|
(1)リリアン・スミスの主張 児童文学の短い歴史をみると、それぞれの時代の子どもの本に、その時代のもっとも悪い特徴が強く出ていることがわかる。私たちは、時代的な関心をもたれたあることがらが非常に支配的になって、どんな本を子どもに与えるかということにまで影響を与えた例を知っている。たとえば、清教徒時代には、子どもたちのために、ひねこびた善良さや病的な信仰やひどい感傷をもりこんだ「信仰深いご本」が書かれた。また現代では、人種的偏見にたいする関心がめざめ、社会不正に気づいた結果、アン・カロム・ルアが「背景が多すぎ、問題が多すぎて、生命を失った物語」と呼んだもので、子どもの本をいっぱいにしがちである。しかも、こういう本が、おとなの側からは喝采されがちである。それは、その本のテーマが子ども本来の興味をひくというよりも、社会問題にたいするおとなの真剣な関心を反映しているからである。それにまた、そういう本の文学としての永続的な真価も、注意深く吟味されていない。(『児童文学論』-一九五三-第三章・批評の態度 石井桃子・瀬田貞二・渡辺茂男訳・昭和三九年、岩波書店) (2)ジョン・ロウ・タウンゼンド すでに翻訳紹介されている『ぼくらのジャングル街』『さよならジャングル街』『北風の町の娘』(いずれも、学研・亀山龍樹訳)をみて、わかるように、ここには、貧困・土地問題など、現代社会の直面している問題が、子どもの生活と抜きがたいものとして描きだきれている。 (3)『戦後児童文学論』(理論杜) わたしは、ここで、児童文学にとって「戦後」とは何であったか、を一貫して問いかけている。そのため、『ボクちゃんの戦場』の作者奥田継夫から、「児童文学のもつ教育的側面は却下され、児童文学論でありながら、"子どもにとって戦後児童文学とは何か”がスッポリぬけおちている」と、「日木読書新聞」(昭和四二・四・三)でいわれたくらいである。わたしの意図を、良くも悪しくも的確に指摘したのは、「図書新聞」(昭和四二・四・一五)の乙骨淑子である。わたしは、この中で、まさに「状況」に視点をすえ、そうした状況と児童文学の書き手の関わり方を考えた。一切の芸術は、状況把握なしに成立しないということを、児童文学もまた、その前提にすえるべきだと考えている。この考え方は、誤っていないはずである。 (4)『ちょんまげ手まり歌』(理論杜) 三木卓が、「思想の科学」(昭和四六・四)で評価してくれるまで、いろいろ書かれながら、無視されてきたように作者の方では思いこんでいた作品である。久保田猛たちの劇団「炎座」が、第二一回公演(昭和四五・八)で取りあげてくれたように、おとなの共鳴を得たが、子どもには暗すぎるというので、ある子ども文庫では、この本を入れなかった。これまた「状況劇」である。というより、「状況」が主人公でさえある。この作品評価の中で、もっとも笑ったのは、小沢正のそれである。「日本読書新聞」(昭和四三・二一・二三)と(昭和四四・一・一八)で小沢はこの作品を取りあげているが、まったく正反対の評価を一人でやっている。その間隙を埋める論理がない。わたしは、これで、『目をさませトラゴロウ』の作者を見なおしてしまった。 (5)マインダート・ディヨング 『びりっかすのこねこ』のように、動物を描いて賞を受けた作家に、同時に、『六十人のおとうさんの家』のように、日中戦争の中の、中国少年を描いた作品がある、ということである。このアメリカン・ヒューマニズムについては、『文学・教育』(昭和四七年)で少し触れたが、ここでは、一人の作家が、常に不変の立場・同一の話を繰りかえすものではないという一例としてあげている。ちなみに、ディヨングという読み方は、研究杜の『英米児童文学史』によっている。講談社版『六十人のおとうさんの家』では、ディヤングと記されている。 (6) 恐怖のシンボルであった怪獣『ゴジラ』(昭和二九年)から『ラドン』(昭和三一年)へ、町ラドン』から『バラン』(昭和三三年)へ、そして、『モスラ』(昭和三五年)から『ドゴラ』(昭和三九年)へと、『怪獣大戦争』(昭和四〇年)勃発までの、一〇年にわたる空想怪獣映画の発想法は、一口に言うと、ほぼ次の二点に集約できる。その一つは、「罪と罰」という発想法であり、いま一つは、「インターナショナルな」発想法である(中略)つまり、人間は、核兵器を現に開発し、それを作り出したことによって、人類消滅のおそろしい可能性を生み出した。(中略)これこそ人類最大の罪科である。それ故にこそ罪の報いが、怪獣の発生となって現われる。その怪獣による破壊につぐ破壊こそ、罰である。それこそ明らかに人間の罪科への当然の罰なのだ-という発想である。(中略)怪獣は、製作者たちの意図にかかわりなく、人間の「過失」(核開発)の結果としてスクリーンに定着し、時にはまた、それがそのまま「痛快」のシンボルとして、また「核戦力」の投影として(その破壊力の超大さを考えてみればいい)位置づけられてしまった、と言えるのである。そして、わたしたちは、その映画の中で、怪獣の超破壊力におびえ、逃げまどう「群衆」となることによって、人間は、自らまいた種をかりとらねばからぬこと(核兵器の開発は、それを開発したわれわれ自身の恐怖となる)、すなわち、因果応報・自業自得の定型思想の形成に加担した、いや加担させられた-とも考えられるのである。(『戦後児童文学論』M・状況の問題「部分的『怪獣大戦争』論/ゴジラの変貌について」Kより/理論杜-一九六七-/補)……わたしは、この中で、人間の恐怖のシンボルとして位置づけられた怪獣が、いかにしてそうでなくなったかを考えている。単なる映画論ではなく、わたしの状況論である。同書に収めた「忍者、それは時代のインデックスたり得るか」ともども参照していただきたい。 (7) 人間における変身願望「パーマン」のコピー・ポットについて、つぎのようにいった。一人の人間が、同時に二つの人生を持つ願望である、といった。しかし、じつは、人間の欲求はそれほど有限なものではない。人間は、じぶんが有限な存在である、ことを知っているから、逆に、その欲求は無限のひろがりを持つ。そういうものである。同時に二つの人生を体験したい、ということは、ほんとうは、二つ以上の人生を生き抜いてみたい、ということである。無限に多様な人生を送りたい、その夢につながっている。空とぶ発想は、そこに一つの形を与える。人間のその願望を「空間旅行」の形で満足させよう、というのである。一瞬のうちに、A点からB点へ移動できる円その「不思議な道具」(じゅうたん、カバン、羽根、その他、いろいろある)によって、人間の固定された生活状況をうちこわし、別の状況に、人間を移行させるのである。これは別の形の人生を生きたいという願いを、居住地変更の形でとらまえたものである。いうまでもなく、ここに「時間旅行」の発想も加わってくる。時代の制約をこえて、人は生きてみたいのである。 変身は、じぶんが、じぶん以外のものに変わることだった。超能力願望も、じぶんが、じぶん以上の何かになることである。コピー・ロボットの分身の願望も、空とぶ願いも、じつはすべて、じぶんが、今のじぶんであることを抜けだす発想でむすびついている。今のじぶんを抜けだす発想は、多様な人生を体験したいという、有限な人間の、その生存条件の自覚に発しているのである。人はだれしも、この願いに無関係ではない。(「パーマンの発想」昭和四七年「COMODO」一号) (8) わたしの記した一節 注(7)の「パーマンの発想」Kよりの引用。 (9) 斎藤隆介については別のところで論じた… 別冊『日本児童文学』民話特集「走るということ・斎藤隆介論」のこと。 (10) 危機意識で終焉するまでの十年時代は移りつつあった。そして、戦後児童文学も、新しい段階に移行しつつあった。この移行、この文学状況の転換を端的に示したものが、「慢性的不況」ということばである。(中略)たとえば、雑誌『日本児童文学』(昭和三二年二一月号)は、「当面する児童文学の諸問題と新しい活動の進め方-一九五八年度児童文学者協会活動方針・草案-を掲載したが、その中に提示された次のようなことばは、そのことを正確にあらわしている。 「この一年間に、特に『児童文学の慢性的不況』といわれるいろいろな現象に、私たちは直面してきた。一般的にいって『不況』といわれる現象は、印税率の低下、買切りと、買切りの切り下げ、発表舞台のせまき、出版などによる著作権と生活権の不安をともないつつ創造活動の不振-作品の質と量の『不況』となってあらわれてきた。」(以下略) この運動草案には、作品以前の問題(作家の姿勢)、生活の不安(印税率、買切り、発表機関の減少)、題材や形式の問題は語られているが、作品そのものの問題は語られていないのだ。(前出『戦後児童文学論』J・起点の問題「戦後児童文学の転換点について」より/具体的には、全文参照いただきたい)。 (11) 伝導の伝統は、鈴木三重吉の『赤い鳥』運動以来、根強く日本の児童文学にある。拙著『現代の児童文学』(昭和四七年・中公新書II・「二つの語りかけの違い」の中の、「鈴木三重吉-善導の使命感」)を参照いただきたい。 (12) 小川未明をはじめとして拙稿「戦時下の児童文学、あるいは、それを問い直すための覚書」(昭和四六・二一『日本児童文学』)で、小川未明を論じる形で、観念に形を与える児童文学の、その形の与え方を批判している。 (13) 『ビルマの竪琴』については、前出『戦後児童文学論』収載の「戦後児童文学の不幸なる起点/『ビルマの竪琴』について」を参照していただきたい。 (14) 小説的手法……という声も聞く注(13)の小論・V章、参照のこと。 (15) 「少年文学の旗の下に」 科学は常識によってさえぎられ、変革は権力によってはばまれる。発展と進歩の芽生えるところ、古きものは常に全力をあげてその歯車の前進をさまたげた。だか同時に、勝利は常に新しきものの側にかがやく。これは歴史の宿命であり、必然であった。 いまここに、新しきもの、変革をめざすものが生まれた。「少年文学」の誕生、すなわちこれである。 「少年文学」のめざすところ、それは、従来の旧児童文学を真に近代文学の位置にまで高めることであり、従ってそれはまた、一切の古きもの、一切の非合理的、非近代的なる文学とのあくなき戦いを意味する。 我々は「メルヘン」を克服する。目覚めゆく民報のカを背景に、それが子供たちに与えてきた業しい夢はみとめるとしても、今やそれは、圧制から自らを解放した民衆の喜びの表現であった、その革命的意義を全く去勢され、単なる形式の残留と化した。 我々は「生活童話」を克服する。従来の超階級的童心至上主義に対して、現実の生活に取材せんとした意図はみとめるとしても、誤れるリアリズムは私小説のわくを出ず、それは遂に少年「小説」にはならずして、あくまで生活「童話」にどとまり、綴方約リアリズムヘの転落の道を辿った。 我々は「無国籍童沽」を克服する。敗戦という混乱した日本の現実社会の中で果した諷刺精神と、綴方的リアリズムに対する興味性の復元を意図した実験約手法はみとめるとしても、所詮それは、現実からの退避であり、コスモポリタニズムから、アナーキズムヘの堕落であった。 我々は「少年少女読物」を克服する。百千万の少年少女をよくとらえた技法はみとめるとしても、文学に非ざるそれら読物は、常に、低俗なる娯楽性にのみよりかかり、少年少女の健全なる生活意欲を有することによって、封建的支配勢力の忠実なる僕としての役割を果した。 「児童文学」の総称の下に呼ばれるそれら全ては、その、意図に拘らず、遂に近代文学としての位置を確立することができなかったという点で一致する。その重要な根元の一つが、ゆがめられた日本の後進的近代にあったとはいえ、同時に、そうした日本の現実に対する「人生の教師」としての作家の、大きく開かれなかった目の狭さ、すなわち近代文学に不可欠の合理的・科学的批判精神及びそれに裏付けされた文学上の創作方法の欠如こそが、こうした自体を招来した最も大なる原因であったにちがいない。 従って我々の進むべき道も、真に日本の近代革命をめざす変革の論理に立つ以外にはなく、その論理に裏付けられた創作方法が、少年小説を主流としたものでなくてはならぬことも、また自明の理である。我々が、従来の「童話精神」に、よって立つ「児童文学」ではなくて、近代的「小説精神」を中核とする「少年文学」の道を選んだゆえんも実にそこにある。 この道はけわLくて困難であろう。しかし、我々は確信に満ちつつ最後の勝利を宣言する。一九五三年六月四日 (16) 「子どもと文学」の主張 世界の児童文学のなかで、日本の児童文学は、まったく独特、異質のものです。世界的な児童文学の基準-子どもの文学はおもしろく、はっきりわかりやすくということは、ここでは通用しません。また、日本の児童文学批評も、印象的、感覚的、抽象的で、なかなか理解しにくいものです。(以上、「はじめに」より)また、時代によって価値のかわるイデオロギーは-たとえば日本木では、プロレタリア児童文学などというジャンルもある時代に生まれましたが-それをテーマにとりあげること自体、作品の古典的価値-時代の変遷にかかわらずかわらぬ価値-をそこなうと同時に、人生経験の浅い、幼い子どもたちにとって意味のないことです。(「子どもの文学で重要な点は何か?」より)今日の日本児童文学の現状をみますと、ほかの分野でもおなじことですが、ファンタジーの場合も、子どもの心をその世界へさそいこむような魅力のあるものが少ないのは、まことに残念なことです。私たち日本人は、情緒過剰の性格から、ファンタジーの世界にも、冒険や驚異、たのしさやユーモアよりも、かなしさ、暗さ、やるせなさのようなもの、また、骨ぐみ ある物語よりも、心象風景的な淡さをもちこみました。(同上より) (17) 繰りかえし語ってきた長崎源之助の『あほうの星』前出『戦後児童文学論』と、前出『現代の児童文学』で、第二話「蝿」を語っている。 (18) 水島上等兵の発想を引きつぐものたとえば、山本和夫の『燃える湖』(昭和三九年)の山村少尉はどうだろうか。これについては、前出『戦後児童文学論』中の「戦争について」を参照いただきたい。 (19) 「加害者」であったもう一つの面を無意識のうちに欠落させる発想 雑誌「文学・教育」の戦争児童文学特集(昭和四五年)の拙稿を参照いただきたい。マインダート・ディヨングの『六十人のおとうさんの家』(昭和一二年)が、徹底して日本軍を加害者として描いていること、日本の「戦争」児童文学と呼ばれるものが、一貫して苦悩の代弁者や被害者の立場をとっていること、などに触れている。ただし、『六十人のおとうさんの家』のアメリカン・ヒューマニズムが、あのベトナム戦争の前では、空々しくみえたことも指摘しておく必要があるだろう。ディヨングが、悪鬼のように描いた日本軍の姿は、一九六〇年から七〇年代にかけての、ベトナムにおけるアメリカ兵の姿でもある。 (20)「献身」の発想の是非は別問題である 前出・雑誌「日本児童文学」別冊・民話特集「走るということ」で、その是非には触れている。 (21)「ちょうちょむすび」について「身体障害者」の視点からの批判がある。七〇年代にはいって、その指摘が明確にされてきた。これについては改めて考える必要がある。六〇年代との違いを明示する批判だと思う。 (22)「現実的主題」を持つ児童文学が評価された一九六〇年に出版された作品で、基地問題に取り組んだ『山が泣いてる』鈴木実他が、六一年に第一回日本児童文学者協会賞を受けたこと。また、貧しさの中で必死で生き抜こうとする少女を中心に描いた山中恒の『赤毛のポチ』が、国分一太郎編の『日本クオレ』とと共に、社会福祉文化賞を六一年に受けたこと。賞を受ける受けないという問題よりも、こうした形で、「現実的」問題に取り組んだ作品が評価される「状況」のあったことを考えているのである。 (23) 山下明生、が書いている 雑誌「児童文学1972」1「一冊の本」(聖母女学院短期大学児童教育科発行)。 (24) 安定した関係さえ組めない条件がありすぎる V・パノーワの『大好きなパパ』は、子どもの内面にまでたちいって、親子の関係をよく描きだしたものである。母親の再婚。新しいパパであるコロステリヨフさんの登場。ここには、安定することのできない子どもの姿がある。児童文学の中の「家庭像」が、常にモモちゃんの一家のように、、両親が揃っているとは限らない。ケストナーの『ふたりのロッテ』がそうであったように、別居中の両親を持った主人公の物語は、いろいろある。フィンランドの児童文学者、クレンニエミの『オンネリとアンネリのおうち』もそうである。こうした「家庭像」の問題は、児童文学おける「孤児」の問題と共に、まさに取り組むに価するテーマである。 |
|