3子どもの本についてのさまざまな体験
私自身の子ども期の読書体験から
「あなたは子どものころ、どういう本を読みましたか?それはいま、どんなふうに役立っていますか?」
これはPTA主催などの講演会のあとの懇談会の席上で、必ずといってよいほど出される質問ですが、正直言って、私はこの種の質問に気が重くなります。それほど積極的にこの質問に応じる気にははれないのです。ときには意地悪く「そんなことをきいて、一体どうなさるおつもりですか、その前にご自分の場合はいかがなものですか」などと反問したくなるときもあります。
というのは、私自身、私の<子ども期>といったものに対して、あまり好もしい感情を持っていないということもありおますし、<読書体験>とよばれるようなものも今にして思えば、それこそお話にならぬくらいお粗末なものでした。ですから、その事情を説明するにしても、気楽に、通りいっぺんの回顧談ですませる気分にはなれないのです。
しかし、今回は、「読書」に関してかいつまんで述べてみようと思います。
私は1931年(昭和6年)生まれです。これは、日本の軍国主義が中国大陸北部に公然と武力行使を開始した年です。満州事変とよばれたその戦争は、中国全域を巻きこみ、支那事変とよばれるようになり、ついに太平洋戦争となり、その戦争が敗戦で終りをつげたとき、私は旧制中学の二年生でした。ですから、私の<子ども期>はまったく戦争におおわれていました。
そして、これほど国の権力というものが、子どものことに口をさしはさみ、子どもを厳しく管理した時代は後にも先にもありません。
男の子はみんな兵士になって、死ぬためにだけ教育され、女の子はその留守を守る、銃後の婦人になるようにだけしつけられた時代です。そんなわけで、子どもが学校で使う教科書はもちろんのこと、子どもの本もすべて、その方向に統制されていましたし、戦争が激しくなるにつれて、物質も人手も不足していましたから、一般の子どもの本もすべて、そういった種類の本でないかぎり、出版を許可されることがむずかしくなりました。特に太平洋戦争後半期に入りますと、そういう種類の本でさえも、個人で手に入れることができなくなってしまいました。
こうなると、割に年齢の離れた兄姉がいる同級生の家にある古本だけが頼りです。その古本を読ませてもらうために、なんとかきっかけをつくり、そういう同級生の家をめぐり歩いたものです。
ところが、それほどまでに苦心して読む本も、ほとんどは軍国主義美談的な、いわゆる<大衆的児童読物>といわれるものばかりでしたし、前にも述べましたが、子どもの本はぜいたく品でしたから、一軒の家にある子どもの本の数などは知れたものでした。
そうした本の中には、ときたま、<世界名作童話>の類も混じっていましたが、それは完全なものではなく、ほとんどが抄訳のダイジェスト版でした。まして、日本の創作児童文学とよばれるようなものには、めったにお目にかかれませんでした。
また、現在のように<学校図書館>が一般的なものではなく、図書室におかれている図書も、私たちが食指を動かしたくなるようなものはほとんど見当りませんでした。
それでも、私の場合はかなり恵まれていました。母が読書好きだったこともあり、月に一度は町の書店へ連れて行ってもらえました。また、母方の叔父が法科の学生でしたが、当時、童話とよばれているものに、哲学的な意味を求めていたこともあり、家へ来るたびに東京の古書店で買った、完訳の『アンデルセン童話集』の何冊分、『グリム童話集』、それに日本のものでは、宮沢賢治、小川未明、坪田譲治の作品集などを私の本箱へ置いて行ってくれました。
初め『アンデルセン童話集』の文庫本を学校で読んでいて、おとなの本を読んでいるなんて生意気だと、同級生からいじめられて困ったこともありました。
また、父の友人が出版関係の仕事をするようになってからは、石森延男とか、福田清人という作家のものを手にすることができました。しかし、残念ながら、当時の私にとっては、日本の<芸術的児童文学>の本は、それほど魅力のあるものとはいえませんでした。むしろ、私がわれを忘れて読みふけったものは<大衆的児童読物>とよばれるものでした。
佐藤紅緑の熱血小説、佐々木邦のユーモア小説、山中峯太郎、平田晋策の軍事冒険物語、吉川英治、大仏次郎の少年時代小説、海野十三の空想科学小説、南洋一郎の海洋冒険小説、江戸川乱歩の怪奇・探偵小説……。こういったものをあきもせずにくり返し読んだものです。
もちろん、これらの本は新本ではありませんから、表紙のないものやら、へたな持ち方をするとばらばらになってしまうような、とても本とはよべないようなしろものもありました。
ひととおり、そういう種類の本を読みあさった私は、その次にはもう<創作児童文学>の本へはいかず、おとな向けの本に手を出しました。おとなを対象とした時代小説や、恋愛小説といわれる種類のものです。けれども、そういった本を母に取りあげられると、最後には読むものがなくなり、分厚い辞典の類を丹念に眺めた記憶があります。
そんなわけで、私が<芸術的児童文学>というものを本腰をいれて読み出したのは、戦争が終り、かなり後の……つまり私が<子ども期>を出て、おとなの仲間入りをしてからのことでした。
けれども、そのころの子どもたちは、私と似たような形で<大衆的児童読物>を読んでおり、<芸術的児童文学>の本を読んだのはごくわずかだったようです。私の経験からすれば、当時の<芸術的児童文学>の本は、<大衆的児童読物>にくらべて、ちょっと気取った感じで、はるかに退屈でしたし、へんにしんきくさく、とっつきづらいものでした。なん回読んでも、わけのわからないことが多すぎました。つまり、具の少ないすまし汁みたいなものだったのです。それにくらべて<大衆的児童読物>といわれるほうは、子どもが楽しむおもしろさの点で、カレーかポタージュほどの濃さがあったように思えるのです。
あたりに夕やみのせまる、友人の家の魚くさい土蔵のすみで読みふけり、また、友人の家ではすでに夕食を始めているというのに、その縁側で、やぶ蚊にさされながら読みふけった思い出は、いまでも鮮かに思い浮かべることができます。もう「本」とよべるような形ではなく、ぼろぼろのうす黒いページの塊りみたいなものが、私にとっては宝物のような気さえしたものです。
ところで、それほどまでに<子ども期>の私を夢中にさせた<大衆的児童読物>を、最近、まとめて読み返す機会がありました。
部分的にはかなり明瞭な記憶もあって、読んだ当時のふんい気も、まざまざとよみがえってきました。そして、物語をおいかけて読むぶんには、それはそれで、現在でも「波瀾万丈」「一難去ッテ又一難」と、結構楽しませてくれるのですが、腰をすえて、ゆっくり文章を読んでゆくと、これはもうどうにも救いがたい、軍国主義謳歌と神国日本礼賛、立身出世主義、いずれも教育勅語べったりのすさまじいまでの<訓育性>なのです。
しかし、読者に対するサービスの徹底ぶりは、どうしてどうして大変なものです。子どもの興味のつぼといったものを心得ていて、次から次へと、手を替え品を替え、主人公を窮地へ追いこんでは「九死ニ一生ヲ得」させたり、主人公の不屈の魂で活路を開かせたりする手法は、なみなみならぬものがあります。たしかに読み進んでゆくうちに、「ここは記憶にあるぞ」といったクライマックス・シーンがいくつかあり、次のページをめくるときのあのわくわくした気持も、かなりはっきり思い出すことができました。にもかかわらず、それらのストーリーのあちこちに散りばめられた神国日本礼賛とか、まさに神がかり的な忠君愛国思想の謳歌が、これほど露骨で、すさまじいものであったとは知りませんでした。
そうした思想的なものは、その当時の一般的な風潮でしたし、私たち、当時の子どもたちは、日常茶飯に学校の先生をはじめ、周囲のおとなたちから、そうした思想的錬成を受けていたこともあって、それが印象に残るほど特別なものではなかったのです。多分、そうしたものはききあきてもいたので、さして印象に残らなかったのでしょう。
けれども、もうひとつ別な見方をすると、子どもはその文章の中にある、お説教の部分はさっさと読みとばしてしまうという技術を心得てもいるようです。つまり、さしあたって物語に必要でない部分はまるでおよびでないということです。
というのは、きわめて些細な描写であっても、ストーリーの重要な伏線である部分は、たしかに読んだ記憶があり、それがページのどのあたりにあったかまで憶えているのですが、軍国主義思潮の謳歌のあたりになると「こんなことが、こんなにくどく、大げさに書かれていたのか」と、はじめて驚くほどの始末なのです。
もちろん、そうしたものは敗戦という日本の歴史的な現実の前に、一時的にはまったくといってよいほど、価値や権威を失ったもので、私自身、戦後の民主主義の理念を学ぶ中で、それまで、私のなかにたまりつもっていたそういう思想をかなり意識的に切り捨ててきたことで、そうした本にかかわりのあったことまで忘れてしまおうとした時期もありました。けれども、子どもの読書体験そのものまで抹殺できるものではありません。ですから、そうした読物の思想的な部分は、あくまでもストーリーの背景の、しかも遠景としてしか意識されていなかった、または、そういう読み方しかしなかったといえるわけです。
しかも、なお、それらの読物を決して<ホンモノ>だとは考えていませんでした。あくまでも<物語>という<ツクリモノ>として楽しんでいました。つまり、現実はこうはいかないのだ。これは物語の世界だから、こうなるのだということを承知していたということです。
以前『餓鬼一匹』(1972年・毎日新聞社刊)という本でも書いたことなのですが、佐藤紅緑の熱血少年小説『紅顔美談』で樺太の監獄部屋の話を読んだとき、その時点でも私は、なんとなく、作りものめいたそらぞらしさを感じたものです。というのは、私は幼児期、北海道小樽で過ごしたのですが、私の家の裏にこの監獄部屋の斡旋所がありました。そこにはどすのきいたお兄さんたちがごろごろしていて、その家の子どもがそのお兄さんのひとりのすねを空気銃で撃ったのです。「おおいてえ、ほれみろ、あざになっちまったぜ」というようなことを言って、お兄さんはつばをつけて、毛むくじゃらのすねをこすって、にたあっと笑ったのです。私は空気銃などで撃たれたら、だれでも大けがをすると思っていたのに、その弾丸をはねかえした、不死身のお兄さんたちがうろうろしているということが驚異でした。そういうお兄さんみたいな棒頭が四六時中、目をひからせている監獄部屋を、「紅顔の少年」が脱出できるなんてとても信じられなかったのです。
もちろん、そういう<大衆児童読物>の本だけを読んでいたわけではありません。そういう本が手もとにない場合、やむを得ず本箱から<芸術的児童文学>の本などを引っぱり出してきて読んだものですが、そんなときは、大体、病気で学校を休んでいるようなときなのですが、そういう本が、やたらに子どもの死の問題を取り扱っているものですから、こちらはますます、めいってしまうのです。
しかし、私自身が子どものための本の書き手になりたいと思ったのは、高校を卒業するころで、それでも、そのこと一本で生活はできないだろうと思い、ほかに職業を持つことを考えたのです。
そういう意味で、子どものころに読んだ本が、現在の私にどんなふうに役に立っているかということになると、いまのところ、決定的な根拠はなにひとつ見出すことはできません。
よく『人生を決めた一冊の本』などという言い方をしますが、本が読者の生き方にかなり大きな比重でかかわりを持つようになるのは、読者自身がかなりの年齢に達してからのことですし、読書に対して主体的に学ぶものを選択できるようになってからの話です。そこには、かなり高度の意識が働くわけです。もちろん、子どもの場合でsも、そういうことがまったくないとは言いきれませんが、一般的にはかなりまれのようです。
そんなわけで、私の場合の子ども期の読書体験は、内容といった点では前にも述べましたように、きわめてお粗末なものではありましたが、読書の楽しみというものをそのころ知ったということと、本をかぎあてる勘のようなものを身につけた(本の内容という意味ではありません。どこへいけば、どんな本があるという、本に対する土地勘みたいなものの意味です)ということでは、現在の私にとって、きわめて有効であったと言えるようです。
おとなの本から子どもの本への移籍
さて、子どもは本の中のお説教を、読みとばしてしまう技術を心得ていると述べましたが、これはなにも、私の子ども期の読書体験特有のことではありません。子どもの本の歴史を見ますと、もともと、子どものために書かれた物語ではないのに、子どもが物語を楽しむために必要な部分だけを読みとり、それ以外の、いわゆる教訓とか、啓蒙的な叙述などには目もくれずに読みひろげ、読みつぎして、ついに物語を自分たちのものにしてしまった例がいくつかあります。
たとえば、よく知られているものに、ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』(1719年)があります。
それまではイギリスにかぎらずヨーロッパでは、子どものために書かれた本というのは、ごくわずかの例外を除いて、きわめて教訓的で、筋立ても単純なものでした。つまり、教科書的な読本の類だったのです。もっとも、そういった点から言えば、この作品もおとなを対象とした教訓的物語でした。それがどうして、おとなの本から子どもの本へ移ってしまったのでしょうか。ポール・アザールというr、フランスの文学史家が『本・子ども・大人』(矢崎源九郎・横山正矢訳=紀伊国屋書店刊)という本の中で、そのとこを次のように書いています。
<……この本には、重苦しい教育的要素がたくさん含まれていて、物語としての盛りあがりや、力がだいぶ弱まっているので、子どもたちはそういった二次的なものはすべて無視してしまった。人間の事業はたえず失敗する危険にさらされているものだとか、成功や繁栄に油断していると、最大の不幸に見舞われる惧れがあるとか、報恩というものは、人間が生まれながらに持っている美徳ではないのだとか、自分の運命に満足しない者は、いずれ神に裁きを受けて、もっと悪い運命を科せられてしまうようになるから、それがいやなら中位の仕合せで我慢していなければならないとか、そういったおざなりの説教、解りきった真理は、確かに人間にとって有益な、すぐれた教訓をたくさん含んでいる。が、それらはどうしても重苦しく読者の上にのしかかってくるし、おまけにしょっちゅうでてくるので、そのために話の筋が面白くなったとしても、読者のほうでは読んでいて、不愉快な思いをしないわけにはいかない。ところが、その点、子どもの読者は心得たもので、よけいなものを一切捨てて、面白いところだけ消化吸収するのである。それだけではない。たとえばこの本は清教徒的精神で書かれていて、ロビンソンの冒険を天罰だと言おうとしているのであるが、子どもたちは決してそうはとらない。この本のとおり読むとすると次のようになる。もし子どもが親の反対を押しきって船乗りになろうものなら、その子どもは二十八年間も無人島に島流しになるだろう、しかし、それも自業自得だからしょうがない!嵐、難破、土人の襲撃、戦争、すべては親の意思にそむいた天罰だ!ところが、これが子どもの手にかかると、逆に勇敢な者や強い人間に与えられるすばらしいご褒美ということになってしまうのである。こうなると、大人たちも子どもの要求をいれて、この本を子ども向きに作りなおしてやらなければならない。そこで大人たちは、さっそく、植木屋が枝をすかすように、原作からくだくだしい部分をとりのぞき、子どもたちの喜びそうな、さっぱりしたものに変えてやるのだ>
つまり、子どもはこういうやり方で、おとなのたのの物語を自分たちの側へ引きずりこみ、ついには自分たち子どものための物語として、世界各国で<世界名作物語>としての市民権を与えたわけです。日本へも、100年ほど前の1872年(明治5年)、斉藤了庵の手で訳された『魯敏孫全伝』として紹介されて以来、数多くの類書がくり返し翻訳、抄訳、再話され、出版されてきました。
同じような例が『ロビンソン・クルーソー』が出版されて七年後に登場した、ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』なのです。これもまたイギリスの古典名作とよばれているものですが、これについては、アメリカの図書館学、それも特に児童図書の権威といわれている、リリアン・H・スミス女史の『児童文学論』(石井桃子・瀬田貞ニ・渡辺茂男訳=岩波書店刊)が次のように述べています。
<司祭長スウィフトは、かれの辛辣で骨をさすような諷刺物語『ガリヴァー旅行記』を、決して子どものために書いたのではなかった。アイルランドの広大なさびしい邸にこもって、夜ごとすさまじい勢いで書いた彼に、もし、だれかが、この本は世々代々の少年少女たちの楽しみになるだろうと言ったら、かれがどう答えたか、思いめぐらしてみるとおもしろい。『ガリヴァー旅行記』の中には、子どもの理解できないところがたくさんある。しかし、子どもたちは、自分の好きなところをこの物語の中からぬき出す。そして、彼らがいちばんひきつけられるのは、くめどもつきない作者の空想力である。作者の空想力は、まず、ガリヴァーがあれほどおもしろい冒険をする小人国をつくり出して、そこに小人たちを住まわせ、次に、大人国でガリヴァーが、同じように驚くべきこっけいな羽目におちいるありさまわくり広げてくれる。子どもたちにとって、この物語は、1726年に初めて現われたとき同様に、今日もいきいきと生きている。>
このふたつの作品は、今日児童文学の古典的名作として、世界各国に知れわたっていますが、そもそもの初めが、いずれもおとなのために書かれたもの、いいかえれば、子どもなどは読者のうちに入っていないものとして、書かれたものであったということは大変に興味のあることです。
このことでもわかるように、子どもは学ぶために読書するのではなく、楽しみのために読書するということが、すでに十八世紀の初頭で立証されていたわけです。
そうかといって、子どもをまるで無視して書かれたもののほうが、はるかに子どもをひきつけるというのではありません。児童文学者の中には、この『ロビンソン・クルーソー』と『ガリヴァー旅行記』を例にあげて、子どもを意識しない児童文学のほうが、文学として質の高いものであるというような言い方をする人がいますが、これはかなり的外れな意見だと思います。要はその作品の中に、子どもたちが「自分たちのもの」として本能的にかぎあて、取りこむ要素があるかないかによるのです。『ロビンソン・クルーソー』で言えば、すばらしい手に汗をにぎるような冒険と探検の世界であり、『ガリヴァー旅行記』で言えば、はてしなく広がる不思議な空想の世界といった、子どもたちの好みのものがなければ、そればどれほど文学的に香り高い高尚な作品であったとしても、子どもたちは進んでかかわり合いを持とうとしなかったでしょうし、また、「子どものもの」とはなり得なかったに違いありません。
このことからわかるように、押しつけがましいお説教や、人生訓、処世訓、あるいはスローガンだけが売りものになっているような作品は、たとえ、そのスローガンの類が、思想的にどれほど深遠なところから出たものであろうと、子どもがページをくってみて、彼らの望むものがなければ、すぐにもほうりだされてしまうだろうということです。どれほど優れたイデオロギーを具現した作品であろうと、子どもが見向きもしないものを、「子どもの本」として、その思想だけをほめたたえるというわけにはいかないのです。
たしかに、子どもたちには、与えられたものを与えられたものとして、素直に受け入れる一面を持ってはいますが、だからといって、そうした種類の本を与えられ、読まされたとしても、読んだというだけであって、実は「字の字の字の字……」に近い読み方で、彼らの心の中になにも残すことはできないでしょう。
もっとも、こういう言い方をすると、読書運動家の人たちからは、「それでは、子どもが喜ぶものでありさえすれば、なにを読んでいようとかまわないというのか」と反論されるかもしれませんが、私はあえて「子どもが読んで楽しめるものであれば、なにを読もうと一向にさしつかえない」と言いきるつもりです。
大変、乱暴な意見のように思われるかもしれませんが、子どもの本の歴史がそれを証明しているように、私は、子どもの、本に対する鑑識眼といったものを信頼したいと思うのです。
にもかかわらず、<訓育的>な読書をすすめる人たちは「そういう楽しむ傾向の本ばかり読ませてはいけない。退屈でも、深みのあるものを読ませなければいけない」と言います。子どもは、なぜおもしろい本を読んで楽しんではいけないのかと困るだけです。
また、それらの読書運動家が、これこれの作家は、これこれの作品を子どものときに読んで、深い感銘を受け、それによって文学の道へ入り、今日、作家として知られるようになった、などという例をあげて、「だから、子どものときの読書は大切なのだ」というところへ結論をもっていき、子どもの読書に干渉し、自分たちの訓育的嗜好や、政治的意図によって子どもの本を選び、押しつけようとしますが、そんなことは一般論として通用するものではありません。誰もが作家になるわけではありませんし、誰もが文学の道をあゆまねばならないということもありません。どの本をどう読もうと、それは読み手の自由勝手次第なのです。そうした自由勝手次第の読み方をされても、なお、子どもに愛され、感銘を与える作品こそ優れたものと言えるでしょう。
世界の児童文学の歴史の流れをたどってみますと、いくつかそういう作品にいきあたります。永い間、多くの子どもたちの支持を受け、読みつがれ、今日なお市民権を得ているものです。それは決して数多くはありませんし、しょっちゅう出現するものではありません。なん年に一度、いや、なん十年に一度かもしれません。今日、それらの作品はごく一般的に<世界名作童話>とよばれています。
ヨーロッパにおける世界名作童話
ここで、かいつまんで、<世界名作童話>とよばれるものについて説明してみようと思います。
現在、日本で<世界名作童話>とよばれているものは、約五十から六十点ぐらいあります。一冊の単行本として出版されることはごくまれで、ふつうには<世界少年少女文学全集>とか<世界名作童話集>といったシリーズもので、全三十巻とか、五十巻という、かなりスケールの大きなもので出版されています。日本では、この<世界名作童話>は大体どんなときでも、コンスタントに売れるといわれています。すでになん度か述べましたが、事実、日本の創作児童文学が不振で、ろくに本が出版されない時でもこれだけは売れ続けました。そのために、この本の冒頭で書いた時代、日本の児童文学者はこぞって<世界名作童話>の再話に筆をそめたものです。
戦争中、これらの<世界名作童話>はほとんど出版されませんでした。国中あげて米英と戦っているときに、敵国の文化を子どもに与えるべきではないという、偏狭なファシズム一色の指導者によって排除されたのです。ところが、敗戦になり、アメリカ占領軍が日本の文化政策を占領政策にそわせるために出版物に対して目を光らせた時代があります。その時期にフリー・パスだったのが<世界名作童話>であり、外国の<偉人伝>だったのです。児童図書の出版各社がそれらを第一商品にしたのは当然といえます。
そんなわけで、現在でも大手筋の児童図書出版社は、どこでもこの<世界名作童話>集というシリーズものをなん種類かもっています。現在刊行されているものでも、ざっと見回したところ、およそ三十種類のものがあります。それらのシリーズものは、企画された年代とか、シリーズの読者対象のグレードとか、立案者・監修者・編集者の顔ぶれの差で、わずかずつの違いが出ています。いきおい<世界名作童話>とよばれるもののわくが広がり、全般的に集録作品もふえることになります。
また、同じ<世界名作童話>とよばれるものでも、現在ではほとんど原形をとどめないぐらいに、極端に短縮されてしまったダイジェスト版とか、ほんのさわりだけの絵本でしかお目にかかれなくなり、完訳のほうはいつのまにか、かつての『ロビンソン・クルーソー』や『ガリヴァー旅行記』とは逆に、おとなの本の側へ移籍してしまったようなものも少なくありません。そういった関係で<世界名作童話>といっても、基準はなく、出版社側の売れる売れないという商業主義的な目安で選ばれているようなところもあって、固定したものとして論じることはできなくなってきています。
また、地方図書館などの調査では、子どもがかならずしもこれらの<世界名作童話>を好んでいるわけではないという結果も出始めています。事実、国語の教科書などに、これらの抜粋や抄訳がのっていることから食傷気味になっているのかも知れません。
同じように<世界名作童話>といっても、そのエキゾチズムとでも言いますか、異国情緒の部分で抵抗を感じてしまう子どももいますし、すべての子どもに<世界名作童話>が好まれるとは断言できません。
しかし、<世界名作童話>とよばれているものを、年代順に追ってみますと、ヨーロッパの子どもの本の歴史がある程度浮き彫りになってきます。それをかいつまんでたどってみたいと思います。
まず<世界名作童話>と言えば、どんなシリーズにも、必ずといってよいくらい登場するのが『イソップ寓話』です。ウサギとカメのかけくらべ、子どもの横歩きをあざわらった母親ガニ、ウシのまねをして腹をパンクさせてしまったうぬぼれガエル、旅人のマントをぬがせる北風と太陽の力くらべ、いつもオオカミが来たとうそをついて、本物のオオカミがきたときの救いを信じてもらえなかった羊飼いの少年の話。これには諷刺と教訓の神髄とでもいうべき物語がたくさんつまっています。イソップの物語の中では動物が人間のように会話をかわします。<擬人化>とよばれている手法です。
これらの話がイソップによって語られたのは、紀元前六世紀ごろだといわれています。このイソップ(ギリシャ名・アイソーポス)は奴隷出身で、無実の罪で断罪された悲劇的人物といわれていますが、実在の人物であったかどうかは定説がありません。数ある寓話の中にはかなり意地の悪いものもあり、そのために市民の恨みを買って誣告されたという説もあるほどです。
短いストーリーの中に、いかにも子どもの喜びそうな展開があり、おとなから子どもへと語りつがれたものですが、おとなの側からすれば、きわめて訓育的教材として有効でありながら、子どもは物語のおもしろさでそれを受けとったのでしょう。元来、寓話というものは、きわめて無責任なもので、どちらにも解釈できる二面性をもっています。きくものの判断次第では、まったく逆の意味も成立します。ですから、これが語り伝えられたということは、やはり、意味判断よりも物語の構成の魅力だったのではないかと思われます。
このイソップの<擬人化>の手法と寓話性は、後の児童文学に大きな影響をおよぼしました。しかし、この物語が本になるのは、それから二千年近くもたってからでした。1300年代に、コンスタンチノーブルの僧侶の手によってまとめられたと伝えられております。その歴史の古さからいったら、イソップの場合はもう別格のようなものです。
もっとも、このような語り伝えという形からすれば、1200年代には一般に広く知られるようになった『ロビン・フッド物語』がありますし、『ギリシャ神話』や、ドイツ民話『ニーベルンゲンの歌』などもあります。
このように、多くの人びとによって語り伝えられた昔話をもとにして、ひとりの作家が書きあらわしたものの見本としてあげられるのが、フランスのシャルル・ペローの手になる『教訓を含んだすぎし昔の物語−または小話』という、しかつめらしい題名のついた作品集です。ところが、その題名にもかかわらず、1697年、ペローの息子の名前を筆者として出版されたこの本は大変な人気をよびました。この中には、あの有名な『眠れる森の美女』『赤ずきん』『青ひげ』『長ぐつをはいたネコ』『シンデレラ』(またの名『ガラスのくつ』)その他の作品が収められていました。
そして18世紀に入ってまもなくの1704年、中東の「お話の宝庫」といわれる『千一夜物語』がフランスの旅行家アントワーヌ・ガランの手で、本格的にヨーロッパに紹介されたのです。今日でも『アラジンの魔法のランプ』や『船乗りシンドバッドの冒険』あるいは『アリババと四十人の盗賊』は、多くの国の子どもたちに喜ばれています。
ところで、この18世紀の前半は、子どもの本の歴史にとっては、特筆すべき時期でもありました。
それは先の『ロビンソン・クルーソー』(1719年)や『ガリヴァー旅行記』(1726年)がイギリスで出版されていることです。この二つの作品は出版されて、数年で子どものための物語に変身させられてしまったことはすでに述べました。そしてまた、本格的な、子どものための本が売り出されるようになったのもこの時期なのです。
この二つの作品は、出版されて間もなく<チャップ・ブック>とよばれる、パンフレットのような、うすい小冊子となり、行商人がそれを安い値で国のすみずみまで売りあるいたといわれています。<チャップ・ブック>は、日本で言えば、ちょうど江戸時代の<草双紙>にあたるようなものです。そのために、内容や外見ともにかなり粗雑なものもあったようです。それでも、その<チャップ・ブック>はそのころの子どもたちの人気を集めました。
それに目をつけたのが、農村出身の印刷工あがりのニューベリーという人でした。
ニューベリーは、世界で最初の子どもの本の本屋を開き、1744年<かわいいポケット・ブック>というシリーズものの刊行を手がけました。これは先にあげました<チャップ・ブック>とは違って、本としてきちんとした体裁を整えておりましたから、たちまち人気の的になりました。
けれども、体裁ばかりではなく、本当の意味で子どもを楽しませる本というのが現われるようになるまでには、なお、永い年月が必要でした。子どもはきびしくしつけられるべきだと考えるおとなたちによって、子どもの本は<訓育的教材>としてしか子どもの手に渡されなかったのです。
『ロビンソン・クルーソー』が世に送り出されて、かれこれ100年にもなろうかという、1812年、ドイツで言語学の研究をしていたヤーコブとヴィルヘルムとおいう年子のグリム兄弟によって『子どもと家庭のための民話集』第一巻が出されました。今日『グリム童話』とよばれているものです。
グリム兄弟は、ナポレオンのフランスに占領された時代のドイツで育ち、祖国の文化遺産としての民話に目を向け、民話を集める仕事を始めたのです。これもまた、今日、世界中の子どもたちに親しまれている『白雪姫』『オオカミと七匹の子ヤギ』『ヘンゼルとグレーテル』『ブレーメンのおかかえ音楽隊』などといった作品が収められていました。『子どもと家庭のための民話集』ということで、かなり教育的配慮がなされた点もあるようです。たとえば『白雪姫』を殺そうとたくらむのは継母ということになっていますが、もとの話では実母であったというのです。はたして、実母を継母にすることが教育的配慮であるかどうかは論があるかと思いますが、他の作品では骨格についてはほとんどそのまま使われていると言います。
さて、ペロー以来、一時影をひそめていた<おとぎ話=メルヘン>がグリム兄弟の成功により、多少の訓育性をまといながらも、教訓的教材の厚いかべをくぐりぬけ、日の目を見るようになりました。民話を集めるとか、あるいはそれを土台にして物語を作ることが盛んになりました。チャイコフスキーの組曲でもよく知られているE・T・A・ホフマンの『クルミわりとネズミの王様』(1819年)やヴィルヘルム・ハウフの『隊商』(1819年)などがこの時期のものです。『隊商』の中にはかなり強烈な権力批判があり、『コウノトリになったカリフ』とか『ちびのムック』などがよく知られています。
1830年代に入りますと、ロシアのプウシキンが『サルタン王物語』(1831年)をはじめとする、この種の作品を書いていますし、同じくロシアのエルショフが『せむしの小馬』(1834年)を書いています。
そして、その翌年の1835年「童話の父」とも「童話の詩人」ともいわれる、デンマークの靴屋の息子、ハンス・クリスチャン・アンデルセンが『童話集』第一巻を世に送り出しました。今日、いわゆる『アンデルセン童話』とよばれ、その作風は<メルヘンの手本>ともされています。『みにくいアヒルの子』『マッチ売りの少女』『おやゆび姫』『しっかりもののすずめの兵隊』(『鉛の兵隊』と訳されたものもあります)『人魚姫』そのほかで、『アンデルセン童話』は<世界名作童話集>にとっては欠かすことのできない目玉商品になっています。
このアンデルセンの仕事は、<おとぎ話>という形式の中に、創作による幅広い空想の世界を創りあげたということで、「童話の父」とよばれるにふさわしい仕事をしたわけです。
彼の作品が後の児童文学の作家におよぼした影響は、はかり知れないものがあります。
けれども、こうしたアンデルセンの仕事が好評を博したにもかかわらず、本来的な意味で、真実、子どもを優先的読者として丁重に取り扱う子どもの本が登場するまでには、かなりの時間が必要でしたし、その間、子どもの本は相も変らず<訓育派>の教材としてしか認められていませんでした。
いまでこそ<世界名作童話>として、どのシリーズにも顔を出す「アリスの物語」の第一弾である『ふしぎな国のアリス』は1865年、びくびくしながら出版されたのです。作者の周囲の子どもたちは喜んでくれましたが、はたしてこのようにはてしなく、一見めちゃくちゃなまでに広がり続ける空想の物語が、一般の子どもに迎えられるものかどうか懸念されたのでした。もちろん、最初から熱狂的な支持があったわけではありません。しかし、この作品はほどなく、グリムやアンデルセンのものと同じように子どもたちに知られるようになりました。
この物語の作者は、本名をチャールズ・ラトウィジ・ドジソンという、オックスフォードのカレッジの数学の先生で、ペンネームをルイス・キャロルという人物でした。
もう、このころになりますと、子どもの本の物語を書くという仕事は、<チャップ・ブック>のときのような、どこのだれとも知れない職人の手から、一応、社会的には中産階級とか、知識階級とかよばれる人たちの手にゆだねられるようになりました。また、キャロルの仕事は、空想物語(一般に<ファンタシー>とよばれています)から、訓育の手かせ足かせを思い切ってはずしたということでも大きく評価されています。
同じように、冒険小説から訓育のくびきを取りはずしたものに、ロバート・ルイス・スチーブンソンの『宝島』(1883年)があります。この物語はスチーブンソンが、自分の子どもの書いた仮空の地図に手出しをしているうちに書くことを思いついたといわれています。主人公のジム・ホウキンズは言うにおよばず、<ドクター・リブジー>や<ジョン・シルバー>のすさまじいまでの強烈な印象は、
棺桶島に十五人
それからラムがひとびんと
残りは悪魔がやっつけた
という、不気味な船唄とともに、一度でも読んだことのある読者なら頭から消えさることはありません。
特に、イギリスの児童文学の冒険物語は『ロビンソン・クルーソー』や『ガリヴァー旅行記』のような先駆的な作品を土台にして、スチーブンソンによって開花させられたといわれています。
先ほどのキャロルにしても同様です。突然、ファンタシーとして開花したのではなく、そこには伝統的な永い児童文学の歴史があったわけです。
今日、イギリスは児童文学のメッカといわれるほど、数多くの優れた児童文学者を輩出しています。それらの作品の平均的な水準の高さは他の国とは比較にならないほどです。これは児童文学の流れとしての、歴史的な伝統があることでもわかりますが、その伝統というのは、たえず児童文学を教材に取りこもうとする<訓育派>に対して、優れた児童文学者が<訓育派>をはるかにしのぐ作品によって、防衛してきた結果であると言えそうです。
さて<世界名作童話>に『宝島』が登場すると、当然、問題にされるのが『トム・ソーヤーの冒険』『ハックルベリ・フィンの冒険』です。
変な話ですが、これらの作品は、日本の創作児童文学が批判される場合、かならず引き合いにだされるものです。つまり、
「日本の創作児童文学の伝統は、一遍の『宝島』を生んだか?一人のトム・ソーヤー、あるいはハックルベリ・フィンを生んだか?」
といったぐあいです。一時期、あまりにそればかり言われたので、日本の児童文学作家は、ことによると<ジム>や<ジョン・シルバー>や<トム>や<ハック>を憎んでいるかも知れません。
ご存知のように『トム・ソーヤーの冒険』、『ハックルベリ・フィンの冒険』は、マーク・トゥエインによって書かれたアメリカの名作です。
アメリカの世界名作童話について
先ほど、イギリスが児童文学のメッカだと言いましたが、アメリカもまた、児童文学の面では優れた作品の歴史を持ち、やはり、今日<世界名作童話>に数多くの作品を提供しております。
アメリカと言えば、私たちがまず思い浮かべるのがインディアンと黒人です。クーパーの『モヒカン族の最後』(1826年)と、ハリエット・ストウの『アンクル・トムズ・ケビン』(1852年)です。これらの作品は永い間、おとなの読者ばかりでなく子どもにも読まれてきました。特に後者は、アメリカの南北戦争とのかかわりにおいて歴史的にも意味を持たれる作品です。
しかし、そのアメリカの若々しさを象徴したのは、ルイザ・メイ・オルコットによって
書かれた『若草物語(四人の少女)』(1868年)でしょう。この作品の中には、たしかに教訓めいたお説教がないではありませんが、四人の少女たちの日常的な生活を描きながら、その成長を内側と外側から描いてみごとに浮き彫りにして見せたものとして、やはり名作の名にふさわしい作品です。
この作品の影響は、後にカナダのモンゴメリーによって書かれ、アメリカで出版された『赤毛のアン』(1908年)や、ジーン・ウェブスターの『あしながおじさん』(1912年)にも強く表われています。これらの作品は一般的に<成長文学>と言う名でよばれるものですが、後に出てくる<少女小説>の典型ともいわれる作品も、やはりこのころ、アメリカから出ています。
『小公子』(1886年)『小公女』(1888年)です。いずれも、イギリス生まれのアメリカ作家、フランシス・ホジソン・バーネットによって書かれました。特に『小公子』の方は、日本では明治の初期、若松賤子の名訳を得て紹介されて以来、日本の子どもたちにも親しまれてきました。これらの作品は、日本における<少女小説>の手本ともされたものです。これには、いわゆる<お涙ちょうだい>的なセンチメンタルな要素がありますが、そのストーリーの展開のたくみさは名作として市民権を得るにふさわしいものでした。
また、これまであげた作品と、まったく傾向の違うものとして、<メルヘン>のスタイルを持つものに、ハリスの『アンクル・リーマス物語』(1880年)というものがあります。これは<アメリカのイソップ>とよばれているもので、ジョージアの黒人民話をまとめたものとして有名です。日本では『ウサギどん・キツネどん』の名で知られています。弱いウサギどんの一見ずるがしこく思われる部分にも、憎めないユーモアとペーソスがあり、その語り口のおもしろさは抜群です。
しかし、アメリカの児童文学を語るとすれば、なんといっても先にあげた『トム・ソーヤーの冒険』(1876年)『ハックルベリ・フィンの冒険』(1884年)でしょう。両方とも、いわゆる<悪童物語>なのですが、ハックのもつ迫力はトムをはるかに越えています。「トゥエインの作品」と言うと、すぐに「トム」となりますが、「ハック」は、楽しく愉快な<悪童物語>のわくを突きぬけ、激しい魂の燃焼といったものさえ感じさせられます。おとなのおざなりな教育的しつけの空しさとか、宗教的形式主義からくる偏見、差別といったものが、するどく狙い撃ちされ、それがまたもののみごとにでんぐり返しをくわされています。一般的に<世界名作童話>のトゥエインと言うと『トム・ソーヤーの冒険』か『王子と乞食』(1882年)などのほうが収められがちですが、三つの作品の中では『ハックルベリ・フィンの冒険』が一頭地を抜いている感じがします。
さて、イギリスとアメリカというように、児童文学では英語圏のほうがはるかに進んでいるようですが、前にもあげた『本・子ども・大人』の著者、ポール・アザールは、その原因の重要な一つとして、イギリスの場合は風土を、アメリカの場合は国民的な児童観の問題をあげています。
たしかに、イギリスやアメリカの児童文学にくらべたとき、ヨーロッパの場合は、グリムやアンデルセンという偉大な先駆者を生んでいるにもかかわらず、いや、逆に言えば、そのために<メルヘン>のわくから出られなかったとも言えるわけですが、19世紀前半はもっぱら、イギリスやアメリカのものを輸入するといった傾向がありました。けれども、19世紀後半に入りますと、<世界名作童話>に名を連ねるような作品が次々に現われるようになります。
まず、フランスのジュール・ベルヌの『月世界旅行』(1865年)に始まる一連の空想科学小説、エクトル・アンリ・マロの『家なき子』(1876年)『家なき娘』(1893年)が知られています。マロと同時期の作家アルフォンス・ドーデの『風車小屋だより』(1866年)『月曜物語』(1877年)があります。『月曜物語』も、しばしばその抄訳が教科書にのっていますが、文学的味わいではなく、訓育的要素を重く見る点で、教材として扱うことが、どれほど原作をそこねることになりかねないかの見本みたいになっています。
このころのヨーロッパの児童文学作品の中には、まだまだ訓育臭の強い作品があります。その典型とも言えるのがイタリアのコロディの『ピノキオ』(1883年)です。ご存知のように、ジュゼッペじいさんの造った木の人形ピノキオのわんぱく物語です。これが<世界名作童話>として市民権を得てきたのは、くどいようですが、その訓育的なお説教のためではなく、次々とエスカレートしていくピノキオのいたずら、非行ぶりが、なんとも言いようのない迫力があっておもしろいのです。
ピノキオは読者の前に、すぐ誘惑にひっかかるほんとうにだめなやつとして登場してきます。そして、そのこと自体、すでに子どもたちの身近な存在になったのです。ですから、子どもたちは、悪たれピノキオが改心して、人間の子になるという終末のところは、単に物語が完了するための方便の意味でしか受けとっていないのです。またしても『ロビンソン・クルーソー』のような結果になっています。
<世界名作童話>と言えば、まだまだふれなければならない作品がたくさんありますが、一応大ざっぱな見方ですけれども、それなりに子どもたちをとらえる要素を持ったものであっとと言えます。しかし、子どもだけの支持ではだめです。ある部分で本を与える親たちを納得させつつ、子どもの心にがっちりとくいついた作品でもあるということでしょう。しかし、これは児童文学が持つ宿命みたいなものです。子どもの本というのは、子どもにとって簡単に支払える値段のものではないことは、今も昔も、そして日本でも外国でも変りはないのです。
親は、子どもの本の流通の一端をささえているということではかなり発言力があるものです。たとえば、書店などで子どもがなにを買おうかと迷っていると、しびれをきらした親が、子どもの意見をまとめるということではなくて、そのいらいらを打ちきるように「それじゃ、これにしなさい」と<世界名作童話>を押しつける光景は今日でもよく見かけます。その点でも、<世界名作童話>を担ってきたのは、子どもよりもその知名度と、永い年月を経て評価が定まっているという安心感を持つ、スポンサーの役割が決して小さくはないのです。
そういったことを裏づけるように、<世界名作童話>シリーズのキャッチ・フレーズとして「世界の一級品を最愛のお子さまに与える喜びを感じましょう」などと言います。「与える喜び」が必ずしも「与えられる側の喜び」と一致するものとは言いきれません。
時にそれは苦痛になることさえあるということも忘れてはなりません。
たしかに<世界名作童話>はそれ自体、理由があって残存しており、優れたものであったには違いないのですが、それぞれの作品に、それぞれの顔があるように、読者にもさまざまな顔があるのです。それらの作品が、すべての子どもをとらえることができるとは言えません。また、必ずしも読まなければならないものでもないでしょう。また、おとなが子どもに自分の読書体験をそっくりそのまま押しつけられるものでもありません。
テキストファイル化中島千尋