『21世紀とどう向き合うか』

(連載その1) 安房直子の世界を通して(佐藤重男)

           
         
         
         
         
         
         
     
 「1999年7月」を無事?にやり過ごしたとたん、それまで巷を賑わしていた「世紀末」に代わり、「ミレニアム(千年紀)」なることばが氾濫している。
 この、21世紀の幕開きの年(2001年からが21世紀だという説もあるが)を、安房直子が現存していたなら、どのような気持ちで迎えたであろうか。というよりも、彼女は、どんな作品で21世紀を迎え撃ったことだろう。とても気になっている。
 なぜ、気になるのか。それは、次のようなわたし自身の体験から来ているのだと思う。
 わたしは、子どものころ(たしか小学校五年から六年生ぐらいのころだったと思うが)、大変な「夜泣き症」だった。気がつくと、怖い夢でも見て泣いているのだろうと、家の者が水を口に含ませてくれている。でも、怖い夢をみたという記憶はない。とにかく、わたし自身は、運動をして大汗をかいたあとのような、さっぱりした感じなのである。まわりもいい迷惑だったろう。ひどい時は、毎晩のように泣いては家族を驚かした。六年のとき、修学旅行に行けないのではないかと心配した親が、学校に相談にいったこともあったが、その修学旅行を無事終えると、夜泣きはピタリと止んだ(らしい)。
 実は、もう一つ。
 同じころ、「夢遊病」でもあった。寝たとおもったら、しばらくすると茶の間にあらわれて、押入やタンスの引出しを開けたり閉めたりしている。誰かが声をかけると、なにやら言いながら寝床に戻っていくという。もちろん、わたしは何も覚えていない。
 どちらも、原因は、遊び疲れたせいではないか、という推論を兄弟たちがたてたことがあったが、専門医にかかることもなかったので、今では判然としない。
 いずれにしろ、「夜泣き」が止んだころから「夢遊病」も止んだが、そのあとも長いこと、みるのはほとんど不思議な、怖い夢ばかりであった(よくみたのは、小さな潜水艇で、地面の下の下水道のようなところを動き回っている、そんな夢だったのを覚えている)。
 こんど、改めて安房直子の作品を読み返してみて、もしかしたら、子どものころ、安房の作品に似たものを読み、それが潜在意識として沈澱し、「夜泣き」や「夢遊病」の原因となったのではないか、そう思っていろいろ記憶をたどってみたのだが、考えてみると、わたしは、ちっとも本を読まない子どもだったのだ。
 いや、夢中になった本がいくつかある。ジュール・ベルヌの『十五少年漂流記』と江戸川乱歩の『怪人二十面相』だ。
 子ども時代、空想にふけるのが好きで、同時に、外で遊ぶのが好きでもあったわたしが、『十五少年漂流記』に夢中になったのは当然のことであった。
 一方、乱歩の作品の基調にあるのは、「エロ・グロ」の世界だった。推理小説としては、二流なのだが、おどろおどろした、覗いてはいけない世界がそこにはあって、わたしたち子ども読者をひきつけたのではなかったろうか。いま、乱歩の『怪人二十面相』が子どもに読まれないのは、皮肉なことに、それが「二流のエロ・グロ」だからだともいえる。なにしろ、現実のほうがよほどおどろおどろしいのだから。

 実は、もう一つ理由がある。
 それは、安房直子の世界は保守的で旧弊な世界、と長いこと信じてきた、そのことがわたし自身の中で揺らいできている、ということだ(正しくは、あまりにも図式的な解釈に窮屈さを感じてきたというべきだろう。あるいは、わかりやすいけれど、何かをすくいとることができないでいる、という物足りなさなのかもしれない)。
 はじめて安房の作品を読んだとき、わたしが直感的に感じたのは、安房の作品の特徴は、そこに登場する人物たちの多くが手に職を持つ人たちであり、逆に、いわゆる労働者階級に属する人たちが登場するのはまれであり、たとえ描かれたとして、そこには悪意にも似たものを読みとることができる、ということだった。
 たとえば、『ハンカチの上の花畑』(あかね書房 1973・2)は、ファンタジーというには、あまりにもおどろおどろしい世界が描かれているが、ここに登場する郵便局員の扱われ方は特異である。ほかの作品の登場人物たち(職人)が、いずれも好感の持てる人物として描かれているのに比べ、この郵便局員は実に哀れですらある。
 そう思いこんでしまうと、そのあと集中的に安房の作品を読んでいけばいくほど、その思いは募るばかりであった。
 どうして、安房はこれほどまで労働者を「憎み」、職人の世界に共感するのか。

 安房作品の大半は、60年代末から70年代にかけて書かれている。ちょうど高度成長の歪みが顕著になり、世界的には米ソ冷戦構造のわくぐみがゆるみ、なんとなく、「安定」を欠いた世相があらわになっていった時代である。
 そして、大企業に働く組織された労働者たちが、周縁の貧しい人たちを引き連れ、世の中を変革する中心的役割を担うものと信じられていた時代でもあった。(1980年に、社会党と公明党が構想した「連合政権」を支えるのが、彼らたちである、と仮定されたように)
 しかし、安房にとって、大企業を中心とした組織労働者は、「大衆」そのものであり、何よりも高度成長を担ってきた当事者たちでもある。しかも、「大衆」を「みんな」と呼び変えてみたとき、ひとりひとりの顔が見えなくなってしまう。それはまるで、大企業から生み出される乗用車を指して、「この車はオレが作った」などという者はいないし、言えないように、だ。そのこともまた、安房にとっては嫌悪すべきことであったろう。「大衆」(あるいは、「みんな」)が、高度成長を担い、そして、消費者としてその連還の輪に組み込まれていることを知ったとき、安房は、労働者階級に背を向け、手に職を持つ人たちへと向かった。                

 こうしてわたしは、労働者階級=革新支持層、職人=保守支持層という、旧来の図式にぴったりあてはまることに満足し、安房作品の本質を次のようなものと決めつけてしまったのであった。
 安房作品の本質は、「変質・変容への不安」にあるのではないか、つまり、人間が本来持っている原初的なものが、現実が変質し変容していくことによって歪められ、弱められ、汚染されていっている、そうして、ついには闇の世界に閉じ込められ、人間は文字どおり形骸化していくのではないか、――そのことへの不安こそが安房作品の本質ではないか、と。
 しかし、いうまでもないことだが、それは、あまりにも皮相的すぎる見方であった。
 安房がおそれたのは、変革そのものではなく、何がどう変わるのか、それによって人間性がどう変質していくのか、その内実であり、わたしたちが見なければならないのは、安房がそれほどまでに強烈な危機意識を抱き続けたのはなぜか、ということではないだろうか。
 あるいは、もし、仮に安房自身が「したがって変革は悪」とし、変革の担い手であるとされた組織労働者たちを嫌悪していたとし、では、なぜ「悪」なのか、そのことをも作品世界から解き明かしていく必要があるだろう。
 生産者であると同時に、大量消費の担い手でもある組織労働者に背を向け、職人(あるいは小商工主たち)の世界を好んで描き続けた理由を明らかにしながら、新しい世紀に対して、児童文学はどのように向き合い、そして撃つべきかを考えてみたい。(つづく)
【児童文学評論UNIT2001 3号】