あとがき

『私の児童文学ノート』(上野瞭 理論社 1970)

           
         
         
         
         
         
         
    
 このノートに収めたものは、一篇をのぞき、一九六八年から一九七〇年のはじめにかけて書いたものである。
 一篇というのは、『起点と到達点の発想』である。これは最初、『戦後児童文学の起点と到達点』というタイトルだった。当時の(一九六七年の)雑誌『日本児童文学』の編集担当者の企画で、発表時には『贋金づくり日記抄』とした。正面切ったテーマの提示に、いささか抵抗を感じたからである。
 おかげでそれ以後、『贋金づくり日記抄』のサブ・タイトルのもとに、十篇ばかり書くようになった。その中で、このノートに収めたものは五篇である。

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『贋金づくり』といえば、その名を冠した『日記』を含めて、アンドレ・ジッドの作品がよく知られている。しかし、わたしにおいて、この題名を魅力あるものにしたのは、アンドレ・ジッドのそれよりも、有馬敲
の詩集『贋金づくり』である。

 あなあなあな
 あな深し
 みみくちはなへそ
 しりのあな

・・・・・・・にはじまる作品『穴』は、いつ読んでも吹きだしたくなる。『六のつく年』や『掘りかえして』を見ていると、怒りをこめて笑いとばすというあざやかな精神の躍動が伝わってくる。アンドレ・ジッドドの方は、本来、『贋金づくり』ではなく『贋金つかい』と訳すべきだったといわれている。わたしもまた、この一冊の詩集を見ていると、『贋金つかい日記抄』とすべきではなかったか、と考えこんでしまうのである。

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 このノートの「注」ともいうべき「あとがき」で、つぎに記しておくべきは、雑誌『現代児童文学』のことである。すでに昨年、創刊号の目次まで印刷して、紹介されたこの幻の雑誌は、いまだに架空の児童文学総合誌のまま、京都の雲の上あたりを漂っている。その目次を見ると、『定型の発想』として、わたしの名前がある。これが、このノート・Tに収めた『通路のむこうの世界』である。

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 このノートの作成にあたり、まさに日夜、叱咤激励してくれたのは、今江祥智である。『戦後児童文学論』の時もそうであった。違っているのは、今やかれが、文字通り、日夜、出没できる至近距離に棲息してい
ることである。ムーミン・パパと自称する彼の、やさしい心づかいがなければ、このノートを整理することなど思いもおよばなかっただろう。

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 それにしても最初、一冊にまとめるべく予定したものは七百五十枚ばかりであった。小宮山量平さんは最初うなり、続いて、二段組みでもいいかとだめ押しされた(これは伝聞である)。その時点で、わたしの心境は微妙に変化した。そして、現在の容量まで自発的に縮少した。『映像の中の人間関係』『映像の中の人生』といった映像論をはずし、こっそりもぐりこませようとした創作や、新見南吉、壷井栄、岡本良雄といった作家論もはずした。結果、はじめに記したとおりの、ここ二、三年に書いた子どもの本のことに限られた。ややすっきりした形のノートになったと考えている。もし、そうでないとすれば、それは、わたしの責任である。

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 このノートから欠落したものが、わたしの宿題として残る。絵本。ことば。幼年童話。映像。生活の追求。歌。遊び。マンガ。えとせとら。枕のようなぶあつい本を夢みて、今は、最後の「注」を記すべきだろう。私は、小さな名もなき「子どもの本を読む会」の一メンバーである。そこの事務局長ともいうべき坂口真理子さんに、このノート整理でお世話になった。小宮山さん、今江さんとおなじく、感謝するしだいである。

テキストファイル化小澤直子