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ほくはかつて、ルーネル・ヨンソンの『小さなバイキング』を評して、アンティ・ビルドゥングス・ロマンと規定したことがある。その時、対照的に、教養小説の系譜につながりのある作品をいくつか挙げた。『天と地と』の金津新兵衛や『赤ひげ診療譚』の新出去定・・・・・・これらの人物を挙げて、人生開眼者となるヒーローの、水先案内人と記した。ビルドゥングス・ロマンには、人生未体験者が成長するための人生体験者が介在することを指摘した。
 今、この規定を『巨人の星』にあてはめてみて、ヒーローの父親・星一徹が、その人生案内者の役割を果たしていることを感じるのだが、果して星飛雄馬は、どんなふうに自己を成長させるのだろうか。たしかテレビのインタビューで、『あしたのジョー』と比較して、『巨人の星』は、一歩一歩、人間形成をしていく物語だと説明されていた、そんな記憶がある。とすると、まぎれもなく『巨人の星』は、マンガによるビルドゥングス・ロマンを目ざしたものだ、ということになる。
 条件は揃っている。戦前(戦中も入ったのかもしれない。)幻の名選手と呼ばれた星一徹。この父親が、しごきにしごいて飛雄馬をヒーローに仕立てていく。巨人の輝ける星となるためには、冷酷無惨とも見える仕打ちを取る。そこに加えて、巨人の二軍でのしごき。さらに、飛雄馬がみずから自己をかりたてての特訓。人生、意気に感ずるタイプの、もと青雲高校柔道部キャプテンの伴宙太。ただひたすら飛雄馬と技を競いあう花形満。生活のために、野球という特技を生かす左門豊作。こうした人物とのからみあいの中で、「野球なんて大きらいだ」と反抗的であった飛雄馬が、王貞治の態度で「野球に命を賭けること」を知り、高校野球部、甲子園大会、巨人入団、大リーグボール開眼・・・・・と成長していくのだ。何一つ欠けるもののない構成・・・・・と言いたくもなる。
 しかし、はじめにも言ったとおり、野球との新鮮な出会いを持たなかったぼくは、この計算されたみごとな葛藤の中に、実は、やりきれない「人間教育」を見てしまうのだ。かつて「東洋の魔女」を仕立てたバレー・ボールの監督は、「根性」ということを唱えたそうだが、その時に感じたやりきれなさと、この『巨人の星』感は似てくる。
 ヒーローの成長と言ったが、所詮は「野球人間」の完成ではないか。人間が、部分的に成長発展していくだけのことではないかと、ぼくはうそ寒くなるのである。
 もちろん、作者側としては、カーディナルス球団のオズマ選手を登場させることによって、人間が「野球ロボット」にされることを批判している。十二巻の「青春編」のように、ヒーローが日高美奈との悲恋を通して、野球よりも別に、人間の価値のあることを知るように物語は進められている。伴宙太の友情。姉の明子の苦悩。花形の激励。ひろいあげれば、ヒーローと、ヒーローを取りまく人間像の中に、ぼくの言う「野球人間」・・・・・野球だけが能の男・・・・・を否定する要素はいくつもあるだろう。しかし、人間の成長発展が、たしかに狭い一芸の中でしか達成されないものだとしても、人生の開眼は、その一芸をすら見かえすものでなければならない。星飛雄馬の一芸は野球である。野球の論理は、強者の論理である。力がすべてに先行する。投球力。打球力。捕球力。他のチーム、他のプレイヤーを押しのけ押し倒し、その後に人はヒーローとなるのだ。
 野球ファンは、『巨人の星』の飛雄馬に、やがて吉川英治における『宮本武蔵』のような悟達のヒーローを思い描くのかもしれない。しかし、剣に生きた男たちは、少なくともその技を見世物としては考えなかった。寛永御前試合のごときショーはあったとしても、ショーそのものによって剣豪と評価されることはなかった。剣を媒介として、生死を賭ける争いの中で、自己の生き方を確立していったのだ。このことは、いかに飛雄馬が宮本武蔵に擬せられ、花形満が佐々木小次郎に擬せられても、超えることのできぬ一線である。プロ野球、ひいては『巨人の星』のヒーローは、野球ファンあってのヒーローであり、一芸なのである。観衆を湧かすショーであることをすてて、巨人は成立しない。見られること、見せることをはなれて、ヒーロー飛雄馬は存在しない。とすれば、その根本に「弱きをくじき、さらに強きにつく」非情の論理がなければならない。観衆も、強者も、すべて否定した飛雄馬は、『巨人の星』ではあり得ない。野球という大衆のよろこぶゲームに徹すること。その枠内で強者であること。星飛雄馬は、この体制内で苦悩する限り野球人間でなければならぬ。飛雄馬は今のところ、この枠内人生を見かえす目を、持っていない。たぶん『巨人の星』である限り、巨人という枠、それを支える社会の枠を見かえすことはないだろう。
 このマンガを見て、「人生の厳しさを教えられた・・・・・」という声を、ぼくは、しばしば飛雄馬ファンから聞いて、なるほどと思った。ハード・トレーニングの繰りかえしだ。特訓また特訓である。しかし、「厳しさ」を要求される「人生」とは何であろうか。かりに、父親・一徹の言動を通して、「人生の厳しさ」が教示されたとしても、その「厳しさ」を求める「人生」の構造なり内容なりは、ひとことも触れられてはいないのである。「根性」「意志」「強度の克己心」は示されていても、そのエネルギーの放射方向については、まったく不問のままに物語は進行するのである。『巨人の星』では、価値ある目的は、自明のものとして提示されている。「キイーン!」「ズバババーン!」という投球・捕球のカッコよさの前に、読者は疑うことを後ろまわしにする。
 しかし、カッコいい海軍兵学校のスタイル。根性、意志、克己心を、銃と共に叩きこまれたぼくの記憶。それが、「人生の厳しさ」には極度に警戒心を抱かせてしまうのである。人間の兵器化。部分的成長。これが、ぼくらの戦争時代の人間教育だった。やりきれない話である。野球と重ねあわすことはできないとしても、まったく重なりあわないとも言えないのだ。
『巨人の星』は、飛雄馬の成長史であることを認めよう。しかしこれは、疑似ビルドゥングス・ロマンにすぎない。真性のインフルエンザのように根性主義がひろがる時、それを男らしさとしてたたえる人間に注意する必要がある。

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 ぼくは、第二巻、第三巻における青雲高校のことを書くつもりだった。青雲高校という教育の場が用意されながら、野球にあけくれする飛雄馬の描き方に言わねばならぬものがあるような気がした。伴大造というPTAの会長が、職員会議を牛耳る・・・・・というような私学のあり方の問題ではない。野球をやるために青雲高校に入る飛雄馬の意識構造のようなものを、である。これは、ぼくが、甲子園大会に出場する選手を、ずいぶんと多く、教室の中で実際に見てきたことからくる。
 しかし、話は、『巨人の星』からはるかにはなれていくし、そのことを書こうと思うだけでやりきれなくなる。なにを置いても野球だ・・・・・という若もののためには、国立野球学園でもつくった方がいいのかもしれない。なまじヒューマニズムを強者の論理とワンセットにして、『巨人の星』などと言うところに、ぼくはひっかかっているのだろう。ヒューマニズムの厳しさと、強者となるための厳しさとは、少しばかり違うものであろう。その点、ワンセットで提示されると、一方の厳しさのみを了解して、それでもう一方の厳しさにも通じたつもりになる場合が多い。こいつが、ぼくを憂欝にする。野球とぼくを切りはなす。つまり、無邪気に「巨人・大鵬・卵焼き」と呟けないようにするのだ。戦後を芋と共に歩みだしたせいだろうか。もし、そうだとしたら、『巨人の星』の中で、左門豊作が一番気にいったことも、その芋のような面構えと関係があるのかもしれない。

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