リュック・ベッソンにみる戦争の新しい語り方
映画「ジャンヌ・ダルク」

芹沢清実

           
         
         
         
         
         
         
     

 「ガメラ3」と「永遠と一日」には感動したし、「黒猫白猫」や「シックス・センス」もよかったけど、九九年公開映画のマイベストは何といっても「ジャンヌ・ダルク」だ。 何度も映画化されている素材だが、見ているのは五年ほど前、ジャック・リヴェットの二部作だけである(原題「処女ジャンヌ 戦闘」「処女ジャンヌ 牢獄」九四年、フランス映画)。リヴェットのジャンヌでは、とりわけ
「牢獄」での男装をめぐる攻防に明らかなように、フェミニズムの視点が強く押し出されていた。しかし、ベッソンの主眼はそこにはない。〈男をひきいて戦闘する少女〉のイメージは、もはやサブカルチャーシーンに氾濫して陳腐化すらしているのだから、これは当然のことだろう(そう思うのは日本人だけかもしれないけど、たぶん欧米のおたく青少年だって同じなんじゃないかな)。
 ともかく驚いたのは、ベッソンが正面きって「正義の戦争なんか、ない」と言い切っていること。
 いま、戦争をめぐる言説のなかで突出しているもののひとつは、欧米の知識人に目立ってきた「正戦論」(NATO軍のユーゴ爆撃についてのスーザン・ソンタグの言説など)だ。より多くの殺戮をやめさせるためには、戦闘行為もやむをえない、というより戦闘にふみきることこそが正義であるというのが、その主旨である。ユーゴについては首をかしげるわたしも、ベトナム戦争のときベトナム人民が戦っていたのは「侵略に抵抗して祖国を防衛する正義の戦争」だったじゃないか、と言われれば、たしかにそうかも、と思ってしまわないではない。そうなると「国際間の紛争解決の手段としての戦争は、これを永遠に放棄する」という言説を、わたしは本当に支持しているのかどうか、という疑義が生じるのだ。「正戦論」が台頭するいまこそが、日本国憲法をめぐる論議が現実味をもってきているように思う。
 そんなときに、ベッソンは「正戦論」を否定した。しかも、それがたんなる教条として(たとえば誰かがそういう演説をぶつなどという稚拙な手法だとか)出てくるのでなく、映画として強い説得力をもって提出されていることに、ともかく驚いたのである。
 映画「ジャンヌ・ダルク」の山場はふたつあり、前半ではオルレアンの戦闘がそれだ。英国兵に姉を惨殺されたジャンヌが、神のお告げのもと、侵略者を追い出すべく戦う。このオルレアンの戦闘は、中世の戦闘を描いたものとしては、あの映画史上名高いエイゼンシュテイン「アレクサンドル・ネフスキー」の氷上の戦いに匹敵する迫力がある。さらに不可能と思えた勝利へと導いたジャンヌのカリスマぶりも、くっきり描かれている。それだけに、間近にした死の酷さに「こんなはずじゃなかった」というジャンヌの衝撃を、観客はしっかり共有することができるのだ。
 さらに後半、牢獄で自らの「良心」と対話するジャンヌの姿からは、「誰もがなりうるアブナイ奴」としての「正義の戦闘者」像が立ちあがってくる。なぜジャンヌが戦ったのかについての解明は、なかなかにサスペンスフルなので、ここではネタばらしは避ける。しかし映画の冒頭、子ども時代のジャンヌの描き方からして、きちんと布石は置かれている。幼いジャンヌは、ときには日に二度も教会を訪れて神に懺悔せずにいられないほどの「告解おたく」である。神や正義に「依存」することで、自身の願望を正視しないまま、別のものにすりかえていき、正当化していく危険性。その行き着く先には、たとえば、オウム真理教事件のとき感じたような「わたしもなりえたアブナイ奴」がいる。
 リュック・ベッソンは一九五九年生まれ。戦争をめぐる言説の担い手は、戦争体験のない世代へと移行しつつある。そこでは体験や記憶を「どう継承するか」という従来の問題のたて方よりも、「どう再構築(あるいは再定義)するか」が問題になる。「体験を参照系にしない戦争の語り」(成田龍一)が、先鋭でありながら簡潔明瞭なかたちで成立しうることを、この映画でベッソンは示した。
【児童文学評論UNIT2001 3号】