「逃亡」の発想−ビアトリクス・ポター

『われらの時代のピーター・パン』(上野瞭 晶文社 1978/12/20)

           
         
         
         
         
         
         
    


『第三の男』や『ハバナの男』で知られているこの作家は、一九三三年、「ビアトリクス・ポター」という一文を発表した。『ひげのサムエル』(一九〇八年)の引用にはじまり、ポターの初期の作品から、『子ブタのロビンソン』(一九三〇年)までの移り行きを、表現や内容に即して論じたものだった。グレアム・グリーンはその中で、作品傾向から推測して、ポターの生活に一九〇七年から一九〇九年のあいだに、何かきびしい試練があったに違いない。それは『狐のトッド氏』(一九一二年)にもよくあらわれているといった。また、『子ブタのロビンソン』はポターの空想力の放棄であるともいった。
「このエッセイを発表した結果、わたしはポターから幾分辛らつな一通の手紙を受け取った。(それは、私の記した)細部の訂正をしていた。『子ブタのロビンソン』はあとになって出版されたものだが、書いたのは一番はじめだった。ポターはまた、『トッド氏』を書いた時、なんら感情的な悩みごとはなかったと否定した。インフルエンザのあとで弱っていただけだったと。最後に、ポターは、『フロイド派』の批評をきびしく批難した」。
 これは、そのエッセイの末部に付けられたノートの意訳である()。
 一九三三年といえば、昭和八年。京大滝川事件の年である。宮沢賢治と巖谷小波の死去した年であり、わたしは五歳。右の手紙を書いたポターは六七歳である。ちなみにいえば、ポターは、それから一〇年後、一九四三年、七七歳で太平洋戦争の最中になくなっている。わたしは、グレアム・グリーンのエッセイに、それが書かれた時点から四〇年以上経って出会ったわけだが、その時かすかな感動をさえ覚えた。それは、白いカバーの小型本にすぎなかったものが、ひとりの人間の生きてきたしるしであることを気付かせた。
 ポターには、こんなふうな賛辞があった。「美の世界」を「独特の小型絵本として結晶させた」、いうならば「ミニチュア絵本の宝石」である・・・・・・・と。これは翻訳本のカバーの折りかえしの言葉だが、こうした賛辞と、グレアム・グリーンの一文とのあいだには、隙間がある。ポターの絵本は知っているが、わたしがポターを知らないこと。そうした賛辞は賛辞として、ポターがなぜそうした小さな判型の絵本をつくったのか。そこに描かれているのは、いったい何なのか。これが、わたしにとっての「隙間」である。
 わたしを、ポターへの関心を駆りたてたものが、もうひとつある。レスリー・リンダーが解読発表したポターの日記である。レスリー・リンダーが、この日記の存在を知ったのは、一九五二年。ポターの死後九年経ってである。アルファベットに似て、しかもそうでない奇妙な記号で記された「暗号書き」の日記を、彼女は六年かかって解読している。六年目にキー・ワードを発見し、完全に復刻出版されたのは一九六六年である。ポターは、一五歳から三〇歳をこえるまで、誰にも理解できないひとつの世界を紙の中につくりあげていたことになる()。
 じぶんだけの文字をつくり、じぶんだけにしか読めない記録を書き続けていた女性。それは、「暗号」そのものと共にわたしの興味をひいた。じぶんだけの「宝島」を、彼女もまた目ざしていたのではないのではないのか。わたしはこれを知った時、彼女の小型絵本についてのキー・ワードを発見したような気持ちになった。
 この日記の一八八二年の冒頭部に、一枚の風景画が挿入されている。「一一月のある日」と題されたポターの水彩画である。木の葉のすっかり落ちた立木のむこうに幽霊屋敷を連想させるような建物が描かれている。空は灰色に曇り、霧はあたり一面を包みこみ、たそがれどきのように暗い。これが、ロンドンのボルトン・ガーデン二番地、彼女の生まれた家である()。
 一八六六年七月六日、彼女は生まれている。慶応二年、徳川慶喜が最後の将軍職についた年である。父は、ラバート・ポター。綿商売で財をなしたといわれる。彼は腕の立つ写真家でもあり、ヘレン・ビアトリクスをはじめ家族写真、人物写真を多く残している。一八八九年に撮されたボルトン・ガーデンの自宅の写真は、現在のその付近の建物とそれほど変っていないように思える。母はヘレン・リーチ。弟はウォーター・バートラム。レスリー・リンダーの編した『ポターの日記』には、父ラバートの手になる家族写真が二葉掲載してある。一枚は、レイ・キャッスルの遠景だが、もう一枚の方は、セルフ・タイマーを使用したのか、ラバート本人も写っている。もじゃもじゃとあごから頬にのばしたひげ。それとは対照的に整え撫でつけられた頭髪。面長の顔立の中で、閉じられた口と眉をよせるように見える目が、一種のきびしさを感じさせる。母親のヘレンの方も、斜め横をむいているが、しっかり者らしい目をしている。ポターは大柄のふっくらした顔立だが、まだ目もとも口もとも子供っぽさを残している。一八八一年の写真だから、彼女は一五歳だろう。
 エリザベス・ネズビットは書いている()。彼女は、少女時代、思春期、娘時代を通して、因襲や所属階級の囚人だった。両親とも同世代の人間とも親しく関わることがなかった。その結果、孤独な人間となり、じぶん自身の中に引きこもっていった。ポターにとって唯ひとつの解放は、夏のあいだ、家族とスコットランドやレイク・ディストリクトにでかけることだった・・・・・・。
 ポターが、じぶんの部屋に多くのペットを持ちこんだ話はよく引かれている。カタツムリの家族、ネズミの雄雌、ウサギ、コウモリ、「ティギィ」と呼ぶハリネズミなど。一九歳の時、ポター自身の写生した勉強部屋の片隅にも、鳥の姿と共に、床をはうカメの姿が描かれている。田園の生活が、彼女にとって唯一の「開かれた世界」とするなら、ペットたちは、そうした世界の唯一のしるしということだったのか。

「わたしは、一七歳。一七歳は『楽しき一七歳』と呼ばれると聞いている。。一七歳であるということは、一七歳だったということは、一七歳になるということは、そんなものではない」(一八八三年七月二七日・日曜)

「今、わたしは一八歳。時間はどんどん過ぎていく。わたしはとっくに一八歳だったように感じている。おばあさまはどんなふうに感じられているのだろう。わたしが子どもだった時、人生は何とすばらしいものに思えたことか。時どき、一八歳になる時のことを考えたものだ。それはとても奇妙なことだ・・・・・・」(一八八四年七月二八日)

「大晦日。あるいは一八八五年の最後の数時間といってもいい。一年の終りに、二度ともどることなく消え去っていくもののことを考えると、とてもおそろしい気持がしてくる。残るものは思い出だけ。数えきれないほどの悲しみと、ほんのわずかな幸せな夏の日々。人生。うんざりするような、がっかりするような、それでいて、いろいろな意味で楽しいもの。なぜ、人は、一年が過ぎ去っていくことをそれほど悲しむのだろう。過ぎ去る年が、よろこびに満ちあふれているからではない。つぎつぎとやってくる別の年月を、わたしがおそれているからだろう・・・・・わたしは、未来ということについて、ぞっとする思いを抱いている。不安に思っていることのあるものは、かならずそうなるだろう。そして、過ぎ去った年は平和だったのに、これからやってくる年は何もわからないのだ。これからやってくる年は、がまんできないような辛い果実の種子を、その中にばらまいていることだろう」(一八八五年一二月三一日)

「わたしは二八歳だった、二九歳ではなかった、ということを、きのう、ふいに思いだした。そのもうけものの一年を、地質学やシェイクスピアがうめてくれるだろう」(一八九四年七月二九日)

「わたしは、今、三〇歳。ハットン家の娘たちからお祝いの手紙を受け取って、いらいらしてしまった。その理由のひとつは、わたしが、彼女たちのことを覚えられないからだ。彼女たちは、一九歳で死んだキャサリーン・ハットンのことを書いてきた。わたしは、彼女と、可愛いアイルランドの少年カリイに始めて出会った時のことをよく覚えている。ふたりは、プットニイ公園の花壇ですばらしいバラの花を集めていた。
 わたしは、じぶんが20歳だった時よりも、三〇歳の現在の方が、より若々しいように感じている。身心ともに強健である」(一八九六年七月二八日)

 これは、一八八一年から一八九七年にかけての膨大な日記の中からの抜粋である。とりわけ、ポターが、じぶんの年齢を意識した個所を意訳したものである。こうした「自省」の言葉は、先のエリザベス・ネズビットのいう「囚われ人」という考え方には、多少首をかしげている。レスリー・リンダーの解読した『暗号書き日記』には、右に抜粋意訳した言葉と比較にならないほどたくさんの、人間や化石や旅や家族の話が記載されているからである。エリザベス・ネズビットの断定は、ポターをまるで「自閉症」の子どものように規定している。しかし、ポターは、じぶんの世界を、独自の暗号で紙の中につくりだしたとしても、だからといって、社会や人間に対して決して幕をおろしたわけではない。そのことは、たとえば、一八八六年の日記の一部を見ればわかる。一八八五年(明治一八年)の冬から一八八六年にかけて、イギリスでは景気が悪化した。そこで、社会民主同盟の指導者たちが、失業者の集会とデモを組織した。一八八六年(明治一九年)二月八日、トラファルガー広場で決起集会が開かれた。これが大混乱を引きおこした。「暴徒」と化した人びとが、トラファルガー広場からハイド・パークにかけての商店を襲い、私有物を壊している。この暴動は、オクスフォード・ストリートまで及んでいる。そののち、四人が起訴され、無罪となっている。同様の騒乱はマンチェスターやその他の地区にも及んだといわれる。ポターはその時、二十歳。つぎのように記している。

「二月九日、火曜。 ・・・・・・八日、月曜、暴動。こんな日のくることは予想したことだった。それはおそろしいし、ひどく心配なことだ。現在のような政治家がいる限り、それはどこまでいくかわからない。わたしたちは、やっと、それに巻きこまれずにすんだ。百貨店へいくため、三時に、ヘイマーケットまで母といった。父とそこで落ちあった。トラファルガー広場で大集会があったと、父はいった。騒ぎになりそうだともいった。でも、わたしたちは、結構楽しく過ごした。
 歩いているうちに、ピカデリーの方にむかう、かなりたくさんのがっしりした人びと、それに労働者に気がついた。相当数の人が、セント・ジェームス通りの方へ横切っていった。その人たちは、ばか騒ぎをうまく避けたのだと思っている。わたしたちは、長い時間、百貨店にいた。そして、四時十五分前頃、家にもどることにした。そのあいだも、わずかな人だが、こちらへやってきていた。でも、大部分のまじめな労働者は、騒ぐことなく、西の方へ、家の方へもどりはじめていた。半数の人が煙草をふかしている。続いて起ったことを、わたしたちが知ったのは、今朝の『タイムズ』によってだった。
 この不幸な国の政府は、この異常事態の中で、きのう、ハインドマン氏やバーンズ氏が、トラファルガー広場の約二万九千人の群衆に告げたように、率直に意見をのべるという考え方を許す必要がある。そうした行動は新聞紙上で大きく論議されている。だから、わたしとしては、見たことだけを記しておく。(以下略)』(一八八六年)


 この抜粋は、ポターが「じぶん自身の中に、ただ閉じこもっていた」のではない・・・・・・・ということのために引用している。ポターはいわゆる同時代人のように振舞うことはなかったとしても、彼女なりに同時代人の動きを見ていた。たぶん、彼女の日記は、彼女がいわゆる「自閉症的前半生」を送ったのではないことを告げてくれるだろう。同書に挿入された彼女の精巧な多数の絵は、リンネ協会で「西洋マツタケの種子の発芽」の研究発表と共に、彼女なりの人生のふくらみを伝えてくれるはずである。
 ポターの最初のイラストの仕事は、一八九三年(明治二六年)のことだといわれている。F・E・ウィザリーの詩の本『しあわせなものたち』()に小動物の絵を描くことだった。27歳である。この年、はじめの章で触れたように、ノエル・ムアー少年のために『ピーター・ラビット』の話を書き送っている。八年後(明治三五年)、それをもってポターが、絵本作家としての第一歩を踏みだしたことは衆知の事実である。(この点、一九〇四年に・・・・・といったグレアム・グリーンは誤っている)三六歳から四七歳まで、ポターはつぎつぎ小型絵本をだしていく。四七歳以降、第一次世界大戦をはさんで創作活動は下降する。一九一八年(ポター、五二歳)を最良の時代の終り・・・・・といったのは、ブライアン・ドイルである。それ以降に出版されたものは、彼女の従来の絵本と違っていると指摘する。晩年、彼女の農場を訪れた絵本のファンはがっかりした。彼女は、すでに、一時代を画したじぶんの絵本のことよりも、ハードウイック羊と呼ばれる家畜の交配純血化のことしか念頭になかった。そうも書いている(10)。
『日記』の最後には、晩年の彼女の肖像画が挿入されている。ヘレン・ビアトリクス・ポターではなく、ヒーリス夫人であるポターの姿である。ほほ笑みを浮べて農場に立つそれは、おだやかで明るい。ちなみにいえば、彼女は、一九一三年、四七歳で結婚した。ひとりの人間の確かに存在したことが、その肖像画の中にある。また、一五歳のポターが自宅の前で犬を抱いている横むきの写真。そこから、ヒル・トップの農場で愛犬の首に手を置く白髪の婦人の写真。そのあいだに、表現不可能な想念に満ちた長い時間があったに違いない。しかし、ここでは、そうした人間の重みよりも、その中から生みだされた絵本に触れるしかない。ポターは何を描いたのか。なぜ、それは小型本なのか・・・・と、はじめに記した。それについて、わたしなりの考えを記そうとすれば、彼女の描いた動物たちが問題になる。                   

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