「碇シンジ」とは誰か

第二回
目黒 強

           
         
         
         
         
         
         
     
2 「終わらない日常」の想像力

 私は前回、『エヴァ』に「二つの世界」を指摘した。近未来SFとしては不自然に牧歌的な学園生活と、トラウマなどが描かれる凄惨な内面世界。通常であれば、両立しないと思われる「二つの世界」の共存。テレビ版最終二話にファンが動揺したのは、「二つの世界」の関係が壊乱された結果であるように思われるのだ(以下、「最終二話」とはテレビ版を指す。テレビ版と映画版の「二つの最終話」については、『日本児童文学』二〇〇〇年一‐二月号に掲載の拙稿を参照のこと)。
 最終二話は、ご存知のように、随所で撒き散らした世界観に関する謎をほとんど回収しないまま、シンジの内面世界に収斂した。「エヴァ」「使徒」「人類補完計画」など、主要なキーワードが一体何を意味していたのか、ほとんど解明されなかったのである。前回触れたフォース・チルドレン三話(第拾七話から第拾九話)以降、世界観の解明というモチーフは後退していく。第弐拾話「心のかたち、人のかたち」と第弐拾壱話「ネルフ、誕生」でネルフの過去等が語られはするが、断片的な情報しか提示されない。第弐拾弐話「せめて、人間らしく」ではセカンド・チルドレンの惣流・アスカ・ラングレー、第弐拾参話「涙」ではファースト・チルドレンの綾波レイ、第弐拾四話「最後のシ者」ではサード・チルドレンの碇シンジが使徒との戦闘で傷ついていく。それまでとは違い、使徒の攻撃目標はエヴァそのものにではなく、パイロットの内面に変更されていた。自殺した母親に愛されなかったトラウマに自壊するアスカ、クローンでしかない自分に芽生えたシンジへの想い故に自死を選ぶレイ、最後の拠所であった渚カヲル(実は使徒)を殺す選択をしたシンジ。使徒との戦闘で彼らの心は蹂躙し尽 くされる。もはや、彼らに世界に関わる余力は残っていない。最終二話(第弐拾五話と第弐拾六話)に至った時点で、世界観の解明は事実上実行不可能、シンジの閉じられた内面世界以外に語るものは残されていない。このように、少なくともフォース・チルドレン三話以降は首尾一貫している。したがって、世界観の解明がなされなかったという理由は、最終二話が物議を醸した説明としては弱い(それは最終二話以前からの問題である)。
 最終話において、内面世界で自問自答を続けるシンジは、エヴァが存在しない「もう一つの世界」に気づく。――何気ない夫婦の会話が飛び交う食卓、幼なじみのアスカとの微笑ましい会話、転校してきたレイとの運命的な出会い、魅力的な葛城ミサト先生と愉快なクラスメイトたち。シンジが切望していた全てが「もう一つの世界」にはある。「もう一つの世界」は、現実世界とシンジの関係を転回させた。現実世界に居場所がない絶望から、ここに居てもいいのかも知れないという希望へ。シンジが自分の存在を承認するのと同時に、寄せられる祝福の言葉。シンジは世界に受け容れられたという訳だ。
 このように最終話では、「もう一つの世界」が挿入されていた。そこから一挙に自己承認して世界に受け容れられる経緯は、たしかに唐突に見える(「自己啓発セミナー」批判については次回)。しかし、それだけで、視聴者の感情をあれ程までに逆撫ですることができるだろうか。「もう一つの世界」が挿入されたこと自体が問題だったのであれば、作品が破綻していることにファンは動揺したことになる。もちろん、ファンは作品が破綻していることに腹を立てていたであろうが、作品が破綻しているという理由のみで、彼らが動揺するとは考えにくい。おそらく、挿入されたこと自体ではなく、挿入された「もう一つの世界」の性格に動揺したと考えた方が妥当ではないか。東浩紀は「作品自体をメタフィクション化すると同時に、一部のファンたちの欲望を嘲笑した明確なジャンル批判だった」(『郵便的不安たち』朝日新聞社、九九年)と言う。『エヴァ』の監督・庵野秀明の作家性を重視する立場からの発言としては妥当であると考えるが、「メタフィクション」あるいは「ジャンル批判」が「何」によってなされたのかを考察すべきだった(「ファンたちの欲望」の一言で片付けられない)。「 もう一つの世界」の学園生活は、一部の同人誌的欲望の鏡像であると同時に、もう少し一般的なイメージと一致している。「もう一つの世界」は、「蝉時雨の箱根を舞台とした「夏休みの成長物語」」(上野俊哉『紅のメタルスーツ』紀伊國屋書店、九八年)そのものなのである(『エヴァ』の世界は、セカンド・インパクトによって地軸が傾いてしまったため、季節は常に夏であるという設定)。そこで問われるのは、「もう一つの世界」が「夏休みの成長物語」として形象されたことがファンを動揺させた理由である。
 「もう一つの世界」は、フォース・チルドレン三話以前に顕著な「牧歌的な学園生活」を表面上は継承している。しかし、「もう一つの世界」は、「世界が常に不可解なものとして現れてくる第拾九話までの喚起力」(切通)を失っている。「ジャンル批判」(東)という性格上、それは典型的に描かれざるを得なかったからだ(ミサトが教師役なのだから)。つまり、「夏休みの成長物語」から逸脱することがない物語として再設定されているのである。だとしたら、「もう一つの世界」に見せたファンの動揺は、次のように説明できる。彼らは、フォース・チルドレン三話以前の「不透明な世界」(物語なき世界)にシンクロしていた。たとえば、第拾六話「死に至る病、そして」のエピソード。エヴァとのシンクロ率で誉められたこと思い起こし、シンジは控えめに拳を握る。喜びを反芻しているところに、聞こえてくる子どもたちの忍び笑い。喜びは一転して羞恥心に変わる。このようにして立ち現れてくる「不透明な世界」がリアルだったのであり、シンクロしていたのだ。にもかかわらず、最終話で提示されたのは「透明な世界」(物語が自明な世界)であった。「不透明な世界」が「透明な世界 」で置き換えられる不快感。これが動揺の正体ではなかったか。
 「不透明な世界」が「透明な世界」で置換される図式そのものは、宮台真司『終わりなき日常を生きろ』(ちくま文庫、九八年)が提出した枠組と同型である。宮台によれば、八〇年代には、女の子を中心とした「終わらない日常」(物語なき世界)と男の子を中心とした「核戦争後の共同性」(物語が共有されるべき世界)という二つの終末観があったと言う。前者は高橋留美子『うる星やつら』(七八年)、後者は大友克洋『AKIRA』(八四年)に代表させている(詳細は、宮台他『サブカルチャー神話解体』パルコ出版、九三年、参照)。宮台が「核戦争後」のイメージに着目するのは、以下の理由からである。「核戦争」は「透明な世界」(物語)の終焉を意味している。だとしたら、「核戦争後」のイメージの変容は「終わらない日常」(物語なき世界)を如何にして生きていくのかという想像力に対応しているはずだ。以上のような枠組から宮台は、オウム事件を、「終わらない日常」に耐えきれずに「核戦争後の共同性」というファンタジーを現実化しようとした試みとして説明した。
 「不透明な世界」を「透明な世界」で置き換えた『エヴァ』最終話もまた、オウム事件と同じ構造を有しているように見える。しかし、最終話に対するファンの動揺は「不透明な世界」が「透明な世界」で置換されたことによってもたらされたとする私の見解が正しければ、オウム事件の図式は『エヴァ』には当てはまらない(受容レヴェル)。そして興味深いことに『エヴァ』は、破滅後を描きながら、「廃墟」のイメージとはかけ離れた「牧歌的」な世界像を提出していた。「核戦争後」のイメージが変容しているのである(作品レヴェル)。これは、「終わらない日常」に対する想像力が変容していることを意味する。そこで考察されるのは、「終わらない日常」が「牧歌的」に想像された意味である(受容と作品の関係)。その際、現実が「終わらない日常」だからこそ牧歌的風景が想像されるのだという説明は退けられる。「不透明な世界」である現実が「透明な世界」である『となりのトトロ』のような物語に昇華されるという説明は、『エヴァ』最終話がファンに拒絶されたことによって、否定されているからだ。「牧歌的」な想像力は、『となりのトトロ』とは違った形で働いているのではな いか。(以下、次号)
 
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【児童文学評論UNIT2001 3号】