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きわめて有名なエピソードだが、1938年、オーソン・ウエルズによってアメリカで放送された『火星人の来襲』は、聴取者を恐慌にたたきこんだ。〔注・1〕 マス・コミュニケーションの研究家は、この事実を、「ラジオ」という媒体の機能・効用を説明するためにしばしば引用している。しかし、『火星人の来襲』というドラマは、社会心理学的な視点で評価する前に、次のように言うことはできないのだろうか。 火星人というインベーダー(侵入者)の発想は、実は「来る思想」の一種の変型ではないのか。変型というのは、一見「来る思想」のようでありながら、「行く思想」を裏返しにしたものではないのか……ということである。 人間が「インベーダー」を想定する時、そこにはかならず体制保持意識がある。整備された秩序……という意識がある。人種・性・階級・賃金、その他もろもろの矛盾を包含している社会構造。それにもかかわらず、「人類」あるいは「人間」という抽象的な価値観が、「個人」よりも先行した形で評価される。その旗じるしのもとに、地球という円型空間の名にかけて、既成の人間生活を守ろうという呼びかけの姿勢が出てくる。 空想科学小説の多くが、「なめくじ」のような異星の生物の来襲(ハインラインの『人形つかい』参照)、「さや豆」のような侵入者の来襲を描くのは(ジャック・フィニイの『盗まれた街』参照)、この地球を守るべき何ものか……価値あるものと考えているからであろう。問題は多くある。しかし、やがて人類は、その矛盾を解決するだろう。解決しないわけにはいくまい。とすれば、さしづめ当面するインベーダーの危機にむかって、この地球を防衛することが、人類としての義務である。人間を防衛することである……という発想である。 この発想の基層に横たわっているものは、すでに地球は未知なる空間ではないということ。開拓され、知りつくされた一個の世界だという意識である。 アメリカ映画『真夜中のカウボーイ』を支えているものは、この、開拓すべき草原の喪失感である。 テキサスの皿洗いの青年ジョーは、大都会ニューヨークに行こうとする。「行く」ことによって、かれは「草原の輝き」にも似た美しい女と金を手に入れることができると信じこむ。疾駆する幌馬車のかわりに、ハイウェイを疾走する長距離バス。 少年時代。母といる風景。南部の娘との恋のいざこざよ、さらば! ジョーの唯一の羅針盤は、ポータブル・ラジオである。ラジオから流れる甘いささやき。これこそ、「行く」ことによっ て、何かを「得る」ことを約束する現代の神のお告げだ……。 キリストの降誕以前、すでに人は「約束された豊かな土地」のことを夢みていた。 「行く」ことは「得る」ことであり、未知の世界の開拓であり、生活の拡大と充実であると、自分に言い聞かせてきた。〔注・2〕 大航海時代。新大陸発見の世紀。植民地の入手を夢みて海洋にのりだした日々……バイキングによる掠奪と放火の歴史も、すべてこの夢につながっている。人間の基層意識の中に静かに息づく「行く思想」に結びついている。人は、「行く」ことによって空間を支配し、空間を支配することによって、「未知なる地球」を「既知なる世界」に塗りかえた。いや、塗りかえたと確信した。 西部開拓史が、多くの血と肉を土にかえすことによって終わったように、地球開拓史は、列強と小国、高度成長国家と新興国の抬頭・存在によって終止符を打たれた。いや打たれたと考えた。それにもかかわらず、人の中には、「行く思想」が終焉せずに息づいている。「行く」ことは、「得る」ことであり、自己の生活の充だという思想が息づいている。「行く」ことによって「得る」ものといえば、今やソンミ村の流血、ビアフラの飢餓、島国ニッポンのスモン病しかないというのに……。「約束された豊かな土地」のかわりに、それらに集約される死体の堆積しか入手できないというのに……。 テキサスの青年ジョーにとって、どうして「この草原の輝き」の喪失したことが理解できるだろう。ジョーにとって未知なる都会は、世界にとって既知なる空間だとしても、「行く」ことに価する約束された土地に見える。 「自由の女神を見たいのですが、どこへ行けば見られるでしょう。」 ジョーは、女を手に入れようとして、自由の女神を口実に使う。 「自由の女神?」 女たちは、それを見知らぬ何かのように、いぶかしげにジョーを見る。自由の女神……アメリカの象徴は、ジョーと女たちをさえ結びつけない。無意味な存在になりさがっている。アメリカの公分母は、今や公分母の役割をさえ、女たちによって否定される。ジョーはそれでも大都会の中を行く。「行く」ことによって「得る」ものは、みじめなホモの体験と飢餓だけなのに……。ジョーは、孤独をいやすべく、自分を欺いた男リコと、奇妙な友情を結ぶ。リコは、ニューヨークに何の幻想も抱いていない男である。ジョーにとって未知なる大都会も、リコにとっては嘔吐をもよおすような知りつくした泥沼だ。しかし、リコの中にも静かに息づいている「約束された豊かな土地」への夢。「行く思想」のうずき。 「フロリダへ行こう。フロリダへ行きさえしたら、俺たちは……。」 リコを促す声は、ジョーをも促す。そして、ふたたびバスはハイウェイを疾走する。フロリダで待ちかまえているのは、しかし、リコの死だけである。 映画『真夜中のカウボーイ』が問題なのではない。この映画に集約された「行く思想」のあり方が問題なのだ。 人間は、もはや地の果てにさえ「行く」ことができなくなった(と考えはじめた)時、冒頭に記した「来る思想」に立ちもどったのではないか……ということだ。 未開拓の大地を求めて「行くもの」となるかわりに、知りつくしたこの地球の秩序の、防衛者となりかわったということ だ。火星人がやってくる。異星人の侵入が開始された。この「来る思想」は、あきらかに「来るもの」を敵として想定したものだが、「来る思想」とは、本来「仮想敵の思想」なのだろうか。人間の、地理的世界征服以前に、すでに「来る思想」は内在している……。 人々が「約束された豊かな土地」を目ざして、「行く」ことを志した時、すでに「来る思想」は「行く思想」と背を接して人間の基層にあった願望だ。 神の降誕。救世主の出現。奇蹟の発現。英雄への期待。「来るもの」への切なる待望。それは、さまざまな風土の中で、さまざまな形態をとりながらも、何かが「来る」そして何かが与えられるという、待ち受ける思想として、人間の内部を規制してきた発想法だ。〔注・3〕 「来る思想」は「来るもの」を「見る」思想であり、「来るもの」を「信じる思想」、「感じる思想」だったといえる。神話や民話の世界に、多くの事例を見ることができる。桃太郎説話の原型だといわれる川を流れ下ってくるものの、いかに数多いことか。犬、鳥、ます、棒っ切れ、瓜、……と『聴耳草子』一篇を開いてみても、ずいぶんと「来るもの」にぶつかる。柳田民俗学の神の降誕説はさて置くとしても、ジョーの先祖たちもまた、ヨブ記におけるように、神の声の「来る」ことを待ち望んでいたのである。 言うまでもなく、サン・テグジュペリの『星の王子さま』も、この発想の系列にはいる。遠くは神の声、妖精の声、時には悪魔のささやきを経過して、内なる自己の声を聞こうとする児童文学が成立した。こうした作品が、どれほどあったことか。 「星」から「来る」主人公たちは、たぶんに「見神的」な性格を持つことによって、ロビンソンやガリバーたちに代表される「行く思想」と対峙している。時には、「行く思想」の袋小路から抜け出す道をつくってきたとも考えられる。 『星からきた少女』のウィンターフェルトは、この作品で、宇宙人の少女モーの「来る」話を書くと共に、『リリパット漂流記』で、少年や少女たちが小人の国に「行く」話を書いている。 プティ・プランス。モー。これらの主人公は、異星から人間界にやってきた。しかし、ここで注意する必要のあることは、このヒーロー・ヒロインたちが「インベーダー」ではない……ということだ。空想科学小説の「来るもの」とは、あきらかに対峙しているということである。(テキストファイル化長谷野沙織) |
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