『子どもの本のねがい』(山中恒 NHK出版協会 1974)

 子どもは本を読みたがらないか?.
 
 話をもとへ戻しますが、なぜ、子どもは訓育的効果などというひも付きではない、楽しみのための読書をしてはいけないのでしょうか。楽しみながら、本を読んで、なにかを得られたとしたら(その可能性はだれにでもあるのですが)それはそれで、たまたま高価な拾いものをしたという程度の、鷹揚な考え方が許されないものでしょうか?
 実際問題として、「子どもの本が大洪水」で、次々と送り出されてくる子どもの本が、商品の要素が強くなってきているのに、仲介役であるおとなが、こうまでぴりぴり反応して、さらにそれを子どもにまで反応させようというのでは、両方ともたまったものではないと思うのです。
 そして、一般的には、いまの子どもたちはテレビやマンガばかり見ていて、「本を読みたがらない」「読まない」と考えられています。読書運動言えや読書指導の専門家たちもそう言います。
「年々、不読者層が確実に増加している」と、なんだか早口ことばにしたいような、舌をかみそうな用語を使ってデータをあげて力説します。だから、子どもの読書を真剣に考えろと言います。親たちも、そう言われてみると、自分たちの子どものころにくらべて読書率が低いのではないかと考えます。たしかに統計の上でも、本を読まない子どもがふえて
いるようです。一体、このことと「子どもの本が大洪水」ということとは、どういう関係にあるのかと首をひねりたくなります。
 しかし、これは、なにも子どもの問題にかぎったことではありません。おとなも、大部分はテレビと週刊誌で間に合わせている傾向があります。
 しかも、実際問題として、だれでも自分にとって、さし当って緊急を要さないと思われるもの(その判断もむずかしくなっていますが、)に、進んでかかわり合おうとするほど、ひまを持て余している人がいるとは思えませんし、また、そういうゆとりがない仕組みの中に取りこめられている現実でもあります。決まりきった角度からしか提供されない情報と、それに対する一定角度からの解説論評といった、借り物でまかなってしまう画一性、これは大変危険な動向ですが、こうした情況におとなも子どもも、けじめなく取り囲まれているわけです。特に、子どもの場合、さらに直接管理されている時間が大きいのです。まず、学校で勉強があります。宿題があります。学習塾へ通う子もいます。稽古ごとに通う子も少なくありません。しかも、その間、教室で一番話題になるテレビの人気番組や、人気タレントのプライバシー、週刊誌の人気マンガ、そういったものにも義理を果たしておかねばなりません。ということになったら、これはもう読書どころではないでしょう。むしろ読書をすすめる前に、読書するゆとりを捻出するほうが先決問題かも知れません。
 先ほどの読書運動家の文章ではありませんが、それでも、本を読まなければ犯罪人になってしまうとか、あるいは、精神病患者とか、栄養失調症になるとかいうことがわかっているならそれは論外です。そうなれば、種痘と同じでだれがなんと言おうと、なぐりつけてでも、本を読ませるのが親子の情ということになるかも知れません。けれども、そんなことになるわけがないのです。本を読まないために、救急車で病院に運ばれる事態になったなどという話はきいたことがありません。
 もちろん、私はここで、不読書のすすめをしようというのではありません。私は私なりに読書の有効性を信じています。また、子どものうちから、出来合いだけの情報に慣らされてしまい、出来合いの判断だけを受けとって、それを自分の判断とするようなことに疑問を抱かなくなるようなことになったら、とんでもないことだと思っています。けれども、必ずしも、読書だけがそうした危機を突破する武器だというほどの確信もありません。ただ、そうだからといって、子どもの読書に対して、そうそう肩をいからせて、深刻な顔つきで迫ったのでは、子どもをますます読書から遠ざけ、直接反応だけで間に合う部分へ逃げこませてしまうようになると考えるのです。
 一方にそうした問題もありますが、子どもは必ずしも本を読みたがらないと考えることも、一方的だと思うのです。
 ここ数年の間に、自分の蔵書を基礎にして、〈子ども文庫〉を開いている作家たちがふえてきていますが、その作家たちの書いたものを読んだり、話をきいたりしてみますと、「子どもが本を読みたがらないというのは迷信だ」というのです。本を読む環境、ふんい気を用意しさえすれば、積極的に読書するというのです。その場合、読んだからどうしろという条件を一切付さないことだと言うのです。そして、「子どもは本が好きだ」ということが実感としてわかるそうです。
 そういう作家たちが共通して言う悩みは、そうした読書にひたることができるのは小学校四、五年生までで、六年生ぐらいになると、文庫から遠ざかると言うのです。それも本人の意志ではなく、明らかに学習というものが重くのしかかってくるからだと言っています。そういうことで文庫へ現れなくなった子どもと街で顔を会わせるのがつらいそうです。そうした親たちのやりかた、あるいはそうならざるを得ないという、子どもを取り巻く現実のありように対する怒りは、当然政治的にならざるを得ないというのも、もっともな話だと思います。
 恐らく、多くの母親文庫や親子読書会でも、そうした問題に当面していると思われます。
 もう一度文庫を開いている作家たちの話に戻りますが、「子どもは本を読まない」と親が決めてかかることにも問題があるというのです。きわめて逆説的な言いかたになりますが、「読まない」と思っているから、子どもはそれに応えるように「読まない」ということになったり、「どうせ読まない」ということから、本の選びかたもいいかげんな所で間に合わせてしまうし、読書したくなるようなふんい気を作る努力もおこたるというのです。逆に「子どもは本が好きだ」と思っていると、本を買い与える機会も多くなるし、本の選び方にも慣れてくるし、子どもが本へ手を出す機会も多くなるというわけです。
 もちろん、すべての子どもがそうだというわけにはいかないでしょうし、そういうことだけで、問題がきれいさっぱりというわけにはいかないでしょうが、「子どもは本を読まない」と決めてかかるから、読書の無理強いとなり、結果的に子どもを読書から遠ざけるということを立証しているような話です。
 子どもに本を読ませたいと思ったら、まず、自分が本を読むという姿勢が大事だと思います。自分がまるで読書らしいものをしないで、子どもにだけ、「読め読め」と迫ったのでは、説得力に欠けるでしょう。それと、おおぜいの子どもの中には、体質的に本を受け付けない子もいます。じっとして本をよむことが性に合わないといった、活動的な子どもに多いようです。だからといって、その子が成人するまでに、まったく本を読まないとも言いきれません。
 私は七人兄弟で育ったのですが、同じ兄弟でも、子ども期にきわめて読書好きであったのや、読書しているところなど見たこともないというのもいます。そういったことを考えますと、あらかじめ「こうこうだ」とか、「こうあるべきだ」と、あるべき姿を断定してかかることは、誤算を生む場合が多いとも言えそうです。
 これは子どもではありませんが、私の同級生で、およそ読書らしいことをしたことがない男がいました。そのくせ「本を買う」のだからといって、親から金をせびり、それをほとんど飲み代にしていたのです。ところがあるとき、父親が彼の下宿を訪れるという知らせが来たので、彼はびっくりぎょうてんして、私のところへ来て、さしあたって必要のない本を貸せというのです。私はうっかり本を貸したら、飲まれてしまうんじゃないかなと思いながらも、それこそ、横文字のものまで、適当に見つくろって、ひと抱えほど貸してやりました。ところが、彼の父親が下宿を訪れた後も、なかなか本を返しにこないのです。ことによると、例のごとくねじまげて飲んでしまったのではないかと思っていたところ、彼は丹念にその本を読んでいたのです。彼が言うには、父親に万が一「買った本はちゃんと読んでるのか」といやみをいわれたら、「いま読んでいるのはこれだ」と内容の説明ができる程度に読み出したら、これが意外におもしろく、やめられなくなったというのです。それがきっかけで、彼はとにかく本を読むようになりました。
 ですから、読書へのかかわりなどというものは、たとえ相手が子どもであっても、その本人自身の主体的な働きかけがなければ、その場かぎりのやっつけになってしまうことが多いのです。もちろん、第三者からのすすめがまるで無効だとは申しませんが、それがもし効果の高いものであれば、これほどまでに、「読書、読書」というかけ声が、子どもにかけられるわけがないとも考えるのです。
テキストファイル化山児明代