UNIT評論98通信 bS/6
CONTENTS
●『1973年のピンボール』について−物語の<出口>続考…奥山恵
●三輪裕子がランサムから受け継いだもの…佐々木江利子
●戦争映画としてのゴジラ・覚え書き…芹沢清実
発行:1998年8月12日 編集発行:UNIT評論98
連絡先:芹沢 清実 〒360-0026 121-1-603
E-mail:CXL02651@niftyserve.or.jp
ご意見ご感想などおよせいただければうれしくおもいます。
★UNITの“カラー”? ー前回の会合から★
UNITの会合も3回目を迎え(7月4日、参加者6名)、議論もからみ合うようになって、軌道に乗り始めた状態のように思えます。その感想及びおもしろかった議論は佐々木さんのレポートから。
1・“セルフポートレイト”(撮影者と被写体が一致するユニークな表現方法)というキーワードを、今回初めて提示してきたわけですが、それが、“自伝”または“自伝的要素”とどう違うのか、その違いによって、何が明らかになってくるのかが、いまひとつはっきりしませんでした。“自伝”の背後にひそむ「物語り性」を排除した、“断片”としてのポートレイトが、何を表現してくれ得るのか、今後楽しみなところです。
同時に出された問題で、70年代の森忠明や岩瀬成子のとった試みを、「元気で明るい子ども」像へのゆさぶりだったとし、それが90年代に入って、作者の深層意識に主人公の親の世代の問題が浮上してきた(ため?)、子どもは道具的役割を与えられるにとどまり、キャラクターが無個性になってきている、という指摘も、“モラトリアム”という意識状況や、“ボーダレス”という文化状況との関係に発展していく重要性をはらんでいると思いました。
2・“ありのままの自分”という言葉については、議論がもう少し整理されたところで報告したいと思っています。
3・西本鶏介さんの1997年をふりかえるについては、珍しく全員の感想が一致したことが、おもしろかったです。「私たちの想像を越える犯罪を起こす子どもたちに向かって、いまさら豊かな人間らしい心を持てと問いかけても始まらない。そんな子どもにならないためにすぐれた文学作品を読めというのさえむなしくなってくる。…」という文章の、どこがどうおかしいのか。細かいところは別の機会にゆずるとして、大人が子どもをさとし、指導し、教育するという子ども観、及び上から下にむかってものを言うというスタンス自体が、今だに色濃く残っているという状況に、全員ア然としたというのが、率直な感想でした。その辺が、同時にUNIT評論というグループの、徐々に表れてきているカラーなのかもしれないと思っています。 (原)
UNITからタコ足配線的勉強会、準備中
児童文学とは直接かかわりなく、“現代思想”の新しめのあたりを読む会です。まず テリー・イーグルトン『ポストモダニズムの幻想』(森田典正訳、大月書店)の「3 ・歴史」までを、9月12日(土)午後、浦和にて決行。その後ウォーラーステインあた りか。詳細は芹沢までお問い合わせを。
●『1973年のピンボール』について ー「物語の〈出口〉へ・続考」の糸口ー●
奥山 恵
何かについて語ったり、書いたり、論じたりしようとして、もうすでにひどく遅れてしまっていることに気が滅入ってしまうことがある。村上春樹が、七〇年代はじめのことを『1973年のピンボール』(講談社)で書いたのが、一九八〇年。そして、その作品について語ろうとしている今は、一九九八年。作品が提示した時代性は、すでに二五年以上も前のことになってしまっている。それでも、現在の児童文学について何事か考えようとするとき、やはり、この作品が示した時代性は、ひとつのはじまりだったと思う。思う以上、そこから論じはじめるしかない。
*
『1973年のピンボール』には、《1969−1973》と記された作品のプロローグにあたる一節がある。そこに、次のような文章がある。
《これは僕の話であるとともに鼠と呼ばれる男の話でもある。その秋、僕たちは七百キロも離れた街に住んでいた。/一九七三年九月、この小説はそこから始まる。それが入口だ。出口があればいいと思う。もしなければ、文章を書く意味なんて何もない》 そして以下、《1》から《25》までの章では、《僕》の話と《鼠》の話とが、ほぼ交互に語られていく。二つの系の語りという手法と、その語りが向かう《出口》、すなわち小説の結末のつけ方について、この作品でははじめから明確に意識が及んでいると
いうことだ。私が気になるのは、まさにそこである。
《僕》と《鼠》、《入口》と《出口》。二人はいったい、どこからはじめてどんなふうに出ていくのか。
*
《僕》と《鼠》は、古い友人だ。だが、一九七三年の九月、《僕》は東京を思わせる都市、《鼠》は神戸を思わせる故郷の街にいて、交渉はない。にもかかわらず、この時点が《入口》になっているのは、この秋、二十代も半ばにさしかかっている二人がじつに類似した心性を抱えていたからだろう。
《僕》は、ある朝から自分の家に住み着いた、見分けがつかないほどよく似ている双子の女の子と暮らしている。知人と始めた翻訳の仕事もどんどん増えていた。アシスタントの女の子からは、生き方について相談さえうける。だが、死んでしまったかつての恋人《直子》を忘れることもできない。《僕》は思う。《何処まで行けば僕は僕自身の場所をみつけることができるのか?》《僕は空っぽになってしまったような気がした》
と。いってみれば、この秋《僕》は、絶え間のない任意の過剰と、決定的な欠如との間で、自分の生きている場所への違和感−−対決すべきものさえない空虚な違和感にとりつかれている。
その違和感は、《二十五年生きてきて、何ひとつ身につけなかったような気がするんだ》と語る《鼠》も同じだ。金持ちの息子であるらしい《鼠》の方は、三年前に大学をやめて仕事ももたず、それでも故郷にいる限り生活に困ることはない。年上の恋人は、彼女なりに整えられた《小さな世界》に《鼠》を受け入れてくれる。十八の頃から通っている《ジェイズ・バー》なら、何時間飲んでいてもいやな顔をされることはない。だが、そんな生活は出口のない《鼠取り》みたいなものでもある。故郷に入りこんだ《鼠》は、空っぽのまま動けないでいる。
*
では、この類似した二人には、どんな《出口》が示されるのか。
作者村上春樹は、処女作『風の歌を聴け』に続いて発表されたこの作品を《過渡期だった》と言う。《読者の反響を見ててもいちばん影が薄いところがあるようですが、それは、僕自身が迷っているからだという気がするんです。『風…』から、どっちに進むかというベクトルを、『1973年のピンボール』で試してみたという感じがあるんです》(『物語』のための冒険『文学界』一九八五・八)。
こうした村上の言葉通り、たしかにこの作品においては、同じく自分の場所への違和を感じてしまった者が、可能性としてたどりうるベクトルを少なくとも二つ、試してみせる。《僕》と《鼠》は、決して出会うことも関わることもなく、別々の《出口》を出ていくのだ。
たとえば、《鼠》が見つけた《出口》は、故郷との決別だ。女と別れ、ジェイズ・バーを《引退》し、《街を出》て《働く》こと。何も言わずに自分を受け入れてくれるものから出ていくこと。《どんな進歩もどんな変化も結局は崩壊の過程に過ぎないじゃないか》と思いつつも、《変わろうと》することである。なんとか正確に現実をとらえようと努め、生きる意味を《何故だ?》と問い続けながら、故郷との決別を決意するこの
秋の《鼠》の姿は、いたましいほどに真摯に見える。
一方、《僕》の心を捉えるのは、一台のピンボール・マシーンである。三年ほど前に夢中になった小さなゲームセンターの3フリッパーのスペースシップ。ある日、ゲームセンターの閉鎖とともに突然消えてしまった機械。それは、突然死んでしまった《直子》のような欠如でもある。《僕》は、なんとかして、その台を見つけだそうと、東京中のゲーム・センターをまわり、ピンボール・マニアと連絡をつけ、とうとうそのマシーンと再会をはたす。それは、あるコレクターが集めた七十八台というおびただしい数の台の中に確かにあった。またも恐ろしい過剰の中で、しかしちゃんと存在感をもって、《僕》に語りかけてくる。そして、この再会からあと、《僕》の《行き場のない思いも消え》る。
とはいえ、所詮は、ピンボール・マシーンだ。《得るものは殆ど何もない》、《リプレイ》のみのゲームの機械。再会の場で共有するものも《ずっと昔に死んでしまった時間の断片にすぎな》いことを、《僕》自身十分知っている。《鼠》が真摯に、変わろうと街を出ていく姿と、ただのマシーンにこだわる《僕》とでは、その《出口》のベクトルはたしかに別方に向かっているといえるだろう。
そうした《鼠》と《僕》のベクトルの違いは、発進と円環、意味と無意味、特殊性と任意性、表現の文学と戯れの文学などなど、(これまでさまざまに評されてきたごとく)いろいろな言葉で捉えることができる。いずれにせよ、村上が迷いつつ示したのは、そうした対照的な方向へ価値が分岐しつつある時代性だった。徹底して没交渉の二つの系の語りは、対照的な《出口》の可能性をとりあえず同時で等価なものとして描く。
だが、もちろん、少し敏感な読者なら、その《出口》において《僕》に用意されているのが《暖かい想い》や《光》であり、真摯な《鼠》には、死を予感させるような《深い眠り》や《海の底》しかなかったことに、すぐ気づくにちがいない。等価といいつつこの作品において、とりあえず生き延びていくと感じさせるのは、やはり《僕》の方なのだ。さりげなくそう描くことで、発進、意味、特殊性、表現の文学といった、いわば
生産性を感じさせることのみが価値をもつという考えを、かわしてみせたのだと私は思う。何も生まない、何も創らないことをいとしむベクトルを、生産性のベクトルとともに模索してみたといってもいい。続く『羊をめぐる冒険』(一九八二、講談社)で《鼠》を死に至らしめる村上が、この後どちらのベクトルを選んでいったかは、もはや言うまでもないだろう。
*
それにしても、だ。何かについて語ったり書いたり、論じたりすることは、ひどい遅れを感じて、やはり気が滅入る作業である。この『1973年のピンボール』と同様の二つの系の語りという手法で、江國香織が『きらきらひかる』(新潮社)を書いたのは一九九一年。さらに同じ手法で、川島誠が『800』(マガジンハウス)を書き、岩瀬成子が『もうちょっとだけ子どもでいよう』(理論社)を書いたのが一九九二年。村上の作品から、すでに十年が経過していた。そして、それらの作品について語ろうとしている今は一九九八年。もう五年以上も経ってしまった。
しかし、それでもやはり論じていくしかないのだろう。村上が示した二つのベクトルが、これらの作品においては、どのように展開されていたのかーーを、論じてみることは、児童文学において、発進・意味・特殊性・表現といった生産性が、あるいは、何も生まない、創らないということが、どう捉えられてきたのかを改めて考えてみることにほかならないからである。そして、それは紛れもなく消費ということの思考や豊かさを問うことなしにありえない。現在の問題なのである。
●三輪裕子がランサムから受け継いだもの●
佐々木 江利子
子どもの頃、私は夏休みが苦手な子どもだった。何となく、時間も自分ももてあましてしまうのだ。部活動さえなかった小学生のあの六年間の夏を、私はどうやって過ごしていたのか、いま一つ記憶がない。けだるい生活リズムを体が身につけたころやってくる、あの始業式前の宿題のどたばたは思い出すのだけれど。
そんな、夏休みの苦手な自分が、休暇物語の聖典アーサー・ランサムのあの十二冊を愛しているのは、どうも矛盾している気もする。『ツバメ号とアマゾン号』(岩波書店)に始まるランサムの物語は、常に夏や冬や秋の長期休暇中で、しかも、地元の子ども以外はリゾート地で長い休暇を過ごしている一家の子どもたちだ。
登場する子どもたちは大抵六人から八人、多い巻では十一人。そうした子どもたちの一群は、家族ごとや、年齢層のグループに時に分かれながら、物語を構成してゆく。しかも、そうした数の登場人物を動かしながら、その一人一人の性格の差異は際立ち、読後何年たっても登場人物全員の名前を覚えているほど印象は強い。
ランサムの子どもたちは休暇の度に、単にぶらぶら行楽地で過ごすのではなく、登山や地図作り、金鉱探しと具体的な目的を持ち、その遂行の達成で物語は終わる。子どもたちは学校生活の枠組みを離れ、船乗りであったり、海賊や山師、天文学者、物語作家といった、それぞれの職業を生きる。
ランサムは一九三〇年代のリアリズムの騎手として、以後、ブライトン等の多くの模倣作を産んだ。日本でもいぬいとみこ、天沢退二郎などが強く影響をうけているが、ランサムの直系の物語を日本で書いているのが、三輪裕子だ。ランサムの愛読者である三輪の作品は、概ね家庭に問題を抱えている子どもたちの休暇中の物語である。三輪の物語では子どもたちは片親と、あるいは親元を離れて海外や山小屋で数日間を過ごし、そこで様々な経験をすることによって、いつしか家族の問題も解決するという枠組みを持つ。
例えば、『神さまの木』(93年、講談社)では、十二歳の少女が母親とその再婚相手の子である少年と、アメリカの巨木の森で過ごすうちに、子ども同士の心がそれぞれ歩み寄ってゆく。また、あかね書房から刊行されている『自転車で行こう』等のシリーズは、二人の少年が子どもたちだけで何らかの行動をし、その遂行で終わる枠組みになっているが、その動機は別居中の父親に会うためのものであり、子ども自身が何かを創りだす目的で動くということはない。作品は休暇中の子どもの冒険譚の体裁をとった家族の物語だ。
しかし、私たちは三輪作品の源流ともいえるランサム・サガの根底には、親、特に父親の不在という問題が一貫してあることを見失いがちである。ランサムの子どもたちはそれぞれ、父親が海軍中佐で常に不在であったり、既に死別していたり、考古学の研究のために夫婦でエジプトにいたりする。ランサムの作品が潜在的に抱えてきたものもまた、現在の作家に受け継がれてきているということなのだろうか。
三輪作品にこれまで登場した子どもたちの数は、相当数にのぼるはずだが、家族の置かれた状況の差異はあれ、不思議なほどに、その子どもたち一人一人の個性や印象は薄い。しかし、時に三輪作品は魅力的な大人を登場させる。『パパさんの庭』(89年、講談社)は母親が出産のため祖母の家に預けられていた少年が、パパさんとママさんと呼ばれるカナダの二人の老夫婦の家で過ごすうちに、自分で自分の事をすることができるようになり、祖母や新しいきょうだいを受け入れることができるようになる物語だ。物語の枠そのものは三輪作品の一つのパターンだが、難聴で口数少ないが、深い思いやり
に満ちたパパさんと、そのパパさんに連れ添うママさんのしゃきっとした人柄は忘れがたい。これも、ディクソンおじさんやフリント船長といった、魅力的な大人像を登場させたランサムの系譜のものであるといっていい。
三輪作品の子どもたちは、言葉さえ通じない海外で、あるいは荒々しい自然の中で、現実の子どもであることの無力さにさらされながら、持っている限りの知恵を駆使して困難を克服してゆく。そして、ランサムの子どもたちが永遠の休暇に生きるのに対し、三輪作品の子どもたちは常に家庭という日常に戻ってくる。膠着した日常と、そこで生きる自分自身を変革する意思を身につけながら。
旅に出ることも、本を読むことも、日常を異化するという点では共通している。学校や家庭、職場や地域社会という場から離れたとき、子どもは、いや、私たちは何になれるのだろうか。また、休暇中であり、旅行者であることの自由と、根ざすものから離れているという不安の中で、起こった出来事や出会った他者、あるいは風景は、自分をどう変えてしまうのか。とはいえ、旅も読書も、終わった後の変化そのものを目的にするのは、何か違っている気もするけれど。
学校から離れて、また、明と暗の境にいる子どもを三輪は描きたいという(三輪裕子「私の原点」調布市立図書館「図書館だより」95年、および筆者との書簡より)。しかし、家族の物語をベースにし続けることが、その唯一の守るべきスタイルではないのではないか。
三輪の作品は子どもに家族という負い目を背負わせることを、一旦禁じ手にする必要があるのではないかと私は思う。学校生活や定住者としての生活ではなく、キャンプやセーリングのように自然との対話の中で生きることを、ランサムは“real life”と呼び、本来の<日常>である“native's life”と区別した。帰すべきところを、家族ではなく、ミクロコスモスをも内包した自分自身、あるいは<日常>を超越したところに持ってきたとき、三輪は日本では希有な、“real life”を語りうる作家になるのではないかと思う。
●ゴジラ44歳の夏に −戦争映画としてのゴジラ・覚え書き●
芹沢 清実
ハリウッド版「GODZILA」公開の年は、インドとパキスタンが相次いで核実験を行なう年となった。核兵器についてはもはや「拡散防止」を言ってもむなしく、「廃絶」を課題としない限りどうしようもない、といという感を深くした夏である。
ゴジラ復活を他国の核実験のせいにする、いかにもハリウッドらしい政治性には苦笑したが、「核が生んだ怪獣」という設定と文明への警鐘というメッセージは、ゴジラシリーズ全体の原点として踏まえられていたと思う。
以下、いささか断片的になるが、この原点をめぐって考えたこと。
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第二作「ゴジラの逆襲」公開当日に生まれたわたしは、シリーズのかなりの部分をリアルタイムで観てきた熱心な観客だが、第一作「ゴジラ」を初めて観たのは1990年である。このときは女子高校生たちとビデオを観たのだが、「こんなにリアルな戦争映画だったのか」と、彼女たちとともに驚いた。東京湾から上陸したゴジラによって焼け野原と化す光景はまるで東京大空襲の再現のようだし、「せっかく長崎の原爆を生き延びたというのに…」「また疎開か」という台詞から、戦争の傷はまだ癒えていないことが伝わってくる。負傷者の救援所となった公共施設で女子学生が平和への願いを歌うシーンのイメージは、勅使河原宏らによる原爆の記録映画にも通じる。
また高校生たちの感想には「女子学生の髪型や顔が今とは全然違うので驚いた」「日常の生活の様子があまりにも違うから、すごく昔の映画のような気がした」というものが目立った。わたしからみても、体格などが今の日本人とはまったく異なり、むしろ戦前に近いのではないかと感じられた。1954年とは、それほどに遠い。にもかかわらず、この怪獣が四十四年間(二十三作)生き延びてきたのは、なぜなのだろうか。
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54年11月公開の初代「ゴジラ」(本多猪四郎監督、特殊技術・円谷英二)は、同年3月にビキニ環礁での水爆実験で第五福竜丸が被曝した事件をもとに企画された。作り手が戦争体験世代であるという視点から、「戦争映画としてのゴジラ」をみると、二つの要素があることに気づく。
ひとつは、本篇監督である本多猪四郎の戦争や核に対する“思想”である。本多は、自分の核に対する考え方は、登場人物のひとり芹沢博士(ゴジラを倒す化学兵器の発明者)と同じであると語っている。
《水爆みたいなものを考えた人間というのは、いい気になって自分たちの勝手をやっていたら、自分たちの力で自分たちが完全に滅びる。…地球上すべてのものを殺してしまうかもしれないほど人間というのは危険だ。だから、科学というものは非常に必要なものだけど、使うことは相当慎重にやらなきゃいけない…》
この科学のもつ両義性は、山根博士と芹沢との対立のドラマとして、原作(香山滋著『ゴジラ、東京にあらわる』岩崎書店・フォア文庫)に比べるとずいぶん前面に出されている。また、ここで語られているような人間の両義性というとらえ方については、足かけ八年間という長期間を軍隊ですごした本多の戦争体験が強く影響している。戦争で死ぬことに対し納得できず、ともかく生きて帰ることを考えたという本多は、声高に反戦を語ることはない。軍隊生活も戦闘だけではないと、日常業務を納得のいくように遂
行したという。戦争をも人間の日常として引き受けるという、ある種達観した戦争観には、出羽三山のひとつ湯殿山の僧職の家に生まれたことからくる死生観も、影響しているのかもしれない。
こうした本多の考え方からは、破壊者であるゴジラ=悪という図式は成り立たない。同様に、被害者である人間や、それを守るための武力=正義という構図もでてこない。このあたりが、ハリウッド版とは明白に異なる本家ゴジラの原点だろう。
初期ゴジラを観るうえで、もうひとつ欠かせない視点は、戦争と特撮との密接な関係だ。
円谷英二による<日本の特撮映画第一号>が、戦意高揚のための国策映画「ハワイ・マレー沖海戦」(42年)であることは有名だ。「大衆はイデオロギーではなく、特撮に殺到した」(小林信彦著『一少年の観た<聖戦>』ちくま文庫)。戦後になっても、特撮が活用されたのは怪獣映画やSFばかりではない。実は本多、円谷が初めてコンビを組んだのも、山本五十六の生涯を中心とした「太平洋の鷲」(54年、東宝)である。東宝は68年「日本のいちばん長い日」から一連の戦記大作を制作するが、以降「山本五十六」(68年)「日本海大海戦」(69年)の特撮を円谷が担当。以降も「沖縄決戦」(71年)では中野昭慶、「大空のサムライ」(76年)では川北紘一と、歴代のゴジラ監督が特撮を担当しているのが目をひく。手法としての特撮が戦争を表現する手段として活用されるという事情は、戦中・戦後をつうじて変わらないということか。ここで技術の両義性という問題が浮かび上がる。
* *
70年代後半から80年代はゴジラ作品不遇の時代だった。84年版「ゴジラ」特技監督の中野昭慶は次のように回顧する。
《五四年当時は、(中略)核がきわめて現実的で新しかった時代だった。でも、八四年になると、核の平和利用だとかで、もっともらしい意見がいっぱい出てくるでしょ。だから、あまり核の問題に触れたくなかった。》
89年「ゴジラVSビオランテ」以降ゴジラシリーズが復活した背景には、86年のチェルノブイリ原発事故があるのではないかと推測される。むろん娯楽映画の制作に社会の動きが直結しているなどと乱暴なことを言うつもりはない。しかし、エンタテインメントが成立する背景には、かならず観客に要求される想像力の共通基盤が想定されている。
核の恐怖、いきすぎた文明のもたらす危機が身近に感じられるとき、ゴジラはわたしたちに親しい存在となる。
<参考文献>
・本多猪四郎著『「ゴジラ」とわが映画人生』実業之日本社、94年。
・冠木新市・企画構成『ゴジラ・デイズ』集英社文庫、98年。
・『日本特撮・幻想映画全集』勁文社、97年ほか。
Be−子どもと本 例会のおしらせ
<子どもと本>をキイワードに、新刊本を中心に、ジャンルにとらわれず話題の本をとりあげて話し合っています。ぜひご参加ください。
★毎月第3水曜日、午後6時30分より
会場:日本児童文学者協会事務局
(地下鉄東西線・神楽坂駅下車。神楽坂方面出口のすぐ右手、中島ビル5階)
★9月例会=9月16日(水)
<テキスト>
モーリス・グライツマン著『はいけい女王様、弟を助けてください』
(唐沢則幸訳、徳間書店)
★お問い合わせ・連絡先
平湯克子まで п放A・03−5376−3281
・「UNIT評論98」の次回会合は、9月5日(土)昼1時30分より。
会場は、高田馬場駅付近。年内に評論を書いてみようとお考えで、当通信に掲載されたものに「かみあうかな」とお思いの方は、芹沢までお問い合わせください。
・通信次号bTは、10月下旬発行の予定です。
1998.8月発行「UNIT98通信」No.4