私の問題関心 ―ポスト「現代児童文学」―
佐藤 重男

 あれもやりたい、これにも手をつけてみたい、そんなこんなしているうちに、あっというまに一年がたってしまった。
 そして、そうしているうちに、自分はほんとうは何を書きたいのか、頭の中がごちゃごちゃになってしまった。情けない。
 とにかく、書こうと思う。

 かつて、少女まんがにおいては、「そんな君が好き」というのが、殺し文句≠ニして、女性読者のあいだにあって内面化されてきたのだという(藤本由香里『私の居場所はどこにあるの?』)。そしていま、少女まんがは、「そんな君が好き」から「こんな自分が好き」を経て、「そんな自分を見てほしい」へとたどりついた。
 一方、日本の現代創作児童文学の世界では、「そんな君が好き」というテーゼは抹殺されてきた。通俗的だから、という理由からであったが、なにより、まんがの世界が先取りしたから、というのが、本音だったかもしれない。
 そして、少女まんがに遅れること十数年、90年代に入って、現代児童文学は「こんな自分が好き」をテーマに書くようになり、そしていまも書き続けている。
 この、別名「ありのままの自分」という<提案>は、ガンバレ、ガンバレといい続けてきた現代児童文学の中にあって、「がんばっているものにガンバレ≠ニはいわない」という発想の新鮮さが広く歓迎され、「そんな君が好き」の変形としての自己愛≠描いてみせただけ、といった批判はほとんどみられなかった。
 先ほどもいったように、「そんな君が好き」をう回したまま「こんな自分が好き」を書くことは、1階を作らずにいきなり2階を建てるようなものだったが、「こんな自分が好き」というまんがに囲まれて育った現代児童文学の若き担い手たちにとって、「そんな君が好き」は過去のことであり、そこに戻る必要など考えられなくて当然であった。
 では、少女まんがが「そんな自分を見てほしい」ステージへとのぼりつめていったように、創作児童文学の若き担い手たちもまた、そこに向かったかというと、それとはまったく逆の「自分だけの世界に閉じ込もる子どもたち」を描きはじめたのであった。
 どうしてか。
 いわゆる「引きこもり」といわれる子どもたちが増えている、そのこととも関わりがあるだろう。だが、それはいくつかの要因のひとつにすぎない。書き手たち、とりわけ若い書き手にとっては、閉じ込もる子どもたちの存在は、「私」という問題を鋭く突いている問題として見えたのではないか。

 子どもたちはいま、これまでとは質も量も異なる「情報社会」の中にいる。テレビという一方通行の視覚メディアに慣らされてきた子どもたちにとって、いまの「情報社会」の双方向性は画期的である、とそのプラス面だけを強調する向きもあるが、それは正しくない。いまのように情報が氾濫した無法状態は、量から質への転化を妨げ、プライバシーの侵害や扇動などの操作の危険を内在しているし、パソコン通信で問題になっている匿名性は、人間の攻撃性を煽り、現に、悪用され被害を受けている事例に事欠かない。
 また、インターネットの拡大によって、より映像化が進み、その結果、抽象的概念化や想像力の減退を招き、専門化することで情報の独占化を招く恐れもある。
 来るべき時代の相とは、そういうものである。
 社会の物質的基盤が大きく変化しつつある時、人間のありようも変わらざるを得ない。 そして、かつては、社会の変革は、大量の「弱者=敗者」と小数の「強者=勝者」を生み出したものだったが、来るべき時代は、様相が異なるものになる。
 誰が「勝者」で、誰が「敗者」なのか、そのことをいっそうあいまいにする、価値観のボーダーレス現象によって支配される。これが来るべき時代の特徴である。
 こういうことではないか。
 つまり、社会が押し付けてくる規範としての「価値観」がゆらいでいる中、比較対照すべきなにものもないとしたら、自由な存在としての「私」という「個」を発見できるかどうか、それは砂浜で針を探すようなものになるだろう。にもかかわらず、そこにすべてがかかっている、と。
 そのことをいち早く感づいているのもまた、子どもたちなのかもしれない。
 そういう子どもたちにとって、「閉じ込もる」ことは、決して社会からの逃避などではなく、「私」という「個」を発見し、それに意味を付与するためのモラトリアム(猶予期間)なのである。したがって、そのような子どもたちが登場する物語がリアリティを持つのだと思う。
 もっとも、それに対して、閉じられた世界の中での自己発見など見せかけのものであって、社会に対してまったく無防備だ、という批判もある。
 しかし、くりかえしになるが、その社会というのが、いま、大きく揺らいでいる。「閉じ込もり」=閉じられた世界(社会との関係性が希薄か、まったくない状態)という考え方こそ捨てるべきではないか。その上で「自分だけの世界」を見る必要がある。なぜ、「自分だけの世界」が子どもたちにとってリアリティを持つのかを、検証していくべきだと思う。

 文学の使命は、既存の価値とは別の価値が存在すること、つまりは、こんな自分でも生きている意味があるということを提示してみせることだといわれてきた。
 中村光夫がいっているように、文学とは、もしかしたら自分がそのように生きたかもしれない、そのことを体験させてくれるものでなければならない。したがって、たとえ虚構の世界に生きているにせよ、それは価値ある生でなければならない。
 では、このテーゼは、現代児童文学にとって、いまもなお有効であろうか。
 生きている意味がある、ということを、現代児童文学の若き担い手たちは、「こんな自分が好き」と言い換えたのであり、「自分だけの世界に閉じ込もる」ことは、「私」という「個」を育むための「保育器」だとみなしているように思われる。
 それは、成長しなくていい、のではなく、どのように育つのかが問われる、というべきなのである。そういう意味では、「成長物語」を全否定しているわけではない。
 だとすると、これは、現代児童文学が、次のステージへあがるために克服しなければならないとされた「成長物語」のわくぐみの中にあるということになる。
 戦後、民主主義とは無縁の、いや、むしろ健全な民主主義の育成を妨げるものとして目の仇にされてきた、しかも、周縁に位置してきた少女まんがが、いま「そんな自分を見てほしい」という、いってみれば自信のあらわれともいえる地平にたどりついたのに対して、戦後、子ども文化の中心を自負してきた創作児童文学は、遅れに遅れてやっといま「こんな自分が好き」といえるようになり、そして、「自分だけの世界」を発見し、そこに閉じ込もろうとしているように見える。
 この「自分だけの世界」を、「保育器」とみなしている限り、現代児童文学は決して「そんな自分を見てほしい」作品を生み出していくことはできない。なぜなら、まだステージへあがる準備ができていない、と考えているのだから。
 「成長物語」のわくぐみから逸脱していると言われている、森絵都、魚住直子、さなともこらの作品が、「保育器」の中での育ちの物語であるならば、いわれている現代児童文学の「停滞」「崩壊」というとらえ方そのものが根底から揺らいでくるのではないだろうか。

「児童文学評論UNIT2001」No.1 2000/01