F この闇のかなた

ローズマリーは緋色の戦士
『私の児童文学ノート』(上野瞭 理論社 1970)

           
         
         
         
         
         
         
    

 『太陽の戦士』がいいよ……というのは誰に聞いたのだろう。いぬいさんだったようでもあるし、新村徹さんだったようでもある。
 ローズマリー・サトクリフ。海軍軍人の娘で身体障害者。これは訳書の猪熊さんの解説と、『イギリス児童文学散歩』(図書・242号)で知った。だから、どうってわけはないのだが、猪熊さんの書いているように、ドレムという主人公が、右腕のまったくきかない若者であることは、やっぱり作者の不自由さと関係があるのかな……と考えてしまう。『イギリス児童文学散歩』を読むと、サトクリフさんは、ギリシャへ旅をするとかしたいとか洩らしているから、永井明さんほどじゃないんだな……とも考えたりする。永井明さんの『終りのない道』を読んで、ぼくは、二本足で立っている、そして歩いている……という事実が、どんなに貴重なものか、いや、すばらしいものか、はっきり教えられた。教えられたくせに、ぼくは、その人間としての価値を、すぐに忘れる。あたり前のこととして見すごし、頭で歩きたい……などと考える。きっと、永井さんにとっては、許しがたい傲慢さなのだろう。ぼくは、自分の倣慢さを反省するのだが、そのくせ、永井さんには苛酷な要求をする。まったく歩けない世界の中で、空想の足で歩くことを要求する。永井さんが、早く、誰にも使えない呪文を発見し、誰もが行けない世界へ行くこと、そして、その世界のことを、ぼくらに語ってくれることを願う。ローズマリー・サトクリフ。このイギリスのおばさんだって、自分だけの世界をみつけだし、自分だけが行ける呪文を発見したのだ。
 ぼくは今度、猪熊さんの訳で『ともしびをかかげて』を読んで、『太陽の戦士』では味わえなかった深い感動を受けた。手足の不自由な作者が、頭でではなく、空想の足で、大股に、ぼくらの心の中を闊歩する姿を見た。歩こうと思えば歩けるんだな……と思った。今、ぼくらは(いや、ぼくは……だ)、少しも歩いてなんかいやしないんだ。歩いているつもりなんだな……と解った。『三百六十五歩のマーチ』なんてのを、水前寺清子が歌っているが、あんなの行進じゃないんだから、うれしそうに歌うなよ……と、言いたくなる。
 ぼくは、歩いているローズマリー・サトクリフの姿に少し見とれている。ても、どんなふうに歩いているのか。それを語らないと、だめだろう。坐っているものの、それは一つの義務だろう。坐っている……ということは、なにも机の前に坐っていることを言っているんじゃない。目に見えるもの。耳に聞こえるもの。かくあるがままの状況の中を、せわしげに行き来する生き方を指している。ローズマリー・サトクリフは、人の知識として見るものを……既定の事実として引き出しにしまいこんでいるものを……ずっしりした人の命として引き出しから取りだす。何一つ片付いたものはないということを、ぼくらに示してくれる。それは『ともしびをかかげて』の最終章で、主人公のアクイラが、医師のユージーニアスと語りあうことばに端的にあらわれている。
「暗闇のむこうにいる人びとは、われわれのことを記憶していてくれるものでしょうかね。」
「おまえさんだの、わしだの、あの連中だのは、すっかり忘れられてしまうさ。たとえあとにくる連中が、われわれのしたことを受けつぎ、その中で生き、死んでいってもな。」
 暗闇のむこうにいるのはぼくらだ。ぼくらは、三世紀のブリテンに、一人の人間が生きていたことを、ぼくらと同じように(それ以上に)苦しみ悩み、戦い血を流し、死んでいったことを忘れている。忘れているよりも知らないのだ……と言うものもあるだろう。たしかに、ドーバー海峡のかなたの歴史を知らない。だが、ぼくらもまた、この日本列鳥の三世紀を持っているのだ。邪馬台国の卑弥呼が、親魏倭王となった事実を抱えているのだ。知らないことは学べばよい。ローマ軍団に征圧されたブリテンという事実くらいは知るようになるだろう。しかし、事実を知ることによって、人間はよみがえってはこない。忘れ去られているのは、そこに人間がいたということであって、何かがあったということではない。何ががあったという事実は、考古学者や歴史家や人類学者によって掘りおこされるだろう。人間がいて、どんな暮しをたてていたかということも、確認されていくだろう。しかし、その人間が、一回限りの命にすがって、多くの桎梏の中でうめきつつ、希望と悲嘆にひたっていたこと。ぼくらが今日、それぞれの場において、一回限りの生を燃焼しているのと同じように、その人間の一人一人が生命を燃焼していたことを、知識は掘りおこすことができない。ぼくらは、この単純明解な事実を忘れている。知らないのではなく忘れている。
 アクイラとユージーニアスの語っていることは、ぼくらの無知ではなくて、ぼくらの物忘れ……人間忘れのひどさだ。ぼくらもまた、アクイラ同様、暗闇のむこうに向って、同じ呟きを洩らすはずなのに、この暗闇を見ようとはしないのだ。ローズマリー・サトクリフの功績は、このぼくらの度忘れした人間の一回性を、空想の手足でゆっくりと掘りおこしたところにある。『太陽の戦士』が青銅器時代を、また、『ともしびをかかげて』が鉄器使用の時代を、生き生きと再現してみせた……という点にあるのではない。再現ということばには、土器の破片をつなぎあわせる技術的操作しか含まれていないが、サトクリフのそれは、その時代をみずから生き抜く息吹きを、ぼくらに示す。再現された過去が問題なのではない。そこに、人が生きていることが問題なのだ。しかも、それは、暗闇の中で、すこしでも「ともしび」を前に持ち運ぼうとする人々であることが・…。

 四百年にもわたるローマの統治が終ろうとしている。ブリテン全土に時代の波紋は敏感に拡がっていく。「海のオオカミ」と恐れられるサクソン人(ゲルマン民族の一派)の東北からの侵入。南西には海上より侵入掠奪を目的とするスコット人。ブリテンの北方に勢力をはるケルト族。物語は、ルトピエの砦から、最後のローマ軍団が撤退をはじめるところから始まる。
 主人公アクイラは地方軍団の指揮官。もし、かれがローマの軍船に乗れば、永久に、生まれ育ったブリテンの土地を見ることはないだろう。かれは、まだ見ぬローマ帝国のために、その人生を捧げねばならないだろう。しかし、かれは果してローマ人なのか。ローマ軍団の兵士には違いないが、アクイラの母なる大地はブリテンなのである。名義上の祖国と実質上の祖国。この二者択一の悩みは、アクイラー人にとどまるものではない。ぼくらの時代のぼくらの生活の中に、常に突きつけられている問題でもある。
 アクイラは脱走する。脱走兵として、自分の内なる祖国につき、自分の外なる祖国に背をむける。かれは、盲目の父親フラビアン、妹フラビア、もと奴隷にして家庭教師であるデミトリウスたちのいる「家」にもどる。しかし、「何なのだろう、家とは。そして、それは、なんと容易に失われてしまうものなのだろうか。」と考える。そのとおり、ある夜、サクソン人の掠奪隊によって、家は一瞬のうちに廃墟と化してしまうのだ。父は殺され、妹は連れ去られ、アクイラは奴隷となり、ブリテンを遠く、海のかなたのウラスフィヨルドに暮す身となる。
 三年の後、犬のように首輪をはめられたアクイラが、ブリテンに移住するサクノン人と共に、ルトピエを前にした時、かれを待ち受けているのは、冷酷な事実である。妹フラビアが、父を殺したサクソン人の妻となり、一人の子どもまでもうけていることである。その妹の手で首輸のままの脱走。ニンニアス修道士との出会い。医師ユージーニアスの手引きで、ブリテン統治を夢見るアンブロシウスの「仲間」となること……。ぽくらは、この前半の中に、すでに今日にも生きている一人の人間を発見する。楯と剣と馬と弓矢の時代に、いわゆるヒーローではない一人の男の、激しい内面の葛藤を読みとる。戦いにつぐ戦いの後半二十年の物語は、常に苦悩するアクイラの心をみつめることによって、ぼくらをひきずる。ブリテンの軍団強化のために、愛する男から引きはなされて、アクイラと結婚させられるネス。妹フラビアの苦しみは、アクイラの妻の苦しみでもある。愛してもいない男の子どもを生むネスは、フラビアのたどった運命をそのままなぞっていく。
 冒頭、アクイラは、妹のフラビアとかけっこをして負け、「赤いスリッパ一足」を与える約束をするが、このさりげない約束が、物語の終結部で、ぼくらを大きく感動させる。
                *
 ローズマリー・サトクリフの描きだしたものは、単なる運命劇ではない。運命のいたずらにもてあそばれる主人公を通して、ぼくらが今日ただ今、暗闇の時代にあって、なおかつ光をかかげ持ち運ぶ必要のあることを示しているのだ。医師のユージーニアスは、サクソン人を追い払った勝利のあとに、つぎのように語る。
「われわれはいま、タ日のまえに立っているように、わしには思われるのだ。そのうち夜がわれわれをおおいつくすだろう。しかしかならず朝はくる。朝はいつても闇からあらわれる。太陽の沈むのをみた人びとにとっては、そうは思われんかもしれんがね。われわれは『ともしび』をかかげるものだ。なお友だちよ。われわれは何が然えるものをかかげて、暗闇と風のながに光をもたらすものなのだ。」
 ぼくは、わざと、物語をはしょった形で抜き書きしてきた。それは、いくらくわしい抜き書きをしてみても、「あらすじ紹介」は所詮「あらすじ」でしかないからだ。肉と血と汗と脂のその厚みは、サトクリフの描くままに、ぼくらがたどる以外知ることはできない。楯と剣と馬と弓矢は、ともすれぱ大スペクタクルを標榜するアメリカ映画を連想させるかもしれない。しかし、ぼくらの感得するのは、楯でも剣でも馬のいななきでもなく人間の息吹きと体臭なのである。ここに人あり……と、歴史年表に書きこまれるいくたのヒーロー。そのヒーローの陰で、白分の一回限りの生を、つかの間の「ともしび」として消えていった人間たちである。不合理で、理不尺で、あまりにも多くの制約や慣習のきずなのある社会で、黙々と苦しみに耐えつつも、朝の訪れることを信じようとした人たちである。
 三世紀のブリテン。それはあまりにも遠い。あまりにも、ぼくらからかけはなれている。それにもかかわらず、ぼくらは、アクイラを身近に感じる。ぼくらの時代に、引き寄せられる。これは、ローズマリー・サトクリフが、不自由な手足以外に、空想の手足をわがものとしたからだ。その足で、大股に、闊歩したからだ。過去は決してむこうからはやってはこない。ぼくらの、よく行き得るところではない。行くべき呪文。行くベき手がかり。それは、彼女が人間を、そこに見ることからはじまる。ぼくらは、あるいは奴隷であったかもしれないし、サクソン人であったかもしれないのだ。だれだって、今日ただ今、ぼくらが、この時代の、この社会の中にしか、生まれなかったとは保障し得ないのだ。このように生き、このように暮しているぼくらが、このように生き、このように暮していたブリテンの人びとを忘れ去っていいものだろうか。ぼくらも、アクイラもフラビアも、ただ一度の生を生きるしかない。そのただ一度の生を、『ともしびをかかげて』サトクリフは生きている。『太陽の戦士』とは、男性である必要はないのだ。サトクリフも、ドレム同様、『太陽の戦士』なのだ。ああ、それにしても、ぼくらのまわりには、何と愚かな女性を、つくりだそうとする人間のいることか。「あなたごのみの、あなたごのみの女になりたい…」など歌うやつ、歌わすやつ……。「そのうち、夜がわれわれをおおいつくすだろう。」

テキストファイル化藤井みさ