた時代の夢が、鉄や自動車にかわって、こんどは『子ども』に賭けられ、教育を商品とする側も、それを受け入れる側も、その売買にひそむ暗い空洞に不感症になってきたのだとすれば、私たちの住む社会の病巣は根深い」(斎藤茂男『教育ってなんだ 上』) 「教育問題は、もう教育という狭いワクではとらえきれなくなってきており、もっと根本的な、われわれがどう生きるか、この時代のこの社会のなかで、どう生きるかということにまでさかのぼらないと、なにも見えてこないのではないか…。」(佐田智子・前述書)
イーヨーは、こうした言葉を書き写しながら、じぶんがその時(十七年前)、何も見ていなかったことを思い出す。もし、見ているものがあったとすれば、そこからさらにふりかえった日本のプー横丁の「戦後の在り方」とでもいったものだったろう。敗戦(一九四五年)のあの日から十余年経ったというのに、日本のプー横丁は、成人文学の世界でいう「戦後文学」すら(あるいは、それと等質の作品すら)生み出すことをしなかった。颯爽と登場したはずの書き手たちが、プー横丁にうち建てたものは、なぜ「幟」や「旗じるし」だけだったのか。理念や生硬な観念の「説教師」たち「伝道師」たちによって、日本のプー横丁は形成されている。この滑稽さを、なぜみずから問いつめようとしないのか。もし日本のプー横丁に危機というものがあるとするならば、それは作品発表舞台である「良心的な雑誌」の、つぎつぎの廃刊といったことではないだろう。児童文学が文学である以上、本来目指すべき「文学のおもしろさ」を横に置き、「民主主義」「子どものために」「平和」といった呪文を唱えることで、それで文学が成立し、作品が生まれるとでも思っているかのようなオプティミズムそのものにある。一九六〇年代に入って、ようやく登場し始めた新人達の長編は、「幟」や「旗じるし」だけではなく、プー横丁に独自の家を建てようとする試みであって…。
イーヨーが、お茶の水駅西口に降り立ったとき、大事にカバンの底に入れていた架空の本のための「目次一覧」は、実は右のような思いから書き始めた「日本のプー横丁戦後論」のそれだった。そのことのために、「のりことなどないだろう」と考えた新幹線にのりこんでしまったのだが、イーヨーはその時、カバンの底に収めたおのれの紙切れに心をうばわれるあまり、快適・快速の新幹線が、これから走り抜けるであろう日本列島の風景を思い浮かべることさえしなかった。何かが始まっていた。それは、ほんのすこし注意すれば見えるものだったのかもしれない。いや、その程度の注意では見えないものだったのかもしれない。いずれにしても新幹線はあまりにも早く、すぐそばの窓外の風景を、一瞬のうちに消し去っていったのである。つぎつぎと瞬時のうちに入れかわる風景。それは、一九五三年(昭二八)に放映を開始し、それから十余年たったその時点で、すでに日本のお茶の間を席巻していたテレビの、つぎつぎと送りだす喜怒哀楽とどこかで似ていたようにも思える。テレビがそうであるように、いつのまにか、イーヨーも新幹線の「利用者」となる。それには、ほんのわずかの時間しか要らない。快適・快速を当然のこととして受け入れたとき、イーヨーもまた「新時代」に呑み込まれてしまったのである。「沿線風景」に注意を払わなくなったのである。
お茶の水駅西口に最初に姿をあらわしたのは、古田足日である。古田はそれが特徴の、心持ち背を丸めた姿勢で、あごを突き出すようにして、眼鏡の奥で目を細めた。それは、イーヨーのよく知っている古田足日だった。一九五〇年代後半、東京にくるたびに(それはもちろん、数えるほどわずかのことだったが)、彼の狭い一間の住居に泊り、彼のカミサンである文恵さんの手料理をよばれ、そこでプー横丁のことをあれこれ話し合った古田だった。古田は、日常の話を、ぶつぶつと呟くように低い声で話した。その呟きが聞き取れるほどはっきりした時は、話に熱がはいっている証拠だった。話さずにはおれない思いに駆られると、古田はすごく早口になった。一度、その頃の日本児童文学者協会総会後の懇親会で、ビールで真っ赤になった古田足日が、日頃の彼からは想像もできない饒舌をふるったところをイーヨーは見ている。奈街三郎か、柴野民三だったか、たしかそうしたプー横丁の先輩がいたはずだ。先日亡くなった小林純一氏もいたのではなかったか。古田は、早口で、大声で、まわりにいる先輩たちや、その場にはいない先輩たちを、一人一人、じつにおもしろおかしく「きめつけて」いくのである。「よろめき派の詩人であるあなたは、詩でよろめくだけでなく、くだらない女によろめき…」。断定される当の相手も酔っている。そして、がまんができなくなって、げらげら笑い出している。古田が、そんなふうに言葉を駆使し、人もじぶんもそれで楽しむということに、イーヨーはかすかな感動を覚えた。
「ぼくは、平手造酒とぼくが同病であることによって感動した」と、その頃、古田は記している。(一九五四・『小さい仲間』六号)いうまでもなく、平手造酒は、武士を捨て、やくざの用心棒となり、酒と労咳(肺結核)の果て、利根川での「出入り」で生涯を閉じたと語られる男である。浪曲『天保水滸伝』の伝えるところである。古田は別に、「やくざの用心棒」を志したわけではないだろう。労咳の身で、生の完全燃焼を求め、それを果たせぬままに凄絶な最期を遂げたところに共鳴したのかもしれない。古田も平手造酒のように「労咳体験」を持っていた。(これはまた、イーヨーの体験したことでもあったのだが。)それに定職とてない。あるのは、日本のプー横丁変革の熱い思いだけである。「思い」で人は食えるか。食えるはずがない。古田の心持ち丸めた背中は、生活と理念のその相克の重みを耐えるためのものであり、呟くように語るその低い声は、内在する思いのほどがあまりにも大きく、それを示す言葉を探しあぐねて、とてもじゃないが「ビートたけし」のようにはいかなかった…ということではないだろうか。
お茶の水駅西口に、そんな古田足日がいたというのではない。古田を見たとき、イーヨーの中に、一瞬、そんな古田が甦ったということである。古田足日はその時、『ぬすまれた町』(理論社・一九六一)、『うずしお丸の少年たち』(講談社・一九六二)、『児童文学の思想』(牧書店・一九六五)などによって、すでに日本のプー横丁に居を構えていたのである。その古田とあの古田は、違っていたのだろうか。のちに佐野美津男に会った時、それは明らかに違っているといわれたことがあるのだが、その時のイーヨーは、どこが違っているのか、よくわからなかった。おめでたいイーヨーは、後生大事に、一九五〇年代の風景を、古田足日宅である狭い一間に雑魚寝した風景を、じぶんの内側に抱え込んでいたのである。
さて、ここで、プーさんが登場する。
この日、この場所で、イーヨーがどうしても会わねばならぬことになっていたのは、今江祥智こと、のちの「ひげのプーさん」である。プーさんとは何者であるのか。いかなる人物であるのか。ほぼ十年にわたって、「日本のプー横丁」と無関係に暮らしてきたイーヨーには、プー横丁の人の移り変わり、変貌の具合が、まったくわかっていなかった。プーさんなる人物を知る手がかりとしては、その年の四月、古田の手紙と前後して、イーヨーのもとへ送られてきた一通の手紙くらいである。これを、イーヨーは何度読んだことか。
「前略、初めて手紙書きます。あるいは御存知かもしれませんが、理論社の嘱託として子ども関係の本の仕事、手伝わせてもらっているプーです。イーヨー氏のことは、古田さんにもよく聞いていますし、ぼく自身も、雑誌や新聞でエセイなど拝見し、このあいだは“空は深くて暗かった”も読ませて戴きました。
ところで用件ですが、現在『日本児童文学』に連載されているエセイを、一本にまとめさせて戴きたく、その全体の構想、構成、枚数などを御教示下されば、ということです。
そのうち一度お目にかかって詳しくお話をうかがいたいと思いますが、とりあえず、イーヨー氏自身、あの連載エセイを中心にまとめられる際の御意見、御希望など、御返事下さい。(中略)ゆっくり検討して、すばやく、いい本につくらせて戴ければ、と考えます。今回はまず用件のみ。それでは又」
プーさんのいちばん最初の手紙にあたるこの一通をもらったとき、イーヨーは何よりもまず、封筒の裏に印刷されていた「理論社編集部」という文字に感動した。この出版社名は、敗戦直後の梯明秀の『敗戦精神の探求』、一九五〇年代の山田うた子の『生きる』、それにアルバート・E・カーンの『死のゲーム』(小宮一郎訳)の背中下に刷られていたものであり、当時、それらの読者であったイーヨーの中に、大きく記憶されていた。プーさんは、そこの嘱託だという。嘱託とはどういう仕事をするのか知らないけれど、そこで本を作ってやろうというのである。それを、プーさんなる人物が手がけようというのである。プーさんという人は、よほどえらい人に違いない。じぶんで本を書いている一方で、こんなふうに、だれかの本を作る権限も持っている。それは社長ほどではないとしても、専務取締役くらいのえらい人物なのかもしれない。出版社というものに完全無縁のイーヨーとしては、その推測の可否を考える前に、もうそれだけで胃袋のあたりが収斂した。 『山のむこうは青い海だった』(理論社・一九六〇)の作者は、そんなわけで、同業者というよりも畏敬すべき編集者としてイーヨーの前にあらわれた。もちろん、プーさんのほうは、イーヨーのそんな気持ちなど爪の先ほども知らなかった。プー横丁の先住者として、一人の書き手として、お茶の水駅西口にあらわれたはずだった。
人は、おのれの器量のほどで、他人さまをあれこれ推しはかるものである。狭量なるものは、すべてをその枠内で理解しようとする。それ以上の世界を認めまいとする。それとおなじで、イーヨーは、胃潰瘍の真最中ということもあって、想像力のほうもきわめてかたくなに作動し、当時、病的なものには敏感に反応するが、そうでないものには、どこか、うさん臭い思いを捨てきれず、疑いと警戒の目を向けていたきらいがある。
イーヨーは、プーさんのことを、プーさんに会う前、「すらりとした痩せ型の男」、あるいは「感受性豊かな寡黙な人物」と一人思い込んでいた。それは、その頃すでに読んでいた、プーさんの童話集『ちょうちょむすび』(実業之日本社・一九六五)の印象からもきていたのだが、それよりも何よりも、イーヨーの器量のほどが、その程度のものであったということと深く関わっている。
プーさんは、颯爽と登場した。それは、肩で風を切るという態のそれではなく、じぶんの存在と重みをどこにおいても堂々と主張し、一歩もゆずるまいとする態の颯爽さだった。小気味よい自己顕示の気魄があった。ふとり目ではあるけれど、全体きわめてバランスよくいきとどいた脂肪。がっしりした体形。「坊ちゃん刈り」にも似た髪形。何事も見逃すまいというように見開かれたまるい眼。そこには「きかん気」と「負けん気」と「やる気」がひとつになって光っていた。それに、現在のプーさんのトレード・マークであるひげは、まだたくわえられておらず、かわりに、すべすべした血色のいい肌がまぶしかった。イーヨーは、じぶんの先入観が崩れる音を聞かれまいとした。胃がしくしく痛んだ。プーさんは、イーヨーの知っている一九五〇年代の「プー横丁関係者」とまったく違っていて、それはまさしく新しい風だった。
初対面の挨拶もそこそこに、古田とプーさんとイーヨーは、駅近くの中華料理店に入った。ここでもまた、イーヨーは目を見張った。
プーさんは、料理をどんどん注文するのでる。メニューをにらみつけて(文字通り、にらみつけて)ためらうことなく、「これとこれとこれとこれ」と決断するのである。ふつう、だれかと食事する場合、相互に胃袋の具合や懐の具合を確かめ合って、「これ」あるいは「これとこれでは…」と、ためらいがちに注文するものである。胃袋の許容量の思案が先行する。プーさんはそうではない。「うまそうだな」「うまいかもしれないぞ」「うまければいいが」と、味に対する期待や願望が先行する。それが、つぎつぎと食べきれないほどの品数の注文につながる。この発想がひるがえって、イーヨーのような「客人」(?)がある場合、「これはうまいから食べてみてほしい」「たぶん、これもううまそうだから食べてくれるだろう」「あの味のあとに、これなら喜んでくれるに違いない」と「客人」の口あたりや喜びを先取りすることにつながる。
その時は初対面だから、こんなふうに注文するのかな…と思ったが、イーヨーはそののち、プーさんと付き合うようになって、あれは「一過性」の発想ではなかったなと、理解するようになった。たぶん、プーさんと「相饗」の体験を持ったものは、一人残らず、最初はこのイーヨーの驚きに近いものを感じたに違いない。
「うまいものを食う」発想は、プーさんの場合、「食べもの」だけに止まらない。最上のおもしろさ・すばらしさを持った小説、評論、詩、映画、絵本、児童文学作品、音楽など(ここに、人間や人間関係を含めてもいいだろう)にも及び、それらを徹底して買い集め、読みふけり、聴きふけり、付き合いぬき、話し始めると、それらの人名・作品名がずらずらと並ぶことになる。プレヴェール、山本周五郎、イヴ・モンタン、花田清輝、長新太、『上海バンスキング』、桃井かおり、アラゴン、吉村敬子、『ふぞろいの林檎たち』…。 プーさんにとって、食物も芸術も、できれば等質に豊穣でなければ淋しいのである。そのことは、人生そのものへの期待や願望とも結びついている。つぎつぎと押し寄せる仕事。つぎつぎと押しかける客人。そして、できればつぎつぎと講演があり、祭りがあって…。
プーさんのことを書き出すとキリがない…と前章で記した。ここでもさらに話を一転して、「ほめ上手」(「ほれ上手」ではない)のプーさんのことに触れたい気もするのだが、割愛する。なぜなら、御茶の水駅西口で三人落ち合ったのは、確かにイーヨーがプーさんと顔合わせすることもそうだったが、そこからさらに理論社へいき、「バビロンの首長」こと小宮山量平氏に会うことが目的だったからである。それが、魚の小骨のようにイーヨーの喉につかえている。中華料理を前に、古田や初対面のプーさんと話し合っていても、気になって仕方がない。イーヨーの「プー横丁戦後論」を「ゆっくり検討して」とプーさんは手紙に書いていたが、「バビロンの首長」なる人物はどう考えているのだろうか。「目次一覧」を見て、首をふるのかどうか。古田やプーさんの前で、イーヨーはつとめて「快活」に振舞おうと努力したが、競争率の激しい入学試験を受ける直前のように、気持ちはとっくに神田神保町のあたりを漂っていた。
「山の上ホテル」旧館横の坂道を西側にくだり、どこをどう歩いたのか、よく覚えていないのだが、たどりついたビルの二階に理論社の編集部があった。編集部といっても、独立した編集者の部屋があるわけではない。東西に細長い大部屋があり、その中央に社長である小宮山さんの机、一方の端に応接セット、片方に編集担当者の机がすこし、寄せ集められているだけである。ここは、プーさんの「職場」でもあったのだから、イーヨーの記憶に誤りがあれば、訂正してもらうしかない。現在の社長である山村さんもいたはずなのだが、その部屋はどこにあったのだろう。小宮山さんの背後と応接セットの後ろはガラス張りになっていて、青空が見えたのか、別の社屋や家々の屋根しか見えなかったのか。 『編集者とは何か』(日本エディタースクール出版部・一九八三)という小宮山さんの本を読むと、中学進学を放棄して第一銀行の給仕となり、大倉商業という夜学に通い、そこで「アカ」の洗礼を受け、二度、検挙された話が出てくる。
「私が検挙されて三日目だったろうか。津々浦々にその長い長い一声が鳴りひびきました。(イーヨー注。皇太子誕生を告げるサイレンの音)とたんに黒田看守は興奮し、私を房から引きずり出すなり、『こんな目出たいご時世に、てめえのような非国民がおるから』と叫ぶと、ふだんの温厚さにも似合わず、狂気のようになぐりかかるのでした。『ええい、死んじまえ、死んじまえ!』と、その一言ごとに私の体は床にたたきつけられ、一方の壁に詰まると、また他方の壁までなぐりつづけられました。」(「一出版人の原体験」)
昭和初年の話である。
イーヨーはこれを、今年(一九八三年)の夏、渋谷の『童話屋』で、小宮山さんと対談することになったため読んだのだが、改めて、人間、なかなか他人さまを知ろうとはしないものだな…と思った。それは、イーヨーの知っている小宮山さんが、右のような体験をしていたとか、していなかったとかいうことではない。小宮山さんが一人の人間として、子ども時代から青年時代を生き続け、戦争を潜り抜けたあと、出版社を創ろうとしたこと、差し替えのきかないその過程で、さまざまなことを考え、感じたということ…そこに一人の人間の命が息づいているのに、イーヨーはそれをすこしも見ていなかったな、という感慨である。小宮山さんは、小宮山量平ではなく「理論社の小宮山氏」だった。そう思い込んで、イーヨーは何の疑いも抱かなかったということである。
もちろん、人間関係とはそういうものかもしれない。立場や役割や余計な付加物を通してしか、お互いに見えないものかもしれない。たとえそうだとしても、今頃になって感慨を新たにするくらいだから、その時のイーヨーは、もっと迂闊だったといえるだろう。
プーさんもそうだが、小宮山さんはもっと血色のいい人だった。「人みしり」のイーヨーは、じぶんの顔色の悪さがひどく気になった。こんな健康そうな人には、イーヨーのような「病的」な人間が、何となく異人種に見えるのではないだろうかと、体をかたくした。小宮山さんは、眼鏡の奥から眼を光らせ、イーヨーの「目次一覧」を眺めまわした。考え込むように煙草に手をのばした。煙草は、ピー罐と呼ばれる両切り五十本入りの「ピース」で、そいつをくわえ、煙を吐き、いうべきことを反芻するように斜めを見あげ、それから、やおら口を開いた。その声は朗々としていた。京都弁で、しかも、変にかすれた声しかでないイーヨーは、メリハリのきいたその喋り方に眼を見張り、アア、コイツハマイッタナと思った。話し始めるとつぎつぎ連想が湧くらしく、小宮山さんの話は止まるところを知らなかった。状況論があり、作家論があった。それは、一家言を持った人間の自信に満ちた推論と断定で貫かれており、時流がどう変わろうと、じぶんはそうはしないぞ…という強い意思表示の気配さえあった。プー横丁の話は、ほとんどしなかった。グルジア共和国の話から、分裂する「革新」の問題にとび、演劇の話から、出版状況の分析に及んだ。話のあいだに、小宮山さんの手は何度もピー罐にのびた。イーヨーも相当のヘビー・スモーカーだったが、小宮山さんのそれには及ばないなと思った。小宮山さんは、煙を吐くごとく言葉を吐いた。イーヨーは、口をはさむことができなかった。ひたすら相槌を打つだけで、話の行方を見定めかねていた。それが、いつ、じぶんの「目次一覧」にたどりつくのか、唯、待ち受けるしかなかった。
古田足日に、ずっとあとでいわれたことがある。
「小宮山量平と話す場合は、聞いてはだめなんだな。まず、こっちから喋るしかないんだな。それも、喋りまくらないとだめだ。小宮山量平ペースにまきこまれてしまう。おれはね、あの人と会う時は、そうするように決めているんだな」
古田のこの忠告(?)を、イーヨーは、それから十何年も経って『童話屋』での「対談」の折り、話の枕に使っている。隣にいた小宮山さんは、エライコトヲイイダシヨッタワイと思ったのかもしれない。イーヨーの言葉を受けて、「それはね、遠来の客に対するサービスなんですよ」とにこにこ笑った。
今、小宮山さんは煙草を吸わない。何年も前にやめている。社長の椅子も降りてしまった。会長なる肩書きで、一人、制作室なるところに陣どり、好きな編集に打ち込んでいる。(イーヨーはそう聞いている。)経営の実務をはなれることにより、小宮山さんは自由になったのだろうか。イーヨーが理論社から本をだすようになった頃、理論社は、数多くいる著者の印税を、きちっと支払うことができなかった。イーヨーの最初の本の印税など、プーさんが、むりやり「むしり取って」渡してくれたようなものだった。理論社によって、日本のプー横丁に居を構えるようになった人たちから、理論社批難の声さえあがるようになった。書くことによって生計を立てているプー横丁の住人にとって、それは、むりからぬことだったのかもしれない。イーヨーのように二足の草鞋をはいていると、仕方ないとがまんできるが、そうでない人は、がまんならなかったのだろう。理論社不信の声の時代、小宮山さんは真ん中にいた。それは苦痛だったろう。もし、灰谷健次郎が登場しなければ、そして、『兎の眼』によって予測もしなかった多数の読者を獲得し、理論社が持ち直さなければ、怨嗟の声のなかでピサの斜塔のように理論社は傾いていたのかもしれない。そうはならなかった。そうなる前に、小宮山さんの持論であるすばらしい「めぐりあい」が起こった。
今年の春(一九八三年三月)、灰谷さんとその仲間が始めた「太陽の子保育園」の竣工式にでた時、そこに、わが事のように頬を紅潮させている小宮山さんがいた。一次会のあと、二次会場に移ろうとして表に出たとき、小宮山さんは、「灰谷健次郎、万才!」と大声をあげた。夜の神戸の北野坂に、その声はこだました。それは、イーヨーを多少照れ臭くすると同時に、胸のあたりを何となく熱くさせるものがあった。理論社危機の時代、「ワン・マン」とささやかれながら、それでも何も彼も一人でやりとげねば気のすまなかった「バビロンの首長」、その姿が、嘘のようにかすんでいた。小宮山さんは、一家言の人だった。出版に、編集に(たぶん、その他もろもろのことに)独自のセオリーを投げかけずにはおれない人だった。よくいえば、信念の人だった。今も、それは変わりがないはずだ。その姿勢は、情報過剰生産(?)の時代に、必要欠くべからざるものであったのかもしれない。しかし、その反骨が、持論が、時として、まわりのものを萎縮させることはなかっただろうか。正論であればあるほど、その言葉が、まわりに沈黙を強いてしまうような、そんな予測外のマイナスを生むことはなかっただろうか。これは、イーヨーのことをいっているのではない。ほんとうは、イーヨーなどが口を挿しはさむべきではない、他人さまの家の話をしているのである。
ひどく見当はずれの言葉を、見当違いの方向に向かって投げているような気がする。第一、イーヨーは、理論社の旧社屋で小宮山さんに出会ったばかりである。小宮山さんは煙草をふかしながら喋っている。まだ、灰谷さんの『兎の眼』との出会いもない。それはまだ、八年もあとの話である。どうしてこうも、とんちんかんな話になってしまうのか。これは、たぶん、イーヨー自身に原因があるのだろう。
イーヨーは、この夏、ずっと歯根膜炎で苦しんだ。五月のある日、突然、歯の根のあたりから激痛が走りだし、あごや耳のあたりまで疼きだした。炎症は、歯医者さんのくれた抗生物質で収まった。レントゲンをとった先生は、これは時間の問題である…といった。むし歯の処置はとっくに終わっている奥歯が、四本も歯肉から浮き出していたのである。予言どおり、六月にはいると、背中に激痛がきた。右肩も右首筋もひきつれるように疼いた。右うしろをふりむこうとすると、汗がにじんだ。一本、また一本と、老先生は抜いていった。三ヶ月は、抜歯と事後処置のうちに過ぎていった。それが、いかに耐えがたいものであるかということは、イーヨーが二ヶ月間、ほぼ一枚の原稿も書かなかったことでわかるだろう。ただ、耐えていた。座り込めば苦痛にさいなまれるから、会議も、講義も、付き合いも、すべて常のままやった。そうでもしなければ、叫びだしそうだった。今、すこしだけ平静に近い状態にあるが、それだって怪しいもんだと思っている。肩のあたりに鈍痛がうずくまっているのは、あるいは、五本目の歯のせいかもしれない。食後、あれだけ丹念に歯をみがいてきたのに、あれは何であったのかと、この十年をふりかえる。年をとった…ということかもしれない。そういえば、どうも近頃、またオシッコの出が悪いな。
小宮山さんの『編集者とは何か』の「あとがき」の部分に、「67歳の誕生日に…」という言葉が記されている。それを見ると、イーヨーが、はじめて神保町の社屋で小宮山さんに会った時、小宮山さんは、今のイーヨーよりほんのわずか若かったのだとわかる。考えてみると、ふしぎというか、変な気持ちがする。小宮山さんは、その時、談論風発、元気そのものに見えた。それは、経営の苦境に負けまいとするための、みずからへの叱咤激励であったのかもしれない。イーヨーの「目次一覧」を見て、これは商売にならない本だな、しかし、跳んでみるか…と決意するための、内面の手続きだったのかもしれない。いずれにしても、即、このまま出版しようということにはならなかった。とにかく、秋までにまとうめるように…ということになった。イーヨーは、ひどく疲れた。それから、明治大学での「児童文学討論会」にでかけていったのだが、雨が降っていたのか降っていなかったのか。どうも傘をさしていたようにも思えるし、そうでなかったようにも思えるのである。
付記 理論社のその場に、たまたま北海道からでてきていた安藤美紀夫がいたような気がする。これもまた、ひょっとすると、二度目の、原稿を揃えて、持っていった時のことかもしれない。イーヨーはこの章で、一九六七年の春の話まで書きたかったのだが、呪うべきは、わが歯である。
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