最近会った作家の作品から、二つほど。

佐々木江利子

           
         
         
         
         
         
         
     
 今回は最近、研究会等の後でビールをご一緒させていただいた何人かの作家のうち、二人の全くタイプの違う作家のことを書きたいと思う。一人は今年『でりばりぃAge』で講談社新人賞を受賞した梨屋アリエ氏。もうひとりは『ふたごの魔法使い』シリーズ(フォア文庫)で知られる川北亮司氏のことだ。

 梨屋アリエの『でりばりぃAge』は今年の九月二五日、評論研究会(於目白)のテキストとして、私がレポーターとなってとりあげた。この作品は中学二年の「わたし」(河野真名子)の一人称で語られている。夏休みに夏季講習先の校舎から見える、隣の庭に干されたシーツが帆船の帆のように見えるという、映像的な冒頭のイメージは、この物語全体を救済している。雨が降りだしたことに気がついた「わたし」は、思わず講習の教室を飛び出し、他人の庭のシーツを取り込みに走りだす。そこで「わたし」は死んだ開業医の祖父の家で、祖父のシーツや浴衣を毎日黙々と洗濯し、祖父の日記を読み続ける青年と出会う。
 この物語は夏季講習という「日常」を逸脱した八月一日から始まり、学校が始まる八月末日で終わる。その間、「わたし」は全く縁のない他人の〈庭〉と、日常である〈家庭〉を行き来して過ごす。「わたし」の母親は出歩いてばかりだった自分の母親に反発して、完璧な母親になろうとせっせと教育セミナーに通う。弟は家庭と外とで「モード」を切り換えて自分を演出し、その場を生き延びている。父は帰宅するとテレビゲームに熱中している。他人の〈庭〉はそうした〈家庭〉での苛立ちや、希薄なつながりしかない友人たちから「わたし」を一時避難させる。
 子どもの教育やカルチャーセンターに熱心に出歩く母親といえば『カラフル』や『超・ハーモニー』が思い出されるだろう。また、健気でかわいい弟像といえば、『ねこかぶりデイズ』や『バッテリー』が連想される。この作品はそうしたここ数年の児童文学的な家族像と、中学生の少女の先の見通せない将来への不安、苛立ち、特に母親の生き方への反発や、女性は家庭へという世間のレールへの反抗といった古典的モチーフ(岩瀬成子『朝はだんだん見えてくる』理論社一九七七年など)を知る読者、特に児童文学にかかわる大人読者にとっては馴染み深い標準的なモチーフを抱えている。また、昨今の十四歳への関心から「現代の揺れる中学生の内面をリアルに描いた」作品としてこの作品は受け入れられるのかもしれない。しかし、そうした位置づけはこの作品をどこかで受け取りそこねてしまっているような気が、漠然と私にはするのだ。
 夏季講習を休み、家庭とも友人とも、学校とも別世界であるよその家の〈庭〉で、ただ毎日ぼんやりと過ごす「わたし」は、もう一つの〈庭〉を思い出す。それは、弟が生まれる時預けられた祖父の家の〈庭〉だ。かんぴょう作りをしている祖父母の家の〈庭〉では許されなかった、白く細く長いかんぴょうをくぐる鬼ごっこ。それを思い出した「わたし」は洗濯物のシーツをくぐり走り出し、女の子だからと禁止されたペットボトルの風車作りをする。日常からの避難場所の〈庭〉と、かつてあって、もう、ここにはない〈庭〉が重なり合う。そして、中学生の「わたし」と共にシーツをくぐる鬼ごっこをしているうちに、青年も今までの祖父との愛憎に生きる自分とはちがう、別な自分の可能性を見いだしてゆく。
 作品の山場は弟が「キレ」、「わたし」の家庭が既製の健康食品ではなく家族で握るおにぎりを作りはじめる場面だ。そして、教育マニアの母はかつてのミーハーだった自分を認め、「わたし」もまた、自分の意思を他者に伝え、他者の痛みを包み込むことのできる「大人」になりたいと思うところで終わる。物語は一見、ハッピーエンドに終わり、少女とその家族の一夏の「成長物語」のように見える。
 しかし、物語の最後は「わたし」と青年の〈庭〉と祖父の家が、売却され、取り壊された場面で終わっている。それは、「わたし」と青年の関係が、その後も発展せず続かないことをどこかで暗示している。梨屋氏は主人公にも読者にも居心地のよい避難場所であった〈庭〉を、存続することなく消滅させてしまう。
 この物語はどこか、夢幻能の構造に似ている。夢幻能は〈僧や旅人(ワキ)の前に霊(シテ)が里の女などに化して現れ、やがて本体を顕して、現実の時空を越えた物語を、舞い語りでくりひろげた上で、夜明けとともに消え失せる〉※1という構造を持つ。真名子をワキと考えれば、夏期講習をさぼって大学生(シテ)と出会い、大人になりたいと思う物語になり、青年をワキとすれば、祖父を亡くした喪失感から中学生(シテ)との出会いにより新しい道へ目指す物語となる。だが、それらの舞台も登場人物たちも、物語が終わる時、読者の前から消え失せてしまうのだ。
 梨屋作品には『でりばりぃAge』の他、「タケヤブヤケタ」※2があるが、この作品もまた、同じく自虐癖を持ち母親に苛立ちを抱えた中学生の少女の一人称によって語られている。主人公が、何らかの家庭に背景を抱えた他者と出会うことによって、押さえつけていた自分の感情を爆発させる場面を山としているが、共に明るい未来に向かうべき他者が家事で燃え盛る竹林へと消え去る場面で終わっている。
 作者は読者を置き去りにして、何かを伝えたようでいながら、そのことを帳消しにして消えてしまう。語り手を中学生の少女としていることから、中学生位の読者を想定しているのだろうか。評論研究会の席上で梨屋氏は自作について、「ライトノベルのノリで書きたかった」と述べた。ライトノベルのノリって何だろう。聞けばよかったが、そこのところは、未だよく分からない。おそらく、梨屋氏はコバルト等の中高生が気軽に手にして読むものと「児童文学」との境を意識している作家の一人なのではないだろうか。
 一方、川北亮司氏の「ふたごの魔法使い」シリーズは小学校中学年位の女の子に読者のターゲットを明確に定めているという。これは、十月十七日に行われた日本児童文学者協会の公開研究会(於箪笥町)において、実際に「ふたごの魔法使い」をテキストにして討論された際、著者自らが述べたことだ。
 川北氏は作品作りにおいて、簡潔な文体、場面展開の速さ、音、色彩といったビジュアルな要素と、作品の中のメッセージ性を重視する。そうしたメッセージは、大人が子どもに上から「こういう子どもになってほしい」というものではなく、子ども読者たちの実生活の問題を解決するための糸口になるようなものだ。〈ふたごの魔法使い〉はファンクラブ「魔法使いツインズ」(入会資格は十三歳までの年齢制限つき、卒業制度あり)や、作者と読者との手紙のやりとりの中で、作者に打ち明けられた子ども読者の悩みが作品に取り込まれて生まれた物語もあるという。
 物語は大抵、友人関係や母親との関係、といった問題(しかし、その問題は梨屋作品のように複合せず、一作品に一問題に限定されている)を抱えた少女が、デデブとネネブという元は一人であった「ふたご」の魔法使いによって異世界の冒険をし、その中で自己の問題を解決する枠組みを持つ。
 確かに、「ふたごの魔法使い」シリーズは一冊一冊は一時間以内に読め、挿絵も多く、作品のテーマは明確である。簡潔にされた文章は、スピード感はあるが、「文学的」とは言えず、描写の多くは挿絵に頼られている感がある。そうであっても、子どもたちは物語の展開にドキドキし、集中してページをめくり続け、シリーズとしての魅力に取りつかれている。会場で回覧された感想ハガキに寄せられた子どもたちの感想には、そうした生き生きとした作品への感想が寄せられている。
 梨屋氏は研究会の後の席等でも酒をあまり飲まない。ビールは口を少しつけるだけで、食べ物も付き合いに口に運ぶ程度だ。一方、川北氏はいつでも気持ち良く飲み、食べる人だ。それはどこかで、児童文学、あるいは書くことで「食べてゆく」ことへの意識にもつながってるような気がする。
 ※1内山美樹子「日本演劇における時間」(『日本の美学』第十九号九二年十二月
  ぺりかん社参照)
 ※2梨屋アリエ「タケヤブヤケタ」『ぱろる』第二期創刊号九八年九月