9.起点としての「結論」

『われらの時代のピーター・パン』(上野瞭 晶文社 1978/12/20)

           
         
         
         
         
         
         
    
「変身」の発想を生みだすような時代状況が、「献身」の発想をクローズアップする。そのことは、すでに指摘したとおりである。それに加えて、「献身の系譜」とでも呼ぶべきものが、日本の児童文学の一つの流れとしてあった。それが、良きにつけ悪しきにつけ、この七〇年代のシンボルと結びついていた。さらにいえば、そうした流れに対応する「もう一つの流れ」・・・かりに「楽しさの系譜」とでもいうべき作品群が、それにふさわしい評価や系統的検討をなされていないことを理由としてあげた。これら三つの要因が、(もちろん、斎藤隆介の作品それ自体の価値を落とすわけにいかないが、それをひとまず、横に置いての話である)「献身」の発想をクローズアップしてきた。これは、いいかえると、日本の児童文学の世界に、そうした「思潮」があった、ということである。
 しかし、この指摘は、斎藤隆介の作品を否定することではない。また、七〇年代のこれからも、「献身」の発想がシンボルとしてありつづけるだろうという予測でもない。現在只今の時点で、そうした現象があるということ、そこに、今後の児童文学を考えるための、一つの足がかりがある、ということである。
 ただ、しかし、斎藤隆介に集約される「献身」の発想について、はっきりしていることが一つある。自己犠牲の必要な時代は不幸であり、それを「崇高性」や「美しさ」として形を与え、子どもの指標にしなければならない時代は、悲劇的でさえある、ということである。これから生きようとする子どもが、まず人生の入り口で「崇高な死」や「献身美」に出会うということは、人間として拍手できることだろうか。人間には、たしかに、そうした決断の時もあるだろう。また、受苦・殉教の必要となる場合もあるかもしれない。しかし、そうした個人の転換点を、「生」を指標としてとらえるか、あるいは、「死」という指標でとらえるかは、一つの大きい問題である。『八郎』や『三コ』や『ひさの星』は、それを「死」の形でとらえた。自己犠牲の美しさという形でとらえた。このとらえ方と、はっきり対置できるのは、鶴見俊輔の『ひとが生まれる』(昭和四七年)である。

 人間はいつ自分になるのか。
 人間は、生まれた時に、いきをする。手足を動かす。その時に木の枝などにぶら下がらせれば、けっこうぶら下がれるそうだ。手をひいて歩かせれば歩けるそうだ。
 そういうことは、生まれてからすぐにまた忘れてしまうけれども、それにしても、私たちが自然に知っていること、なんとなく覚えてしまっていることは、じつにたくさんあるものだ。
 そんなふうにして、なんとなく私たちはことばを覚え、人間としてのいろいろのしぐさを覚えてしまう。それでけっこう暮せる。
 ところがそのうちに、なにか変なことが起こる。いままで自然に覚えたことでは、どうにもそこをこえられない。
 今まで自分にそなわった力では、それとかくとうしても、組みふせることができない。そういう恐ろしさの中から、あたらしい自分が生まれる。
 これは、「五人の日本人の肖像」(副題)につけられた「まえがき」である。そこには、つぎのようなことばもある。

 自分が、どういう時代のどういう世の中に生きているのかというふうに、自分を社会の中の一人としてとらえることが、いつある人にとって起きるかには、いろいろの場合がある。だが、人間が、隣の人と違うからだとこころをもって個人として生きているからには、社会の中の一人として自分をとらえる時が、いつかは、やってくる。

 ここには、人間の決断の時を、「生」を指標したとらえ方がある。「金子ふみ子」や「林尹夫」のように、悲劇的な死を迎えたものについても、死の賛美ではなく、「生きていることのあかし」という形でとらえていく発想がある。子どものための伝記にとってたいせつなのは、人間のあり方を固定してみせることではなく、どういう形でじぶんの人生と出会うか、ということである。そのきっかけを与えるものとして、ここに一冊の本が存在する。『ひとが生まれる』がある。もともと、子どもの本、あるいは、児童文学と呼ばれるものは、子どもがじぶんと出会うための、その手がかりだろう。それは、人生をストレートに語る本だけではなく、空想の楽しさに形を与える本の場合にも通用する考え方である。この出会いが、「死」の形で示されるということは、これほど不幸なことはない。いかにそれが崇高で美しくあっても、一切を人生の結末からとらえる発想である限り、子どもを限定する。子どもに一定の枠を与えてしまう。その価値観をこえる可能性の道を閉ざすものとなる。子どもは、まず生きる楽しみを知り、その自己肯定に立って、人生と出会うべきではないのか。これは、悲惨な貧困や、人間の死について語るべきではない・・・というのではない。そうしたものを描く場合も、「死」を指標にするのではなく、「生」を指標にするべきだろう、といっているのである。
 七〇年代のはじめは、こうした方向とは反対に、「献身美」が指標の形になった。そのことの、よって生まれる原因を考えてきた。しかし、あえて付け足せば、ここに、もう一つ、「注釈」の形で記さねばならないことがある。それは、つぎのようなことである。
 古田足日は、こうした方向を、児童文学の本流とはなりえないだろう、といった。そのことは、すでに記したとおりである。だが、ここに、単なる方向否定ではすまない問題が一つある。「献身」の発想を否定するその意識の中に、じつは、そうした発想を生みだしているのは、わたしたち自身ではないかという疑問が伏在することである。これは、単に、「献身」に対して「反献身」の発想という形で、そうした系譜を引きついでいる、ということだけではない。そうした関わりあいもあるが、もっと根底において、児童文学の書き手全体に内在する一種の不安感である。たとえば、古田足日は、それをつぎのように語る。

 体制を掘りくずす---いや、それよりも日本の子どもと自分に忠実なしごとをやっていると思いこみながら、なおかつ、そのしごとがじつは体制擁護のしごとに転化させられているのではないか、という恐怖感がぼくにはある。
 今日の体制の構造は巨大であり、また柔軟であり、多少の抵抗(?)は音もなく吸収してしまうのである。その中で、目的ありげに泳いでいた自分が、いつのまにか目的を失い、失ってもそれに気がつかず、いまもまだ、目的があるかのように泳いでいるのではないか---これが、ぼく自身に対するぼくの疑問である。


 これは、古田足日一人の疑問ではないだろう。こうした自己検証をやったのは、古田一人だとしても、七〇年代の今日を生きる児童文学の書き手は、すべてこの疑問と有縁である。七二年現在、一人の児童文学者の盗作問題が起こったが、それは、その書き手が、こうした恐怖感と無縁の位置にじぶんを置いていたからだろう。多少とも、じぶんの仕事が「資本の論理」の枠内で営まれていることを自覚しているなら、こうした疑問を抱くはずである。
 すでに、野坂昭如から井上ひさしの『手鎖心中』にかけて、矮小化された人間像ということを記しておいたが、それは、文学作品内の問題だけではなく、現実の人間のあり方の問題だということである。「変身」するのではなく、「変身」させられている(のかもしれない)という書き手の問題がある。こうした危機意識が、状況変革のドラマや人間像を生みだす。生みださねば・・・・という意識をかりたてる。つまり、この意識が、直接に、間接に、『ベロ出しチョンマ』のような自己犠牲像形象の母体になるということである。この点を「抜き」にしての、「献身」の発想の方向拒否は、片手落ちになるだろう。「献身」の発想への志向性は、わたしたち自身の中にあるのである。わたしたちの内なる「変身」への恐怖感が、そうした恐怖を与える状況の変革を望む。「小市民化」した人間像ではなく、その矮小性をこえる人間像を望むのである。
 繰りかえしていえば、こうした危機意識の問題は、超克できない現実、という認識からきている。「資本の論理」を否定する志が、「資本の論理」に擁護されて、はじめて形を与えられえるという矛盾である。今日、「献身」も「状況変革の意思表現」も、すべて「売りもの」に変えられる。利潤追求のための商品化する。商品化しなければ、書き手の意図は伝達されない。七〇年代は、日本の児童文学にとって、「量の時代」のはじまりといえるが、それは、書き手の「誠実さ」さえも「売りもの」になっていくそんな時代の到来でさえある。この状況をどう生きるか。児童文学はどう表現するか、というところにきている。
 どう表現するか、という場合、ふつう、わたしたちの置かれた立場や状況を、批判的に照明しようという発想が浮かびやすい。わたしたち、というのは、書き手を含んだおとな、それに、読み手である子どもを指す。子どもは、今、いかに不合理な状況に置かれているかを語ろうとする、といってもいい。そうした取り組み方が想定される。状況が厳しければ厳しいほど、こうした発想は中心にすえられやすい。いわゆる「現実的主題」と癒着した形の児童文学が生まれやすい。しかし、この方向は、すでに記したように、「人生いかに生きるべきか」という、書き手側の「理念」の形象化に進みやすい。「献身」「反献身」にかかわらず「延長線上の」発想・・・と規定した「考える」(あるいは「考えさせる」)児童文学の方向をクローズアップさせる。(あるいは、させやすい)。こうした児童文学が、子どもを一人の人間として、また、おとなの「同時代人」としてとらまえようとしているその意図はよくわかる。しかし、この発想へのよりかかりだけでは、結局、現実の暗さと重さとを照明し、それに負けまいとする子どもの苦闘提示に行きつくのではないか。これもまた、必要な児童文学の方向だとしても、同時に、児童文学は、もう一つの方向を明確に示す必要がある。それは、人生の入り口の文学として、まず子どもに、人間としての可能性と、本来自由であるべき姿を伝えることである。時代閉塞の状況の中にあって、それをこえる一つの視点は、その状況をみかえす形の「もう一つの世界」をつくりだす仕事である。一切の現実の規制をのりこえた世界とは、その重圧を切りすてた世界ではない。かりにそれを、「楽しさ」に形を与えた世界と名づけたが、こうした世界創造の基層には常に現実がある。規制され、「資本の論理」に操作され、その重みを受けとめている人間がいる。この現実の中で、ともすれば、みうしないがちな人間のあるべき姿を、(あるいは、さまざまな可能性のあり方を)「もう一つの世界」として示すことは、それほど「優雅な」仕事だろうか。たしかに、この方向には、現実逃避の危険な落とし穴がある。そうだとしても、そうした落とし穴にはまる児童文学作品は、すぐに見わけがつくだろう。それは、「献身」を賛美することと同様、非現実の世界を賛美するはずだからである。
 「楽しさ」に形を与えるとは、「楽しさ」を至上価値として固定し、賛美することではない。人間の、(あるいは、子どもの)思い描くだろう自由な人間のあり方に形を与え、生きることのよろこびを伝えることである。「楽しさ」とは、もともと、人間が人間でありつづけるための一つの指標ではないのか。もし、「楽しさ」の完全に欠落した人生というものがあれば、それは人生と呼ぶことはできない。「楽しさ」ということばの内側には、人間がじぶんの可能性をたしかめる働き、じぶんが自由であろうとする志向性が息づいているはずである。この世界に、ことばで形を与えることは、小さな仕事ではない。本来、人間の「誠実さ」さえも吸収し、商品化する世界にあって、それとは異質の世界をつくりだす仕事だからである。一定の価値観の支配する世界に対して、その価値観を否定する世界をつきつけることだからである。状況変革というものを、急激な現状況の否定という形でとらえれば、そこに絶望の歌が生まれかねないが、それを巨視的にみた時、この「もう一つの世界」づくりは、別の歌となるのではないだろうか。もちろん、この発想が、もう一つのオプティミズムに転落することもあるかもしれない。もし、そうした転落をとげるとすれば、それは、古田足日がし指摘した「おのれの内なるおそれ」を喪失し、まさにじぶんの仕事が、「資本の論理」の枠内で営まれている矛盾を忘れ去った時である。
 いちばんはじめにもどろう。
 わたしは、この小論の一つの前提として、『おおきなおおきなおいも』の話と、『冒険者たち』の話を持ちだした。それは「文学史の構想」のための一つの前提だと記した。しかし、ここまで考えを推しすすめてきて、改めてはじめにもどると、それが一つの結論でもあることがわかるだろう。もちろん、この場合、結論とは、明確な解答というわけではない。一つの方向示唆であり、今後の問題展開の足がかりの提示ということになる。そうしたものとして、『おおきなおおきなおいも』と『冒険者たち』を語った。だから、「資本の論理」の枠内で・・・云々の個所から、ほんとうは、もう一度、冒頭にもどってほしいわけである。この小論は、一種の円環形式になっている。ただ、メビウスの輪でないことは理解していただけると思う。
 さて、きわめて補足的発言になるが、「思潮」を語る・・・という視点のため、多くの児童文学作品に触れずにすませてきたことである。そこで、最後に、本来ならばこうした検討のための作品名・署名をあげなければならないことになる。しかし、常に繰りかえすことだが、リストアップの思想(そんなことばがあったとしてのことだが、)には、価値判定という「選別」の危険性がある。「選別」ということばで、わたしの思いだすのは、アウシュビッツである。強制収容所の入り口で、ナチスの兵士は、「役に立つ」人間と、「役に立たない」人間は、ガス部屋に送りこんだ。児童図書のリストアップを、その「選別」とおなじだとはいわない。しかし、「役に立つ」(あるいは「ためになる」)という発想は、(つまり「選別」の発想は)それに含まれないものをすべて「無価値」なものだと思わせやすい。人間が人間をよりわけ、人間が人間の営みに価値判定をくだすことになりやすい。そのことほど、おそろしいものはない。そのおそろしさに気づきながら、わたしもまた、作品評価をやっている。だからせめて、子どもの本をあげる場合には、「わたしにとって」興味のあったもの、ここで、「一つの例として」触れたもの、という狭い枠づけをしておきたい。人はかならずしも、おなじ興味を持たないという前提である。これは、本論を離れた「いわでもがな」の「注」である。

テキストファイル化小久保美香