「碇シンジ」とは誰か(第三回)

3 「学校の夢」
目黒 強

           
         
         
         
         
         
         
     
 私は前回、ファンの多くは『エヴァ』が提示した「不透明な世界」にシンクロしたからこそ、テレビ版最終話で挿入された「透明な世界」に拒否反応を示したのではないかという見解を述べた。宮台真司によれば、『エヴァ』にシンクロしたのは、碇シンジのように「現実世界とシンクロできない」「シンクロ率の低い」人たちであったと言う(『朝日新聞』九七年二月二六日)。また、香山リカは、「「イケてない」彼らも何らかの形で世界とつながりたいと願っていた」と述べ、「『エヴァ』はその欲求を満たすメディアになった」と結論する(「消費文化に乗れない「イケてない」人たちを世界とつなげたメディア」『SPA!』、扶桑社、九七年四月三〇日―五月七日)。両者はともに『エヴァ』にシンクロした人たちに関心を寄せている訳だが、彼らがどのような「世界」にシンクロしたのかについては多くを語っていない。そこで小論が着目したのは、近未来SFとしては奇妙に「牧歌的な学園世界」であった。しかも、「牧歌的な学園世界」は「不透明な世界」として描かれていた。「透明な世界」の学園ドラマは、「もう一つの世界」としてしか提出されず、それはファンに拒否された。 だとしたら、「不透明な世界」が「牧歌的な学園世界」として象られたからこそ、多くのファンは『エヴァ』にシンクロしたとは考えられまいか(貞本義行のコミックス版はテレビ版以上に、学校生活の描写に力を入れているようにみえる)。
「不透明な世界」が「牧歌的な学園世界」として描かれたのは、「不透明な現実」としての学校生活を反映しているばかりではない。リアルな学校生活を描くだけであれば、舞台を近未来SFとして設定する必要はないからだ。ここで、近未来であるのに牧歌的であるという奇妙な時制の効果を考えてみたい。便宜上、このような時制をSFで言うところの「牧歌的未来」と呼ぶことにしよう。「牧歌的未来」において「過去」は「未来」に挿入される。「過去」が「喪われた記憶」として「未来」に再現されるのだと言ってもよい。ゆえに、「牧歌的未来」において「過去」は終わることがない。『エヴァ』における「終わらない日常」は、「記憶」の回帰というモチーフを抱えている。時として『エヴァ』の「世界」の遠近法が歪むのは、以上のような記憶回路の混線として理解されよう。パイプ椅子に座り、木製の机の上でノート型の端末を操作する生徒の姿は、時制の遠近法が混線している格好の事例だ。地軸の傾きのために常に「夏」である『エヴァ』の「世界」は、内的時間が停止ないしはループしていることを意味している。すなわち、「記憶」の固着ないしは反復として理解されるのである。
 切通理作は「Lyrics」(前掲、第一回参照)というエヴァ論を「学校の夢」からはじめているが、「牧歌的未来」は「夢」に似ている。記憶回路の混線は「夢」の世界では日常茶飯事であるからだ。『エヴァ』の「終わらない日常」の肌触りには、「夢」が喚起する不気味さに相通ずるものを感じるのである。少なくとも『となりのトトロ』の牧歌的風景は、揺るぎない過去として描かれたために、「夢」のような不気味さを喚起するものではなかった。「過去」ひいては「記憶」が実質的には「夢」として表現されたところに、『エヴァ』のアクチュアリティがある。換言するならば、『エヴァ』は学校生活という「終わらない日常」を「夢」として語ることで、「不透明な世界」の不気味さを表現することに成功したのではないか。理不尽な夢の多くが学校を舞台に上演されることを考えれば、『エヴァ』が「終わらない日常」を実質的には「学校の夢」として表現したことは強調されてよい。
 ここで、『エヴァ』の監督・庵野秀明と対照的に論じられることが多い押井守の監督作品『うる星やつら2ビューティフルドリーマー』(八四年)に言及しておきたい(注)。『うる星やつら2』は、学園祭を前にした祝祭的な時間がループする世界を描いた作品で、その世界はラムという女の子の「夢」として処理されていた。夢から目覚めた先が果たして現実なのか、それとも夢の続きなのかを決定することができないアポリアを主題としているのである。「終わらない夢」が「終わらない日常」の隠喩であることは言うまでもない。だからこそ、前回に参照した宮台の分析において、『うる星やつら』は「終わらない日常」を描いた作品を代表していたのである。ラムが「終わらない日常」の永続を夢見たのとは対照的に、シンジは「終わらない日常」の終焉をこそ望んだ。最終話の「もう一つの世界」は、そのようなシンジの妄想の産物であろう。
 しかし、ここで着目したいのは、そのようにして幻想された世界がまさしく「学校の夢」であったという点である。私は先に『エヴァ』は「学校の夢」であると述べたが、だとすれば「もう一つの世界」とは「学校の夢」の中で見られた「学校の夢」ということになる。最終話に挿入された「学校の夢」が不気味なのは、シンジは「学校の夢」から目覚めることができないのではないかという気分にさせられるからである。たしかに、シンジは最終話で「学校の夢」から目覚めたように描かれた。しかし、目覚めたはずの世界には死んだはずの母親が存在しているばかりか、「おめでとう」という祝福の言葉をシンジに向かって口にしているのである。死んでいることに気がついていない死者ほど、不気味なものはない。シンジの心象風景と言ってしまえばそれまでだが、この不条理さはむしろ「夢」ならではのものである。『エヴァ』は、少なくとも『うる星やつら2』と同程度には、「終わらない日常」を不条理なものとして描いているのではないか。最終話に寄せられた「自己啓発セミナー」批判は「もう一つの世界」が「学校の夢」であったことを見逃しているために、その不条理さを捉え損なってい る。
 たとえば、宮崎哲弥は次のように「自己啓発セミナー」批判を展開する。曰く、「ここで問題なのは、この自己発見劇が、実は自己啓発セミナーやサイコセラピーのメソッドを物語の中に取り込んだ、形を変えたマインドコントロールの典型ととらえられることだ」(「『脳内革命』『新世紀エヴァンゲリオン』ブームに警告する」『SAPIO』九六年十二月二五日号)。最終二話を通じてシンジは、カヲルを殺したことの尋問をはじめ、容赦無い非難を浴びせられて精神的に衰弱した中で「覚醒」を遂げる。しかも、その尋問は「密室」のような閉塞状況で行われており、シンジの精神力を消耗させるに十分であった。唐突に思い浮かべられた「もう一つの世界」(エヴァが存在しない可能世界)は、極限状態に陥ったシンジの幻覚として解釈できなくもない。「終わらない日常」にシンクロできないシンジは、マインドコントロールされて「もう一つの世界」を幻想するに至った…。しかし、「もう一つの世界」が幻想されたことを批判するのであれば、その前に『エヴァ』の「終わらない日常」そのものが「牧歌的未来」という「もう一つの世界」として設定されたことを議論すべきではなかったか。
「自己啓発セミナー」批判の論客の一人である大塚英志の次の発言は興味深い。曰く、「宮台真司ふうに言うところの「終わりなき日常」に対する不安といらだちは、他方では、そこに亀裂が走る事を欲し、それ故に、生きる足場としての日常性の再確認の作業が不可避となるという事態を何らかの形で呼び起こしたように思う。そういう時代の文脈を偶然かもしれないが正確にトレースしえたことは『エヴァンゲリオン』の評価すべき点だ」(「「超越性」批判」『ユリイカ』九六年八月号)。大塚は『エヴァ』が途中まで「終わらない日常」を描いていたことを評価する。だからこそ、「透明な世界」を唐突に挿入させた最終話を批判した。「自己啓発セミナー」批判は、それ自体としては的外れであるようには思わないが、その前に「終わらない日常」が「学校の夢」として象られたこと自体を議論する必要があるはずなのだ。そもそも、最終話に対してファンは拒絶反応を示していたのだから、「自己啓発セミナー」批判は受容レヴェルで有効なものかどうかは疑わしい。
 冒頭で、最終話の拒否は「終わらない日常」という「不透明な世界」にシンクロした結果であると述べた。この発言は、「もう一つの世界」が「透明な世界」であることを前提にしている。ここでは、最終話は「終わらない日常」を終わらせたものとして位置付けられている。しかし、この「透明な世界」は「学校の夢」として現れることで、「終わらない日常」が終わらないことを示唆していた。すなわち最終話は、「終わらない日常」を表面上終わらせることで、終わらないことを示唆するといった両義的なものではなかったのか。だとすれば最終話の否認は、「終わらない日常」が終えられた欺瞞に向けられると同時に、「学校の夢」が終わらない絶望に向けられたものとして理解できる。「終わらない日常」が終わらないことを知っているからといって、そのことに直面させられることを回避したいと考えるのは不自然なことではない。「終わらない日常」にシンクロすることは、「終わらない日常」の終わらなさに直面しない方法であったように思うのだ…。
 次回からは、冒頭で指摘しておいたように、どのような「世界」がシンクロされているのかを、しばらく『エヴァ』から離れて検討することにしたい。

(注)二〇〇〇年三月公開の『ケイゾク/映画』の副題は「ビューティフルドリーマー」。実際にパロディの場面が散見された。興味深いことに、ヒロインの名前の候補に「綾波レイ」があったとか。
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【児童文学評論】UNIT2001 4号(VOL2)  2000/07/13日号