E モルナール・子どもの時間

『パール街の少年たち』
『私の児童文学ノート』(上野瞭 理論社 1970)

           
         
         
         
         
         
         
    

 今江祥智の作品に、『さよなら子どもの時間』というのがある。
 ぼくは、モルナールの『パール街の少年たち』を読み終った時、その題名をしみじみと思いだした。
 しみじみと・・・・・というところは、たとえば、シューベルツのうたう『風』のような感じだ。
   ひとはだれも ただひとり
   旅に出て・・・・・
 ネメチェク・エルネーの死が、この感傷的な歌につながるのではない。たぶんそれもあるだろうが、ネメチェク少年のひたすらなる「原っぱ」と仲間への忠誠。ボカ・ヤーノシュの苦悩。赤シャツ団のアーチ・フェリの態度。それらを一切合切含めて、ここに「子どもの時間」があること・・・・・それがコチコチと音を立てて「大人の時間」に近づいて行くことが、僕の心を疼かせたということである。
 ケストナーは『私が子どもだったころ』の「まえがき」で、「物さしは時計ではなくて価値である。そして、一ばん価値のあるのは、楽しいにせよ、悲しいにせよ、幼年時代である。忘れられないことを忘れるな!」と書いた。「子どもの時間」のかけがえのなさ。計り知れない重み。モルナールは、この価値あるものを、パール街の材木置場を中心に、みごとに描きあげた。

 プタベスト。一九〇七年

 これは、記念すべき年だ。少年群像を描いた作品は多い。ケストナー。ルイス。タウンゼンド。ぼくらは、すぐに、いくつかの作品を思い浮べることができる。『エミールと探偵たち』(一九二八年)や『オタバリの少年探偵たち』(一九四八年)や『ぼくらのジャングル街』(一九六一年)を数えあげることはできる。これらは、それぞれに「子どもの時間」と「大人の時間」の接点に触れている。しかし、だれが、大人の時間に組みこまれる前の、子どもの時間それ自体を、唯一の「人生」としていきぬいた少年を描いただろうか。ネメチェク・エルネーの悲しいまでの美しさは、大人になってふりかえってみる「人生の一齣」ではない。かれにとっては、ただそれだけが・・・・・原っぱと、パテ・クラブと、仲間の少年と、赤シャツ団だけが、すべてなのである。
 子どもは、否応なしに「子どもの時間」から卒業させられる。大人のいう「人生」を「人生」だと考えるようになる。そして、「思い出」として、まるで固形燃料をかかえているように、時々それに火をつけてみる。砂漠のラクダのように、コブの中のたくわえを反芻してみる。しかし、砂嵐の中で「思い出」として反芻される「子供の時間」は、すでに「人生の一齣」の比重しか持たない。「子どもの時間」それ自体が、人生であるネメチェクの重みからは、はるかにかけはなれている。

 さよなら、子どもの時間。

 いいことばだ。五階建てのアパートに占領される原っぱを前にして、ボカ・ヤーノシュの胸をしめつけるものは、この短いことばだろう。アーチ・フェリは、赤シャツ団の団長をおりた時、このことばを呟いたにちがいない。ゲレーブは、裏切りの重さに気づいた時、そのことばが、頭の底をかすめるのを感じただろう。そして、読者は、一切合財の物語の幕が降りた時、この今江祥智風な表現を、パール街にではなく、それぞれの胸中で感じたはずだ。子どもの時間を持っている大人は、大人の時間を持っている子どもより大切だ。これは「思い出」に取りすがることではない。それ自体を、一つの人生として知っていることである。そこにみずからが、生きていることである。

 ぼくは、モルナールと今江祥智をパラレルに語っているのではない。もし、そんなふうに受けとれるとしたら、それは早漏というものだ。異性を禦することは易しいが、子どもの時間に参加することは、やさしくはない。そのことを、今江祥智は、はっきりと言っている。そのかれのことばが、モルナールを評価する場合、ぼくにぴったりに思える。こういえば、「異性を禦する云々」を、今江祥智の発言だと思うものもあるかもしれない。かれの名誉のためにいっておくが、これは、ぼくのことばである。というより、ぼく流の、作家態度に関する受けとめ方なのである。比喩は「大人の時間」に所属する。ただ、モーレツ!と、スカートのはしをひんめくることを、「大人の時間」と心得ている人には理解しがたいものかもしれない。当然、モルナールも、その視界には入らないだろう。しかし、一九〇七年のパール街を歩くか歩かないかは、今、「子どもの時間」を生きているものにとっては大切なことだ。モーレツやニャロメによってのみ現代を語る人。そこには、「さよなら子どもの時間」という厳しいことばさえ口にする日が存在しないのではなかろうか。

 訳者の岩崎悦子さんに、これを讃辞として送りたい。縁もゆかりも一面識もないぼくが、讃辞とはチャンチャラおかしい話だが、このきびきびした訳は、ぼくを感動させた。原書も読めないくせに、うまいのかへたなのか解らないじゃないか・・・・・という意見もあるだろう。しかし、へたな訳者としての経験を持っているぼくには、うまいなと思われるのである。ひょっとして、それがモルナールにすべて負うところであっても、別に気にすることはない。

 さて、淀川長治ふうにこの小論(?)をしめくくろう。パール街の子どもの時間よ、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ・・・・・・。
テキストファイル化小野寺紀子