D 聖母像の謎

フィリップ・ターナーへの手紙
『私の児童文学ノート』(上野瞭 理論社 1970)

           
         
         
         
         
         
         
    

 百五十年前に行方不明になった聖母像を探し求めることは、キリスト教信仰と関係のあることだろうか。キリスト教信仰が血肉となっていないぼくには、解らない。大いに関係あり……と言われれば、そうかなと思ってしまう。そんなこともあるだろうな……と思ってしまう。ありそうなことと、そういう事実があることとは違うのだ、と考えなおしてみないでもない。ただ、作者が、牧師さんであることが、何だか右の事柄を信じた方がいいようにも思わせる。
 フィリップ・ターナー。ぼくは、『ハイフォースの地主屋敷』のことを言っているのである。
 ただ、ぼくが、全面的に、この「聖母像さがし」を、キリスト教信仰と結びつけて受け取りかねているのは、『シェパートン大佐の時計』と並べて考えているからである。『ハイフォースの地主屋敷』同様、デイビド、アーサー、ピーターが活躍する。訳者の神宮輝夫さんの書いているとおり、この主人公たちは、このあとの作品にも登場する。この少年たちが、どのように成長していくのか、ぼくには解らないが、もし、フィリップ・ターナーが、みずから選んだ聖職者の道を、何ものにもまさると考えているなら、当然、この少年たちにもその影を落すだろう。とりわけ、牧師のせがれで、発明狂であるピーターには、信仰の問題が立ちはだからないわけにはいくまい。そんなふうに思ってしまう。
 もちろん、ぼくは、科学(たとえば、ピーターの発明……)を押しのける神の、あらわな出現を言っているのではない。神は、ダーンリイ・ミルズの町に遍在している……と、言えば言えないわけでもない。『シェパートン大佐の時計』から『ハイフォースの地主屋敷』にいたるまで、オ−ルセインツ教会を中心に事件は展開していくのだから。もし、オ−ルセインツ教会のオルガンが無ければ、時計の謎は解けなかっただろうし、また、時計が謎をはらんでいることも解らなかっただろう。教会の諸記録が「聖母像さがし」にとれほど役に立ったことか。いや、それよりも、教会堂番のチャーリーじいさんをはじめとして、この教区に住んでいるプリチャード氏やラムズギル氏の存在が、語らないまでも、敬虔な信仰の遍在をあらわしているのだ……と、人は言うのかもしれない。それはそのとおりだろう。そう思うにもかかわらず、ぼくは、そうした信仰が、どの程度まで、血となり肉となっているのだろう……と考えこんでしまうのだ。
 牧師フィリップ・ターナーにこだわる必要はない。児童文学者フィリップ・ターナーとして、この二冊の子どもの本を読めばいい。たぶん、そういう意見もあるだろう。そして、この意見は、島国ニッポンの仏教的慣習、神道、土着的習俗、閉鎖的近代化、現在の擬似的平和と、独自の伝統と独自の現在を所有している(所有せざるを得ない)ぼくたちとしては、当然のものなのかもしれない。しかし、ぼくらの心情にしがみついている日本的なるものによって、ヨーロッパ的心情を、果して誤りなく読み取れるものなのかどうか。

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 いつか、大阪文学学校で、C.S.ルイスのナルニア国物語の話をしたことがある。扉のむこうの世界のスケールの大きさと、キリスト教信仰を結びつけて考えた話である。その時、一つの質問……というより、一つの反論があった。『往生要集』がある。スケールの大きさではC.S.ルイスの比ではない……というような意見だった。ぼくはその時、恵心僧都源信の、その代表的著作を読んでいなかった。すぐに、「厭離穢士」(えんりえど)に関するこの本を、読むことにした。さまざまな地獄から天にいたって、そこで、『往生要集』を投げだした。源信の浄土思想のほんのとば口で本を閉じるほど、ぼくはそこに他人事を感じたのだ。せいぜい親鸞の『歎異鈔』までがぼくの理解できそうな範囲である。
 『教行信証』すら投げだしてしまう自分が、いくら『栄花物語』に大きい影響を及ぼしているにしても、『往生要集』を「わが事」として感動できるかどうか。いや、それよりも、もしこの浄土思想が、スケールの大きさを誇るならば、なぜ、今日のぼくたちの暮しの中に、その信仰の根をひろげ、花を咲かせないのか。ぼくらは、せいぜい死者の命日と葬式によって仏教的信仰の最末端に触れる程度である。源信から、はるか離れたところにいるのである。問題は、キリスト教の教義か浄土思想か……というところにあるのではない。それらの信仰を基盤にした発想法にある。つまり、C.S.ルイスが『さいごの戦い』において示した壮大な空想……それと対等に提示できるようなファンタジーが、『往生要集』から今日生まれでているかどうかということ。また、生まれでるほども恵心僧都の思想と信仰が、ぼくらの血肉となっているかどうかということ。そうしたことを考えたのだ。ぼくは改めて、C.S.ルイスを評価しなおす必要を認めなかった。

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 こんな幕間狂言ふうなことを、ここに持ちだすのは、児童文学の発想法の根源に、根強くキリスト教信仰の息づいている世界があるためである。そして、教会を主要舞台に仕立て、その教区の人間を細密に描くことによって、フィリップ・ターナーの作品が構築されているためである。ここには、ぼくらには解らないが、暗黙のうちにクリスチャンには解る「信仰」が下敷きとなっているのか。それとも、ぼくらの「お盆」の行事なみの形式化した仏教的信仰と同じものがあるのかどうか……。ぼくが、牧師さんの書いた子どもの本……という点にこだわるのは、ステンドグラスや聖母像、教会の内部の描写やセント.メアリ小教会修復の話が、一種のミステリーを構築するための道具立てそのものに受け取れるからである。『シェパートン大佐の時計』では、五十五年前の焼死事件が解明される。『ハイフォースの地主屋敷』では、百五十年前の聖母像の問題が解明される。それ自体、結構つきあっていけるおもしろい話である。デイビドの不具の足の悩み。大吹雪のシーンのアーサーの活躍。ピーターの三輪車での登校……それぞれに個性を持った少年が、荒野(ムアー)の町で生き生きと歩きまわっている。しかし、ピーターのとうさんであるオ−ルセインツ教会の牧師さんは、なぜ、ガンズ・ケリーほども、プリチャードさんほども、おもしろくないのだろう。旧式の自動車で坂道をのぼり降りして、少年たちや提督やミス・キャデル・トイッテンに力を貸すのに、こうも常に控え目で、思慮深いのだろう。いたずら盛りの主人公たちが、読者によく見えるように、横にしりぞいた恰好で登場する。そうすることが、読者に、よりよくオ−ルセインツ教会を見てもらえるかのように、フィリップ・ターナーは、牧師さんをおさえるのだ。提督やガンズ・ケリーを立てすぎる。牧師で、ピーターのとうさんであるベックフォード氏が、脇役にまわることによって、ぼくらは、オ−ルセインツ教会、ひいては、神の恩寵の一端に触れ得るというのだろうか。

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 なんだか、まわりくどい言い方になってしまった。もとにもどって、言いなおしてみよう。
 ぼくらには、キリスト教信仰、あるいは、それから醸成される独特の習俗・心得がない。それにもかかわらず、ここには……ダーンリイ・ミルズ(という架空の町)には、それらの理解なしでもつきあえるものがある。これは、教会、祈り、賛美歌、神、そうした独自の枠組が、すでに大道具・小道具の地位まで引きおろされたことなのか。それとも一切の教義信仰なしでもヨーロッパの神が、ぼくらを受け入れるくらい寛大であるということなのか。どちらなのだろう……ということだ。

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 『行く思想と来る思想』という小論を書いた時、ファンタジーの成立は、現実における信仰の退潮と関係がある。そんなことを考えた。可視的な現実世界で、見失われた神の奇蹟を求めて、不可視の世界にさぐり入ること。そう考えていた。イギリスに、すぐれたファンタジーの多いことは、絶対的な価値観の崩壊と関係がある。それと空間の思想の行きづまり。つまり、『行く思想と来る思想』の中では、空間中心主義、すなわちスペース・ドラマの限界を指摘することに急だったため、この絶対的な価値観の問題は正面に出なかったが、ぼくの頭の片隅にあったことは、常にキリスト教信仰の問題だ。ぼくらの日常性からは推測できないキリスト教的日常生活の心情。それは、日々の生活の中で、どんな形で退潮しているのか。どんなふうに不可視な退行をはじめているのか。ぼくは、C.S.ルイスやフィリパ・ピアスの作品から、逆探知する以外に、何の知恵も持ちあわさなかった。
 しかし、フィリップ・ターナーの二作を読んだ時、ぼくは、冒頭に記したような疑問を感じたのだ。そしてそれは、フィリップ・ターナーが、牧師さんであるにもかかわらず、『シェパートン大佐の時計』においても、『ハイフォースの地主屋敷』においても、ついに、彼岸の世界を語らなかったことによる。ターナーが踏みわけてぼくらを連れこんだ世界は、五十年前の一人の男……イギリスの情報活動員の仕事の内容と、百五十年前の一人の芸術保護者ジェームズ・ジョージ・アダムスの功績の内容なのだ。シェパートン大佐は、五十年後に愛国者として顕彰され、アダムズは百五十年後に正しい理解者を得た。謎は解けた。これはこれでめでたい話なのだが、ここには神の恩寵があるのだろうか。ぼくは、説教を期待しているのではない。いわんや奇蹟や不可思議なエピローグを望んでいるのでもない。
 この二篇の作品は、ぼくが「行く思想」と仮りに名付ける発想法の中で、もっとも安易なスペース・ドラマの道をえらんでいるのではないか。未来を目ざすかわりに過去を目ざしているのではないか。そう言いたいのである。これらは一見、時間に取り組んでいるようにみえながら、実は、視点を移しかえた空間ではないのか。その証拠に、ぼくらの日常的秩序や形式化した価値観は、どこにおいても打ち破られたり、踏みこえられたりしていないということなのだ。もとより、それが望むところ……と言われればそれまでだ。ダーンリイ・ミルズでの愛国者の再評価や聖母像の発見。それが、すなわち、キリスト教的愛の世界、摂理の世界の顕示だ……と言われれば、ひきさがるよりない。しかし、ひきさがりながらも、「なーんだ。それじゃ、教会は大道具なのかい」と、つい、すてぜりふの一つも吐きたくなるのだ。

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 ぼくは、「手がたいリアリズム」としか言いようのない二つの作品の中に、構想力の不十分な使行をみているということである。デイビド。アーサー。ピーター。プリチャ−ド氏。提督。ガンズ……みんなそれぞれ、生き生きと描かれている。それにもかかわらず、これら全員の取り組んだ問題が貧弱ではないか……と言いたいのである。謎解きのおもしろさはあるだろう。しかし、これらの謎を解くことによって、ぼくらは、あざやかな今ひとつの人生、今ひとつの生き方に触れることはできないのだ。大吹雪の中の羊あつめ。鉛泥棒を逮捕するための活躍。マキントッシュ巡査部長や、説教壇から転げ落ちる牧師。これらのエピソードの方に、謎自体よりもおもしろさを感じるのである。これらは、ぼくらに、キリスト教信仰がなくっても理解できる話なのだ。
 フィリップ・ターナーは、「行く」べき方向を誤っているのではないだろうか。五十年前。百五十年前。それは魅力ある話であろう。ただしかし、過去へ遡行することによって、ぼくらは、デイビドほどに、発見し得た新事実に感動することはできないのである。デイビドをはじめとする少年たちの活躍に、多少の感動をすることはできるとしても、この少年たちが、白日のもとにさらしていく過去の事件によって、ぼくらは深い感銘を得ることは少ないのだ。軍事探偵=愛国者。悪人=芸術の保護者。どうも、出てきた結果につまづいてしまうのだ。これが、キリスト教信仰と結びつくものなのか。それとも結びつかないのか。ぼくは、美しく描かれたダーンリイ・ミルズの坂道で、なんとなく、フィリップ・ターナーさんに聞いてみたい気持ちを、おさえることができないのである。
テキストファイル化四村 記久子