『日本のプー横丁』(上野瞭 光村図書出版株式会社 1985/12/24)
第十一章 「わびすけ」の時代
ひげのプーさんが家族と共に、東京の国立から京都の上賀茂に引っ越してきたのは、一九六八年(昭四三)の春である。(これは前に触れたことでもある。)
イーヨーの住いから自転車でほぼ十分、プーさんの新居は、不動産屋の物件紹介ニュースによれば「新築高級賃貸住宅」と記されていたが、隣の家とモルタルの壁で仕切られた「棟割り長屋」風の家だった。
イーヨーは、プーさんから家を探すように頼まれた時、じぶんがずっと二階借りの暮らしをしていたこともあって、どこをどう探せばいいのか見当がつかなかった。幸いおなじ町内に「土地・家屋周旋」の看板をあげている家があって、そこのおばさんとは道ですれ違えば頭をさげ合っている。だんなのほうは、ひどく「じいさま」くさい人だが「あこぎな商売」をするような人には見えない。かくかくしかじかで一人の男が家を探しています、ひとつ御近所のよしみでお力をお貸しください……と声をかけたところ、その「高級棟割り長屋」を紹介されたのである。
イーヨーが、カミサンと自転車で見にいった時、その家はほぼ完成間近だった。じぶんの寝場所は持っていても、じぶんの家というものを持たないイーヨーは、狭いながらも門のあるその家がひどくりっぱに見えた。
玄関すぐのところに、二階への階段がある。風呂、トイレは玄関脇にある。その前がキッチンで、奥に一部屋ある。猫の額ほどの庭もどきの空間もある。二階は、物置兼通路をはさんで二部屋。東の窓をあけると、はるか向こうに比叡山がそびえている。視線をもどすと、すぐ目の前に他人さまの家の裏塀が迫っている。塀越しに、白砂をひいた広い庭が望める。狭いかな。狭いかもしれないな。それ以上の才覚もなく、結局、イーヨーは「プーさん待ち」ということにした。
話は飛ぶが、今、ひげのプーさんは、北白川大堂町というところに住んでいる。東山連峰をすぐ背にした閑静な住宅地である。上賀茂の「棟割り長屋」風な住いとくらべれば、まずは「広壮な住居」といえる。これをプーさんの持ち家となるべく骨を折ったのは、「京都こどものとも社」をやっていた今は亡き宅間英夫さんである。
「一晩に床柱一本、畳何畳分のんでしまうような暮し」をしたいたプーさんにとって、「家を買うなどユメのまたユメ」であった(と、その宅間さん追悼文集『青天を仰ぐ』一九八四……の中で、プーさんは記している)。それを実現させたのだから、宅間さんの「プーさんへの肩入れ」のほどがよくわかる。
庭木の間を潜り抜けて玄関に至る。そのすぐ左手に、書斎兼応接間の細長い部屋がある。仕事机のすぐ横にイヴ・モンタンのパネルが立てかけてある。壁には、長新太さん、宇野亜喜良さんの絵があって、レコードと本が壁面を埋めている。この部屋で、酔っぱらったイーヨーは、灰谷健次郎とチーク・ダンスをしたことがある。今、東京にいるプーさんの娘と、タンゴもどきのステップを踏んだことがある。プーさんといっしょになって、どしんどしんと「ゴーゴー」まがいの踊りを踊ったことがある。そういうことが可能だったし、そういう空間が「北白川」のほうにはあったということである。
上賀茂の「棟割り長屋」では、こうはならなかった。隣家の住人が、階段を駆けあがり駆けおりする足音が、壁を通してひびく。音楽好きのプーさんは、レコード・プレイヤーのボリュームを、いつも残念そうに「低音」に合わせる。時どきツマミをひねってワッと音量をあげたりする。しかし、おおむね隣家への気がねから一定量を超えない。それはたぶん、プーさんにとって時には欲求不満をかきたてたに違いない。イーヨーは、そういうプーさんの暮しぶりを知らなかったのである。まったくといっていいほど知っていなかったのである。いや、暮しぶりだけではなく、プーさんその人の人柄も、プーさんの「文学」も、プーさんの交友関係の広さも深さも、ついでにいえば、プーさんが東京から京都に引っ越してきた理由も、その趣味も教養も、負けん気も優しさも、せっかちさ加減も、ともかく、上賀茂の家を見つけてきた時、何ひとつ知らなかったのである。
この年の八月、突然ソヴィエトの軍隊が、ドプチェク第一書記指導のチェコスロバキアへ侵入し、世界に強い衝撃を与えたが、プーさんの「京都入り」は、それとは違った意味で、しかし「個人の歴史」という視点からいえば、それに匹敵するような衝撃をイーヨーに与えたのである。
もちろん、この比喩は、プーさんを誤解させかねない事例といえる。プーさんは「ワルシャワ条約軍」でもないし、戦車を持っていたわけでもない。サドルの前に娘さんをのせ、後ろの荷台にカミサンをつみ、鞍馬天狗みたいに颯爽と、賀茂川の堤防を走る自転車を持っていただけである。
編集者にして詩人だった黒瀬勝巳が(彼もまた故人となってしまったが)、仕事の話の合間に、プーさんとの出会いを「カルチャー・ショック」といってのけたことがある。その時、その表現の仕方を、イーヨーは笑って聞き流したものだったが、今、考えてみると、プーさんの衝撃は、そういうものだったのかもしてないなと思う。
イーヨーは、朝六時半に起床する(その頃…の話である)。七時半に家をでる。堀川通りのバス停まで急ぎ足で五分歩く。満員のバスに体をねじこむようにしてのりこむ。三十分から四十分、その状態でゆられ続ける。夏の日はもう、蒸し風呂である。汗がひっきりなしにしたたり落ちる。東本願寺前で、突きとばされるように下車する。本願寺の土塀のあいだの道を西に歩く。ぞろぞろ、ぞろぞろ、中学生や高校生が、おなじ方向に流れていく。イーヨーは、この段階で、「もの書き」でも「一個人」でもなくなる。無意識のうちに「教師」という」殻をまとい直している。校門が見えて鐘が鳴っている。走る。みんな走りだしている。風紀係の同僚が、遅刻者のチェックを始める前に門を潜り抜けなければならない。「教員室」に滑り込む。教頭が目をあげる。ホーム・ルームのベル。イーヨーは、汗の匂いが充満した教室にはいる。ざわめきを制して名簿をとる。連絡事項を伝える。旅行積立金を集める。数え直すひまなどない。状袋につぎつぎとほうりこみ、うんざりし始めている。「昨日の掃除はだれだ。どうしてみんな揃ってサボったのだ」五分間のあいだに、いうこととやることは山ほどある。じぶんの机に戻ってやっと煙草を一本吸う。吸い終わらないうちに一限開始のベルが鳴る。階段をのぼる。白いほこりが舞っている。怒声が聞こえる。ざわめきの中に足を踏み入れる。『伊勢物語』の「男」の中に、むりやり、じぶんを押し込もうとする。それを拒否する生徒。そっぽむいてる奴。いろいろいる。五十分間、それでもこの短編小説と格闘する。こういう物語を書いた奴は、じぶんの作品が、「古典」という名のもとに、イーヨーや、エネルギーのありあまった十代の若ものによって、「読まれ、解釈され、テキストされ、評価の素材になる」ことなど、夢にも考えなかったに違いない。おまえさんは「文学」を書いたつもりかもしれないが、ココじゃ、おまえさんの作品は「文学」じゃない。掛詞。序詞。係り結び。体言。用言。自立語。付属語。断定。推定。終止形。已然形。接頭語。接尾語。みんな、ばらばらなんだ。そんなことを考える。イーヨーは、「文学」の解体作業のあとやっと『伊勢物語』から解放される。十分後、「現代国語」のテキストを持って別の教室へ急いでいる。……。
カルチャー・ショック……と、のちに黒瀬勝巳がいった時、イーヨーが笑ったのは、すでにその時、イーヨーが右に記したような暮らしから足を洗い、「プーさんとの出会いの驚き」を卒業していたからかもしれない。
授業終了のベルは三時に鳴った(もちろん、その頃の話である)。終礼に立ち会い、掃除当番の点検をしなければならない。「美化係」の教師が、床、黒板、机、窓と調べて歩いていく。机の上に山積みした作文やテスト用紙を残して、いつもイーヨーはクラブ活動に参加していた。五時か六時まで部室でクラブ員と話し合う。そうでない日は職員会議があり、組合の臨時総会があり、生活指導の会議があり、特別教育活動の打ち合わせがあり、教科の話し合いがあり、父兄との懇談があったりした。朝から夕方まで、だれかが話しかけ、だれかに答え、その一つ一つが、この職場の
「必要事項」だった。「じぶんの人生」でありながら、ほとんど「じぶんの時間」ではない一日。それが終わって校門をでる時、疲労が汗ばんだ衣服と一緒にイーヨーの背中に張りついていた。やたら眠い。足が重い。やっとの思いで「じぶんの時間」にたどりついた時、耐えがたい睡魔が大きな手となってイーヨーの後頭部をつかみ、後ろに引き倒そうとした。ここで眠ってしまえば、つぎの夜まで、「イーヨー自身の時間」はない。一度「眠気」に身をまかせてしまえば、ずるずると崩れ落ちるだろう。体の発する信号に逆らう以外、イーヨーは「じぶんの仕事」を続けることはできない。充血した目の奥に痛みが走る。安息を求めて呼吸する胃袋が、緊張のあまりかたく収縮する。月曜から土曜まで、そうした暮らしが続く。一年、また一年、時間は経過し、いつのまにか十年をはるかに超えている。
イーヨーのまわりには、「プー横丁の住人」はだれもいない。だから、そういう暮しを「じぶんの暮し」として受け入れる耐性ができていた。モグラのように太陽が落ちてから机に向かうイーヨー。それ以外に、「プー横丁に関わる仕事」をしようのないイーヨーがいる。ひげのプーさんが突如京都に引っ越してきた時、イーヨーの日常は、いってみれば右のようなものだったのである。
「二月六日、火曜。プーさんと上賀茂の借家、見にいく。プーさん、決しかねて、一晩考えるという。家にもどり酒を飲みだす。一本カラになる。プーさんを町まで送っていきパチンコ屋の前で別れる。(以下略)」
「二月七日、水曜午後。プーさん、Iという女性と来宅。この人、プーさんの処女長篇『山のむこうは青い海だった』のヒロインのモデルだという。すでに結婚している人である。平野さん(周旋屋さん)にいっしょにいき、プーさん、手付金、手数料を支払う。三人で四条にでて、『丸善』に寄ったあと、『寺楽』で飲む」
「三月二十四日、日曜。プーさんの借家の出来具合、確かめにいく」
「四月七日、日曜。プーさんの引っ越し。朝十時より手伝いにいく。夕方いったん帰り、夜、新居にいき、飲む」
「四月八日、月曜。夕食を食べようとしていたら、プーさんより電話。奥さんも娘さんもまだ実家のほうだという。一人なので、こっちにきて食べないかと誘われる。女房、子ども共ども自転車でいく」
夜の堤防を、イーヨーは自転車で走った。小学生だったセガレを荷台に積み、前の買物籠に鍋を載せ、鍋の中には、その夜の炊きあがったばかりのイーヨー一家のおかずがはいっていた。イーヨーのカミサンは、御飯鍋とおひたしの小鉢を積み、ペダルを踏んだ。
イーヨーは、プーさんがインスタント・ラーメンの袋を前に置いて、所在なげにテレビを見ている姿を思い浮かべた。引っ越し荷物のあいだで、くたびれ果てた顔をしているように思った。考えてみれば、それはイーヨー自身の姿で、イーヨーは一日の終わりにいつもそんな不景気そうなツラをしていた。
プーさんは、待ちかねたようにイーヨーたちを迎え入れると、皿の上に焼き魚、おつくり、酒にコップ、「成田」の漬物を山盛りした大鉢を取りだし、さらにガス台の前に立つと、手ぎわよく「だし巻き」を焼きあげた。あっという間の御馳走の山だった。イーヨーもカミサンも、風呂敷に包んできた御飯とお菜をだしかねた。電話で聞いた時、「めしも炊いていない」ということだったので、それじゃ三人分しか炊いていないけれど四つに分ければいいだろうと、どんぶり鉢に分配した御飯を、プーさんもいれて四人で食べるところを想像していた。イーヨーは、晩酌という習慣がなかった。酒は日本酒にしろビールにしろ「外で飲むもの」と思い込んでいた。別に民俗学の指摘するところに忠実であろうとしたわけではないが、「飲む」ということは「日常生活」をはみだすことであり、「ハレ」の営みであり、「ケ」にあたる毎日の暮らしとは別様の行為だと考えていた。ほんとうは、とてもじゃないが、イーヨーのサラリーでは酒どころではないということと、それに加えて、酒が好きでないということがあった。イーヨーのカミサンもまた酒には弱く、体質ということもあるのだろうが、頭痛と嘔吐で二日くらいは寝込むことになっていた。もう一つ。プーさんにはまことに申し訳ないが、イーヨーたち一家は、れっきとした日本人であるくせに、魚が嫌いということで共通していたのである。
これは幼児体験やその後の生活、それに、セガレの食生活に歩調を合わせる……といったことからきているのだろうが、精神分析学者ではないから原因究明は割愛する。
イーヨーは迂闊だった。いや、迂闊というよりも、プーさん知らなすぎた。プーさんが晩飯のかわりにコップ酒を飲み、それも、ぐいぐいと豪快にのどに流し込み、それとおなじくらいのペースで刺身や焼き魚を食い、スグキの漬物をばりばりと噛み、興至れば延々と深夜までそれを続けるということを知らなかった。亡くなったイーヨーのばあさまなら「暴飲暴食」と眉をしかめるだろうことが、プーさんにとっては「日常」であり、決して胃潰瘍にも十二指腸潰瘍にもならず、つぎの日、五時にさわやかに目覚めて、原稿を書くことも可能……ということを知らなかった。もう一つ。プーさんのそうした「饗宴」が、じつはプーさんの「生きる楽しみ」であり、そのためプーさんが「千客万来」をモットーにし(?)、そののち常に、「美女」「英雄」「豪傑」「才人」の類がプーさん宅に蝟集し、プーさんのかけるレコードに酔顔をうるませ、プーさんの話に聞き惚れ、だからこそプーさんがますます「仕事」に精をだせるのだということを知らなかった。
持参した鍋の御飯をイーヨーのセガレとカミサンだけが食べ、イヴ・モンタンの歌に送られてプーさん宅をあとにしたのは、十時頃だった。賀茂川の上を春の夜風が渡っていた。イーヨーとカミサンは、言葉もなく堤防を自転車で走った。
「食事文化」という言葉があるのかどうか知らないけれど、その夜、イーヨーの感じたものは、まぎれもなく「食事の在り方」に集約された「異文化」との出会いだった。一汁一菜か、一品料理の整列か、ということだけではない。ハンバーグかマグロの刺身か、ということでもない。そそくさと「めしを食い」、あとはテレビを眺めたり本を読んだりして、静かな夜の時間にもぐりこむ平均的な「勤め人」の在り方に、それはまったく対照的な「自由人」の在り方だったのである。
もちろん、こう書いたからといって、ひげのプーさんが今も、北白川の居宅で「その頃」の饗宴を繰り返しているということにはならない。「その頃」のプーさんは、「お江戸」での「もの書き」兼「編集者業」から解放されたところであったし、それに、ミッション系の女子短大の先生になったばかりであったし、前にも触れたことがあると思うのだが、「新生活」への期待で胸をふくらませていたのである。その喜びを、饗宴の形で自他ともに分かち合いたいと考えたのは当然である。「昨日」に続く「今日」ほどうんざりするものはない。すこし距離を置いて眺めれば、それもまた捨てがたい「人生」であるのに、人は往々にしてそうは考えない。「昨日」とは異質の「今日」に憧れる。まわりの人間がすべて、おなじ条件で荷物をかついでいる時にはそうではないのに、条件の違った人間に出会った時、人は自分の荷物を重く感じる。いずれにしても、プーさんの善意と奔放さが、また町暮しを満喫するその闊達さが、イーヨーの胃袋をしくしく疼かせたとしても、プーさんの責任ではないだろう。レオ・レオニの絵本『シオドアとものいうキノコ』の中の臆病ねずみではないが、それはイーヨー自身の脆さに問題があったのである。蛙を、亀を、トカゲを、その在り方を責めてみてもどうなるものでもない。
「四月二十一日、日曜。朝、仕事場にでかけ原稿を書いていたら、プーさんがあらわれる。自転車で家までいって、ここだと聞いてきたという。歩いていっしょに家までもどる。午後、卒業生四人くる。夜、プーさん一家、またもや自転車であらわれる。イチゴ持参」」
イーヨーはその頃、日曜日になると仕事場にでかけていた。
仕事場といっても、特別じぶんの部屋があるわけではない。朝九時、「烏丸車庫」から(この近くにイーヨーのねぐらはあった)市電か市バスで「烏丸今出川」までゆられていく。この間、四つばかり停留所がある。そこは交叉点になっていて、東南の角に京都御所の石垣と木立が、東北の角に同志社大学が建っていた。この大学の西門と、車道をはさんで斜めに向かい合っているのが、「わびすけ」という喫茶店である。
イーヨーの仕事場とは、この茶房だった。
もともとはふつうの町家であったに違いない。モルタル壁が、一見「洋風」の建物らしく見せているが、壁の向こうに瓦屋根の一部がのぞいている。階下の歩道に面したところは、ショーウインド風のガラス張りになっていて、壺や花器が飾ってある。左手に重いガラス戸がついている。戸を開くとすぐのところが階段で、二階の喫茶室に通じるようになっている。階段の上にもガラス戸がある。それを押すとレジスターの台がある。階段もそうだったが、この茶房の床はすべて木造である。長年にわたって油拭きされてきたため、黒光りしている。部屋は階段のあたりで二つに分かれている。北側には八組ばかり机と椅子が置いてある。机がいい。町の喫茶店に見るしゃれた見かけだけのそれではない。一人ではとうてい持ちあげられないような、がっしりしたテーブルである。原稿用紙を机いっぱいにひろげる。一杯のコーヒーで昼前まで仕事を続ける。日曜日の朝だから、ほとんど客はいない。常の日の午後なら学生にあふれる店だが、そして、そのざわめきで仕事どころではないのだが、イーヨー一人の時は、音楽さえ消えている。マスターと呼ばれる若いオーナーが、レジの横のテーブルで新聞を読んでいる。マスターのおふくろさんにあたる人が(たぶん、そうだろうと思う)厨房でコーヒーをいれている。
イーヨーは、ひそかに「定席」を決めていた。壁ぎわの、(そこにも花器や壺を飾ったガラスの戸棚があるのだ)ややうす暗い一角である。目をあげるとガラス窓越しに大学の建物が見える。時どき、イーヨーのように「仕事」にくる同類がいる。『技術の論理・人間の立場』(筑摩書房・一九七一)『もののみえてくる過程』(朝日新聞社・一九八〇)をのちにだす中岡哲郎もその一人である。イーヨーは小学校時代、彼とおなじクラスだった。彼が海軍兵学校へいった時、イーヨーは舞鶴海軍工廠へ動員学徒として働きにいっていた。ずっと離れた道が、変なところで一瞬クロスした感じがしないでもない。ほんのときたま話を交わす。流体力学のことを、工場での事故処理のことを、彼はひどく照れたように話す。ずっとあとでは、学園紛争のことを語ったこともある。
「わびすけ」の階下は暗い。ガラス戸のすぐ内側にささやかなショー・ケースがある。そこに手漉きの封筒や便箋、手づくりのブローチやペンダントが並べてある。これは、マスターのおねえさんにあたる人の作品である。
今、イーヨーが日曜日ごとにゆられた市電も市バスも走っていない。三年前(一九八一年)地下鉄が開通し、地上の乗物は廃止された。おかげで「わびすけ」にいくには数分という距離になった。しかし、イーヨーは、地下鉄を利用して「仕事場」に通っていない。通わなくなってから十年位経っている。今、「仕事場」にしているのは、あまり陽のささない八畳の間である。これは、かつて、イーヨーの(正確にいえば、カミサンの両親にあたる)じいさまとばあさまが寝起きしていた部屋である。じいさまが亡くなった時、いろいろあって、「二階暮し」にピリオドを打たねばならなくなった。イーヨーは、はじめて銀行の融資係のお世話になった。六十五歳まで、延々と払い続けなければならぬほどの借金をした。「じぶんの家」など持つことはないだろうと考えていたのに、斜めに傾いたボロ屋のオーナーになってしまった。ばあさまも亡くなり、寝たきりだったばあさまのベッドのあったところに仕事机をすえている。
イーヨーのほうだけが変わったのではない。「わびすけ」のほうもすこしは変わったのである。何もなかったはずの階下が改築され、喫茶店兼スナックになった。コーヒーの匂いしかしなかった店内に、カレーの匂いが漂っている。二階はどうなのだろう。イーヨーは、今でも自転車で店の前を通ることがあるのだが、その前で止まったことがない。
「わびすけ」は、だんだん遠くなる。
ところで、ひげのプーさんがあらわれた時、(話は「日記」のところまでもどっている。付け足していえば、この頃、プーさんにはまだひげがなかった)イーヨーはこの「仕事場」で、一つの物語を書いていた。誰に頼まれたわけでもない。それを書くことによって、かろうじて、イーヨーは、「じぶんが何者であるか、何を為すことができるのか」それを確かめられるような気がしていた。それはひょっとして、「日本のプー横丁」の住人たりうるのかどうか、いや、そういう資質や条件を持っているのかどうか、そういう自分を探るための試みだったといってもいい。
プーさんはテーブルの向こう側に坐ると、イーヨーの原稿用紙をちらりと見た。イーヨーは反射的に原稿用紙を手でおおいたくなった。「おや、マゲモノやな」とプーさん。うなずきながらイーヨーは、話題のそれることを願った。幸いプーさんは、じぶんのすでに上梓した短篇集について語りだした。それは「さびたナイフ」「黒い花びら」「いつでも夢を」といったヒット・ソングをタイトルにした『わらいねこ』(理論社・一九六三)のことで、イーヨーは、イーヨーはとっくに読んでいた。和田誠の表紙のひどくしゃれた一冊だった。亡くなった花田清輝を花田清十郎という名前で登場させたのであると、プーさんは「おのが着想」のほどをちょっぴり自慢した。プーさんの中には、それからわかるように「遊び心」とでもいうものがあった。そいつがはずんで、つぎつぎ短篇が生まれるらしかった。芭蕉俳諧に「軽み」という理念があるが、その頃のプーさんの作風は、善きにつけ悪しきにつけ、その言葉を連想させた。どういうわけでか(いや、原因・理由はちゃんとあるわけだが)、「日本のプー横丁」には、「貧乏童話」「クソ・リアズム」と悪口をいわれる作品が多かった。プーさんの作品は、そうした流れの中で、めずらしく異質の世界をつくっていた。「遊び心」に支えられたプーさんのそれは、たぶんに、プーさんが、A・A・ミルンの『くまのプーさん』やエーリッヒ・ケストナーの『エミールと少年探偵』を愛読したところからきていたのだろう。
イーヨーはその時、プーさんとは対極の物語を書こうとしていた。書き続けていた。二百枚は超えていただろうか。それは、ほぼ一ヶ月に三百三十枚で「脱稿」するところの『ちょんまげ手まり歌』であった。プーさんは、それがどういう話なのか、聞かなかった。聞くかわりに、プーさんの好きな「マゲモノ」の話をした。山本周五郎の短篇のあれこれがテーブルの上に繰りひろげられた。イーヨーもまた、山本周五郎を耽読していた。ただし、短篇ではなく長篇のほうだった。しかし、それとこれとは違うのであって……とは話さなかった。
プーさんの「食事」とイーヨーの「食事」が違っていたように、イーヨーは、この「ものを書く」という行為についても、(いや、「その在り方」といったほうがいいかもしれない)すぐにプーさんが「異文化人」であることを知った。
プーさんは、「書こうと考えていること」「いつか書くかもしれないこと」を、まず話すのである。時には、「今、書きつつあること」を繰り返し語るのである。プーさんの長篇『ぼんぼん』(理論社・一九七三年)は、雑誌「教育評論」に連載されたものだが、連載中の三年間(一九七〇〜七三年)、イーヨーはプーさんと顔を合わすたびに、そのタイトルを聞かされた。「今『ぼんぼん』をやっているから……」。「これから帰って『ぼんぼん』を書かねば……」。「今日、編集者が『ぼんぼん』の原稿を取りにくるのや……」。
『ぼんぼん』だけの話ではない。プーさんの『優しさごっこ』『兄貴』『写楽暗殺』などの長篇のほとんどは、イーヨーが読まないうちに、何だか読んでいるような、また読んでしまったような気持ちになったものである。
これを「創作作法」と呼べるかどうか知らないけれど、プーさんはそうして常に、ロケット・エンジンを噴射させて前に進むらしい。ここがイーヨーとは違うなと思う。イーヨーは「書くべきこと」「書こうとすること」を喋ってしまえば「書けなくなる」。他人さまに話せることなど、書く必要はないと考えてしまう。このあたり、時には「秘密主義」に思えてプーさんには不満らしいのだが、イーヨーにその意識はないのである。イーヨーは、じっと考える(「考え乞食」のように)。ガスをため続ける(不健全かもしれないが)。一篇の物語がなんとか脱稿し、上梓され、他人さまが何かいってくれるまで待つ。まるで、あみんのヒット曲『待つわ』みたいだが……。
ついでにもう一つ、プーさんを知って「ワッ、大物!」と思ったことを記せば、それは「締切り」に対する姿勢(?)である。イーヨーはプーさんから、これまでたびたび「誘い」の電話を受けてきた、その時、いろいろ事情があったにせよ、断りの理由の一つに「原稿の締切りが目の前にきている」ということがあった。プーさんは、イーヨーのそういう理由を聞くと、即座に、「あのな、イーヨーさんよ、締切りいうもんは破るためにあるんじゃ」と、不道徳漢をたしなめるような声をだした。これはギョッとすることであった。そういえば、プーさんは、大賀美智子が「月刊絵本」の編集者だった時代、(この時代のことはいずれ触れることになる)「原稿は?」と締切りすぎた催促の電話に、「ハイ、もう送りました」と答え、「これ電話やからええようなもんやが、テレビ電話でもできたらえらいことやで」と、首をすくめたことがある。送るも何も、その原稿はまだできておらず、「これからひとつ書かねば……」という段階だったのである。
「締切り」というものは守るためにある……と思っていたイーヨーにとって、この「はなれ技」は驚嘆だった。プーさんの発想によれば、「締切り」とは執筆開始の目安だったのかもしれない。
カルチャー・ショックというものは、えてしてショックを受けたものに変化をもたらすものだろう。イーヨーは、「プーさんに驚く」ことで、すこしは変わっただろうか。思いだした頃にポツポツと「講演」なるものに引っぱりだされることがある。昔も今も、それが苦痛であることには変わりがない。一度喋ったことは二度喋れない……と思い込んでいるからである。それに、喋るほどのことは何もない……と、いつも考えているからである。それにもかかわらず、涙をのんで「講演」を引き受けてしまった時、イーヨーは、ばかばかしいくらい「おもしろい話」をしようと努力する。スチャラカ、チャンチャンと、高座にあがる噺家のように笑顔をふりまく。何のことはない、これは三流のタレントのしぐさではないかと時には自嘲する。しかし、「喋くり」に夢中になっている時は、イーヨー自身も紅潮しているのである。この一種の「サービス性」は、じつは、プーさんの感化である。プーさんの「講演」はおもしろい。アドリブに満ちた話である。ゴシップというものを、これほど有効に使った「喋くり」はない。プーさんは、交友関係の体験を文学論の軸に使っている。スパイスをきかせるように、映画、小説の題名を話の処々方々にふりまく。一度、画家の赤羽末吉さんが、プーさんのこの「喋くり」を、軽薄きわまりない饒舌だとあきれたようにいってのけたことがある。言葉はそのとおりではなかったが、意味するところはそうだった。プーさんは、ひどく傷ついた。イーヨーもその場にいたから、はらはらした。赤羽さんのいうこともわかるが、これがプーさんなのだし……と、イーヨーまで胃を痛めたことがある。
イーヨーは、いつだって、プーさんとまったく異質の話をしようと思っていた。しているつもりであった。しかし、ひょいとふりかえってみると、あれれ、これはプーさん的「喋くり」だな……と思う場合がある。気がつかないうちにプーさんの影響がでている。でている場合がある。すべてにおいてそうなのか。イーヨーは考える。そうではないだろう。イーヨーは首をふる。十数年にわたってプーさんと付き合ってきたのに、じつは、ガンとしてプーさん的にならないものがいくつかあるのである。「締切り」ということも、その一つだろう。イーヨーは、大体において「締切り」を厳守している。引き受けた仕事は、予定された日時までに書きあげられるよう、相当早くから机に向かう。これは、律儀ということではない。「勤め人」の習性である。「勤め人」というものは、まったく「ままならぬ時間」で生活が組み立てられているのである。うっかりすると、せっかく思いついたおもしろい話を、あるいは考えを、じっくり肉付けすることもできないうちに、日常の雑用の中に追い込まれてしまう。「書く」ということは、日常生活の中に、それとは異質の時間と空間を持ち込むことなのだ。隣人・同僚と、にこにこ、チェッカーズの『涙のリクエスト』の話などをしていては、永遠にその「時空」に滑り込めない。どこかで電磁バリアーを張るように、目に見えない「反日常柵」を張りめぐらす必要がある。「勤め人」の場合、両手をひろげて仕事机のまわりを囲うということは、一ヶ月の生活帯の中で、相当大幅な時間を、一つの予定した仕事のために「あけておく」ということになる。そこには、別の仕事を断固として持ち込まないということである。これは、もともとかたくなな、イーヨーだからできることなのか、それとも、多くの「もの書き」がしていることなのか。
先日(話はとぶが、一九八四年、春のことである)新宿で田島征三に会った時、その話をしたら、田島征三も、驚きあきれた顔をした。そのあとで、ほんのすこし感に耐えぬ口調で、「こりゃぼくも、ちょっと反省せんといかんかな」といった。イーヨーは、田島征三と、現在、雑誌連載中の長篇を、来春一冊にまとめるにあたっての打ち合わせをしたのである。たぶん、来春三月号くらいまで続くはずの物語原稿を、すでにイーヨーが脱稿してしまっていることについて、田島征三はあきれたのである。こういうことは、たぶんプーさんとは異質の在り方だろう。イーヨーは、そうしたからといって、すこしも誇らしく思っていないのである。仕事に追いまわされてキリキリ胃袋を疼かせることだけは、どうやらまぬがれたらしいぞと、ほっとしているだけなのである。そうしなければ、イーヨーの暮しは、がたがたになるのである。
イーヨーは、仕事をしていない時が、いちばん好きである(だれだってそうだが)。それは完全に仕事から解放されているということではなくて、仕事があるけれど、じぶんのペースでそのうち関わるだろう……という「間合」のある状態を指している。手帖にびっしり予定がつまっていては、そうはならない。一つの仕事とつぎの仕事のあいだに「空白」が欲しいのである。スーパーへ買物にいったり、夕飯のお菜をつくったり、テレビにうつつを抜かしたり、読みたい本をすこし読んだりしたいのである。きわめて、「小市民的ぜいたく」である。プーさんは、たぶん、そうではないだろう。仕事また仕事に埋って、それをいかにこなすか…思案する時、酒もうまいし闘志も湧きあがるのに違いない。
それにしても、イーヨーとプーさんのこの「違い」も、ひょっとしたら「プー的カルチャー・ショック」の余波ではなかろうか……と考えないでもない。
昨夜(話はぐんと飛んで、一九八四年五月二十六日、土曜のことになるが)、半月ぶりにプーさんと会った。場所は百万遍の「梁山泊」である。
「のくは今、あんたのことを書いているとこや。プーさんからどんな影響を受けたか、悪口を書いているとこなんや」とイーヨー。
「それはないやろ。反対にわしのほうが、イーヨーの影響を受けとるで」と、プーさん。
ほんまかいな……と、イーヨーは思った。もしそうなら、カルチャー・ショックいうもんは、「異文化」を持ち込まれたほうだけではなく、持ち込んだほうもタダではすまんのや……ということになる。
そうかもしれないな、と思う。プーさんは京都に引っ越ししてきた頃、イーヨーの陰々滅々さ加減にショックを受けたのかもしれない。イーヨーの「かたくなさ」に「異文化」を感じたのかもしれない。ありうることである。
「わびすけ」で書き続けた物語は、プーさんが聖母女子短大の講師として出講し始めた頃、ようやく脱稿した。書留速達で、それは、バビロンの首長こと小宮山量平さんに送られたのである。
注 「梁山泊」で会ったのは偶然だった。そこに、プーさんの娘と「お栄さん」がいた。プーさんの娘は、ひざの故障で、松葉杖をついていた。「女優の卵」である彼女に、どういうハゲマシの言葉をかければよいのか……イーヨーは考えた。何もいわずに、ウイスキーの水割りを飲んで、プーさんとばかり喋った。ちなみに、「お栄さん」とは成澤栄里子嬢のことである。プーさんの長篇『写楽暗殺』に、「お栄さん」という少女がでてくる。主人公の少年が心を疼かせる対象である。イーヨーは、読者としての「誤解する権利」をフルに発揮して、少年をプーさんに、少女を成澤さんに「読み替えて」いる。だから、彼女を「お栄さん」と呼んでいる。
テキスロファイル化日比野愛