『子どもの本のねがい』(山中恒 NHK出版協会 1974)

IV 子どもの本にかけるさまざまなねがい

政治と無関係ではない子どもの本

前章では〈世界名作童話〉とよばれるものの、ほんのごく一部を見てきましたが、それらの作品のごくわずかずつの差は、その時代的な特色を写し出していると見ることができます。たとえば、一見、めちゃくちゃなように思える『アリス』にしてからが、やたらに外形的形式ばかり重んじて、お上品ぶっている中産階級に対する、手ひどいからかいという解釈も成り立ちます。『ハックルベリ・フィンの冒険』についても、虚偽と偽善でぬりかためられた、おとな社会を痛烈に批判することで自由のすばらしさを謳歌したのだとも言えます。
こうしたことはなにも児童文学であるからと言うことではなく、それらの作品を書きあげた作家たちが、間違いなく、その時代に生きていたということにほかなりません。
一般的に児童文学にたずさわる人間というのは、社会に無関心で、世事にうとく、ひたすら美しいものだけを追いもとめているような人間のように思われがちですが、それこそ偏見というものです。むかしの話ならともかく、そういった人物の存在を許しておくほど、現在の社会はあまいものではないでしょう。とにかく、子どもは同じ社会に生きており、それははっきりと政治によって管理されている社会です。政治が子どもだけをよけて通るなどということは、とても考えられるものではありません。
ですから、児童文学が政治とは無縁のものだと考えることもできません。それは、〈メルヘン〉であれ、〈ファンタシー〉であれ、〈リアリズム〉の作品であれ、みんな同じです。
たとえば、アンデルセンの『皇帝の新しきもの(はだかの王さま)』を見ても、もし、パレードの際、子どもが「王さまははだかだ」と言わなかったら、はだかの皇帝のパレードは荘重に続けられたに違いありません。そこに専制政治の恐怖があります。アンデルセンの深い政治的な読みと言ってもよいでしょう。
問題はその政治性に、その作家がどれだけ深く関わっているかということです。表面だけのかかわりなら、それは薄っぺらなスローガンだけをわめきちらす結果になるでしょう。表面上はいかにも社会的な大問題を抱えているように見えて、その実、スローガンを取ってしまったら、なにも残らないというようなのは、まさにこの種のものです。ときに、この種のものは、外からの強力な政治的要請によって書かれる場合があります。なぜ、そういうものが、子どもの本の物語として書かれたりするのでしょうか。
世界の歴史をこまかく検討するまでもなく、いつの時代でも、また、どんな社会でも、待遇はともあれ、子どもたちはその社会の明日をささえるものとして期待され、社会の希望の象徴とされてきました。きわめて非人間的であったファシズムの時代でも、予備軍としての期待がかけられたのです。
それだけに、為政者や権力者は、子どもを自分たちの支持者にするため、子どもの問題をたえず政治的に利用しようとしてきました。そうした点から、子どものための文学も、その時代的な要望に答えるために、いきおい、政治的にならないわけにいかなかったのです。
ナチが猛威をふるった時代、ドイツではユダヤ人を差別排除する意図で作られた絵本がベストセラーになったことを、ヒューリマンが『子どもの本の世界』(野村 訳・福音館書店)という本の中に書いています。
日本でも同じです。それほど露骨でないにせよ、戦地の兵隊さんが故郷を思い浮かべる話や、子どもたちが大きくなったら兵隊さんになるのだという覚悟をさせる物語の本が出ました。特に、児童文学の詩人たちの仕事は極端でした。〈少年詩〉の中で、神国日本の礼賛がくり返しおこなわれました。
ただ、児童文学が政治的にならないわけにはいかないとして、では、その政治のいずれの側に立つかということが重要な鍵になるでしょう。
にもかかわらず、一般に児童文学というものは、「子どもに夢をもたらすものであって、政治とは無関係」であると思われていますし、そうしたことを言う児童文学者も少なくありません。というのは、一般に「政治」という概念は、あまり好意をもたれていないからです。なにかといえば「政治が悪い」という言葉がとび出してくるように、世の中の悪いことはすべて政治の責任であると考えられ、口にもされます。インフレ、公害、社会不安、すべての諸悪が政治に起因すると言われます。たしかにその通りなのです。それだけに、「政治」という言葉に、いずれの側であれ、本能的に悪のにおいというか、いまわしさを感じているのです。
そうしたことからも、子どもの本は政治と無関係であることが望ましいと考えられるわけです。けれども、おとなであろうと子どもであろうと、現実に生活しているかぎり、認識があるとかないとかにかかわらず、政治社会にかかわっているわけです。だから、政治にかかわりのない児童文学が成立することなどあり得ないと言ってもよいでしょう。
日本のある著名な児童文学者で、「児童文学には政治はない、あると思っているのは政治ではなく派閥だ」と言った人がいますが、この発言は、政治と政党性とを混同しているようです。

そうしたことはさておき、一応、児童文学は「子どもに夢をもたらすものであって、政治とは無関係」であるという言葉を、額面通りに受けとるといたしましょう。この「夢をもたらす」という言葉が、大変あいまいなのですが、そのあたりから検討してみようと思います。

まず、普通に〈夢〉と言えば「五臓六腑のつかれ」などといわれる、睡眠中の幻覚のようなものを言います。なかには〈正夢〉などというのがあって、かなり現実に近いものもあるようですが、大体は現実に起こりそうもないことがその中で展開されます。たまには例外もあるようですが、ほとんど論理的に筋道の立つものではないようです。「荒唐無稽」という形容がありますが、多分、そういったものです。もっとも、幼児の場合はこの幻覚と現実の区別がつかないといわれていますし、その幻覚も、必ずしも睡眠中のものだけとはかぎらないようです。
児童文学がもたらす〈夢〉というのは、おそらく、そうしたものを指すものではないでしょう。よく、落語にも登場しますが、江戸時代、「宝船」という縁起物を売りあるくものがいて、正月、その「宝船」を枕の下に入れて寝ると、良い初夢を見ることができるといわれたそうですが、児童文学の効用とはそんなものではありません。
けれども一方では、児童文学というのは、〈夢のような物語〉だと考えている人も少なくありません。動物や植物が会話をしたりして、現実ばなれしたお話だということでしょうか?もちろん、なかには一見、そんなふうな印象を与える作品もあるでしょう。けれども、児童文学全部がそうだとは言いきれません。また、先ほどから述べてきましたように、一見そのような印象を与えるようなものであっても、実は、現実との深いかかわり合いから出てくるものなのです。そのことは、またあとでふれたいと思います。
さて、眠った時に見る幻覚としての〈夢〉でないとすると、それは現実からかなり距離のある〈ねがい〉ということになるでしょう。ごく一般にいわれる、「なになにするのが夢」というような場合です。つまり現状では、満足できないということを土台にした上での、ある将来への〈希望〉ということです。
もっとも、一般には「近ごろの子どもは夢がない」という言われ方があります。この場合の〈夢〉は〈ねがい〉や〈希望〉がないという意味と同時に、〈現実的すぎる〉という意味にもなっているようです。
〈現実的すぎる〉というのは、〈打算的で、理屈っぽくて、うるおいがない〉という意味の同意語句にもなっています。
ということになりますと、「夢をもたらす」とか「夢を与える」というのは、夢の種類とか、質とかはさておき、一応、現実ばなれさせようということになりそうです。なぜ、現実ばなれさせたいのでしょうか。つまり、現実が好もしくないと思われるからです。
現実が政治社会のしくみの中にある以上、それをどう見るか、そこにすでに政治意識が働いているのです。ですから、「近ごろの子どもは夢がない」と言った場合、直接対象として、子どもが非難されることは筋違いなのです。子どもが〈夢〉をもてない状況がすでに周囲にある。そして、それは政治社会のわく組にはめこまれているということです。
このように考えてくると、「子どもに夢をもたらすものであって、政治と無関係」という言い方は、それ自体矛盾するもので成立しないことなのです。まして、今日では、「子どもがどのように処遇されているかで、その政治の質が判断できる」とさえ言われているのです。
そうなってくると、「子どもに夢をもたらす」というのは、なにやら一時的な麻酔による鎮静みたいなもので、悪く解釈すると、子どもをぺてんにかけるということになりかねません。現実はこれこれこうで、醜く、汚れたものだから、きれいな夢を見ていましょうね……では、子どもの自立を初めから望んでいないことになります。
その意味では「児童文学とは、おとなが子どもにかけるねがいを文学という形をとって実現したもの」と言ったほうが、理屈に合っているようです。それだけに、子どものおかれている現実をどうとらえるかということが、その作品の大きなポイントになってくるわけです。それによって「子どもにかけるねがい」の政治性の質が決まってくるからです。

子どもにかけるねがいが、一番明瞭な形をとって出てくるのが、〈教育〉です。大変大ざっぱな言い方ですが、現在の日本では、〈教育〉が、体制、反体制、もしくは保守、革新の間できびしく論議されています。いずれの側からも、「民主的な教育の確立」とか「教育の中立性」といったスローガンが主張されています。本来「子どもにかけるねがい」がいずれの側にとっても共通のものであるなら、論議が起きるわけがありません。学校行政の問題、教科書の問題などみんな同じです。しかし、それは本来共通のものであるわけがないのです。スローガンだけは同じです。いずれも「子どものすこやかな成長を」となっているのです。どちらかがうそをついているという言い方ではなく、〈教育〉がそれ自体、きわめて政治的なものであると見るべきでしょう。
教育は短い時間に効果をあらわすものではありません。それは、ある将来へねがいをかけて、子どもたちに与えられているものです。その、ある将来というイメージは、教育を管理する側の政治的な未来図のことなのです。そこでは当然、ねがいの視点の差が出てきます。それが政治的な立場の相違なのです。
言い方をかえると、教育を受ける側、つまり子どもは、教育を受けるという過程の中で、好むと好まざるとにかかわらず、政治とかかわりを持たされているわけです。そういう子どもたちに「ねがいをかける」となったら、児童文学は、読み手である子どもたちが、かかわりを持たされている政治を無視するわけにはいきません。
こうした〈政治性〉の問題は、なにも児童文学だけにかぎったものではありませんが、一見〈政治性〉と無縁のようでいて、そうではないのだということを記憶にとどめておいてください。そして、おとなは自分にかかわってくる政治に対して、なんらかの意思表示をする方法を心得ています。けれども、子どもには、判断能力のあるなし、意志のあるなしにかかわらず、それを受け取ることしか許されていないのです。こと〈教育〉に対しては、どこへも文句の持っていきようのない〈無告の民〉なのです。
さて、児童文学は子どもにかけるねがいであるということになりましたが、そのねがいは、子どもをどう考えるかという作家の政治的な立場から出てくるものです。その政治的立場がいずれにあるかは、ねがいそのものが示しているわけですが、それが政治社会のどちら側に属するものであるかということ、さらにおとなの側に属するのか、子どもの側に属するのか、という問題も当然起きてきます。

しかし、いままで述べてきたことは、あくまでも作品としての形をとるまえの、作家の側の基本的な問題なのです。もちろん、だからといって児童文学は、政治を売り物にするものではありません。もっとも、今日の日本の創作児童文学を見ると、政治というよりは、政党を売り物にしているものもありますが、これも、その作家の児童文学に対する考え方から出発しているものですから、いいとか悪いとかいった、単純な判断をくだすべきではないかもしれません。

小川未明の果たした役割について

「児童文学とは、おとなが子どもにかけるねがいを文学という形をとって表現したもの」であることについて述べてきましたが、日本の児童文学は、子どもに対してどのようなねがいをかけてきたのでしょうか。
欧米の児童文学が三〇〇年という歴史を持っているのに対して、近代化のおそかったに本の児童文学の歴史は一〇〇年に満たないものしか持ち合わせておりません。
たしかに明治以前には〈草双紙〉のような読物の類はありましたが、それは「女、子どものなぐさみもの」といった程度にしか考えられておりませんでしたし、第一、文字を読むということが、現在のように一般的なものではありませんでしたから、そういうものでさえ、一部の人たちのものでしかありませんでした。
そんなわけで、日本の創作児童文学は、巌谷小波の『こがね丸』(一八九一年・明治二十四年)をもって始まるとされています。明治二十四年と言えば、日本の戦前の教育理念を決定づけた『教育ニ関スル勅語』が出された翌年でもあり、明治の学校教育が軌道に乗り始めた時期でした。
ドイツ語の素養のあった小波は、日本におけるグリムを目指したようです。事実、小波の残した仕事は、創作児童文学の祖であること、日本の民話昔話を再編成したこと、また表音かな使いの提唱といったように、グリムに模せられるものでした。にもかかわらず、その仕事の本質は時代的な要請に性急に答えるように、『教育勅語』的な徳目的訓育性をうたいあげることでした。小波も初期においては、おとぎ話を「女、子どものなぐさみもの」で、なんの教育的効果をもたらさない〈絵空事〉と排撃した教育界と論戦をまじえたりしていたのですが、後にはその徳目的訓育性をかかげることで、教育界から歓迎されるようになりました。
小波と言えば『こがね丸』といわれるほどの作品でさえ、後に彼自身が「八犬伝と狐の裁判(ライネッケ)とをないまぜにした位の陳腐なもの」と言っているほどで、これはかなり古風なあだ討ち美談でした。そうしたものではありましたが、「これでも当時は珍しかったので、小さいながらも礎石をすえ得たのであった」と小波が言っているように、これは日本の児童文学を語る上には見逃すことのできない作品なのです。けれども、発表されて八十年を経た現在、この作品は子どもたちにはまったく読まれておりません。
それと、創作児童文学の祖といわれながらも、彼の仕事は遺産として、直接、児童文学の創作をする人たちに継承されることがありませんでした。彼のもとに集まったのは、児童文学を創作する人たちではなく、彼の再編成した昔話や、彼によって紹介された外国の昔話を普及する〈童話家〉とよばれる人たちでした。この人たちの仕事は、もっぱら〈口演童話〉という、いわば実演家たちでした。つまり、学校などを回って歩く、「おはなし家」だったのです。
どうやら、日本の児童文学は不幸な出発をしたようでした。
小波の仕事の多くは日本の昔話と外国の昔話の紹介でしたが、グリム兄弟がやったように、足でじかに昔話を集めたのではなく、いわゆる草紙ものを下じきにしたやり方でした。今日の〈再話〉とよばれる作業の先駆をなすものです。しかし、小波の再話は、草紙ものの持つ筋のおもしろさや、気取りのなさなどに装われながら、それをはるかに上回るむき出しの〈訓育性〉を売りものにしてしまったのです。しかも、彼はこの面の第一人者でした。当時は児童文学とは言わず〈童話〉とよばれていましたが、童話というものはそういうものだという、世間的なイメージを作り出し、しかも〈童話家〉と言えば〈口演実演家〉という概念を作りあげてしまったのです。
そうした物語としての世俗性にのった〈訓育性〉を批判する立場から登場したのが、小川未明(一八八二年〜一九六一年)です。

未明について述べるまえに、少々道草をさせてください。
私は以前、NHK総合テレビで約四年間(一九六八年〜一九七一年)『おはなしこんにちは』という幼児向け番組の台本を担当していました。そのころは、もっぱら日本の民話や伝説を取りあげておりました。数ある話の中には、見かたによってはかなり残酷と受けとられるようなものがありました。もちろん、最初からそういう話ばかり拾ったわけではありませんし、話の全部が残酷だったり、荒っぽかったわけではありません。ところが、そうした話が放送されると、決まったように視聴者から抗議がくるのですが、その場合、なんどか引き合いに出されたのが、この未明でした。〈こんなひどい話はやめて、小川未明先生の『赤いろうそくと人魚』のような夢のある話を放送されるように望みます〉というのがかなりの数ありました。なかには親切に『赤い人魚とろうそく』という名作があるはずだから、ぜひお読みくださいと教えてくださる方もいました。
これはどういうことかと言いますと、子どもの話と言えば小川未明であり、未明と言えば『赤いろうそくと人魚』であり、民話やなにかと違い、児童文学は子どもに夢をもたらすから……という方程式が現在でもおまじないのように信じられているということなのです。
私が判断したかぎり、それらの投書者のほとんどの人が問題の未明作品をお読みになっているとは思えませんでした。というのは、問題になった放送作品にくらべて、未明のその名作のほうがはるかに残酷で、はるかに不気味だからです。
現在、未明の児童文学に対する評価は、この名作『赤いろうそくと人魚』に集中されて賛否両論に割れています。
未明の児童文学に対する考え方は、未明自身、おとなの小説をやめて、「今後を童話作家に」と、決意表明した文章の中で述べています。
「広い世界にありとあらゆる美を求めたい心と、また、それがいかなる調和に置かれた時のみ、正しい存在であるかということを詩としたい願いからでありました」
そして、
「この意味において、私の書いてきた童話は、即ち従来の童話や世俗の言う童話とは多少異なった立場にあるといえます。むしろ大人に読んでもらった方がかえって意の存するところが分ると思いますが、あくまで童心の上にたち、即ち大人の見る世界ならざる空想の世界に成長すべき童話なるがゆえに、いわゆる小説ではなく、やはり童話といわれるべきものでありましょう」
そして、自分は半生を〈専心わが特異な詩形のためにつくしたい〉と書いています。
未明が〈従来の童話〉と言っているのは、厳谷小波の再話した昔話のことを言っているのです。そして、その世俗的なおもしろ味にのっかった〈訓育性〉の強い童話に対する反発から、子どもには意味がわからないかもしれないが、あくまで童心の上に立ち〈特異な詩形〉としての童話につくすと言っているのです。この〈特異な詩形〉という言い方の中に、未明の作品の本質があるのですが、それだけに未明が作品で扱ったのは、〈人生〉〈死〉〈運命〉〈永遠〉とよばれるような、いわば次元の高い精神的な問題だったのです。これでは、ちょっと子どもには理解することが困難でしょう。
前章でもふれましたが、私の子どものころのとぼしい経験から言えば、たまたま病気で学校を休んでいるとき、読むものがなくて、ふだんめったにひろげない、「童話の本」をひろげました。そのとき読んだのは、主人公の子どもが長い病気の末、やっと外に出られるようになると、その主人公の前へ、金の輪を二つ回しながら男の子が来て笑いかけるのです。次の日も同じことがおきます。その夜、主人公はその男の子から金の輪の一つをもらって、夕やけの中へかけこむ夢を見ます。主人公は翌日から熱発して、三日目に七つで死んでしまう――というのです。
これは未明の作品の中でも、比較的よく知られている『金の輪』という作品なのですが、悪いときに悪いものを読んだものです。私はすっかりおびえてしまい、いまにも金の輪を持った男の子が来やしないかとびくつきました。

名作『赤いろうそくと人魚』(一九二一年・大正十年)にも、この不気味さがついてまわります。
〈人魚は南の方の海にばかり棲んでいるのではありません。北の海にも棲んでいたのであります。/北方の海の色は、青うございました。ある時、岩の上に、女の人魚があがって、あたりの景色を眺めながら休んでいました。/雲間から洩れた月の光がさびしく、波の上を照らしていました。どちらを見ても限りない、物凄い波がうねうねと動いているのであります〉
という冒頭の文章で始まり、この人魚は自分の生活をふり返り、その淋しさをわが子に味わせたくないと、陸のお宮の石段に女の子を生み捨てるのです。それをろうそく屋の老夫婦が拾い育てます。娘になった人魚の子は、老夫婦の恩返しにと絵入りのろうそくを作ります。そのろうそくをお宮にあげて船出すると海難に会わないという噂が立ち、ろうそく屋ははやります。ところが香具師が大金を積んで、見世物にするために人魚の娘を買いに来ます。香具師の口車にのり、大金に目のくらんだ老夫婦は、人魚の娘が泣いて頼むにもかかわらず、人魚の娘を売りとばしてしまいます。人魚の娘は赤いろうそくを残していきます。その夜、びっしょり水にぬれた見知らぬ女がそのろうそくを買っていきます。しかも、その夜、海は荒れ、人魚の娘を乗せた船は沈みます。それからというもの、その赤いろうそくがお宮にともると海は荒れ、それを見たものは溺死するようになります。
〈船乗りは、沖からお宮のある山を眺めて怖れました。夜になると、この海の上は、何となく物凄うございました。はてしもなく、何方を見まわしても、高い波がうねうねとうねっています。そして、岩に砕けては、白い泡が立ち上っています。月が、雲間から洩れて波の面を照した時は、まことに気味悪うございました。/真暗な、星も見えない雨の降る晩に、波の上から赤いろうそくの灯が漂って、だんだん高く登って、いつしか山の上のお宮をさして、ちらちら動いて行くのを見たものがあります。/幾年も経たずして、その麓の町は亡びて滅くなってしまいました〉

たしかに文章に一種独特の調子があり、〈特異な詩形〉というにふさわしいものです。この作品は、戦後のある時期まで、日本の創作児童文学の最高傑作といわれてきました。
これは、「幼年労働」とか、「人身売買」の当時の社会悪を、象徴的に取りあげて批判したリアリズムだというのです。
ところが戦後の一九五〇年代後半に入ると、若い児童文学作家たちから、未明批判の火の手があがりました。それまでは暗黙のうちに未明を批判することはタブーでした。その批判の頂点を示すものが『子どもと文学』(石井桃子・いぬいとみこ・松井直・瀬田貞二・渡辺茂男=中央公論社*現在は福音館書店より発行)という本で、一九六〇年に出版されました。これは未明の作品が子どものためのものではないことを論証したのです。
ここではそのことについて詳しく述べませんが、まず、この作品の描写のあいまいさ、たとえば老夫婦の変心についての必然のなさなどをあげ、未明が先にあげた「決意」の中でも言っているように、自己表現のために童話を手段とし、〈童心〉という観念にだけ美を見出し、現実の子どもを見ようとしなかったと、きびしく批判しました。


三人の先達による童心主義の伝統

ところで、先ほどから、しばしば〈童心〉という言葉が出てきましたが、現在でも児童文学と言えば〈童心〉の世界の物語と考えている人が少なくありません。これは未明以後の日本の児童文学に亡霊のようにとりついてしまった概念です。そして、未明の知名度とともに、児童文学と童心を結びつけて考えるのが常識のようになってしまったのです。
童心というのは読んで字のごとく、童児の心という意味で、「純真、無垢、汚れないもの」と考えられています。よく新聞記事などで「童心を傷つける心ない行為」などといったふうに使われたりします。
けれども、これはおとなの側からの表現なのです。もちろん、子どもの行為には、おとなの側から見て、美しいと思われる心の表現がないわけではありません。一方、子どもの行為の中には、それと反対にきわめて残酷な面や、自己中心の身勝手やら、おとなに対するこびのようなものもあります。ところが、童心という概念の中にはこうした面は含まれていないのです。
ですから、童心というのは、おとながその美しいと思う観点で選び出した、子どもの行為をささえる部分を名づけているのです。つまり、それはおとなの認識の問題であって、子どもの意識とは無関係なのです。子どもは、自分たちの行為をささえるどの部分が〈童心〉なのかなどということは考えてもいません。そういう意識がなくても、美しい行為を示す、それが童心だという言い方もききます。けれども、それもまた、おとなの言い方にほかなりません。
子どもは成長し、おとなに近づくにつれて童心を失うと言います。子どものほうから言わせれば、早く童心なんか棄てて、おとなになりたいと思っているかも知れませんが、かりにもし、おとなになって、なお童心とやらを持ち続けていたとしたら、これはおとなの間では未熟児として、間違いなく異端の扱いを受けるでしょう。
現実の子どもは、おとな社会ときり離されたところで生活しているわけではありません。しかも、そこで「子ども」としてきびしい管理のもとにあるわけですから、童心の中にとどまっていられません。童心とやらを少しずつ切り棄てることによって成長していかなければならないのです。ですから、おとなの側から、それを〈童心〉と名づけて美化しようと、子どもにとっては意識外のことであり無価値に等しいのです。
では、どうしてそういう概念が出たのでしょう。当然、その対比の問題として、おとなの間が醜いからということになるでしょう。それをささえるものとして、「子どものころはなにも知らず、幸せであった」という郷愁もあります。それは多分、甘く悲しく美しいものだったでしょう。
たしかに未明の作品も、その〈特異な詩形〉を用いて「ねがいをかけ」たものなのですが、ねがいをかける相手が、現実におとなとともに政治にかかわりを持たされている社会に生きている子どもではなく、未明の美しいと思う心の中にしかなかった〈童心〉にねがいをかけたのです。
そして、そのねがいが激しければ激しいほど、現実の、それこそ猥雑な社会に生きている子どもから遠ざからないわけにはいかなかったのです。特に未明の場合、当時の暗い世相に対する嫌悪感に加えて、おとなの小説への巻き返しに失敗した挫折感が、〈童心〉による美の世界へと性急に駆りたてたのでしょう。その童心による美の世界は、深い沈潜した悲しみに裏打ちされたヒューマニズムだという人もいます。それを裏づけるように、最近、未明の作品は若い青年たちの間で読まれ始めています。
けれども、未明の〈童心〉へかけるねがいの意識は、現実の子どもたちの生きている政治社会を見る目を失わせ、戦争中「大東亜共栄圏確立」というスローガンに酔い、児童文学者は命をかけて、この「聖戦」に協力すべきだと熱っぽく語らせ、自らも戦争に協力する作品を書きました。ところがいったん、敗戦を迎えると、自分が戦時下の政治社会で果たした役割を不問にし、戦争中おとなは子どもをだましてきたと怒り、今度は平和を賛美する作品を書きました。この一見、矛盾したように見える彼の行為は、彼自身〈童心〉への求道者であり、現実の子どもにかかわろうとしないかぎり、それはそれで矛盾ではなかったのです。
この「童心への志向」という問題は、後の日本の創作児童文学に、それもつい最近まで主流として強い影響を与えてきました。
小川未明をあげると、次にくるのは、当然、浜田広介(一八九三年〜一九七三年)ということになります。
広介は一九一七年(大正六年)に、童話『こがねの稲束』(大阪朝日新聞懸賞募集一等入選作品)でデビューしました。後にあげる坪田譲治とともに、戦前の日本の児童文学の一角をささえた作家ですが、『マスとおじいさん』『泣いた赤おに』『むくどりの夢』などがよく知られており、作品が教科書に取りあげられる頻度数の高さでもよく知られた作家です。もっぱら創作活動が旺盛だったのは戦前で、戦後はどちらかといえば、創作以外の児童文学関係の仕事に幅広く活躍しました。
広介の作品も「かけるねがい」としては、根底に童心をふまえての「善なる心」への共鳴で、それは善意と誠意に満ちあふれております。そこには、おとなが子どもをやさしく教え訓すという姿勢があり、また、子どもには「善なるもの」しか見せるべきではないといった、徹底した教育的配慮がありました。ここでは、すでに子どもは、善なるものへ共鳴させられるべき存在、教え訓されるべき存在でした。
未明の場合は、きわめて観念的なものではありましたが、人間の悪行への報いは人為のおよばない天然現象による裁断といった形をとったのに対して、広介の場合は、善なるものに対しては善なるものの報いがあるという因果律と倫理がうたいあげられました。うたいあげると言いましたが、文章のリズムからも、うたいあげるという感じがします。もっとも、広介の作品は、その善意に対立するものが描かれていないので、葛藤がなく、どの作品も一本調子で、同じパターンだと批評されています。
そうした外見上の問題もありますが、広介の作品は、広介自身意識するしないにかかわらず、子どもを「善なるものへ共鳴させられるべき存在、教え訓されるべき存在」として見たことにより、それはすでに〈訓育的〉素材としての役割を果たしていました。ここでもまた、現実の子どもは創作意識の外へおかれた点で未明と同じでした。
また、その時期(一九三〇年代)児童文学に、〈メルヘン〉ではなく、〈リアリズム〉の手法を取り入れようという動きがありました。階級的差別や、貧困に苦しむ無産階級の子どもたちにねがいをかけようとしたのです。いわゆる〈プロレタリア児童文学運動〉とよばれているものです。けれども、これに参加した作家たちは、その性急さから、社会問題にスローガンだけをわめき散らす結果となり、たちまち、当時の国家権力によりきびしい弾圧を受けてしまいました。そんなときでも、広介の作品は、そのような政治的検証を受けずに世の中へ送り出されていきました。つまり、保守的な倫理の型からはずれていないことと、現実の子どもをその〈童心〉の意識でしかとらえないという安全性がフリー・パスになったのです。
つづいて坪田譲治(一八九〇年〜)ですが、前の二人と違う点をあげますと、まず、前の二人が〈メルヘン〉という手法で作品をつくりあげたのに対して、譲治は自分の息子たちをモデルにして、写実的な、スケッチふうの手法を用い、その作風は後の〈生活童話〉とよばれるものの源流になったという点です。
それともう一つは、前の二人はおとなを読者対象とした一般文学を途中でやめたのに対して、常時は一般文壇における位置を確保しつづけたという点です。
そして、それらの点とのかかわりで、前の二人が日本の児童文学の流れの中では「孤高」と表現されるように、未明の文学は未明で終り、広介のものは広介以外にはないといわれるのに対して、同じ「孤高」であっても、譲治の場合は多くの後継者を育て、児童文学運動の一つの系譜を形成することができたという点です。
譲治と言えば『善太と三平』ですが、初期のものには正太が登場します。実際に三人の子どもをモデルにしたというだけあって、前の二人の作家のものと違い、そこに無邪気に飛び回る子どもの姿を、かなり具体的なイメージで読者に伝えてくれます。反面、そこではきわめて私小説的限界をも示しています。つまり似たような設定の中で、似たような形でしか登場しないといわれています。
私はこの稿のために、いくつかの作品を読み返してみました。意外に私は、そこに父性のいらだちと、限りない愛惜の念を強く感じたのですが、同時に、人生無常の諦観もまた感じました。しかし、譲治にしても、やはり〈童心〉のわくの中にいました。彼自身は美化された童心に反発しながらも、作品に描いたのは、おとなにとって愛惜の対象たり得る、
無邪気で好もしい子ども像でした。その点では、前の二人の先達と手法の差はあれ、やはり同様におとなの側の作家であったと言えます。
ただ二人の先達にくらべて、作品のもつ肌合いの親しみの点では、はるかに子どもに近いと思われます。というのは、たとえ〈童心〉という濾過器を通したにせよ、そこにかけられたねがいが、現実の子どもの理解度をはるかに越えた、高踏的な観念哲学的なたとえを美しい文章でつづったり、あるいは、いかにも悟りすましたおとなの訓育的お話ではなかったという点です。そして、その作品のほとんどを覆う暗さ、子どもは美しく可憐で、もろく、はかないという無常感は、かれが間違いなく、その時代にかかわりを持った作家であることの証しであるかも知れません。
未明、広介、譲治という、三人の先達によって拓かれた日本の創作児童文学の主流が〈童心〉へのよびかけを根底としたことは、日本の児童文学の流れといった点から見れば、児童文学を現実の子どもから遊離させてしまい、また、日本の創作児童文学をおとなの嗜好のわくに押し込む結果になってしまったのですが、三人の先達の仕事は、〈童心〉へのよびかけを根底とした児童文学の領域では、それぞれの傾向の頂点を示すもので、他者の追随を許しませんでした。そして、この三人の仕事が日本の創作児童文学の主流になったのも当然のことでした。
この変則的な形が、日本の創作児童文学を一般の文学運動や芸術運動とのかかわりから遠ざけてしまって、特殊な文学の領域を作りあげてしまいました。日本の児童文学史の中では、これを「童心主義の児童文学」とよんでいます。けれども、〈童心〉へのよびかけは「主義」などという思想体系を持つほど科学的なものではなく、きわめてふんい気的な現象でした。

〈芸術的児童文学〉の戦前・戦後

そうしたものに対して、きちんとした思想体系を根底にした児童文学を想像しようという動きがありました。それは広介のところでも述べた〈プロレタリア児童文学運動〉でした。これは、作家自身の政治的主体性を確立させながら、子どもを〈啓蒙〉しようというもので、〈啓蒙〉を〈訓育〉という意味ではなく、根底に〈人間開放〉というねがいがこめられていたのですが、この運動は当時の国家権力と急進的に闘うことに性急のあまり、スローガンだけをわめきちらすという〈教条主義〉におちいり、文学運動として成熟するための醸成期間を経ることもないうちに、国家権力の弾圧によって、未熟なままつぶされてしまい、そうした運動にかかわった作家も、〈童心〉への本家帰りをしなければならなくなってしまいました。
ところで、〈童心〉への語りかけを創作の基本的な姿勢とした本家筋とはずれたところに一人の書き手がいました。その書き手は、未明が『赤いろうそくと人魚』を発表し、広介が『むく鳥の夢』を発表した一九二一年(大正十年)、鈴木三重吉が主宰した童話雑誌「赤い鳥」に原稿を持ちこみました。残念ながら、その作品は「赤い鳥」に掲載されることなく返されてしまいました。しかも、その書き手の創作した児童文学は、彼の生前、ほとんど見向きもされませんでした。
先ほどあげました、プロレタリア児童文学がつぶされ、日本の満州(中国東北部)への武力進出が始まって二年目の一九三三年(昭和八年)、その書き手は三十八歳の生涯を閉じました。(同年同月巌谷小波が六十三歳で没しています)その後も、その書き手の作品にふれることができたのは、ごく少数の人たちでした。その作品は彼の死後二十年たって、戦後とよばれる時期になり、おとなの読者と同時に、多くの子どもの読者を獲得したのです。その数多い作品の一例をあげると、『ドングリと山猫』『注文の多い料理店』『風の又三郎』『銀河鉄道の夜』など……。もうおわかりかと思いますが宮沢賢治です。
賢治の作品が本家筋と肌合いが違ったのは、本家筋が〈童心〉という漠然とした概念にねがいをかけ、独特な童話的ふんい気を練りあげていったのに対して、賢治はかなり具体的に、対象としての子どもを考えていたということです。賢治は徹底した法華経信者であり、作品による芸術伝道を目指しておりましたから、明確な理念を持って、きわめて論理的に作品を構成し、伝道対象としての子どもを甘く見ませんでした。その創作過程でのしつこいまでの書き直しなどを見ると、年若い読者の目を畏れていたとさえ思えます。それが無意識のうちに、作品を本来的な意味でいう〈ファンタシー〉に近づけたのでしょう。
そして、賢治が物故したころ、一方では、私が先にあげた〈大衆的児童読物〉が隆盛期を迎え、多くの子どもの読者をとらえておりました。これらの作品がどうして当時の子どもたちに受け入れられたかといえば、地味で趣味的な〈芸術的児童文学〉にくらべて、今日の、一般的な表現で言えば「かっこよかった」のです。前にも申しましたように、露骨に鼻もちならない、当時の支配的イデオロギーをふりまわしながらも、子どもにサービスする精神は商品として一級品だったのです。
〈芸術的児童文学〉と呼ばれるものは、〈プロレタリア児童文学運動〉という芽を持ちながら、それを摘まれてしまい、すべてが本家帰りとなってしまったのですから、当時の子どもの本は〈芸術派〉と〈大衆派〉の二つしかなかったのです。けれども、子どもの間での普及率からいったら、問題にならないぐらい〈大衆派〉の方が強かったのです。しかし、満州事変とよばれた日本のアジアへの武力進出がさらに拡大し、本格的な日中戦争となると、国内における思想統制はきびしくなり、子どもに対する教育も、軍国主義一色に塗り替えられられようとするときになると、この〈芸術派〉と〈大衆派〉の力関係はみごとに逆転するのです。
一九三八年(昭和十三年)国家権力が公然と子どもの本の内容統制に乗りだしたのです。内務省警保局図書課が『児童読物改善ニ関スル指示要綱』というのを発表したのでした。
この要綱作成に参加したのが、小川未明、坪田譲治らの、いわゆる〈芸術派〉でした。「要綱」が出された結果、通俗または俗悪とみなされた〈大衆派〉の本は姿を消し、戦争を推し進める国家によって保護された〈芸術派〉の児童文学の本がどっと出版されるようになります。このことひとつを取りあげてみても、日本の児童文学というものが、いかに政治的な素材であるかがわかると思います。

こうして〈大衆的児童読物〉は、一敗地にまみれたのですが、それ以後、昔日の面影を思わせる復興がないまま、戦後、その位置をマンガあるいはテレビ・ドラマにゆずらざるを得ませんでした。それぞれの作品が当時の露骨な支配的イデオロギーの上に成り立っていたという、致命的な傷も大きかったようです。
戦争は拡大の一途をたどりついに太平洋戦争へ突入します。未明は本心から、童話で戦争に参加しようと叫びます。そして、児童文学者は戦争へ奉仕するために、大同団結して、一九四二年(昭和一七年)二月、〈日本少国民文化協会〉という大政翼賛のための文化統制団体を結成したのです。当時、治安維持などで拘束されていた以外の児童文学者はすべてこの団体に所属しました。もはや、日本の創作児童文学は本家筋一色と同時に軍国色一色に塗りかためられてしまいました。
やがて、一九四五年(昭和二十年)、敗戦が来ます。アメリカ占領軍の命令で、戦争に協力する目的で作られた団体はすべて解散させられます。
児童文学作家たちは民主主義の世の中になったのだから、民主主義的な児童文学を書こうということで新しい組織を作り始めます。一部には戦争中あまり派手に軍部に協力したものは除外しようというようなことで、多少感情的なもつれもあったようです。けれども、今日から考えると、なんらかの形で戦争に協力しなければ、作家としての身分など保証されない時代でしたから、程度の差こそあれ、結果的にはみんな戦争に協力したのです。児童文学の作家たちはそうした問題と、戦時中、自分たちが子どもの前に差し出した作品に対しての責任を考える前に、自分たちもまた被害者だったということで、「過去はふり返るな、明かるいあしたを」と、民主主義的な児童文学の創造を叫ぶようになるのです。この時点での「民主主義的な児童文学」というのは、戦時下の児童文学に対比させ、そうしたものとは違うのだという気概のようなものなのでしょうが、創作上の手法は相変らず本家筋の踏襲でした。
しかしながら、たしかに新しい書き手による新しい試みが芽生えました。それをささえるように、そうした児童文学作品を掲載する、いわゆる「良心的児童雑誌」もたくさん刊行されました。
ところが一九五〇年(昭和二十五年)朝鮮戦争が起こり、いままで多少とも革新派を容認していたアメリカ占領軍の政策が急激に変り、出版界の不況がくると、それらの雑誌は次々と姿を消し、ついに児童文学は〈冬の季節〉の時代へ入ってしまいます。私がこの本の冒頭で述べたのはそういう状態のときでした。
「平和と民主主義の明かるいあした」と、子どもにねがいをかけた日本の創作児童文学にとっての厳しい〈冬の季節〉は、かなり永く続きました。しかし、ここでふり返ってみると、それまで、ただ理念を取り替えただけ、看板を取り替えただけで、相変らず〈童心〉へのよびかけが主流だった児童文学の作家は、はっきり言って、手づまりの状況へ追い込まれてしまったのでした。
そのころ、海外の新しい児童文学が紹介され始め、それと日本の創作児童文学とを比較研究していた若手新人たちの間から、そうした既成児童文学への批判が出始めます。
それでも一九五五年あたりから、創作児童文学の出版点数が上昇し始め、それまでの短編傾向から、長編傾向へと変り始めました。一九六〇年には年間十八点という、今までにない大幅な飛躍をとげました。このあたりになりますと、書き手の広範な世代交代が出てきます。いわゆる〈冬の季節〉時代に同人誌などによって〈冬の季節〉を打ち破るために、研究創作を続けてきた若手が抬頭してきたのです。しかも、その多くは〈童心〉を根底とする本家筋とは無縁のところから登場したものでした。小川未明のところでも述べましたように、この時期、これまでの日本の児童文学伝統の特殊性、変則性に対する批判が多く現われ、またそれらが支持されたのは当然と言えるでしょう。
かつて、〈童心〉が安住することができた社会状況も大きく変り、それとともに子どもたちを取り巻く事情も変りました。子どもたちは、かつてのように情報に飢え、どんな本でも読もうと、待ちかまえている存在ではなくなりました。彼らのまわりには、刺激的な要素のいっぱいつまった児童週刊誌やテレビ番組があります。それらのものに夢中になっている子どもたちをとらえようというのですから、手法の面でも積極的な実験がなされなければなりませんでした。とにかく、子どもに読んでもらわなければということで、「おもしろい児童文学を」というのが、当時の新しい書き手たちのねがいでもありました。
書き手の子どもに対する考えも徐々に変り始めました。〈童心〉という色めがねを通して見た子どもの世界は、おとなにとっては汚れない無邪気な真善美の世界であり、現実におとなが巻きこまれている世界は絶望的な暗く醜い世界でした。つまり、子どもの所属する世界を〈童心〉という色めがねで創り出し、意識の中で区分して、おとなの世界に対置させて考えたのです。そこでは、現実の醜いと思われる世界を変革しようという欲求よりも、その甘美な〈童心〉の世界をひたすらあこがれるという、閉ざされた意識しかありませんでした。
それに対して新しい書き手たちは、その閉ざされた意識を開放し、子どもの世界とおとなの世界が対置される区分を取り払おうと考えました。
現実の政治社会にかかわりを持たされている子ども、あるいはその部分をいきいきと描き出すことによって、その区分線はしだいに消滅し始めました。
しかし、同時に、新しい区分線が、古い区分線を消去する過程で出てきました。区分を取り払ったことから、現実社会の変革へも子どもを動員させようというねがいが出てきたのですが、それに性急なあまり、教条主義的な訓育性を持ち始めてしまったことです。それは、おとなと子どもにかかわりを持つ社会をどうとらえるかという点で、単純な図式化が始まってしまったのです。それは体制を悪、反体制を善といった発想でとらえるもので、そこでは人間が描かれるのではなく、図式が描かれる傾向が強くなったのです。その結果、反体制的〈訓育性〉が出てきたと言えるでしょう。
そして、これは〈リアリズム〉の手法ばかりではなく、〈メルヘン〉ふうのもの、〈ファンタシー〉ふうのものにまで影響を与え始めたのです。最近の子どもの本の物語が、どれもこれも、似たようなふんい気を持っているといわれるのは、このことと無関係ではないようです。
テキストファイル化矢可部尚実