B 通路のむこうの世界
ファンタジーにおける発想の問題

『私の児童文学ノート』(上野瞭 理論社 1970)

           
         
         
         
         
         
         
    


 扉のむこうに何があるのか。洋服だんすの奥にどんな世界があるのか……という問いかけは、一見「すべての道はローマへ」とも考えられるファンタジーの構造にとって、自明の事柄……いや、愚問に属することかもしれません。
言うまでもなく、わたしは、「扉のむこう」とか「洋服だんすの奥」とか言うことによって、フィリパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』とC・S・ルイスの『ライオンと魔女』のことを考えているわけです。
 はしょった言い方をすれば、「扉のむこう」にはバーソロミューおばあさんの過去があり、「洋服だんすの奥」には魔女の君臨する冬のナルニア国があることになります。
しかし、わたしが、「何があるのか」「どんな世界があるのか」と言うのは、そうした物語の要約や架空の世界の内容を問いかけているのではなく、また、作者の意図や主題を問いかけているものでもありません。もうすこし包括的なもので、作品成立の基礎になるもの、つまり発想の基軸になるものを頭に置いているのです。
 もちろん、トムを、真夜中の庭に誘い出すことによって、ピアスは何を言おうとしたか。また、ピーターやスーザンや、エドマンドやルーシィを、ナルニア国に連れこむことによって、ルイスは何を語ろうとしたか……ということも大切です。しかし、それを、前者の場合は「愛の問題」、後者では「神の恩寵の問題」と、仮に規定しても(……規定できるとしても)それだけでは、わたしの冒頭の問いかけの答えにはならないのです。
「……それでは、今まで一度も、現実におこったことのないものを書いた物語で、心を忙しくさわがせ、自分では持たない方がよいとされる感情の中に登場人物を通してはいっていくことの利益は何か。さらに、そういうことを弁護するものはなにか。」(『新しい文芸批評の方法』)
……と、C・S・ルイスは言いました。たぶんに「文学の効用」を問うこの質問を、それではファンタジーにもあてはめて記せばいいのか。それで解答になるのか……と言うと、そうでもありません。
「……わたしたちは、そうすることによって、自己以上のものになろうとする。(中略)わたしたちはそれぞれ、自己特有の遠近法と選択作用をもって、ある観点から全世界を見る。これは、わたしたちの本性である。」(前出)
 ルイスは、右の問いに、普遍妥当とも言うべきこんな解答を提出しました。強いて、このことばの中から、わたしの問いと関係あるものを抜き出すとすれば、「ある観点から全世界を見る」という箇所かもしれません。
 ただ、この場合、「ある観点」とは、特定の価値観や意識的な思想体系を意味しません。文学を規制する風土や伝統……言いかえるなら、無意識のうちに、読者や作者を規制する発想法ということになります。
 リリアン・スミスは、次のように言いました。
「……ファンタジーの部門に属する本が、文学の中に永久的な位置を占めるかどうかを決定するのは、想像力だけではなく、ほかにもいくつかの要件がある。たとえば作者の人生経験や表現力などが、それである。しかし、作者がファンタジーを書こうと志したからには、かれがどの程度に独創的な想像力をもっているかということが、わたしたちにとっては、やはり最大の関心事になってくる。」(児童文学論)
 独創的な想像力を抽出することによって、それを規制する(……いや、それを支える)「時代」と「場所」の特殊な枠組みを、リリアン・スミスは、枝葉末節のごとく排除しました。排除されたものは、ファンタジーの成立にとって、全く付属的なものばかりだったか。本質的なものを、夾雑物と一緒に排除してしまってはいないか……と、わたしは考えこんでしまうのです。
 ファンタジーの成立には、独創的な想像力だけではなく、それを無意識のうちに規制する発想法の働きがあるのではないでしょうか。
そこには何があり、どんな世界があるのか……ということは、その発想の基軸になっているものへの問いかけです。
 わたしが、こんな問いかけをするのは、じつは、安藤美紀夫の次のようなことばにうながされた結果なのです。

2

「……私は、かねがね、こういうことを考えていました。わが国の児童文学には、ファンタジーが乏しいのではないか。乏しいというのが言いすぎなら、あまりにも手ぎわよく、こじんまりとまとまりすぎているのではないか。もっと、やぶれかぶれの、とほうもない空想童話がつくれないものだろうかと。しいて言えば、そういう私のまったく途方もない高のぞみが、私に、こんな作品を書かせたのだと、そんな気がしないでもありません。」
 これは『ジャングル・ジムがしずんだ』 (昭39・講談社)の「あとがき」の一部です。
この作品は、「すくなくとも、私には、非常に多くの面で、全くの新しい実験をさせてくれた作品」である、「日本の児童文学にとってもまた、新しい実験でありうるか、どうか・・・・・・」と、安藤美紀夫の書いているとおり、まったく意欲的な、ファンタジーへの挑戦だっと言えます。
 物語は、黒人の混血児タローが、YSおもちゃ会社のでぶ社長や、担任のちび先生、赤毛の子犬といっしょに、ジャングル・ジムにとびこみ、地下のおもちゃの国へ行く話です。地下の世界には、「しあわせなおもちゃ党」と(この党の書記長はロボット・セブンというおもちゃです。婦人部長は高慢な京人形です)、「ふしあわせなおもちゃ党」があって(この党のリーダーは、傷だらけのハリコの虎で、婦人部長は、片手のとれたキューピー人形です)、相互に不信感をもって対立しています。事件は地上にはじまり、地下に移り、やがて、対立しあう二大おもちゃグループの和解にいたるのです。しかし、この大まかすぎる説明では、
「搾取者と被搾取者という階級的対立の、図式的移しかえではないか……。」
という早合点を生みそうなので、一言つけ加えておきます。もし、階級的対立の図式的移しかえを狙っただけなら、作者は、「日本の児童文学にとって、新しい実験でありうるか、どうか……」などと、りきみはしなかったでしょう。
事実、対立相剋する独占資本体制と労働者の関係なら、すでに、古田足日が『ぬすまれた町』(昭36・理論社)において、阿部公房ばりの手法で実験しました。もちろん、古田足日の場合は、ファンタジーを目指すと言うよりも、ファンタジックな要素を作品に導入することによって、「現代の児童文学も現実にコミットするものである」ということを、一種のシュール・リアリズムの方法で提示したものなのです。
安藤美紀夫の言う「やぶれかぶれの、とほうもない空想童話」とは言えません。現実変革の志向性という「とほうのある空想」です。また、こう言ったからといって、「とほうもない空想童話」の作者には現実変革の志向性がない……ということにもなりません。
 安藤美紀夫の場合は、ともすれば「理念」「志」の提示におわりやすい、「現実べったり」の児童文学の狭さを打ち破り、それでいて現代の課題に呼応する「やぶれかぶれの、とほうもない空想」のたのしさをつくりだすことが目的だったのでしょう。そうした現代性が、おもちゃの国の二大政党の提示だと言えます。したがって、「党本部」だの「婦人部長」だのいう名称は、現実の移し換え(短絡反応)というよりも、現代の日本のファンタジーを成立させるための小道具(現代的粉飾)ということになります。
 それにしても、二大政党の対立だの、書記長登場だの言えば、皮相な諷刺ドラマに思われかねません。そこで作者は、地下のおもちゃの国に対して、地上の人間の世界をコミックにとらえ、「毛が三本しかないワラジ校長」が、地下の「赤いワンピースを着たカバのお嬢さん」から電話を受けて、「だぼはぜ先生」と共に卒倒する事件を挿入したり、この滑稽きわまる事件に、推理小説家、SF作家、あるいはモンロー眼鏡の女先生のコメンテールを加味するなど、奔放な空想の展開を試みたのです。
 その結果、着想のおもしろさと共に、人間やおもちゃの葛藤のおもしろさ、また、ナンセンス・テールのおもしろさが、ここに持ち込まれたわけですが、問題は、このおもしろさが、作者の言う「やぶれかぶれの、とほうもない空想」世界に、わたしたちを連れこんだんであろうか……ということです。
 こうした疑問は、作品を読み終わった時、わたしたちの空想力が「やぶれかぶれ」になるどころか、一つの、なかなか整然とした論理にたどりついた点からきています。
 しあわせと、ふしあわせということ……つまり、「しあわせなおもちゃ」は、「ふしあわせなおもちゃ」を理解すべきだ……という結論。これが、他のエピソードや事件のおもしろさをおさえて、一番明確な姿を示すということです。
「しあわせ党」と「ふしあわせ党」は、現実社会の階級的対立関係の、図式的移しかえではないとしても、現実社会の中で要請される一種の道徳律を示すということ……言いかえると、この作品は、日常生活のあらゆる規制をつきやぶって、「とほうもない空想」の世界に到達するかわりに、スタティックな日常の原理にもどってる……ということです。(テキストファイル化山口典子
           
         
         
         
         
         
         
    

next