UNIT評論98通信 NO.2
1998年4月15日発行
連絡先:芹沢清実
郵便/360−0026 121−1−603
Eメール
●お礼とご報告●
動きはじめました
スキーシーズンのさなかに立ち上げたUNITも、春めいてきたころの第一回目・会合をへて、いよいよお互いの顔が見える集まりになってきました。
「ま、ほそぼそとやっていけばいいや」という当初の思惑をうわまわって、多くの方が参加・応援してくださり、ちょっと恐縮しています。
まずはお礼を申し上げてから、この間の報告をいたします。
三月十四日、神楽坂に集まったメンバーは、奥山恵、佐々木江利子、原のぶ子、芹沢清実の四名。評論、創作、研究と「畑がちがう」顔ぶれだったこともあり、児童文学とのかかわりの「論理発生史的」自己紹介をふくめて、課題意識についての話し合いに突入しました。
次ページからの「物語の<出口>へ・続考」をはじめ、これからの通信では、こうした話し合いを受けて発表者がまとめた、いわば「中間レポート」も掲載していきます。
ちがうバンドから集まったセッションというか、異種格闘技というか、ちょっとそんなライブ感があって、わくわくするスタートとなりました。
この通信も、そういう楽しさを伝えていけるような紙面をめざします。投稿などでご参加いただければ、うれしく思います。
つながりはじめました
通信bPについての感想、ご意見も、郵送やEメールでおよせいただいています。
それを読んでは、(ああ、そこはつっこんでほしくなかった。自分でもわかっていないんだもーん)だとか、(うーむ、そう読めるか。書き方が不親切でいたらぬせいだ)だとか、右往左往し頭をかかえるのは、とても楽しい体験です。
いくつかのことがらについては(たとえば、時評でふれた「児童文学のタブー」)、複数の方から指摘いただき、できればそれらを紹介しながら、再論したいと思っています。「おたよりを引用させていただけますか?」とお願いすることがあるかもしれません。その節は、よろしくご検討くださいますよう。
さて、UNITの媒体として、紙にコピーした「通信」だけでなく「電子版」を出しては、という話題が出ています。インターネットを使えない(ワープロ専用機とモデムでニフティを使っている)ので、躊躇していたのですが、ひこ・田中さんのホームページ(メールマガジン「児童文学評論」。読者百五十名)に掲載していただくことに決めました。ただし、テキストはこの通信のみとし、年度末の論集は出さないこととして、通信有料講読者との差を確保しようかなと考えているところです。ご了承いただければ幸いです。
(芹沢)
●原稿の形式についてのお願い●
これから「私の問題関心」の原稿をお寄せくださる方、いきなり「時評」を書けと 要求された方、原稿は以下の形式でお送りくださるようお願いいたします。
・本文 二十字×八十行分または百七十行分
・なかに小見出し(三行どり)をつけていただけると、うれしい。
・できればEメール、またはMS−DOSのフロッピー郵送が、うれしい。
(メールの場合、一行20字詰めである必要はありません)
●私の問題関心●
物語の<出口>へ・続考
奥山 恵
一、物語の<出口>という考え方
何年か前に、児童文学における作品の結末をめぐって評論を書く機会をいただいた。
その論のタイトルを私は「物語の〈出口〉へ」としたのだが、今回はその続きを書いてみたいと思っている。
じつはこの、物語の〈出口〉という考え方は、吉本隆明の『ハイ・イメージ論』(福武書店、一九八九)の中からもらったものだ。そこで吉本は、《作品のモチーフが消去される像(イメージ)の場所》《作品がつくられた動機がフェイド・アウトするところを、像(イメージ)か意味によってしめしている場所》を、作品の実際の末尾にあたる《構成的な〈出口〉》と区別して、《作品の〈出口〉》と呼んでいる。
興味深いことに、これに似たことを、かつて古田足日も述べていた。古田は、《作者がずっと書き進んでいっての、その中で自分自身の表出がそこで終わる》のと《物語のいわばプロットとしての完結性というもの》と、《筋ということに二つある》と言う(「座談会 児童文学とは何か」『児童文学読本』日本児童文学者協会編、すばる書房盛光社、一九七五)。この《二つある》という《筋》のうち、前者にあたるものが、吉本のいう〈出口〉と重なるのではないか。つまり、書き手が自分のモチーフを表出し終え
た!と感じるところ(それによって読み手になんらかの解放を感じさせて作品から「出す」ところ)と、作品の構成上の末尾(いわゆる本の最終ページ)や作中の事件が完結するところとは、必ずしも一致しないのではないかということだ(もともと、このあたりの吉本や古田の言説については、石井直人氏と宮川健郎氏の示唆による)。
先の「物語の〈出口〉へ」という拙論ではこういう考え方を基本において、六〇年代以降の日本児童文学においては、物語の事件が完結すること(それによって何らかの変革が示されて作品が終わること)のみが作品の結末として重視されてきた傾向があること、そして、八〇年代のはじめ頃から、そうした事件の完結性によるのではない物語の〈出口〉がひらかれてきていることを、那須正幹の『ぼくらは海へ』(偕成社、一九八〇)を中心に指摘した。この論はいずれ活字になることもあると思うが、しつこく児童
文学史的に考えれば、言うまでもなく状況はもうその先へと変容しつつある。私の頭の中にあるのは、岩瀬成子、川島誠、江國香織らの九〇年代の作品群だ。だが、そこへ行くには、もうひとつ前段がある。
二、〈出口〉をめぐるひとつの宿題
私は、先の論「物語の〈出口〉へ」の最後に、村上春樹の『1973年のピンボール』(講談社、一九八〇)の次の文章を引いた。
《これは「僕」の話であるとともに鼠と呼ばれる男の話でもある。その秋、「僕」た ちは七百キロも離れた街に住んでいた。/一九七三年九月、この小説はそこから始ま る。それが入口だ。出口があればいいと思う。もしなければ、文章を書く意味なんて 何もない。》
この作品は、学生時代にのめりこんだ一台のピンボール・マシーンを探しあてる「僕」の物語と、ふるさとの街を出ていこうとする「鼠」と呼ばれる青年の物語と、まったくふたつの系で構成されている。しかも、それらふたつの物語が語られたのち、《もちろんそれでアーサー王と円卓の騎士のように「大団円」が来るわけではない》という言葉がはっきりと記されてもいた。
この村上の作品は『ぼくらは海へ』と同じ一九八〇年に出版されている。私は、ちょうど同じ頃に児童文学の外でも、<出口>という言葉で伝統的な《大団円》とは異質の結末が志向されていた好例としてこの村上の作品を示し、そこで紙数も力も尽きて、先の論をいちおう閉じたのだった。したがって、村上春樹のこの作品が新たに示した(であろう)〈出口〉のありようをしっかり論じるにはもちろん至らず、そのことは私の中にひとつの宿題となって残った。もし〈出口〉論を続考するなら、この宿題になんらかのかたちでとりくむものにしたいと思ってきた。そこで新たにひっかかってきたのが、岩瀬成子、川島誠、江國香織らの九〇年代の作品群なのだ。
三、続・物語の〈出口〉へ
たとえば岩瀬の『もうちょっとだけ子どもでいよう』(理論社、一九九二)、たとえば川島の『800』(マガジンハウス、一九九二)、たとえば江國の『きらきらひかる』(新潮社、一九九一)。これらの作品と村上春樹の『1973年のピンボール』とを見渡したとき、ひとつ大きな共通点がある。それは、村上の作品が「僕」と「鼠」というふたつの系の物語で貫かれていたように、どの作品も、姉妹であったり、同じ競技のライバルであったり、夫婦であったりするふたりの人物のふたつの語り(視点)で貫かれているということだ。しかも、どれも《大団円》といえるような結末からは離れている(ようにいちおう見える)。
もちろん、児童文学において、このような複数の視点から語られる手法の作品がこれまでまったくなかったわけではない。だが、たとえばタウンゼンドのなつかしいラブ・ストーリー『愛ときどき曇り』(晶文社、一九八八)などを思い出してみても、少年と少女のふたつにくいちがい分裂する語りは、最後の「分かり合う」「通じ合う」という結末を強調するためのものだった。だが、岩瀬や川島、江國の作品には、それほど素朴な「分かり合う」「通じ合う」結末を見出すことはできない。ついでに言えば、芥川龍之介の『薮の中』的な、「あるひとつの現実も様々な角度から見れば違って見える」ということを示すための手法とも微妙にちがうように思える。また、単に多様な世界の提示ということで収めたくないという私自身のこだわりもある。
一九八〇年の村上春樹の作品とこれら九〇年代の作品の〈出口〉は、どこにあるのか。それらはみな、同じなのか、ちがうのか。そこに事件の完結性とは異質の固有の解放はあるのか。書き手は、そして読み手は、どうやって作品から「出て」いくのだろうか。
同時代の作家たちの作品をうまく語ることができないまま来てしまったが、物語の〈出口〉ということを考えていけば、何かが見えてくるような気がするのだが、どうだろうか。
……とは言いつつも、ここから先は、私自身いまのところまったく未知の領域だ。まずは、私の中にひっかかっているこれらの作品群をあらためて丹念に丹念に読むことからはじめるしかないと思っている。できるなら、ひとが変わっていくということ(「成長」という言葉をちょっと避けてます)、関係ということ、家族や性、社会ということなどにからめて論じていけたらいいとも感じている。
はたして、可能なものかどうかあんまり自信もないのだが、締め切りもなくただ一人で考えているよりはと思って、この場に参加させていただくことにした。こんなふうに無責任にも意志表明をしてしまったからには、どんな小さなことでも関連するヒントをいただければ幸いです(ここにあげた現代の作品について先行する論もあんまり見出せないでいるので)。
*芹沢気付でお願いします(郵便、Eメールのあてさきは通信の冒頭にあり)。
こうなったら、ずうずうしくいくしかないでしょう。
●私の問題関心●
子どもから逃げてしまいたい願望
亀田 純子
子どもという言葉は何に基づいて使われているのだろうか。子どもと呼ばれている生物によってか、またはその言葉によって想起させられる属性によってだろうか。子どもについて話をする時、互いの基づいているものが異なれば話はうまく通じない、ようにみえて会話は成立してしまう。私はそのことが気になってしまう。
数ヵ月前、私は学習教材の訪問販売専門の会社で、テレホンアポイントのバイトをしていた。部屋には学習資料の代わりに小学生名簿の山があり、学習指導の先生と名乗る営業員は、いかに電話口の疑い深く頑迷な親を黙らせるかを話し合っていた。
「人の知覚は聴覚と視覚に頼っています。ですから普通の塾では余計な所に目がいってしまい集中できません。当社のお薦めする電話を使った勉強方法なら聴覚だけに働きかけて、話を聞く姿勢が嫌でも身につきます。よく運転中に携帯電話を使用していて事故を起こした等と聞きますが、それだけ電話は集中させてしまうのです」
営業員の現実離れした説得が続くにもかかわらず、彼と親は学習教材の素晴しさに向けて会話を成立させていく。
親は自分の子どもの将来のために塾や教材が必要かどうか考える。教育を意識する親は、実在する子どもから目を背けることはできない。親は「子どもは教育されるべき存在」という子ども観に従って、その必要性を考えているだけかもしれない。しかし「教育」が幻想であっても、夢の中で夢を見ていることは証明できないので、親にとって子どもの教育は現実的な問題に変わりはない。親は自分の子どもに引き寄せて会話を進めたはずだ。
一方、営業員にとって、教育は目的ではなく、手段にすぎない。彼の興味は子どもの学力向上よりも、自分の話し方や親の反応にある。彼もまた、教育的な子ども観に従っているが、夢の中にはいない。目覚めていながら夢の中の現実にいようとする。彼は覚めていて、現実的であるがゆえに、「子ども観」のみに基づく非現実的な説得を平気で親にしてしまう。
親からすれば営業員は「子ども観」のみに従う現実から乖離した立場にあり、逆に営業員は親を「現実の子ども」に真剣なカモとして扱う。異なる地平に立っているにもかかわらず、両者は子どもを通じて会話する。
この会話は、「現実の子ども」にも「子ども不在の子ども観」にも貫かれているわけではない。また親の教育に対する強迫観念や営業員の話の巧みさといった、親側の主体性の欠如がその要因ではない。会話は子どもを認識することとは関係のないところで子どもを主題として成り立っている。子どもという言葉を使って商売上の契約が進められている、と辛うじて言えるのかもしれない。
私の関心問題は、子どもに対する認識やまなざしの在り方に根拠をもとめないでもこの会話を成立させてしまう、子どもという言葉の使われ方である。未だ曖昧だが、さらに違う地平での会話として子どもが流通するときの摩擦のようなものが面白いと思っている。
児童文学を読む場合に、言葉の摩擦が起こらないだろうかと考えてみる。例えば古田足日の『大きい一年生と小さい二年生』( 一九七〇年、偕成社)において、読者は主人公まさやの体験談として、または「成長する子ども」を表現した作品として読み進めることができる。
では、読者は作品を読み戻ることはできないだろうか。まさやは小学校に入学しても一人では通学路の細い道を通ることはできないし、同級生とも遊べない。自転車に乗る練習は投げ出すし、けんかの現場にいただけで泣いてしまう。しかし一ヵ月後、あきよ(小さな二年生)のためにホタルブクロを手に入れる冒険をする。そして、その次の日から、彼はそれまで出来なかったことができるようになり、恐がっていたけんかさえもしてしまう。
まさやがかつての自分を克服した後、さらに物語は続く。彼は次の日曜日にあきよ達と自転車でホタルブクロの野原に冒険ではなく、遊びに行く。冒険はすでに習慣となり、あれほど苦労した冒険は、自転車に乗ってあっという間になぞられてしまう。雨のカーテンをくぐると野原には虹が架かり、花は彼が初めて見たときよりもたくさん美しく咲いている。初めての冒険よりも、習慣化された手順で訪れた野原の方が勝ってしまう。
彼は野原を発見した驚きを失うことによって、今度は野原を走ることができるようになる。
ここで冒険の次の日の行動が単なる衝動的な行動ではなく、彼自身に身についた能力による行動だったこと、彼が自己を補完したと確認されたことを、作品は主張する。まさやの冒険の次の日の行動が、一週間後の野原再訪によって自己の克服(成長の結果起こったこと)」であると根拠づけられるならば、まさやの冒険も次の日の行動があってこそ「冒険」と呼ぶことができる。同じように、冒険をする前のまさやは冒険をするために、非力で弱虫という「欠如した自己」でなければならなくなる。
私はこの物語を成長物語として読む他に、読者が成長物語を構成する捜査そのものの楽しみがあるのではないかと思う。主人公まさやの成長過程が、欠如を始まりに持ちながら積み重なっているのではなく、読者が先へ先へと根拠を求め、野原を走ることができたことを始まりに反復しながら欠如へと成長物語を構成していく。仮にそうならば、『大きい一年生と小さい二年生』は、「現実の子ども」や「成長というまなざし」を描写せずにいられるとつい思ってしまう。
しかし読者が成長物語を構成してしまえば、読者に事前に「成長する存在」という子ども観を要求することになり、作品を「現実の子ども」に引き寄せて読むことと違いはない。
ここで、前述した営業員と親を作品と読者に準えないだろうか。「子ども観」や「現実の子どもを通さずに作品が仕掛けてくるのに対して読書が応える、会話が成立するように成長物語が成立するといってたふうに…。私は成長物語を作品と読者との予定調和ではなく、駆け引きとしてみてみたい。
私は結局、子どもについて何一つ自信をもって表現できない気持ち悪さから逃げたがっているだけなのだろう。同時に私は、「こどもについて表現できないこと」そのものが気になる。例えば『大きい一年生と小さい二年生』において、まさやに野原を走らせることで回避できたことや、村中李衣の「だるま」(『走れ』一九九七年、岩崎書店)において、えつこに<かいせつ>させることで直面したことだ。決してそれは「成長する哀しみ」ではない。それは「成長する哀しみ」として通じてしまう、ことなのではないかと思う。
以上のことは思いつき(思い込み)であって、今のところ展望はみつからない。
この先があればどうか教えて貰いたい。
●時評/児童文学●
猫殺しのためのエチュード
佐々木 江利子
昨年十月末、あかね書房より刊行された岩瀬成子の新作、『アルマジロのしっぽ』をようやく読んだ。この作品は、岩瀬成子の作品の多くがそうであるように、少女の<わたし>の一人称体で語られている。帯に「リアルな少女小説」とあるように、ストーリーの起伏よりモチーフの連鎖で作品は成り立っている。
作品の語り手である<わたし>には、同学年に十ヵ月違い(四月と翌年二月)の妹がいる。よく双子に間違えられるが、妹の方が体が大きいため妹の方が姉だと思われている。二人は飼っていた犬の死をきっかけに口をきいていない。作品は犬を亡くした家族が、新しく猫を飼うまでの時間が、主に<わたし>の放課後の日常の中で語られる。
妹との違い、犬がいたころの回想、友だちの転校。<わたし>の日々の暮らしには、一見、特異な事件は起こらない。淡々とした<わたし>の語りは、感情的にも説明的にもならず、肉眼で見た世界を写生する。読者はけだるいような、読もうか、閉じようかという曖昧な時間を過ごすことになる。作品は落日前の黄金色の陽射しを思わせる雰囲気に包まれている。しかし、まさにその瞬間、この作品は後ろ手の凶器を取り出すのだ。
作品も半分を越えたところで、<わたし>は突如、学校の陳列ガラスケースの中のしっぽがとれているアルマジロの剥製を盗む。
<自分のしていることがわからない。でも、とにかくいそがなくては。ビニール袋を脇にかかえこみ、つま先で階段をおりた。心臓の音が耳のすぐそばできこえる。手も 足も自分のじゃないみたいな動き方をしている。からだの中で大声をあげている、あれもわたしだろうか。>
そして、<わたし>は盗んだアルマジロを祖母の家のあちこちに置いてみる。
この場面を読んだとき、突然、嘔吐感がこみ上げてきた。黒いビニール袋の中の、体の一部が切断された生き物の死体。そして、それをあちこちに置いてみる子ども。それは、私の中の、昨年夏のあの神戸の少年殺害事件のイメージをそのまま想起させた。
ところで、この昨年の夏の神戸の事件は、児童文学者協会の研究部の夏の合宿でも、多く話題に挙げられた。事件が話題になっていた頃、私が思い浮かべたのは岩瀬成子の『あたしをさがして』(八七年理論社)だった。
『あたしをさがして』には、堕胎や少女愛好者、子どもの誘拐ごっこ、祖母の危篤を背景に、追う、追われる、猫を殺す、あるいは猫に殺されるという血生臭いモチーフと悪夢が反復される。神戸の事件の前には、猫や小動物の殺害が報じられており、猫殺しの次は、子どもの殺害、容疑者が少年であったことも作品の仕掛けとあまりに類似していた。
誘拐ごっこのメンバーの一員に、野良猫に毒入りの餌をやりつづける少年がいる。彼は次のように言う。
<「…どうせそんな枯葉ほどの運命しか与えられていないのなら、いたずらに飢えて 死ぬなんてこの世に苦しむために来たようなもんじゃないか。だから、ぼくはあいつらの冥福を祈りながらとうとう幸せのソーセージをやることにしたんだ。ちょっと毒をいれてやるだけだよ。それであいつら楽になれるんだ。」>
猫の次は、子どもが狙われるのか、それとも、子どもの身代わりのように、猫が殺されるのか。そして、子どもが猫を殺すということは、何を象徴しているのか。猫を殺すことと子どもの心の闇は、どうつながっているのか。猫の死体、祖母の危篤、入れ子細工のように相似した姉妹。岩瀬成子の『あたしをさがして』のこうしたモチーフは、『アルマジロのしっぽ』にも、持ち越されている。
ところで、猫を殺す子どものイメージが印象的な作品として、アンファインの‘The Tulip Touch ’(Anne Fine,1996)がある。この作品は、チューリップという少女との思い出を、少女ナタリーが語るという枠組みになっている。
ホテル経営を専業としている一家が、「パレス」と呼ばれる最高級ホテルに引っ越しをするところから物語は始まる。そして、その土地で二人の少女は出会う。チューリップには虚言癖があり、学校へもあまり行かない。しかし、倦怠感に満ちた高級ホテルの中で、ナタリーにとって彼女は、生活に生気を与える無二の遊び相手になる。そして、徐々にチューリップは彼らの生活に入り込んでくる。
二人は放課後の街で、さまざまな悪戯をする。しかし、その悪戯は危険と嫌悪感を伴うものとなり、火へのおそれを発端にナタリーはチューリップから離れる。学校でも孤立したチューリップの悪戯は犯罪の境界へとエスカレートしていく。そして、物語はチューリップの放火による「パレス」炎上というクライマックスへと至る。
ナタリーがチューリップと初めに出会う情景は非常に印象的だ。トウモロコシ畑の真ん中で子猫を抱いて立つ少女という構図は、真夏の午後の牧歌的な情景と、映画の一場面のような美しさがある。しかし、ナタリーはその場面が実は、猫を抱いて可愛がっていたのではなく、その場面こそが子猫の殺戮の場面であることを知る。
あるとき、放課後の街でふたりは留守の家の庭に忍び込む。チューリップは庭のウサギ小屋を開け、中のウサギを耳をつかんで持ち上げ、その両目に手を当てて言う。
<「暗いでしょ、ウサちゃん。」(中略)「チューリップ、それあなたのものじゃな いわ。」「いまから、私のものになるの。」チューリップはうさぎの耳元で小声で歌 った。「おりこうなうさぎさんはだあれ? よい女の子になるのはだあれ? チューリップのお気に入りはだあれ? 大騒ぎはしないよね。ううん、そんなことは絶対し ない。なぜって、この子だってほんとに楽しんでるからね。もし暴れ出したりしたら、きっとケガするよ。」>※
ナタリーはこの時、チューリップの中の、暗い、心の奥にある何かおそろしいものを見たように思う。この、ウサギの目に手を当てる、少女の小さな冷たい指先の、滑らかな怖さが忘れられない。
アン・ファインは少女の猟奇へと走る心と共にある、孤独や絶望感を、作品の中でチューリップが描く自画像によって吐露させている。そして、そのことに気がつかない大人たちや、語り手のナタリーを含めた周囲に対して、作品は「有罪」を宣告する。
少女の一人称によって、子どもの闇の部分が語られるアン・ファインのこの作品の本質は、岩瀬成子の『あたしをさがして』に類似しながら対局の位置にある。『あたしをさがして』は、始まりも終わりもない、作品の構成の難解さで知られる。それに対し、アン・ファインは、サスペンス仕立ての巧みな語り口により、読者の興味をかきたてクライマックスのホテル炎上まで物語を盛り上げる。
しかし、子どもの残酷さと大人のエゴが暴かれる岩瀬成子作品には、大人・子ども読者ともに立場を脅かされるような、危険と問題をはらんでいる。一方、アン・ファインはその問題の根を周囲の環境におき、読者に安全地帯を残す。読者はチューリップという不幸な少女を離れた位置で観察しながら、ほどほどの恐怖感を味わうことができる。
この作品には岩瀬成子作品のような、本を閉じたあとにも襲ってくる恐怖感や罪の意識に悩まされる心配はない。そのことの是非についてはひとまず保留にするとして、一般に楽しめながら、心の荒れた子どもの周囲への問題意識をうながす社会性にも富んだ作品である。翻訳が出れば、話題作となることは間違いない。日本での紹介が待たれる
一冊である。
※なお、今回の引用部の訳は、白百合女子大学大学院に在学中の澤田澄江氏の協力を得た。
●時評/TVアニメ●
「こどものおもちゃ」に見る子供の傷跡
by たかみ
「こどものおもちゃ」が終わってしまった。略して「こどちゃ」。集英社の雑誌「りぼん」連載中のマンガで、二年前からテレビ東京系でアニメ放映されていたのだ。
ぱっと見は騒がしい、いかにもお子さま向けのマンガという所だろうか。
実際、主役の少女、倉田紗南は、原作はともかくアニメでは時に耳を塞ぎたくなるようなうるさい喋りで、話の展開にも誇張やギャグが随分あった。
アニメファンにも、それほど高い評価を受けていたとは言えないが、実は「こどものおもちゃ」(以下こどちゃ)こそ、氾濫する最近のテレビアニメの中で、私が密かにピカイチと思っていた作品だった。
この場合、作画等の映像的な問題は除かせてもらう。純粋に物語として見た時に「こどちゃ」は子供と子供を取り巻く世界というものを実に鋭く描いていたと思うのだ。
簡単にストーリーを説明すると、主人公の紗南は小学校六年生。(アニメ終了時中学一年生)現在人気上昇中のいわゆるチャイドルで、有名小説家の母とマネージャーの玲くん、お手伝いさんの四人で暮らしている。玲くんを「ヒモ」と公言してはばからない紗南は、口の達者な今時の子供で、目下の悩みは学校が先生イビリの嵐で荒れていて授業にならないこと。その首謀者、羽山秋人と紗南の対立から、「こどちゃ」はスタートする。
明るくて友達もたくさんいる紗南と、男子全員を子分にしながら誰にも心を開いていない羽山は対照的な存在である。
実は羽山は、自身の出産によって母親が死んだことで、それ以来家族に「悪魔」と責められていて、それが教師イビリの遠因になっているのだ。最近中学生の事件が多く報道されているが、その前の小学校の荒れというものも問題になっていると聞く。授業に出ない、ちょっとしたことでキレて暴力をふるうなどなど、羽山のイメージとダブるものがある。
羽山は、自分自身が必要とされなかったために、自分以外を必要とすることができない、生きる意味を見いだせない子供なのだ。
そしてそんな羽山にムカつく紗南にも、捨て子だったという過去がある。実の母が現れた時、今現在の育ての母に捨てられてしまうのではないかと心の底で怯えている紗南は、ある意味、羽山と似た弱さを持っている。だからこそ、紗南は羽山を放っておけず、羽山もまた紗南にだけは心を開いていくのだ。
アニメでは、羽山が教師イビリをやめてから、家庭に、クラスに受け入れられる経過も描いている。
血の繋がりのある家族の方は、ぎこちなくても「家庭」が再構築されていく様子が伺えるのだが、クラスの方はそうは簡単にはいかない。羽山はやはり得体の知れない、胡散臭い存在であり、特にひどくいじめた女子の一人には、どうしても受け入れてはもらえないのだ。自分が傷ついたことによって、人を傷つけ、その傷つけた相手によって、また自分が傷つくという悪循環。最終的には許してもらえるものの、小学校時代の荒れは羽山の後をついてまわり、中学に入ってからも教師の偏見と闘わなくてはならなくなるのである。
一方、紗南の方も生みの母の登場や実の父親との対面、死別などを経験していく。
口は達者で大人びていて、醒めて見える。でも、子供は子供で大人ではないのだということを「こどちゃ」を見ていると納得する。
アニメ最終話で、紗南が不理解な教師に言ったセリフがある。
『私たち子供はね、いつも大人を気にしながら生きてる。大人が勝手に作った社会の中でね。私たちは子供なりに必死で生きてる』
子供が傷つくのだということを本当に忘れずにいられる大人がどれくらいいるのか?
考えさせられた作品だった。
●Be−子どもと本・例会のお知らせ●
・毎月第3水曜日、午後6時30分より
・会場:日本児童文学者協会事務局(地下鉄東西線・神楽坂方面出口のすぐ右手、中島 ビル5階)
・テキストをもとに、レポートと話し合い。新刊本の紹介も。
・お問い合わせ・連絡先 平湯克子まで п放A・03−5376−3281
★5月例会=5月20日(水)6時30分〜
<テキスト>
・佐藤多佳子著『イグアナくんのおじゃまな毎日』(偕成社)