N 親の因果・子の因果

『ハレンチ学園』論
『私の児童文学ノート』(上野瞭 理論社 1970)

 学校。それは檻の中の野獣生活だ。永井豪は少なくともそう言っているように思う。この若いマンガ家に、どれほどの計算があるのか知らないが、結果として「学校」は「社会」とパラレルに透視されている。そうでなければ、なぜヒゲゴジラのような教師が登場する必要があるだろう。ヒゲゴジラは、ヒゲだらけの男っぽい教師のくせに、べっとりまとわりつくような非男性的言動をとる。けものの皮一枚を身につけて、常に甘ったれた女ことばを発している。本名、吉永さゆり。ふざけた発想だが、悪ふざけを徹底すると、大人の恥部が出るのだから、まんざらすてたものでもない。授業をやめて、教室で小学生と酒をのもうとする。そこへ荒木又五郎というフンドシ姿の、刀をぶらさげた教師が登場する。バッサ、バッサと、女の子の衣服を切り落とし、果てはストリップで「ひとつ出たホイのヨサホイのホイ…」と踊りだす。顔をしかめる「悪書追放運動父母の会」の表情が目に浮かぶようだ。

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 『ハレンチ学園』その入学案内書ともいうべき阿部進の解説をみてみよう。
 永井豪の果たしている役割として、安部進はこう書いている。
「陰しつなものから、性本来のもっているおおらかさ、太陽のもとでの解放を子どもたちに呼びかけている…」
「底ぬけの人間のよろこび、仲間意識のあたたかさ…」
 阿部進は『ハレンチ学園』を性教育を通して連帯性を樹立する世界と考えているらしい。寛容の美徳というものは、時として、無差別な価値観を生む。どうして、ホモのマカロニ先生が「おおらか」なのだろう。「性本来の」という場合の、その本来の姿は、スカートめくりに集約されているものなのだろうか。

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 ぼくは、こう考える。
 人間には体験の領域と深度がついてまわる。永井豪のそれは、案外に狭小で皮相である。しかし、狭小であることは、一点の熟知にも通じ、皮相であることは、感覚的認識を余儀なくさせる。なまなかな形而上学では見落とされがちな現象。そこに湧出している現代人の軽薄な実相。永井豪は、期せずして、その弱点を描きだしたのだ、と。
 もちろん、こう言う場合の『ハレンチ学園』とは、ぼくらの「社会」のことだ。また、『ハレンチ学園』に登場する教師連は、大人一般を指す。「教室」とは、大人と子どもの混在して成り立っている日々の生活のことであり、ハレンチな行動は、常に、ぼくら大人から子どもにむけて放射されている生活態度ということだ。モーレツごっこを強要するヒゲゴジラがハレンチなのではない。ヒゲゴジラや荒木先生がマカロニ先生に集約できる大人一般がハレンチなのである。ここを誤って、一種の学園マンガとみると、ひどい結果が生まれる。いわゆる「学校教育」の不在を主張している点が、永井豪の「果たしている役割」なのだ。
 しかし、永井豪には、安部進の指摘するような「性本来のおおらかさ」はない。スカートめくり、女生徒の水着姿での授業風景、はては裸にむしりあげようとする設定…。これは、永井豪のそうしたい願望からきている。この願望が、たまたま阿部進の願望と重なり、ぼくら大人の助平根性と重なって、なんとなく「性」解放のイリュージョンを生んでいるにすぎない。のぞき、くすぐりは、擬似性解放である。美しい肉体を「見る」ことと「性行為」とは、いささか異質である。解放ということは、性意識の陰湿さを擬似ボルノグラフィに譲り渡すことではない。人間行為の価値転換であり、性に対して美意識を確立することである。恥ずかしがっている女生徒を、ニヤニヤ眺めまわす発想の中には、女奴隷とハレムの王者という古めかしい性意識しかない。ハレンチな男性は、これで仲間意識を確立できるにしても、その道具視されている女性は、被害者的連帯感しかもてないわけだ。この人間関係は、じつに陰湿だ。阿部進の入学案内書どおり感心しているわけにはいかない。

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 コルネイ・チュコフスキーがうまいことばを引用している。
「…子どもがたまたまたずねたからといって、《子どもの生まれる秘密》を性急にうちあける必要などはごうもない。そういう問いには、特別な性的好奇心などはまだ全然含まれていないし、秘密をかくしたところで、子どもは苦にもしないし、悩みもしない。(中略)しかし、もし諸君が、男女関係の奥の奥まで、微にいり細にわたって、その子相手に講釈をはじめたりすると、かならず性的分野に対する好奇心をその子にもたせて、そのうちに、あまりに早すぎる想像力までも呼びおこすことになるだろう。諸君が、その子どもに伝える知識は、かれには全く無用無益であるが、諸君によってあおられるかれの想像力のたわむれは、まだその時期もこない性的体験に、口火をきらせることになるかもしれない。」
「…性問題をあまりに早くから子どもと論じあうことに反対するのは、ほかにも考えがあるからだ。時期尚早に、赤裸々に性問題を論じたりすると、性的分野に対する粗野な合理主義的見解を、子どもに持たせることになり、時々、おとなが秘中の秘に属する自分の性的体験を、平気で他人に打ちあけるときにみうける、あの人をくった下品さのはじまりとなるからである。」(マカレンコのことば…)

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 本気で知りたがっているかどうか…たしかにこれは一つの問題である。なんとしてでも、それを知りたい、知らねば心やすまらない…という時期がある。年齢に応じて、「それ」は異なる。「それ」が異なるように、知りたい時期も個人的に異なる。だから、チュコフスキーの(いや、マカレンコの)「まだその時期もこない…」という言い方は、一方的な断定だと考えるものもあろう。『ハレンチ学園』に引っぱりだされる小学生は、「その時期」だ…というものもあろう。それなら「性」を「野獣」の次元で提示するかわりに、「人間」の次元で提示しなければならない。ヒゲゴジラや、荒木先生を通して提示されるものは、人間の部分であり、部分が代行している全体である。欲望が人間に先行している。つまり、そのようにしか作者の受けとめられない現実がある…というより、そのようにしか現実を受けとめられない作者がいるのだ。もし『ハレンチ学園』の小学生が、安部進の入学案内にあるとおり、「性の本来性」や「人間のよろこび」を知るにふさわしい時期にきているなら、「人間」を教えねばならない。「人間の愛」を語らねばならない。犬の、あるいはジャングルの交尾を(あるいは発情期のじゃれあいを)カリカチュァライズしてみても、あまり笑えないのだ。水着姿にされた女生徒の一団が、荒木又五郎に軟禁されて、その状態をよろこぶなどは、マゾヒズムをイコール性と考えているとしか思えない。たしかに、テレビや新聞に騒がれることや、それを受け入れるぼくらの浮薄さや、また、機動隊の学生アレルギーの個所はおもしろい。しかし、永井豪の目は、その現状況を、クリティシズムを集約した形で見つめるよりも、少女の性をみつめすぎるきらいがある。その目が、ぼくには気になる。おとなのばかばかしさを笑いとばした彼が、おとなにかわって、おなじばかばかしさを、もっと、おおっぴらにやりかねない…、そんな気がするからだ。そんな危惧を抱かせるほど、作者は夢中になって、女の子むしりを描き続けている。みんな、おとなのやっていることなんだぜ。おとながわるいんだぜ…とうそぶきながら、おとなのいやらしさを子どもの世界に持ちこんで、革命的な気持ちでいる。「人をくった下品さ」とマカレンコは言ったが、まずこれは、オナーニー漫画だ。ついでに、「秘中の秘に属する自分の性的体験」ということについて記しておこう。肩ひじはった「性解放主義者」なら、得たりかしこしと、このことばに飛びつくだろう。こうした発想に「陰湿な性」をかぎつけて快哉を叫ぶだろう。しかし、「秘中の秘」というほど「性的体験」はオーバーなものではない。マカレンコはそう考えているとしても、ぼくにはそうは思えない。ロシア語が読めないから、果たして訳語どおりの表現が使われているのかどうか、ここは思案のしどころだが、快哉を叫んで食い下がるような事柄でもあるまい。酒の席で、好んで露悪気味な色話をするおとんがいるが、そいつを、シラフで、やることに対するくだらなさ…程度に考えるべきだろう。他人が自己の閨房譚をやるのは勝手だが、それをもって「人間」を規定されることはがまんがならない。ケストナーの小説の中で、ある母親が、息子をさとして、お金持ちとは、何ひとつ取り柄がないため、神様が、せめてお金ぐらいは持たしてやろうと考えられたのさ…というシーンがあったが、真似ていえば、つぎのようになるだろう。
 …人間とは所詮そんなものよと、性器を指していうもの。たぶん、ほかに何ひとつ間がえることがないだめ、神様が、あわれんで、そのことぐらいを考えられるようになさったのだろうさ。

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 ハレンチは所詮ハレンチである。ハレンチを売り物にした途端、ハレンチの持っている既成秩序に対する批判力はにぶる。ハレンチに解放や連帯の意味を押しつけた途端、ほんとうにハレンチな居直りが生まれる。
 永井豪は、まず、その点を考えるべきである。自分の作品につけられた「入学案内書的評価」に首をかしげるべきである。トイレの落書きは、そのまま性解放には結びつかない。『ハレンチ学園』はトイレの落書きを売っている。その発想の基軸には、それとパラレルな意識構造がある。戦後教育の、男女共学の不完全な状況が、こうした意識を育て、こうした申し子を生んだ。
 笑っているのは、たぶん、このマンガを起用した雑誌の編集者くらいだろう。子どもは、何だって真似をするものなのだ。野球ケンで、タレントを脱がしていくテレビ番組がある。あのまわりに集まった子どもの表情。ストリップ劇場のかぶりつきで、ストリッパーの性器に全神経を集中しているおとなの顔を見る。このおとなを指して、永井豪よ、きみは「人間」を発見したというだろうか。きみはせめて、アップライクの『カップルズ』くらいは読むべきなのだ。ヒゲゴジラや、それに集約されたおとなのおろかさを描いていいるうちに、きみ自身が「部分によって全体を代行する人間」となりかねないからだ。

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 さいごに、悪書追放を叫ぶおっかさんにいっておきたい。ハレンチなのは、ハレンチ・マンガを描いている作者にあるのではない。ハレンチにも、笛を吹いて、ハレンチ・マンガ家を踊らせている利益収奪体制にある。そういえば、気の早いママは、特定の本屋をにらみつけるかもしれない。しかし、利益収奪体制は、一軒の本屋によって終わるものではない。ママが今、「悪書」という名の状況の「部分」にこだわることによって、見すごし、あるいは不問に付している剰余の側に存在するのだ。

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 ママ…。あなたは今、何を読み、何を見ているのか。テレビを前にして、モーニング・ショーやアフタヌーン・ショーを見ているのではないだろうか。もし、そうだとしたら、それもまた一種の、巨大にして巧妙…「教養」や「毒舌」や「良識」を売りものにする『ハレンチ学園』であることを考えてみるべきだ。永井豪の『ハレンチ学園』は、そのミニチュア版なのだから。

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 結論は不要だ。ハレンチを騒ぐ前に、まず婦人雑誌のもの欲しげな性記事に熱中している自分を眺めてみよう。良識ある婦人の御亭主の本箱をのぞいてみよう。ハレンチは、まわりまわってそのあたりから子どもの本棚にかえってくるのだ。「親の因果が子に祟り…」というではないか。この場合、子どもとは、永井豪のことでもある。こんなへたくそなマンガが、世間様をお騒がせすることに、おっかさんやママさんよ。あなたの「悪書追放運動」は、その不肖の息子の不始末を「もう書かせませんから…」といって頭を下げてまわっているのに似ている。この息子さえ不始末をしでかさなければ、万事カタがつく…という構えがある。果たしてそうだろうか。ぼくは、悪書追放という部分的な行動にのみ、良識と教育の名をふりかざすその発想に、いっそうハレンチなものを感じるのだが…。

テキストファイル化鷹見勇