”理想主義”はアメリカで元気だ

原のぶ子

           
         
         
         
         
         
         
     
 「日本児童文学」九九年一二月号の特集、「今、アメリカ児童文学がおもしろい」をおもしろく読んだ。ここ数年、なるほどと思える作品が、やはりアメリカ現代児童文学に多かった私としては、自分なりに整理をしてみる必要が出てきている。
 翻訳ものと言わずに、アメリカ児童文学と限定した場合、(外国一般ではなく、なぜアメリカだけなのか) 多くの読者の中に湧き出てくるイメージに、共通項はあるのだろうか。それが第一の問題だった。それは、多分あるのだろう。多分、いくつかの言葉で、”おもしろさ”の内実を分けていくことは、可能なのだろうという印象を持っている。そしてその中のひとつ(にすぎないが)に、今は注目してみたい。それがどうも”理想主義”というものに、ひっかっかってくるという直感があるからだ。なにをもって”理想主義”とするかについての問題は、今は棚に上げておきたい。どういう道を歩いても、結局はそこへでてしまうといったたぐいの、呪縛的な引力から、今しばらくは自由でいたいと思う。

 例えば、こういう発言があった。「私が児童文学を読むのは、単に元気づけられたいからである」「勇気を与えてくれて、肯定的な気分にしてくれないもの、つまり現世利益、「ゴリヤク」の無いものなどいらない」「だから、私が好きなのは、アメリカの現代児童文学なのである」(前掲p6) 
 どういうもので元気づけられるかは、人によって違う。それは”元気づけられる”ことの内実に深く関わってくると思う。藤森氏の場合は、元気づけられることと、肯定的気分が、多分かなり直線的につながっていくのだろう。具体的に提示された作品に、それははっきりと表れてくる(ヴァージニア・ハミルトンの『雪あらしの町』だった)。
 私が選んだ作品は、ケヴィン・ヘンクスの『マリーを守りながら』である。私の場合、元気づけられることは、多分に生きる力につながっていく。生きのびる力、ある種の達成感、自己充実感といったらいいか。自分が変わったと確認できる、”成長”の概念にかかわっていくものと言えるかもしれない。

 なぜこの作品なのかについての最大の理由は、”無言の抑圧”ということにある。主人公の家庭を支配しているものは、神経質な絵描きの父親の”無言の抑圧”である。絵を売って生活する家族にとって、父親が絵を描けなくなることは、生活の基盤を失うことを意味してしまう。だから、父親の気分は、どういう表れ方をしても、容認しなければならない。原題の「Protecting Marie」に込められた作者の意図は(マリーというのは主人公の女の子が作った紙人形の名前で、父親はそれをゴミとして処理してしまうのだが)、マリーを「守りながら」というよりは、マリー(自己)を「大切にしながら」という意味あいが強いように思った。
 ところで、この”無言の抑圧”という体験は、ほとんどの人が持っているもので、なおかつ、抑圧として意識化されないことが多いといった、やっかいなたぐいの抑圧なのではないだろうか。
 実はごく最近、私自身にもあった。ある施設で働いていた時に、あれこれと口やかましく指図するおばさんがいて、気にしなければどうということもないのに、彼女の足音や声が遠くで聞こえただけで、体が緊張するという自覚を持った。目に見えるトラブルではないので、具体的な解決策はない。ただ、離れるしかなかった。
 こういうたぐいの抑圧の場合、解決(実は解消)を困難にしている要素は、抑圧される側の意識の問題であるという点だ。本人が気にしなければ、どうということはない。それがわかっていながら、心身共に緊張してしまう。こういう場面で、今一番思い浮かぶのが、”イジメ”である。学校という長時間しばられた空間の中で、しかも固定されたクラスという絶対的な関係性の中での”無言の抑圧”。こういう空気を、日々重苦しく、わけもわからず吸い続けている子は、いったいどんな気持ちなのだろうか。
『マリーを守りながら』の主人公は、”私はパパが嫌いだ”と自覚することで、その抑圧から抜け出した。それは文字通り”パパが嫌い”だということではなく(この父娘は似たもの同士で、なおかつ相手を求め合ってもいる)、自分のこのいやな気分は、怯えというものであり、それを強いているのは父親であるという認識を獲得することで、その苦悩から抜け出していく。それは同時に、父親との新しい関係性を創り出していく契機になりえるものだったとも言えるだろう。
 こういう傷つきやすく、か細い女の子を描き出し、なおかつその子が生きのびていく道すじを、きちんと指し示したこの作品は、”今の”児童文学の一つの到達点を示しているような気がしてならない。”今の”とあえてつけた意味は、”前は”その子が生きる〈状況〉が描かれ、その子が生きる道すじは、〈状況〉によってさし示されていたという印象を持っているからでもある。それが、従来の”理想主義”の限界点だったのではないかと思えてしまうのだ。”心”が解放されていくこと、逆に言えば”心”がどれほど抑圧されているかについて、私達はずいぶんと長い間、鈍感でいたのではないだろうか。

 アメリカ現代児童文学がさし示した到達点は(と、私が勝手に思っているものではあるが)、”理想主義”と呼ばれているものの中に、位置づけていく必要があるのではないだろうか。大人が子どもにむかって語りかけるという姿勢をきちんと保ちながら、しかもよく言われる「説教くささ」はみごとに排除されてきた(なぜ排除されえたのかについては、別に考察される必要があるだろう)。人生の先輩として、共に歩んでいこうとする”やさしさ”が、全体として感じられる。”いい大人”になっているなあと、作者について思うことがしばしばあった。
 問題が、とりあえず二つ残る。こういう作品を、日本の作家が日本の子どもたちにむけて書いたらどうなるか。つまり、アメリカの児童文学は私達がめざす方向性を、示しているといえるのかどうか、ということ。これはなかなかむずかしい問題だと思う。一番重要なことは、読者層の違いだ。こういう、いわば”良心的”な作品群を支える(保証する)層があって、なおかつ(というか、その内実)、そういう人たちを支える精神構造に、共通の価値観(人間の行為の善悪についての価値観)があるのではないか、ということ。宗教を持つこと、またはそれを持とうとすることが好ましいと思われている社会においては、例えば人間の”良心”ということについてのイメージに、さほど混乱を生じない。しかし、日本では、どうか。
 それと、もう一つの問題は、これらの作品群は、やはりはっきりと児童文学であると言える点だ。アメリカは、児童文学という一つのジャンルを、はっきりと作りつつあるという印象を強く受ける。ボーダレスがどうのこうのと、あいまいにする気はさらさらない。そこにまよいは、感じられない。
 だからこそなのだが、そうすると、「児童文学」と「子どもの文学」は同じものなのだろうかという疑問が、またはっきりと生じてしまう。
 大人がイメージする未来へのヴィジョンは、そこに、人間とはこういうものだという、強固な観念がある場合には(例えば、人間の良心というものは、いつの時代でも勝利するものだといった)、安定したものとして、次世代の子どもたちに引き継いでいけるだろう。しかし、そういうものを大人が持ち得ない場合、未来が予測不能な未知の世界だと思えてしまう場合には、ヴィジョンもまた不定形なものになる。大人と子どもが共有できる「児童文学」とかならずしも共有できない「子どもの文学」とでは、未来形ははっきり違うのではないだろうか。