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言うまでもなく、「碇シンジ」とは、『新世紀エヴァンゲリオン』の14歳の主人公である。最低限の情報を確認しておけば、『新世紀エヴァンゲリオン』は、1995年10月から96年3月にかけてテレビ東京系にて放映されたアニメーション番組で、97年3月に『シト新生DEATH&REBIRTH』、同年7月には『THE END OF EVANGERION Air/まごころを、君に』がそれぞれに映画化された(以下煩瑣なので一括して『エヴァ』と表記する)。奇妙なことに、児童文学関係者内ではあまり議論されることがなかったようだが、多方面で『エヴァ』は話題にされ議論されていた(詳細は次回)。しかし、評論方面で語られることが少なかったからといって、そのような傾向の作品が児童文学およびその周辺になかった訳では決してない。「碇シンジ」は至るところで変容しながら、同時多発的に表象されていたように見える。たとえば、森絵都『つきのふね』[1998]に登場する、「ひきこもり系」の智(24歳)。あるいは、300万本を超えるセールスを記録したRPG(ロール・プレイング・ゲーム)『FAINALFANTASY[』[1999]の主人公 のスコール(17歳)。注意しよう。私は、「碇シンジ」というオリジナルがあって、それがコピーされたなどという影響関係を指摘したいのではない。ある作品が現在から見てエヴァ的に見えるのは、論じる側のわれわれがそのようなフォーマットを予め準備した上で、それを個々の作品に当て嵌めているからだ。にもかかわらず、私はそれを転倒であるとして一蹴することができない。転倒であることを指摘するだけでは、何故そのような転倒が生じてしまうのかが理解できなくなってしまうからだ。したがって、小論の手続きは二重化されたものにならざるを得ない。一方で数多の「碇シンジ」を語りつつ、他方でそのように語る(自らを含めた)話者の欲望を考察するという作業が要求されてこよう(精神分析における転移の問題)。
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典型的な話題を一つ。篠原一に『天国の扉』[1998]という作品がある。そのレヴューを見てみよう(町口哲生[1999:105p])。
タイトルはたぶん『エヴァンゲリオン』TV版第二四話の場面を踏まえているのだろう。物語は武威という少年が、ミゾオチなる少年と出会い殺しの依頼を受け、殺して体を解体して河原に埋めるが、死んだはずのミゾオチが再び武威のもとに現れ、不思議に思った武威が再度河原を掘り返すとミゾオチの骨が見つかり慄然とする話。(以下、略)
『天国の扉』を紹介するにあたって、『エヴァ』が参照されていることに注目されたい(「TV版第二四話の場面」とは、「最後のシ者」であった渚カヲルを碇シンジが殺してしまうシーンを指すものと思われる)。実際、『天国の扉』の帯には、「エヴァ世代の作家が描くクールな殺人」とあり、『エヴァ』が一つのコードになっていることが窺える。一応誤解がないように注釈を入れておけば、「エヴァ世代」とは、『エヴァ』を送り出した1960年生まれの庵野秀明の世代ではなく、1976年生まれの篠原の世代を指す。しかし、篠原がエヴァ的であるとすれば(「エヴァ的」の指示内容については次回以降)、明らかに『エヴァ』を参照した『天国の扉』にではなく、同じく「天国のドア」をモチーフにした『誰がこまどり殺したの』[1996]を描いていたからである。『誰がこまどり殺したの』は雑誌『文藝』に1995年春季号から冬季号にかけて連載されたもので、TV版『エヴァ』が放映された期間とまさしくシンクロしている。「羽を失い、獣となった少年たちに約束の百年は訪れるのか?〈天国のドア〉はひらくのか?」(同書の帯より)。『誰がこまどり殺したの』は本連載で 取り上げる予定なので、詳しい議論は割愛するが、篠原の作品には「エヴァ世代」として語らせる何かがあると言いたくなる(実際、篠原[1997.3:43‐45p]は『エヴァ』に惹かれたことを告白している)。おそらく、それは罠なのだが…。
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「エヴァ世代」という語り方の問題は、篠原が「J文学」の代表的作家の一人であることからも推測されるように、「J文学」を参照することで明らかになるのではないか「J文学」の「J」はJapan/Japaneseの頭文字で、「J−POP」の「J」に等しいたとえば、「J文学」で児童文学に馴染みのある作家を挙げれば、江國香織にひこ・田中、あるいは角田光代や重松清などがいる(「J文学をより楽しむためのブックチャートBEST200」[1999])。このラインナップを見ても分かるように、「J文学」というジャンルはかなりルーズだ。というよりも、「J文学」の曖昧さは、文学を語る上でのイメージが共有不可能な時代にあって、とりあえず付けられた(商業主義的戦略上の)インデックスにすぎない。そこに、何かしら本質的なイメージを見出すとしたら、それは端的に転倒だと言わざるを得ない。にもかかわらず、われわれが「J文学」あるいは「J児童文学」(風野潮『ビート・キッズ』[1998]は「ジャニーズ文学」か?)を参照するのは何故か。
当たり前のことではあるが、「エヴァ世代」あるいは「碇シンジ」もしくは「少年A」(については目黒[1999]参照)をいくら緻密に語ったところで、現実が明らかにされる訳では決してない。したがって、われわれの作業は、「碇シンジ」を語ることで現実を説明することにではなく、不当に与えられた「碇シンジ」という表象の代表的機能を断片化する方向で進められることになる(これにaで述べた精神分析が加わる訳だ)。このような、あまり生産的とは言えない作業が要されるのは、「少年」をめぐる表象が恐ろしく貧困であるからだ。このような時代にあって、「J文学」に登録された雑多な作品群は、様々な強度の「少年」たちを提示しているのではないか(それはもはや「少年」とは呼べないかも知れない)。もちろん、ここに言う「J文学」という語はかなりいい加減に使っているので、本連載が参照する作品を予告したことにはならないが、雰囲気だけは伝えられたことと思う。とりあえず、第一回目は、やはり『エヴァ』について語ることにしたい。
[文 献](言及した順に並んでいます)
森絵都『つきのふね』1998、講談社
『FAINALFANTASY[』1999、スクゥエア
篠原一『天国の扉』1998、河出書房新社
町口哲生他「J文学をより楽しむためのブ ックチャートBEST200」1999
(後掲『J文学 …』所収)
篠原一『誰がこまどり殺したの』1996、 河出書房新社
篠原一「エヴァを知る前に」(小黒祐一郎との対談)1997、『STUDIO VOICE』3月号所収、INFAS『文藝別冊 J文学をより楽しむためのブックチャートBEST200』1999、
河出書房新社
風野潮『ビート・キッズ』1998、講談社
目黒強「共振というコミュニケーション問題 ―「少年A」に関する言説について―」
1999
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