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一九八七年から八八年にかけて講談社から文庫版で刊行された「江戸川乱歩推理文庫」の各巻末に掲載されたエッセイ「乱歩と私」は、乱歩賞受賞作家がそれぞれの乱歩体験を語っておもしろかった。なかでも子ども時代の読書体験における《乱歩の衝撃》に言及した作家が複数いて、興味をひいた。 戦中に育った森村誠一は、軍国主義全盛の時代に、探偵小説は百害あって一利なしとされ、その代表格である乱歩は《禁断の書》だったと回顧する。 ―だが、私たちの間で最も読まれたのがその禁断の書であったのである。私たち少年は、そのナイーヴな心によってどんな本が本当に面白いかを敏感に悟っていたのである。/禁断の書として親が挙げた「教育上よくない」とは「早すぎる」「刺激が強すぎる」などと理由がなんとなく曖昧であり、要するに面白い本は、悪い本だと決めつけている親の誤った先入観を少年たちは、とうに察知していたのである。(「読書の原点にあるもの」―前出文庫『屋根裏の散歩者』87年11月の巻末エッセイ) 森村は、当時の親たちの「良書即教養書という偏見」を断罪しながら、「悪書」を擁護している。ここで親がすすめる「良書」というのは、「教育上よい」「子どもにふさわしい(「早すぎ」ない)」「刺激が少ない」ものということになり、当時の児童書の多くがそこに含まれたろうと想像できる。 森村とさほど世代は変わらない山村美紗の場合、その「良書」批判はさらに手厳しい。 ―私は、小さいときから、外国の童話や小 説しか読まなかった。/私は忘れてしまっ たのだが、父がどうして日本のを読まない のだときいたとき、日本のは、子供っぽす ぎて面白くないと答えたそうである。/私 には、日本の童話や、子供の読むものは、 ストーリーが単純で、善悪がはっきりして いて、最後に教訓があるのがつまらなかっ たのだ。/ところが、江戸川乱歩先生の、 少年ものを読んで、病みつきになってしま った。(「乱歩と私」―前出文庫『超人ニコ ラ/大金塊』八八年一〇月の巻末エッセイ) 十把一からげに単純でつまらないとされた《日本の童話や小説》もかわいそう、という気もしないでもないが、日本の児童読み物として破格の位置にある《乱歩の少年もの》についての、ある種、紋切的な賛美の典型が、ここにある。その場合、賛美の対極におかれるのが、無害で清潔なゆえに大人から良書とされる《子ども向けの本》で、むろん児童文学のほとんどが、この範疇に入れられる。 * * * この「良書VS悪書」という図式のつまらなさ、あるいは非生産性は、具体的な作品に即してみれば、すぐに見てとれる。つまり、良書の意味するところ〈大人が薦める、清潔で「よい子」向け、退屈でつまらない等々〉をひっくりかえしたところで、〈大人が排除しようとする、背徳的で「不良」向け、刺激的〉までは何とかなろうが、そうした悪書がすべておもしろいわけではない(ときに良書以上に退屈でつまらない)からである。にもかかわらず、この図式(あるいはこれを前提とした創作上の戦略)が、児童文学をめぐる言説のなかでも根強く生き延びていることを感じることがままある。それどころか、自分自身これに基づいた紋切型の論調を口にしていることすらある。また、いまのように「児童書が売れない」時代には、「大人が薦める良書をなぜ子どもは読みたがらないのだろうか」といった文脈で、この図式の出番が増えそうな気配もある。 とはいえ、たとえ非生産的であろうとも、どんな紋切型も真実を含まないわけではないので、ここでは「良書VS悪書」の図式を、「現代児童文学」の読者論を考える手がかりとして援用してみたい。この場合、「悪書」にあたるものは、映像メディアやコミックスなど活字以外の子ども文化一般を含む。これらの「悪書」を退けて、子どもに「良書」を与える動き、つまり「課題図書」や読書運動抜きに「現代児童文学」の読者論は語れないからである。「良書VS悪書」の図式を採用するかぎり、「課題図書」や読書運動を悪者にしておけばことは済む。これではあまりに単純でつまらない。それに、なぜおもしろい「悪書」というか、現代児童文学で子ども向けエンタテインメントの傑作が少ないのか、という疑問にも答えることができない。 * * * そこで、タイトルのようなことを考えた。ここでは「良書」と言わずに「オーセンティックな児童書」と言いたい。なぜカタカナ言葉を使うかといえば、これには理由がある。「オーセンティック」とは、デパートの広告やファッション誌のキャプションに使われる言葉で、ある消費指向をあらわすが、かならずしも「正統派の」という意味ではない。 コンサートでいえば、オーチャードホールで聴く中村紘子、サントリーホール、「三大テノール」なんかが「オーセンティック」。その聴衆となることが、ちょっと品がよくて趣味がいい感じ、聴けばためになる教養のひとつ、みたいな。何が「オーセンティック」なのかは、モードの動向により流動するが、無理やりその性格を定義してみよう。 1・保守性。つまり、ある権威付けに忠実で 「有名なもの」「正統」という評価を、 消費行為の基準として尊ぶ。 2・上昇指向。それを消費する行為がより上 の階層の趣味であるという観念があるの で、自分も上昇したという幻想が付着。3・実用主義。その消費に有用性(「ために なる」「心が豊かになる」)を求める。 これらは、児童書の消費が隆盛をきわめた時期の読者(実際に本の購入者である親や教師だけでなく、子ども読者をも含む)の消費傾向と重なるように思えるが、どうだろう。 もともとは中流階級の子どもしか手にすることができなかった消費財である「子どもの本」が、多数の国民にとって入手可能なものになったとき、その消費指向の大勢が「オーセンティック」に向かうことは、ごく自然である。中流プロパーの人はそれをスノビズムと嘲笑するだろうが、そうやって文化消費の底辺を広げることなしに、より洗練された文化が生まれることはない。 より問題になるのは、生産者側からいえば消費者の「オーセンティック」指向に答えながらもより多様な価値へと導くような商品を提供したかどうか、また消費者側にとっては持続的な消費行為をつうじてより洗練された顧客になっていったかどうかだろう。「オーセンティック」がかならずしもよい消費者を育てないことのあかしに、チケット代は高いのに客のマナーの悪さ(演奏中携帯が鳴る)で知られる某ホールのような例もある。 先に定義した「オーセンティック」に対抗する観念として「オルタナティブ」を考えることができる。というより、「オーセンティック」のあとに来るものと言った方がいい。「現代児童文学」に話を戻せば、その発生時点で「オーセンティック」だったのは童話伝統である。それに対する「オルタナティブ」だったはずの「現代児童文学」が立ち合ったのが、「オーセンティック」指向の読者群の誕生だったというのが、日本の歴史的な事情だったのではないかなどと考えている * * * ということの考察に突っ込む前に、視野に入れておきたい風景がある。 高度経済成長を背景に席巻した「オーセンティック」は、もはや飽きられた(むろん大衆的需要が絶えたわけではないが)。しかも上昇指向がかなえられにくい時代になった。 若者文化は、むしろ下降指向とでも呼びたい傾向にある。アフロアメリカンをまねたストリート文化、そこから枝分かれして電脳系小道具を付加したコギャル文化。消費文化のターゲットが低年齢化したことを考慮にいれたとしても、十年ほど前にはイタリアンブランドを着て美術館やホールに通っていたのと同年齢の若者たちが、今はユニクロのフリースを着て渋谷で居酒屋前に座り込んでいる。 こういう時代の若者/子どもをめぐる文学は、どこか一九二〇〜三〇年代のプロレタリア文学に似てくるのではないか。たとえば柳美里『女学生の友』(文藝春秋、一九九九年九月)に収録された2篇―それぞれ女子高校生と男子小学生が主人公―を読むと、そんなことを考えてしまう。 (この項次号へ続く) |
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