碇シンジ」とは誰か

第一回
目黒 強

           
         
         
         
         
         
         
     
1 二つの世界
 『新世紀エヴァンゲリオン』の十四歳の主人公・碇シンジについて語る前に、彼が置かれていた舞台設定を議論しておきたい。碇シンジは、第三新東京市立第壱中学校に転校してくる。二〇〇〇年に起きたセカンド・インパクトという破局で廃墟と化した旧東京に代わって、旧長野県に第二新東京市が建設される。第三新東京市は、第二次遷都予定地の旧小田原市を指す。『エヴァ』の時代設定が二〇一五年、ジャンルがSFであることを考えれば、サイバーパンク的近未来都市像が想像されるかも知れない。しかし、後述するように、この都市は、奇妙なまでに牧歌的な風景として描かれていた。切通理作の評論「Lyrics〜脆弱な世界」(『ぼくの命を救ってくれなかったエヴァへ』三一書房、九七年)を読むまでは気がついていなかったのだが、第壱中学校の描かれ方は『エヴァ』の性格を端的に示しているのではないか。以下、切通の見解を紹介した後で、私見を述べることにする。
 切通が言うように、「木製の机と椅子が並べられた教室の風景はとても西暦二〇一五年とは思えない」。たしかに、生徒の机の上にはノート型の端末が置かれている訳だが、その机が木製であるだけに、対照的な組み合わせだと言える。「個人がIDカードで登録されている世界なのにも拘らず」、「学校を休んだ彼女[綾波レイ、引用者注]に「緊急避難訓練」という連絡事項のプリントを届に行く」エピソードが語られるなど、レトロな雰囲気を醸し出している。誤解がないように言っておけば、第三新東京市はハイテク都市そのものである。第三新東京市は、使徒撃退を任務としたネルフという軍事組織を地下に抱える戦略的拠点として、最新のテクノロジーを駆使して設計された都市であった。このハイテク都市が『攻殻機動隊』(押井守監督、九五年)のようなサイバーパンク的電脳都市として描かれていたならば、『エヴァ』が社会現象になることはなっかたのではないか。それほどに、第三新東京市が第壱中学校に象徴されるように、牧歌的に描かれたことは重要であるように思われる。それでは、「牧歌的」に描かれたことが意味するものは何か。切通の次の指摘を導きの糸に、考えていくこ とにしたい。
 
 『エヴァ』に織り込まれた景色や風情は、いま三〇代である私にとっては「いつか見た風景」であっても、八〇年以降に生まれた今の高校生や中学生にとっては、最初からメディアの中にしか存在しないものかもしれない。ちょうど私の世代が宮崎駿監督のアニメ『となりのトトロ』(八八)に登場する過去の田舎描写に、自分はまだ生まれていないのにも拘らず「懐かしい」と感じたように…。

 このようにノスタルジーが必ずしも「いつか見た風景」を源泉としないことは、九〇年にフジTV系列で放映された『ちびまる子ちゃん』が「平成のサザエさん」としてブームになったことからも窺える。「ちびまる子ちゃん」(さくらももこ)が掲載されていた『りぼん』の読者層を考えるに、七十年代中頃を時代設定とした本作に感じる「懐かしさ」にもまた、切通が言うノスタルジーの転倒が指摘できるからである。大塚英志はかつて、『仮想現実批評』(新曜社、九二年)で、『ちびまる子ちゃん』におけるノスタルジーについて、次のように述べている。

 ノスタルジーとは段差を飛び越える儀礼を社会が失った時代に生きる人々がそれ故につくり出した、個人的な通過儀礼としての側面を持っている、とぼくは考える。

 ノスタルジーが近代社会の喪失した通過儀礼を補完するために創り出されたものであってみれば、それが現実であるか虚構であるのかといったことはさして問題にはならない。そこで問題とされるのは、アイデンティティの危機を支える「ノスタルジー」という場の安定性である。『となりのトトロ』と『ちびまる子ちゃん』は、ともに物語が安定しているが故に、ノスタルジーなどの欲望を引き受けることができた。それに比して、『エヴァ』が当初提出していた第壱中学校の「牧歌的」な日常生活は、第拾七話から第拾九話のフォース・チルドレン三部作によって崩壊する。
 シンジの最初の友人となる鈴原トウジは、関西弁にジャージ姿といった特徴からも分かるように、男気に優しさを兼ね備えた「ガキ大将」(切通)的キャラである。トウジのようなキャラがいる風景が「牧歌的」であることは言うまでもない。このトウジが妹の治療を理由に、フォース・チルドレンとしてエヴァ参号機に搭乗することになる。しかも、何も知らされていないシンジが搭乗した初号機によって参号機は大破、トウジは片足を失う。
 そもそも、ネルフの司令官である父親に呼び出されたシンジはともかくとして、トウジのような民間人がエヴァンゲリオンという軍事兵器に搭乗することになったのは何故なのか。実は、第壱中学校は、母親のいないチルドレンばかりを集めた軍事施設であった。エヴァという生体兵器に搭乗するには、生理的にシンクロできることが条件なのである。エヴァには、それぞれの母親の「魂」が埋め込まれているため、彼らはシンクロできるという訳だ。第壱中学校に集められたチルドレンは、エヴァとシンクロ可能な兵士予備軍であったのだ。もちろん、彼らはそのようなことも知らずに、暮らしている…。
 『エヴァ』の世界はセカンド・インパクトというカタストロフィー後でありながら、敢えて廃墟的な都市イメージではなく、一昔前を思わせる「牧歌的」な舞台設定がなされていた。フォース・チルドレン三話は、そのような世界が維持できなくなったことを示している。実際、フォース・チルドレン三話以降、物語は内面描写に過剰なまでに傾斜していく。実は、『エヴァ』がアニメ・ファンのみならず、社会的に注目を集めたのは、フォース・チルドレン三話以降なのである(詳細は次回)。ややもすると、われわれは、緻密な内面描写が展開される弐拾話以降に関心を集中させてしまいがちだが、第壱中学校の「牧歌的」な世界は後に否定されるためだけの布石でしかなっかたのだろうか。少なくとも、私には切通と同じく、「世界が常に不可解なものとして現れる第拾九話までの展開の方が喚起力があった」ように思われる。シンジに気遣って、トウジが参号機のパイロットに選ばれたことを話題にしなかった思いやりが結果的には、シンジが真実を知ることを致命的なまでに遅らせてしまった先の挿話などは、その典型であろう。たしかに、第壱中学校はネルフによって仕組まれた軍事施設であった 訳だが、そこで営まれていた学園生活は奇妙に「懐かしい」風景であり、それはそれで「リアル」であったように思うのだ。たとえ、それが転倒された「ノスタルジー」であったにしても…。
 そもそも、「懐かしい」学園生活と凄惨を極める内面世界が、フォース・チルドレン三部作を境に前後しているにせよ、『エヴァ』という一つの作品内で同時に表現されたことは強調されてよい。『となりのトトロ』でトラウマがあからさまに内面描写される場面を想像することは普通できないからだ。おそらく、『エヴァ』の衝撃を物語後半の精緻な内面描写にのみ帰着させることは、表現の重層性を見失うことになる。われわれの多くは、『となりのトトロ』を観て「ノスタルジー」に浸りつつ、同時に『エヴァ』後半の登場人物たちが人格崩壊していく世界にシンクロしてしまうのである。両立しないと思われていた複数の世界を同時に生きているのだと言い換えてもよい。テレビ版最終話で、シンジは、エヴァのいない「もう一つの世界」に気づき、現実世界を相対化することで自分の可能性を見出す。たしかに、この挿話が唐突である印象は拭えないが、そのように見えてしまうのは、われわれが連続した世界(物語)を前提にしているからではないか。最終話の可能世界がコミカルな学園ドラマとして想像されたことは、決して偶然ではないのである。
              (以下、次号)

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