元祖天才バカボンの鉢巻き――赤塚不二夫

『われらの時代のピーター・パン』(上野瞭 晶文社 1978/12/20)

           
         
         
         
         
         
         
    


 水しぶきをあげて海へ跳びこむように物語の中に跳びこむ。飛躍するなら大胆に飛躍すべきである。そういったのは人間がネズミの子どもを生む物語『スチュアート・リトル』を書いたE・B・ホワイトだが、赤塚不二夫を見ていると、彼もまた、水しぶきをあげないまでも砂けむりくらいは撒きたてて、ごみの山に跳びこむように漫画の中に跳びこんでいった気がしてくる。砂けむりくらい云々というのは彼の生みだした『天才バカボンのおやじ』が、常に鉢巻きをしめて画面の中を走りまわっているからそう思うのかもしれない。考えてみると、天才バカボンのおやじは、文字どおり四六時中むこう鉢巻をしめている。走っている。
 いったい、むこう鉢巻とは、(いや、ねじり鉢巻だってそうかもしれないが)この天才バカボンのおやじの場合、何を意味するのだろうか。割腹昇天した鉢巻姿の作家を持ちだすまでもなく、講談でおなじみの一心太助や荒木又右衛門、これもまた鉢巻をしめている。これらのヒーローたちは、修羅場を前にして決意の表明として鉢巻をしめているのだろうが、同様に、祭礼の御輿をかつぐ若い衆もまた、たぶんに御神体護持の決意の表明としてそれをしめているのだろう。鉢巻は、その目的は何であれ、一種の決意のシンボルである。とすれば、天才バカボンのおやじは、鉢巻をしめることによって何を決意しているのだろう。修羅場か、「家庭」の護持か。ジョージ・シーガル扮する安全基準監督局の検査官が、ある日突然、遊園地爆破男にむかいあうという映画があったが、決意しようにも天才バカボンのおやじの日常は、そうしたパニック映画とは無縁のところで成りたっているのである。何を決意することがある。
 こういえば、天才バカボンのおやじにも、常に危険が伏在しているという指摘があるかもしれない。それは「本官さん」の存在である。本官さんは常にピストルを抜き放ち、めったやたらとぶっ放し、ことあるごとに「逮捕ダ」と叫ぶ交番のおまわりさんである。なるほど、これはテレビ番組だが、毎週月曜夜七時、『元祖天才バカボン』にチャンネルをあわすと、本官さんはおおむねピストルを乱射している。本官さんが、四方八方ピストルを乱射しない三〇分など、クリープ抜きのコーヒーのように味けない。本官さんは、ピストルの乱射に、生き甲斐さえ感じているように見える。とすると、日常の中の暴力、走る射つ逮捕ダを連呼するこの激情暴発型のおまわりさんに、バカボンのおやじは対決しようとしているのか。その危機を常に身近に感じるため、それへの対決の意志を示すため鉢巻をしめているのか。もし、そうした図式が成りたつなら、これはもう権力と人民の力関係ではないか。とりもなおさず、本官さんは国家権力の象徴ということになり、天才バカボンのおやじは、それに対峙する庶民の代表ということになる。しかし、これほど本官さんやバカボンのおやじの世界から遠ざかる解釈はないだろう。
 もちろん、そうはいっても、本官さんの言動に、現実のおまわりさんの潜在化した権威主義がまったく投影していないとはいえない。そうした諷刺性が、一つまみの薬味のようにふりまかれていることも確かだろう。だが本官さんは、庶民が対決するにはあまりにも矮小化された権力であり、矮小化されることによってそれは権力本来の拘束性さえ喪失しているのである。本官さんは実に気分的である。泥棒を逮捕することよりも、ウナギ犬の捕獲に夢中になる。おまわりさん本来の指名や目的意識を即座に忘れ、人情や隣人意識に身を投じる。とりわけ本官さんをその所属する国家権力から切りはなすのは、本官さんの激情暴発的言動である。ほんとうの権力は、本官さんのように人目のつくところで、めためたに発砲はしない。たとえ発砲したとしても、その事実を隠蔽するものである。どうして「民主的」治安機構が民衆にむかって発砲するだろう。そうした無差別な暴力行使は、暴力団のよくするところだと説明するだろう。そこへいくと本官さんはどうか。本官さんはそうした権力機構のタテマエを裏切って、派手に発砲する。乱射しすぎるのである。これは、本官さんが、権力のもっとも秘匿したがる恥部を、身をもって顕在化し、結果として権力機構そのものに対峙していることにはならないのか。いや、そもそも本官さんのピストルの乱射は、流行のそうした「反体制的発想」を含めての隠蔽な力関係の発想を、天才バカボンのおやじの周辺から射ちはらうことにあったのかもしれないのだ。本官さんやバカボンのおやじのいくところ、ひとつとして国家意識のかげりはない。すくなくとも日常的発想の鎖は射ちはらわれている。これは漫画だから当然の話だといわれるかもしれない。しかし『ドカベン』的漫画が相も変わらず横行し、「甲子園の栄光」だの、涙の力投だの、現実世界の鎖を引きずっているのを見る時、本官さんのピストルの威力はなかなかのものであることに気づかないわけにはいかないのだ。組織か個か、目的か手段か、野球漫画の世界はいまだに現実世界を模倣し、クリクリクリンのオデカケデスカーのレレレのおじさんみたいな人物を片隅に追いやっているのである。
 鉢巻の話からピストルの話にそれてしまったが、問題は天才バカボンのおやじの決意のことである。それが本官さんのように外在的条件にむけられているのではないとすれば、何にむけられているというのだろう。当然そこに、天才バカボンの「家庭」ということが浮びあがってくる。なんと、スープなのです……というコマーシャルがあったが、天才バカボンのおやじは、なんと所帯持ちなのである。彼には妻と二人の子どもがいる。しかも、この奥さんは、古谷三敏の『ダメおやじ』にでてくる鬼ババアのような存在からほど遠く、きわめて貞淑な女性である。本官さんをはじめ、天才バカボンの周辺に出没する人物は、バカ田大学の卒業生を含めてみんな極端にデフォルメされた顔立ちをしているのに、この奥さんだけは、(いや、子どものハジメ君もそうだが……)平凡といえば平凡、家庭漫画的といえばそのとおり、ごく普通に描かれているのである。一方、バカボンのおやじの方は、鉢巻きだけではなく、腹巻き・ももひき・草履ばきといった御存知非今日的服装をしている。この二人は恋愛結婚なのか、見合い結婚なのか。いずれにしても似合いのカップルとはいいがたい。しかし、下世話な詮索は横に置いて、天才バカボンのおやじの「家庭」持ちという点にもどると、そこにどうしても、もうひとりのおやじが浮んでくる。それは富永一朗の漫画『ポンコツおやじ』である。ポンコツおやじは、コッペばあさんの経営するぼろアパートの下宿人だった。常にコッペばあさんと行動を共にし、助け助けられる親密な関係を持っていたが、ついに「家庭」を築くことはなかった。アパート住まいの独身者で通した。かりに、この活力あふれるポンコツおやじを、六〇年代のおやじ像とすれば、おなじく活力あふれるバカボンのおやじの、七〇年代型おやじ像の何と家庭的なことか。彼はうらぶれたアパートとは無縁の、れっきとした一戸建ちの家持ちなのだ。敗戦直後、南部正太郎に『やねうら3ちゃん』という新聞連載漫画があったが、その暮らしむきとは隔世の感がする。好むと好まざるにかかわらず、加藤芳郎の『おんぼろ人生』的時代は終り、天才バカボンのおやじもまた、「家庭」なしでは存在できなくなったのか。天才バカボンのおやじは、この時代状況の変化、とりわけ、妻子家持ちという平均的中産階級化したおのれに憤慨し、断固この状況を肯定すまいとしてその鉢巻をしめているのか。
 もし鉢巻に、そうした反時代的、反俗的意味あいがあるとすれば、どうして天才バカボンのおやじは家出をしないのだろう。家で蒸発をしないまでも、「家庭」内で葛藤を繰りひろげないのだろう。彼は、現状を肯定しているママや子どもたちに批判的か。否。天才バカボンのおやじに一度でも付き合ったことのある読者なら、この問いに対して誰だって首を横にふるだろう。バカボンのおやじは、率先して現状況を受けいれ、あまつさえ、ママの保護を求めるのだ。恋愛結婚か見合い結婚かなど余計な心配を先にしたが、ここに登場するバカボンのおやじの奥さんは、彼の奥さんというよりもオフクロサンそっくりなのである。天才バカボンのおやじとこのままの関係を見ていると、彼こそママの最初の子どもであり、ついに大人になりえなかった最初の大人という感じがしてくる。この人間関係の描き方に、赤塚不二夫の母体回帰本能を見るむきもあるだろうが、ここで指摘すべきことは、天才バカボンのおやじの鉢巻が、現状否定の決意のしるしではないということだ。バカボンのおやじは、大衆社会状況の中のじぶんを楽しんでいる。
 それでは、鉢巻は何の意味もないアクセサリーなのか。天才バカボンのおやじには何ひとつ対決すべきものはないのか。天才バカボンのおやじを指して、なんと所帯持ちなのです……といったが、まったく自明のことながら彼は「父親」なのである。この単純明白な事実を改めて指摘しなければならぬほど、天才バカボンのおやじは「父親的」でないのである。「父親的」という場合、この言葉でつぎのような属性を指している。育児、保護教示、決断、経済的責任、精神的支柱。つまり、この日常的世界で子どもをつくってしまった男性が、程度の差こそあれ引き受けなければならぬ諸条件を考えている。父親というものは、必然的に「家庭」を維持するため一定の職業に就くものだろう。しかし、天才バカボンのおやじは、労働になどまったく背をむけている。職業不明なのではなくて、はじめから働くそぶりすら持っていないのだ。漫画の中では始めからおしまいまで、おのれの好奇心に従って遊びまわっているだけである。バカボンやハジメに、かくあるべきだという父親らしい教訓さえたれない。第一、美しい日本語の復権を願う憂国の徒にすれば、慨嘆おくあたわざる話し言葉を乱発する。コニャニャチワとは何であるか。忘年会の案内状に記された記号は、日本語であるのか。天才バカボンのおやじの言動は、ひとつひとつ「常識」からずれている。ずれている程度ならいいが、破壊的でさえある。父親の「権威」
「格式」といったものは、かけらほどもない。父親でありながら天才バカボンのおやじは、のっけから父親的立場を放棄している。やることなすこと突飛で子とも的である。いや、子ども的といったが、子ども以上にエゴイスティックで、子ども以上にその行動は非連続である。天才バカボンのおやじは、その非連続な行動を異常な情熱を傾けてやりとおす。ニワトリのピピちゃんを肉屋の手から助けたかと思うと、それを水たきにして食ってしまう。母をたずねて三千里の旅を続けるのは、三千円の金を取りたてるためである。これほどみごとに、既成の「父親像」を否定した父親像はあるだろうか。
 もちろん、既成父親像という時、『巨人の星』に登場した星一徹や、先に引いた『ダメおやじ』たちを指している。漫画の中の父親たちは、この二人だけではないだろう。白土三平の『サスケ』の父親や『サザエさん』ちの父親も考えられるだろう。しかし、たまたまこの二人は、「強い父親」と「弱い父親」の……というより、現実の父親の「強さ」と「弱さ」を集約した存在と考えられるから引いているのである。『ダメおやじ』は、現代社会の中で労働分割され、職場でも家庭でも疎外感を抱く父親たちの、拡大滑稽化された姿である。また、星一徹型の父親は、現実において無力であるが故に、それを逆反射した強権指導型の人間である。願望としての父親、あるいは現実の父親の中に潜在する理念としてのおのれの在り方、それを美化し形象化したものかもしれない。いずれにしても、こうした両極の父親像が表現される基盤には、現実の父親たちの不安定性がある。かれらは被使用者として日々自嘲的であり、それゆえに家庭では怒りっぽくなっているのかもしれない。そうした状況があるからだろう、『マイ・ウェイ』などいう映画が無批判に受けいれられる。
 この映画は、一介の労働者が努力につぐ努力でオリンピックのマラソン勝者になり、今や社会的にも安定している……という設定で始まる。「勝つ」ことが人生だと信じるこの父親は、じぶんの人生観を家族の全員に押しつけるため、つぎつぎと息子たちの離反を招く。しかしこの父親は、じぶんの生き方の正しさを身をもって示そうとする。すでに走者であるには年をとりすぎているのに、じぶんの信念を、マラソン・コースの完走に賭けて走る。すべての選手に追い抜かれ、何度も倒れ、泥まみれになり、息も絶え絶えになりながら、それでも走ることを放棄しない。観衆はその姿に息をのむ。つぎには全員一致して熱烈な声援を送る。彼は走り、よろけながらゴール・インする。
 こう書けば、いかにも「感動的物語」である。事実、この映画を指して「青春の栄光と晩年の苦悩を」表現した佳作、世界のどこにでも見られる親子問題を描いたもの……など、映画評論家のあるものは賛辞を送った。しかし、この映画ほど「強い父親像」によって、その背後にある国家の非人間的姿勢を美化し弁護したものは他にない。この映画のどこが感動的親子問題なのか。どこがインターナショナルなのか。この映画はその冒頭からラスト・シーンまで、唯一人の黒人の姿さえ写そうとしないのだ。空港控え室の場面で、それらしき姿が一瞬見えるが、たぶんその黒人はこの国の住民ではないのだろう。みごとなくらいにこの映画は、「カラード」たちを画面の中から払拭している。通行人その他末裔の端役にいたるまで、白人であることを強調している。たぶん「非白人」を写そうにも、この映画の舞台では、それを発見することさえむつかしかったのだろう。「非白人」たちは、白人たちの視野にはいらぬところに押しこめられているのだ。これが南アフリカ共和国の「映画芸術」なのである。全人口の二〇パーセント弱の白人が、非白人八〇パーセントの上に立って、それらの大多数をアパルトヘイト(人種隔離)することによって作りだした「感動」的作品なのである。
 この中の強い父親は、そのまま南アフリカ共和国のシンボルとして作用する。父親は(南ア共和国は)息子たちの反発(南ア共和国の政策を理解しないものたち)に苦悩する。映画は、この葛藤を克明に描いていく。(南ア共和国は「良心的」に批判者の声を受け止め、苦悩したというのだろう)そして、ラスト・シーン、くたくたになりながら完走した父親はいう。わたしは貧しさの中から苦労して、ここまでやってきた。いろいろな困難はあった。しかし「わが道」を信じるからこそ一歩また一歩進んできたのである。わたしはこれからも「わが道」をいくであろう。(南ア共和国は、アフリカのこの地が植民地であった時代から、さまざまな困難を乗りこえ現在にいたった。われわれは、この政策、この発展へのさまざまな措置を正しいと信じるからこそ一つの国家まで形成した。たとえどのような非難や糾弾を受けようとも、これからも「わが道」を進むだろう)
 こじつけているのではない。映画はまさに、人種隔離政策を是とする南アフリカ共和国の白人によって作られているのである。そうした非人間的国家を形成した男たちの物語なのである。「わが道」をいく……というウィル・マドックス(父親)の宣言は、いうまでもなく八〇パーセントの「非白人」を、二〇パーセントの白人が支配し続けることを告げている。アパルトヘイトを廃止することもないだろうし、それを人間の問題としてふりかえることもないだろうということに通じる。なんと恐ろしい発想だろう。この映画のおそろしさは、そうした発想をおそろしいとも感じず、本気で主人公の父親をたたえている点にある。苦悩する権利を持っているのは二〇パーセントの白人で、それ以外のアフリカ人は苦悩する権利さえないというのか。この父親の苦悩は、八〇パーセントの「非白人」を踏み台にした苦悩である。踏み台にされた「非白人」の苦悩は、たぶんこのように「美しく」表現されることはないだろう。
 この映画に、「世界共通の親子問題の表現」しか見ない批評家は、加害者であることを知るべきである。この映画を、そうした普遍的主題でとらえることは、人種隔離された非白人を隠蔽することに、手を貸したこととおなじなのである。また、この映画に手放しで感動するものは、南アフリカ共和国の非人間的政策のアリバイ作りに協力したのとおなじなのである。加えていえば、この映画の中の美しい自然描写に目を見張るものは、一にぎりの人間によって私有化された風景を、かれらの占有物として是認することにつながるのだ。
 現実の父親が弱く不安定だからといって、強い父親像に感動することは筋違いである。かつて『父よあなたは強かった』という軍国歌謡にのせられ、どれほどの強い父親が死んでいったことか。父親は父親であって、「強い」「弱い」など、どうだっていいことではないか。なぜ強くなければいけないのか。なぜ弱くてはだめなのか。強いといい、弱いといい、みんな他律的判断ではないか。カッコヨク、賞賛を浴びるようなことをやってのけようと思うから強弱にこだわる。天才バカボンのおやじのすばらしい点はそこだ。彼は、じぶんの子どもたちに「わが道」などを説かないし、そうかといって、子どもそっちのけで愚劣なことに没頭していることを、ほーんのこれっぽっちも恥と思っていない。教示せず、愚かなままに父親である。求道性も建設的発想もない。いうなれば、非発展反向上型の父親である。そして、父親がなぜ父親らしくなければいけないのだ。わが輩はばかばかしいことをやってみせるだけなのだと、堂々胸を張っている。愚劣全肯定の発想である。だいたい、じぶん以外のものに(じぶん以上の……ものといってもいい)忠誠を誓おうとするから、不安や不信に陥る。これでいいのかどうかと、迷う。そんなことは他人様にまかせておいて、でたらめでも、とんちんかんでもいい、じぶんを肯定しなかったら、生きていることにはならないのではないか。天才バカボンのおやじはそういう。言葉でいうのではなく態度で示す。かりそめにも世間様のいう「良識」を行動の基準にすまいとする決意、(やっとでてきたな)その決意の表明が鉢巻ではないのか。従来、鉢巻は、何か特定の「使命感」を示すシンボルだった。しかし、天才バカボンのおやじの場合は、そうした特定の枠づけを拒否する自由の旗じるしなのだ。それにしても、鉢巻とは古いではないか。

 ……と、ここまで書いてきて、多少じぶんの屁理屈にうんざりしてしまった。手もとに、川本三郎の『朝日のようにさわやかに』という映画評論集がある。そいつをぱらぱらめくってみた。
 「映画を見るということは情けないことなのである。そのことをまず確認しなければならない。」
 そう書いた個所がある。なるほど、うまいこというなと思う。
 なすすべもなく暗闇で瞳をこらしているのだから、映画の観客などというのは擬似ピーピング・トムかもしれない。ほんものの「のぞき魔」の方は、見つかればハレンチ罪で逮捕されるだろう。それなりの危険を犯している。そこへいくと、映画館や茶の間の「のぞき魔」の方は、いっこうにじぶんを賭けるということがない。川本三郎のいうように、「情けない」といえば「情けない」。そのことを「確認」した上でふりかえるのだが、それは漫画を見るということは、「情けない」ことなのかどうか。
 天才バカボンのおやじは、「常識」からずれているどころか、破壊的でさえあるといった。漫画であれ歌であれ、ナンセンスなものは破壊的である。意味付けの狭い枠を破って、人間の思考の無限なひろがりを追求しようとする。ナンセンスの世界に投げだされることは、じぶんを拘束している諸条件を排除して、じぶん自身にむかいあうことでもある。日常の価値観は崩壊し、じぶんの中の可能性に対面する。天才バカボンのおやじは、すくなくとも、その一つの「うさぎ穴」の役目を果していたと思うのだが、読者のすべてが、かならずしもその「穴」をくぐるとはいえない。現に退屈しのぎに(というより時間潰しに)茶房のあちこちで若者がこれを読んでいる。なぜ途中であくびをするのだろう。このナンセンスの世界に目を見張らないのだろう。考えてみればこれは当然の話で、退屈しきった若者たちは、かれら自身、はじめからナンセンスそのものだったからだ。ということは、この「うさぎ穴」をくぐるためには、少女アリスなみに、なぜウサギがいそいでいるのだろう、いったいウサギはどこへいくのか……といった最小のセンスが必要なのかもしれない。それなくしては、漫画もまた、「情けない」ことになるかもしれない。
 はじめに、ちらっとジョージ・シーガル主演の映画『ジェット・ローラー・コースター』に触れたから、最後にまた、ちらっとこの映画のことに触れておこう。この映画は、かつて上映された『サブウェイ・パニック』に匹敵するようなおもしろい作品だった。とりわけ、爆弾犯人に対決するジョージ・シーガルがよかった。しかし、たった一個所、賛成しかねてうなったところがあった。苦心の末、遊園地爆破男を逮捕に追いこんだジョージ・シーガルが、興奮さめやらぬ体で、まわりにいた見知らぬ男に煙草を一本求めるシーンである。映画の前半で、ヘビー・スモーカーの彼が禁煙に踏み切るところが描かれている。その禁を破ろうという一瞬がラスト・シーンに用意されている。吸うか、と思った。すると、マッチまで他人からまきあげたくせに、ジョージ・シーガルはふいにその煙草をすててしまったのだ。わたしはひどくがっかりした。もし、わたしが監督なら、彼が目を細めて煙をはきだすシーンで、この映画を終りにするだろうと思った。なぜ、かくも意志の強い男のままエンド・マークをだすのだろう。平均的アメリカ人に仕立てあげるのだろう。彼もまた、離婚したとはいえ一女の父親である。そういう役柄として出演している。わたしがヘビー・スモーカーであり、同時に弱い父親の一人だからいうのではないが、あの主人公をヒーローにすべきではなかった。意志強固な父親で終らせたくなかった。
 たかが煙草一本という意見もあるかもしれない。それはそうだろう。煙草を吸わない人間にとっては、それほど痛切に感じないかもしれない。しかし、あの場面で煙草を吸うかすてるかは、いかなる鉢巻をしめるかということと深く関わっているのである。
 こういえば、それはジョージ・シーガルを、天才バカボンのおやじに強引に結びつけようとする試みだといわれそうな気がしないでもない。なるほど、鉢巻と煙草ではまったく異質のものかもしれない。そうしたことを日常茶飯事のようにやってのけた。だから、でたらめであろうと牽強付会であろうと、
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