読み手の文脈、書き手の文脈
芹沢 清実

 

 なぜ、いまどきエルマーなのか?

 図書館で貸し出し回数が多い児童書はどんな本か、という記事で、上位に目立つ本としてガネットの『エルマーのぼうけん』(渡辺茂男訳、福音館書店、六三年)シリーズがあげられていた(中多泰子「今、図書館で子どもたちは」―「日本児童文学」九九年三―四月号)。八つの公立図書館の九七年度〜九八年にかけてのデータである。六三年といえばわたしもまだ小学生。この『エルマーのぼうけん』は、たしか課題図書で友だちも買ってもらっていた。ふうん、ずいぶん古い本が読みつがれているんだな、と、その場は読みすごし、あとで気になってきた。
 なぜ、この時期そんなに、エルマーが借りられているのだろうか。
 調べてみると、案の定というべきか、劇場アニメ作品「エルマーの冒険」(波多正美監督、松竹配給)が九七年七月に公開されていた。エルマーはおそらく、「古典的な作品」として読み継がれてきた、というより、むしろ「アニメの原作」として多く手に取られたのではないだろうか。
 もうひとつ、気になっている媒体がある。松本大洋のコミックス『鉄コン筋クリート』(小学館、九四年)に、次の会話を含むコマがあるのだ(3巻、三五ページ)。

 〈シロはどうしとる?〉
 〈やっと寝ました。「エルマーの冒険」死ぬ  程読まされましたよ〉

 松本は、今やある種カリスマ的人気があるマンガ家のひとりだ。このコミックスのオビにも、吉本ばななと小泉今日子のコメントが載っている。かつて、小泉の発言で『モモ』が爆発的に売れたこともあった。そう考えれば、子ども以外にも、松本大洋ファンの若者が「これってシロの愛読書なんだよね」と、エルマーを手に取ることも少なくなかったかもしれない。さらにその若者は「この人って松本大洋のおかあさんなんだって」と、工藤直子の詩集に手をのばすかもしれない。
 現代では本もまた、ある文脈のもとで参照される情報のひとつにすぎない(あのエヴァ熱のなかで、登場人物の名前の出典だからと村上龍『愛と幻想のファシズム』を読み、TV版最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」と同じタイトルをもつハーラン・エリスンのくそつまらない短篇集―増刷され平台に積まれたハヤカワ文庫版―まで買ってしまった者としては、確信をもってそう言おう)。児童書も、そこからまぬがれることはできないだろう。
 こうした地点では、手にとる側、すなわち読み手の文脈は、その本が書かれたときの事情や書き手の意図とは、まったく異なった場面にある。さらに、ことによったら書き手の文脈とはまったく異なる文脈で「読み」が成立することもあるかもしれない。
 そんなことを強く感じさせた作品が、あさのあつこ『バッテリー』(九六年)『バッテリーU』(九八年、ともに教育画劇)だ。

『バッテリーU』のさまざまな読みというのも、第三九回日本児童文学者協会賞を受賞した『バッテリーU』についての選評(「日本児童文学」九九年七―八月号)には、この作品について、実はひどく異なった視点から評価しているのではないか、と思えるフレーズがみられたからである。

〈正統派のリアリズムを継承している〉…岩崎京子
〈リアリズム少年小説の真骨頂>…後藤竜二
〈この中の通俗性の貫徹こそ何かを今日 新たに開きうるだろう〉…佐藤宗子

 さらに、とりわけ。
 〈主人公も(中略)形象化はみごと〉…岩崎京子
 〈主人公はじめ主な登場人物が、どこかで見たようなキャラクター〉…藤田のぼる

 ここで藤田のいうキャラクターへの既視感は、わたしも強く感じた。既視のイメージの出典はふたつある。
 ひとつは「巨人の星」(川崎のぼる画、梶原一騎原作)など、一連の野球マンガだ。まず、主人公・原田巧の祖父、井岡洋三。伝説の名監督であり、巧の才能の理解者であるという人物像が、会ったとたん巧に適切なランニング距離をぴたりと言いあてる、というエピソード(『バッテリー』)で示されるあたり、どこかで見た感じがする(なべぶたで刀を受ける類の剣豪小説にも似ている)。さらに、大柄で気配り上手なキャッチャー永倉豪もまた、伴宙太に始まる理想の女房役の系譜に連なる。もうひとり、巧の母・真紀子が、野球に取り憑かれた男たちの「生きざま」を見てきた女(『バッテリー』)として描かれていて、どこか星明子のおもかげを宿す。
 もうひとつは、いわゆる「やおい」系少女小説。たくましいアニキ系の永倉豪、かよわく繊細系の弟・青波、そして冷静ななかに情熱を秘めたヒーロー・巧。これだけ役者がそろえば、それぞれがカラむ同人誌がいくつか描かれても不思議はない。
 しかし、こうした既視感をさそいがちな人物像が、「ありがちじゃん」と読む側をしらけさせるのではなく、その逆で、じつに効果的に物語をつむぎだすことに貢献しているところに、この作品のおもしろさがある。それは、主として、状況と密接にからまったかたちでキャラクターが設定されていることによる。

「キャラが立つ」ということ

 シリーズ一作目『バッテリー』では、父の転勤で母の田舎に引っ越してきた主人公一家の状況説明と、そのなかで主人公のキャラクターを提示することに主力がさかれた感があった。それでも不足を感じさせないほどに、主人公・巧は「キャラが立って」いた。そして、二作目『バッテリーU』では、この彼の「キャラ立ちのよさ」を前提に、物語が展開する。その大筋は、巧の母・真紀子のセリフに要約することができる。真紀子は、あくまでマイペース、小学校を卒業したてにしてすでに人をくったところさえある巧を評して、次のようにいう。

 〈人に頼んだり、あやまったり、妥協したりってこと、全然できないのよ。あれで、 中学生活なんてやっていける? そうでなくても、いじめとかなんとか問題多いのに。
 巧みたいにかわった子、きっとつぶされちゃうわ〉(二九ページ)

 その予測どおりに事態は展開する。中学に入ったとたんに、持ち物検査、野球部の顧問教師によるしめつけ、野球部員らの嫉妬と陰険な暴力など、「管理教育」とその産物である人間関係が、巧に襲いかかる。こういう状況をあばきだし、なおかつそれに対抗しうるキャラクターが、前述したような「かわった子」の巧なのだ。
 さて、先ほど「キャラが立つ」ということばを断りなしに用いたが、これはマンガ評の用語で、キャラクターが際立っている、というほどの意味で使われる。岡田斗司夫によれば(「BSマンガ夜話」での発言)、典型的には小池一夫率いる劇画村塾でしきりと重視されたが、九〇年代のマンガではあまり見かけなくなった要素らしい。
 たしかにマンガの世界では、たぶん八0年代のラブコメ・ブームあたりから、「状況と対峙する屹立したキャラクター」はあまり描かれなくなり、ふつうの日常で笑ったり悩んだりする、ふつうの子が主流になってきたように思える。そして九〇年代では、たとえばエヴァの主人公・碇シンジのように、むしろ「弱い」「状況に傷つけられた」キャラが、より読者にとって身近なものと感じられる傾向にある。
 ここで詳述はできないが、そんなマンガの流れと共通するものが、現代日本の創作児童文学にもありはしないだろうか?
 状況に対峙する子ども像から、より等身大の子ども像へ、さらには、ある「弱さ」をかかえこんだ子ども像へ(そんなことを考えると、長谷川潮の「ツヨイ子、ヨワイ子、フツーの子」―「日本児童文学」九九年五−六月号―という切り口はおもしろく、もっと歴史的に掘り下げてみたいという気がする)。
 マンガもまた、かつてのような活気を失ったとされて久しい。
 そんな「マンガ読み」の文脈からみると、『バッテリーU』の魅力は、なんといっても状況に対峙する「キャラ立ちのよさ」ということになる。つまり〈次々に勝負を挑んでくる敵を、その個性的な技で迎え撃つ主人公にハラハラさせられる〉、古典的パターンではあるがよくできた格闘系マンガのように楽しませてくれる作品とも言える。このあたり、佐藤宗子のいう「通俗性の貫徹」に通じるのかもしれない。

複数の文脈の存在

 さて、先に引用した選評に立ち戻ると、この作品には、まったく異なった視点からも高い評価が与えられていることがわかる。それは、リアリズム児童文学の〈正統派〉〈真骨頂〉という視点で、それは主として中学の管理教育に部活という面から切り込むという、この作品のテーマにかかわるようだ。
 さらに、これらの選評では直接ふれられていないが、おそらく多くの読者がそこに惹かれただろうと予測できる文脈も存在する。それは、先ほどちょっとふれた「やおい系」との近似にもかかわるが、女性からみたキャラの魅力だ。著者であるあさのは「この世代の男の子特有のすてきさを描きたかった」(もしかしたら「男の子」ではなく、「子ども」と言ったのかもしれない)と、九九年五月の日本児童文学者協会の総会付設研究会で、発言している。そして、その魅力は、より凝縮するならば「母親」からみた「理想の息子」像であるとみることもできる。
 巧の母・真紀子は、じつはこの作品の影の主人公ともいえる重要な存在である。特色あるキャラの冒頭にあげた伝説の名監督・井岡洋三と、天才ピッチャー原田巧という取り合せは、その間に洋三の娘であり巧の母である真紀子を欠かせない媒介としてもっている。しかも、巧の歯に絹きせぬ性格は「母親そっくり」と洋三に評されるものだ。
 真紀子のふたりの息子の対照的な性格も、「理想の息子」の2パターンである。そのまっすぐな言動でハラハラさせられるが、それを貫きとおしてほしいと念じて見守るしかない「強い子」の巧。彼は女性たる母親にはできないことをやってのけ、親を踏み越えて成長していく存在だ。それに対して、病弱な青波は、子どもならではの鋭い観察力とおもしろい言い回しで楽しませてくれる。彼の方は母性本能にまかせて思う存分、庇護することができる存在である。
  このように、『バッテリー』『バッテリーU』は、さまざまな文脈において魅力をそなえた作品として読むことができる。マンガや剣豪小説に近いテイストのエンタテインメント。中学の管理教育のなかで、それに立ち向かう少年像を描いたリアリズム小説。かっこいい少年たちがくり広げる友情ロマン。ほかにもまだあるかもしれないが、こういった複数の文脈のどれかにかたよらず、いずれをも満たす物語として成立していることが、この作品の最大の魅力というべきか。
 児童文学の読まれ方は、現代文学一般がそうであるのと同様、その時代に接触可能な、きわめてたくさんの情報の影響を受けずにはいられない。それらは、ばらばらな情報というよりも、なんらかの文脈をもっているはずだ。このあたりのことは、児童文学というメディアのリテラシーの問題、といってもいいかもしれない。
 狭義ではマンガ、アニメなどの映像、ほかのジャンルの文学など、広義では読み手をとりまく文化的な環境などが、読み手の文脈を形成する。これら、読み手のうちにある複数の文脈は、むろん書き手の文脈と交流しながらも、それとはかならずしも重ならずに、独立して存在する。
 とりあえずは、そんなことを手がかりに、現代児童文学の歩みをふりかえる作業を続けていってみたい。

「児童文学評論UNIT2001」No.1 2000/01