X それでも、子どもに児童文学の本を!
子どもの本の仲介者と政治的立場
第三章の一部および全章で、きわめて大まかなやり方でしたが、児童文学の流れをさらってみました。
今までのところ、欧米の児童文学にくらべて、日本の児童文学には、あまり芳しい材料をあげることができませんでした。いまさら、言いわけするつもりはありませんが、日本の児童文学が欧米の児童文学にくらべて、歴史的に日も浅く、その成立条件も同じではないことは、疑うべくもない事実なのです。その意味では、明らかに先進国を追う位置にあることを認めないわけにはいきません。
以前に、英米児童文学研究家の神宮輝夫氏からきいた話ですが、イギリスの児童文学史の研究のため渡英された際、向こうの図書館で児童文学の年表をめくってみたところ、作品名はおろか、その名前すら忘れられてしまった無数の児童文学作家の年譜があり、それらの作家が存在したということは、その記事以外に手がかりがなく、そうした作家の名がずらりと並んでいて、まさに「死屍累々」といった鬼気迫る感があったそうです。
おそらく、それらの忘れ去られた児童文学の作家たちは、みな本気で「子どもにねがいをかけ」また、そのことに生涯を賭け、死とともに作品もまた忘れされてしまったのでしょう。それとも数十人といった単位ではなく、何百人という数だそうです。私はその話をきいて、奇妙に胸があつくなりました。
今日のイギリスの児童文学は、非常に個性的で、優れた多くの作家たちにささえられ、その作品は世界の児童文学の先端を行くと言っても差しつかえないでしょう。思いつくままに、その作家と作品の名をあげてみますと、
ウィリアム・メイン 『地に消えた少年鼓手』
ローズマリ・サトクリフ『ともしびをかかげて』
フィリパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』
フィリップ・ターナー『ハイ・フォース地主屋敷』
アラン・ガーナー『ふくろう模様の皿』
メアリ・ノートン『魔法のベッド南の島へ』
J・R・タウンゼンド『アーノルドの激しい夏』
これらの人たちが現役の作家として活躍していますし、新しく紹介されたところでは、『フランバーズ屋敷の人びと』のペイトンなどがあげられます。その他、最近物故した作家に、『ツバメ号とアマゾン号』で始まる、ウォーカー四人きょうだいの十巻におよぶ物語を書いたアーサー・ランサム、『リンゴ畑のマーチンピピン』のエリナ・ファージョン、『ホビットの冒険』のJ・R・トーキンなど……。
正直なところ、私はこれらの作家の作品を読んで圧倒されました。もちろん、私自身の嗜好もありますから、なにからなにまでいっしょくたにして、ほめたたえてしまおうなどとは思いませんが、とにかく読んでいて重量感があり、ふるえてしまうのです。残念ながらこのふるえを、日本の児童文学作家の作品で味わうことは全くないとは言いませんが、きわめてまれなのです。
私は伝統にささえられたものが良いとか、優れているとか言うつもりはありません。ときに伝統は派閥を生み、手かせ足かせになるものです。けれども、それだけの歴史的な積み重ね、つまり、何百という「子どもにねがいをかけた」児童文学作家の累々たる死屍によって築かれた、今日の英国児童文学の黄金時代は、その歴史の流れそのものから導き出されてきたものとして、じゅうぶんに納得することができるのです。しかも、それぞれの作家が<メルヘン><ファンタシー><歴史物語><現代小説>など、それぞれの個性によって、それぞれの分野で本家筋をなしているのです。
たしかに日本の児童文学も、昨今「隆盛」といわれ、いくつかの問題を抱えながらも今日に至っていますが、イギリスの場合とは同次元で論じることはできないようです。つまり、その「隆盛」が、内から必然的に表出されたものか、外からの条件で引き起こされたものかの基本的な違いです。
日本の児童文学の歴史をみると、やはり、過去にイギリスほどではないにせよ、数多くの作家や作品名をあげることができます。現在では、よほどのことでもないかぎり、子どもの手に取られることのなくなった作品数も決して少なくありません。けれども、ごくまれに本家筋からはずれていたところは例外として、そのほとんどが<童心>という、おとなの心情の中のとざされた世界の児童文学でした。言いかえれば、日本の児童文学の流れの中では、<童心派>の児童文学はそれなりの伝統を創りあげてきましたが、同じに、それ以外の分野の児童文学を閉め出してきたとも言えるのです。ですから、一般文学の分野の作家が参加しても<童心派>のレッテルがないかぎり、それは児童文学としては異端の扱いしか受けなかったということです。
もちろん、このことはひとり<童心派>を責める材料にはなりません。<童心派>の本家筋からはずれたところで、未明、広介、譲治の三高峰に匹敵する実力のある作家――たとえば、宮沢賢治クラスの作家がもう一ダースほど現れていたら――と悔やまれるのです。とはいうものの、こんなことは架空の話で、たとえ、宮沢賢治があのまま創作を続け、世に出ていたとしても、あのすべてを権力のもとへ集中させられた、戦時体制に耐えきれたかどうかということになると、架空の話のむなしさにしらけてしまうのですが……。
そういった意味で、日本の児童文学が、新旧<童心派>もふくめて、さまざまな分野において、個性のおもむくままにその試みを開始してからは、まだ二十年も経っていないのです。<童心派>はともかくとして、それ以外の傾向を持つ児童文学は、やっと歩き出したと言っても過言ではないのです。
ですから、現在の日本の児童文学の状況は、ごく大ざっぱな言い方をすれば、創成期における氾濫状態とみることができます。ただし、児童文学本来の流れから見れば、創成期も初期の段階で、外部の事情、出版事情、その他の要因で、氾濫状態に追いこまれてしまったとみるべきです。そのことについては、すでに、第一章、第二章で述べたとおりです。
そうした、氾濫状態の日本の児童文学を考えながら、私自身、現在の子どもの本の何百分の一かをささえる人間として、日本の児童文学をだめだなどとは言いたくありません。欧米の児童文学にくらべたら、まるっきり劣っているなどと考えたくありません。
昨今の出版点数の増加にともなって、新しい欧米の児童文学も数多く紹介されるようになりましたが、中には、どうしてこんなものに外貨を使って輸入しなければならないのだろうかと、首をかしげたくなるようなものにも出会います。しかし、さきにあげたイギリスの作家たちのものなどを見ると、なんとも押さえようのない焦りを感じさせられてしまいます。密度の高い、緊張感のみなぎるそれらの作品に、私自身、同じ子どもの本の作家としてではなく、単なる読み手の一人として接することができたら、どれほど楽しく、どれほど幸せであろうかと考えてしまうのです。
だからといって、日本の子どもにイギリスの児童文学作品を優先的に与えるべきだとも思っていません。
日本の児童文学作家が、借り物のイデオロギーなどかなぐりすてて、本心をむき出しにして、同じ風土に住み、同じ生活感情で、同じ政治状況にある子どもたちに、同じ言語で、彼らの論理にかなったやり方でそのねがいを全力投球したら、必ずや、欧米のものに負けない説得力を持つに違いないと考えるからです。また、それだからこそ、日本の児童文学の主体的な位置づけが子どもをどうとらえるかという点で、おとなの側からも考え直さなければならないと思うのです。
そして、そうしたさまざまな条件を念頭においた上で、欧米の児童文学作品も、日本の児童文学作品も、子どもに接する機会を同じように与えられるべきだと考えるのです。
多少とも、欧米児童文学に関わりを持つ人の中には、
「日本の児童文学は泥くさくて、じめじめしていて、やたら世の中の暗い面ばかりを描いていてさっぱりしない。それにくらべたら、欧米の児童文学はからっとしているから、子どもには向こうの背の高い児童文学作品を読ませるべきだ」
と主張する人がいます。
「その証拠に、日本の児童文学は、ハックやトム、あるいはピッピながぐつした、メリーポピンズに相当する、存在感のある典型的な人物を創造することができたか?」
そう言われてみると、なにやら、自身がなくなるのですが、たしかに、これまでの日本の児童文学は、そうした典型的で存在感のある人物を描ききれず、多分に雰囲気的な描写にだけよりかかり、具体性に欠けた面があるかも知れません。また、深刻な材料が多すぎると言われた面も少なくありません。そして、私小説的でスケールが小さいと批難された要素も否定できません。
しかし、それと正反対の立場を主張する人もおります。
「現在の日本の子どものおかれている状況を考えたら、そんな雲の上の話みたいな外国児童文学なんぞ与えるよりも、この日本の現実をふまえて書かれた作品こそ与えられるべきである。『アリグザンダー』とか『エリザベエト』などという登場人物よりも、『トシオ』とか『ミチコ』という登場人物に、はるかに身近なものを感じるはずだ」
これまた、もっともな意見だと思います。けれども、私はインターナショナリストでもなければ、極端なナショナリストでもありません。海外の児童文学も、日本の児童文学も、表現上、技術上その他の差はあれ、いずれも、おとなが子どもにかけるねがいとして、同じように子どもに手渡されるべきだと思います。国民性や宗教習慣を越えたところでも、おとなが子どもにかけるねがいは決して異質のものではないからです。
その上で、日本の児童文学が、日本の子どもたちから総スカンを食わされるようなら、これはもう、なにをか言わんやです。恥をしのんで出直すか、おのれの未熟さを恥じて死ぬか、ペンを折るかしかないでしょう。
とはいうものの、その日本の作家の手で書かれた子どもの本でさえ、平等に子どもに接する機会を持っているわけではありません。というのは、子ども自身が主体になって本を選ぶことのできる機会がまだまだ少ないということです。そこには、かなり仲介者の意志がかかわってくるわけです。その仲介者は、母親であったり、学校の先生であったり、あるいは読書指導家、読書運動家、ときには新聞の紹介欄の書評家であったりします。
つい先ごろの話ですが、私は友人の家で、私よりずっと年長の小学校の先生に紹介されました。友人は私を「子どもの本の作家だ」と言いました。それをきいてその先生も、わが意を得たりというように、自分も児童文学をやっているけど知らないねと、うさんくさい目つきで私を見るのです。私はとまどいましたが、多分、子どもたちは知っているはずですと、かろうじて一矢報いたつもりでしたが、「私は自分の知らない作家の本など、子どもに与えない」ということでした。
私は<森の石松>ではありませんから、「寿司食いねえ」と思い出してもらうための努力もせず、早々に退散いたしましたが、この先生の学級では、この先生の関門をパスしないかぎり、その本は子どもの手もとに渡らないということです。
かりにもし、その先生が私のことを知っていて、私の本が関門を通ることができたとしても、そこからはみ出してしまう本が何百冊とできてしまうのですから、これは素直に喜ぶわけにはいきません。
同じような例がいくつかあります。
ある懇談会での話ですが、読書運動家として著名な人の講演の際、「どのような本を与えたらよいか」という質問に対して「ほとんど問題はないが、これこれの作家のものは傾向がよくないから、子どもがおもしろがっていても、なるべくなら与えないほうがいいのではないか」と、名指しで言ったというのです。「傾向がよくない」という、その理由は前後のいきさつから、<反教育的>であるということと、彼の所属する政党に対して、その作家が好意を持っていないということのようでした。
似たようなことで、これも著名な児童文学評論家が、彼の所属する政党と犬猿の仲にあるセクトの機関誌に、ある作家が寄稿したという事実をあげ、講演の中で、以後この作家の作品はいっさい認めないと述べたというのです。
これが、児童文学の文学的主張の対立から出たとしても、その作家の作品を認めるとか、認めないとかいうことは、読者である子どもの側にあることで、評論家の政党的立場が優先する問題ではないはずです。その評論家の発言は、そうした政党色の濃厚な読書運動の団体の中では、かなり強力な影響力をもっているということですが、児童文学作品そのものが、党派的派閥的差別で裁断されてしまうとしたら、かつて「児童文学に政治はない、あるとすれば派閥だ」と言った老大家の言葉が苦々しくよみがえってくるだけです。
評論家の立場から、「これこれの作品は表現が拙劣で、子どもの理解度から極端に遊離しているので、とても児童文学とは認めがたい」というような発言はあるかもしれません。しかし、政党的対立から感情をむき出しにして、そうした発言をするとすれば、これはもはや、児童文学の問題とは言えなくなってきます。ここでは、児童文学作品における政治性の問題ではなく、児童文学作家の政党性が優先して論じられているのですから……。
このような、子どもの本の仲介者の果たす役割が、意外に党派的であるのに驚かされます。
たとえば、母親や先生が本を選ぶ場合の目安となるものとして<ブック・リスト>があります。「大洪水のような子どもの本の中から、良書を選び出すことはむずかしいことです。そのために、手軽なガイドともなればという意味で子どもの本を選んでみました」
というような前書きがついています。こうした<ブック・リスト>は、読書運動団体の推薦のものや、個人評論、解説書の巻末についているものやらいろいろあります。しかし、その選び方の基準が問題なのです。
外国の児童文学を重点的に選んでいるのやら、その逆の場合もあります。また<訓育派>の人たちが選べば、訓育的教材としての効率の面から本が選ばれます。もし、<反訓育派>のそうしたものがあれば逆の結果になるかもしれません。しかし、そうした<反訓育派>のものが<ブック・リスト>になっている例は現在のところないようです。また、政党色の強い団体が作るとなると、当然、それに見合った作家と、その作品が選ばれることになるでしょう。
こうなってきますと、子どもの手もとに本がとどくまでの間に、教育的配慮とか、訓育的嗜好とか、政党派閥的考慮といったものが入りこみ、子どもの手に渡らない本も出てきますし、まるで黙殺されてしまう作家も出てくるわけです。
最近「子どもの本が大洪水」という問題をとりあげて、出版社が不必要な本を出版しすぎると論じた評論家がいます。さきほどの例で「以後だれそれの作品はいっさい認めない」と論じた同一人物ですが……。実際、子どもの本は大洪水です。こうなると、これは一見正当な主張のように思われ、ある程度説得力を持っています。額面通り受け取るとしたら、意義申し立ては不当かも知れません。しかし、なにが必要なのかの論点を、つつみかくさず明らかにしてもらわなければ、一般論として受け取るわけにまいりません。ことによると、その人の所属する政党色以外の本は、すべて不必要の烙印を押される危険性があるからです。
また、「子どもの本が大洪水」だから、交通整理の意味で、読書運動を通じて良書を選び出す基準を確立すべきだと論じた読書運動家もいます。
これもまた妥当な意見のように思えます。しかし、その基準がなにを根底に割り出そうとするものかを明らかにされないかぎり、おいそれとは応じがたいのです。子どもの本が、ある特定政党一色に塗りこめられることを望んでいるなら、これはもう、文学運動の問題ではなく、明らかに政治運動の問題として考えなければならないからです。
今まで、私がこうした問題を論じると、それは子どもの本の世界にかぎらず、どんなところにもある、きわめて世間的な現象なのだから、やぶをつついてヘビを出すようなことはしないで、せっせとよい作品を書けば、やがて、その作品がものを言う時期が来ると、忠告してくれた人もいます。また、それとは逆に、そうした現象に異議があるなら、それらを上回る組織を作って対抗すべきだと、なにやらヤクザの縄張り争いみたいな、ぶっそうな助言をしてくれた人もいます。
しかし、私は子どもの本の問題が、本の内容、本質のところではなく、流通の過程で、そのような問題を生じていることに釈然としないものを感じているのです。そして、そうした問題に、多少とも異議申し立てをしないことは、こういう状況を容認していることであり、子どもの本そのものにとっても決して良い結果を生まないと考えるからです。
もちろん、児童文学の本が、週刊誌なみに子どものポケット・マネーで買える価格で、直接子ども自身の手で購入されるものであれば、こんなことは多分問題にならないでしょう。読者である子どもにとっては、その本の作者がどんな政党に属していようと、どんな宗教団体に加盟していようと問題ではないのです。彼らが望んでいるものは、レッテルやなにかではなく、彼らの魂をふるわせてくれる本なのです。こうした問題が出てくるのは、やはり一般的に、子どもの本が教育文化財のなかに取りこまれているという現実があるからだろうと思います。
一冊の本にかけられた「ねがい」
ところで、執筆者の名前もイラストレーターの名前も明らかにされていないような、無責任で、一見して粗悪であるものはともかくとして、初めから、一般的な意味での、「不必要な子どもの本」もしくは、「良書でない子どもの本」を造るべく志して造られたような本があるとは思えません。また、そのような本を造るために、作家や、画家や、編集者が鋭意努力してきているとも考えられません。みんな、それぞれの立場で、それぞれのねがいをかけて本を造っているのです。もちろん、作家や、画家や、編集者が理念だけで本を造っているとも言いません。いずれも、本を造ることによって報酬を得て、生活を営んでいるのです。それこそ<夢>のない話のように聞こえるかもしれませんが、子どもの本にかかわりを持つ人間が、霞を食って生きているわけではありません。
そうでなくても、再三述べましたように、子どもの本は一般書ほどに売れるものではありません。印税率も、二割から四割ほど低いのです。子どもの本の創作だけで別荘を建てたり、外国車を乗りまわすほどの身分になった人はいません。例の<課題図書>で、かろうじて住居が購入できたという例がある程度です。大部分の職業作家は子どもの本をつくる仕事に生活をかけているのです。もちろん、ほかのところで収入を得ている人もいるでしょう。しかし、みんながみんな「不必要な子どもの本」や「良書でない子どもの本」をつくるために生活をかけているわけがありません。
たまたま、できあがった本が、ストーリーに起伏がなく一本調子で退屈であったり、イデオロギーがむき出しになってしまったり、お説教が目立ってしまったり、多少、商業主義的傾向に傾斜したり……など、あるかもしれません。また、本という形の体裁面で、へんにけばけばしかったり、すぐこわれたり、ページの中のレイ・アウトがまずく、読みにくかったり……といったような「出来・不出来」はあるかも知れません。
しかし、それすらも、ある期間、年月を経てみなければ、どれだけの読者に支持されたかはわかるものではありません。出版された当初、評論家や読書運動家が激賞しても、数年で絶版になってしまうものもあれば、反対に出版されたときに、評論家たちが見むきもしなかった、あるいは否定的な評価しかしなかった作品がじわじわと読者の支持をふやしていき、コンスタントに増刷されながら子どもの中に定着した例もあります。
出版社側から言わせると、どちらの傾向の作品も商品としては必要で、新陳代謝する中で、多数の読者の支持を受けるものが決まってくるので、その幅が広ければ広いほど、的がしぼられてくると言います。また、人によっては違いますが、読者の評価が決まるのは、短くて五年、永くて十年と言っています。つまり、十年前に出版され、現在も売れ続けているものが、子どもの本として市民権を得たものだというのです。そのように永い目で見なければわからないと言われているものを、今、いきなり「不必要」だの「良書ではない」と決めつけることは少々乱暴な発言ではないでしょうか。
とはいうものの、実際に出費して本を買う側にすれば、この大洪水の子どもの本の前ではどうしても迷ってしまうというのが実状でしょう。全部買うことができれば、数の中で当りはずれもあるでしょうが、毎年毎年、傑作が生まれるという保証もありません。一冊を選んで、高い金額を払って買ったとしても、まるで子どもが見向きもしてくれない、あるいは最初のほうだけちょろちょろっと読んで、あとは机の上へツンドクされてはたまらないと考えられるのは当然です。
さて、こうなると、いきおい、ブック・リストや、新聞の紹介欄が頼りになってきますが、それさえ、先ほども述べましたように、100パーセント頼ってしまっていいという保証はありません。
これも、ある読書会できいた話ですが、子どもの本を選ぶとき、念力で選ぶというのです。心の中で念じながら、書店の書棚をじいっとにらむと、なんとなくひっかかってくる本があるので、そういうのを買うという、なんだか切実で、神がかり的な話をきかされました。たしかに行きあたりばったりで、なにも考えずに手近なものを買ってしまうというよりは、念じたほうがいいかも知れませんが、なにやら、歳末大売り出しの福引かなにかみたいで、うす気味悪いやら、おかしいやらで、吹き出してしまいましたが、その発言者に、「それで先生の本を選んだんですよ! 」と言われ閉口しました。中には、そうした念力の働く人もいるかもしれませんが、これはどうも一般性に欠けるようです。
講演会などのあとの質問でも、やはり「なにを基準に子どもの本を選んだらいいか?」という質問がよく出ます。そうした場合、私は臆面もなく、自分の著書名をずらずらっと、お経のようによどみなくあげることにしていますが、それをきいて大方の聴講者は、みんな吹き出し、チョンになってしまいます。
しかし、実際問題として、私自身そういう立場に立たされて、なんの用意もなく、一冊の子どもの本を選ぶとしたらこんな心細いことはないと思います。
多少、本を読んでいる子どもは、ある程度、勘のようなものを働かせ、最初の数ページを読んで、「いけそうだ」とか「だめだ」とか言います。私澪、子どもののこうした勘はある程度信頼したいと思いますが、これまた、百発百中という確率をかせぐものとは思えません。まして、あまり本好きでない子どもの場合、そうした勘を働かせようもないでしょう。
本を確かめるということは、中身を読んで見るということです。それをやらないで買うとなれば、これはもう、あちらまかせ、運・不運の問題というよりほかはありません。
なにやら、いやな材料ばかりを並べたてることになりましたが、実際問題として、用意のあるなしにかかわらず一冊の本を選ぶということは、困難な作業であるということをここで確認しておきたかったのです。
私の場合、職業柄、割に多くの子どもの本に接する機会があります。そして、ある程度、どの作家はどういう傾向の作品を書くという予測はつきますが、これはあくまでも予測であって、実際に読んでみないかぎりその本の持つ力はわかりません。まして、新しい書き手の場合など、まったく予測はつきません。また、それらの本を読んで判定したところで、それは私自身の書き手としての判定になってしまう危険性はじゅうぶんあります。
こういうことになるますと、どの作家のどの作品が子どもに喜ばれるかというようなことは、非常に運命的な出会いのようなものだと思うのです。なに気なしに手にとった本が、その子どもにとって宝物のようになる場合があります。高学年の場合ですと、その本がきっかけで、その作家の他の作品を追いかけてみるということもでてきます。
それだけに書き手の側からすれば、どの本も、その書き手が読者に向ける顔なのです。ですから、手を抜いたり、いいかげんなところで妥協したりすれば、たちまち手ひどいしっぺ返しを食うわけです。たまたまめぐり会った一冊がもとで、二度と、その読者にめぐり会う機会をなくしてしまう場合があるかも知れないのです。そして、それはほんとうによくよくの縁でのめぐり会いだと言えそうです。
低学年の場合など、作家の名前など眼中にありませんが、その子どもたちが、作家の名を気にするようになることは、当然出てくることと考えなければなりません。
出版者の場合もそうだと言えます。原稿が入ったとき、ある程度のキャリアのある作家のものであれば、その作家の作品系列の中から、その作品がどれほどのランクに位置するものか判定することができますが、これがまったくの新人の場合、それは運命的なめぐり会いだと言います。
たとえば、A社に持ちこまれ、断わられた作品がB社で出版され、好評でB社の目玉商品になったという例があります。しかもB社の場合でも、Cという編集者は首をひねったけれども、Dという編集者がほれこんで、強力に推薦したので、かろうじて出版されたという話もききます。もちろん、出版者の場合は商品価値の問題もありますから、どんなに優れていても、似たような作品がその社から出ていれば二の足を踏むということもあります。どちらにしても、新人の作品を出版するということはすでにひとつの賭けなのです。
子どもの本を選ぶのに、どうしても確率の高い選び方をしたいと思ったら、これは購入するのを少々控えて、よそでそれを読んでみることです。あらかじめ図書館で借り出してみるとか、近くの文庫に当たってみるというのもひとつの方法です。
また、そうしたところで借りて実際に読んでみて、それで済むようでしたら、無理に買う必要はないのです。書店に子どもの本が山積みになっているから、あるいは学校の先生が「読書、読書」と言うからといって、どうしてもそれに現金で義理を果たさなければならないといったものではありません。一度読んで、どうしても、この本を書いたいと子どもが望んだり、あるいは、お母さんがどうしてもこの本を子どもの本棚にいれてやりたいと、ねがう本だけを買えばいいのです。
図書館にあっても、書店には見当たらない場合もあります。その場合は、出版社名と書名を言って注文すると、多少日数はかかりますが、絶版になっていないかぎり取り寄せてくれるものです。
わずらわしいと思われるかもしれませんが、へたな鉄砲も数撃てば当るといったやり方で本を与えるよりも、そのほうがはるかに効率がいいわけです。そして、同じ本を子どもと読んでみて、子どもたちがなにに共鳴したかを知ることが必要です。その本の「子どもにかけるねがい」がどのように届いているかを知ることは無駄ではありません。本来なら、その「ねがい」は親たち自身のものとしてかけられるものなのですから、それを一冊の本の金額であがなってそれでおしまいというのでは、せっかくの本も、その場かぎりの支出という以外は意味を持たなくなってしまいます。
また、そうした準備ができずに本を買ったとします。もし子どもが読まなければ、なぜ読まないかたしかめてみてください。ほんとうのところ、子どもがおもしろがらないものは、親が読んでもおもしろくないものです。そうしたら、子どもに負けず、「この本はつまらない」とわめきちらしてやればよいのです。高いお金を払ったからには、つまらないものでも、おもしろがらなければならないという義理はありません。むしろ、その反対なのです。そして、その著者の名前を覚えておいて、当分、つきあってやらないくらいの覚悟が必要です。
そうしたことをなん度かくり返すと、自然に、先ほど言いました勘が、働くようになってきます。そして、これはあくまでも、子ども主体に考えて、なるべく仲介者の領域を出ないことが望ましいのです。
そういうことから、自分で子どものために本を書き出したお母さんもいます。そして、実際に創作してみて、店頭に並んでいる一冊一冊がどれほどの重みを持つものもわかるようになったと語ってくれました。
また、さきほど、永い年月の後に評価が決まってくると申しましたが、そうした点を考えて、むやみに新刊書にとびつくこともないのです。山ほどある、大洪水の新刊書の中から狙いをつけたものだけ選ぶことです。また、子どもが喜ばない、そして親が読んでみても一向におもしろくないような本は、いくら推薦されているからといっても、時には目をつぶってしまうという、親の主体性もほしいものです。
子どもに楽しみのための読書を!
実際に、子どもの本の大洪水の前にお母さんたちはとまどってしまいますが、とまどっているのはお母さんたちだけではないのです。子どもの本にかかわりを持つ人たちがみんなとまどっているのです。たまたま、一般の人たちよりも、多少とも、子どもの本にかかわりのある人が、子どもの本について物を言っているにすぎません。それすら、五十歩百歩なのです。はっきり言えることは、その人たちが、これらのとほうもない数の本をすべて読んでいるなどということは物理的に言って不可能なことです。かりにもし、ほかのものをまったっく読まず、朝から晩まで一年中子どもの本しか読んでいないという人がいたとしたら、これは、かなり異状な感覚です。それだけで、もう、その人の発言は、割引きしてきかなければならなくなるでしょう
今はっきり言えることは、自分の子どものための本は、自分が選ぶという姿勢をつくることでしょう。また、子どもを信頼するなら、彼らに徹底的に選ばせることです。たとえ、書店で迷いぬいて、決めかねたら、また出直してもいいのではないでしょうか。そのようにしてまで本を選んでくれたお母さん、あるいは自分の意見を尊重してくれたお母さんの姿は、後になって何冊の本にも匹敵するだろうと思うのです。
たしかに今は、世の中全体があわただしくなっています。そんな時間はもったいないと思うかもしれませんが、「子どもにかけるねがい」の重さは、本を与えるという単純な行為だけの問題ではありません。
さきほどから再三述べているように、この大洪水の子どもの本の一点一点は、みんな、さまざまな、思いをこめてつくられ、ねがいが託されているのです。私はできることなら、いま出ているすべての子どもの本はすばらしいと言いたいのです。買って与える親も、与えられて読む子どもたちも、みんなたぶらかして、もうけてやろうなどという、そんなものすごい本はないと言いたいのです。以前に、児童文学の盗作事件というものもありましたが、こんなことは、めったにあることではないのだと言うよりほかありません。
子どもたちは、今多くの教育的配慮の中にとじこめられています。昔と違って、遊びに出る行動半径も時間も極端に縮小されています。そうした中で、せめて読書ぐらい子どもたちの主体的な自由を認めてやってほしいと思います。つまらないものを「つまらない」と言える自由があっていいと思うのです。感想文を書くために、物語の中の登場人物の行動を、おとなの尺度でちろちろと意地悪く採点しながら読むなどという読書は、なるべくなら、いや、絶対にさせたくはありません。
私は、この本の中で徹頭徹尾<訓育派>を批判してきましたが、<訓育>がすべてだめだというのではありません。子どもが自分で生命を守るための、基本的な<訓育>まで否定するつもりはありません。そういうことはやってやりすぎるということはないのです。
現在、どの親も、子どもの置かれている状態に納得してはいません。「子どもは自由にのびのびと育てたい」と、どの親も言います。けれども、それができる条件はいまのところあり得ないと言っても過言ではないでしょう。公害、交通災害、学習管理、そこには、抜きさしならない政治社会の仕組みが入りこんできています。これと闘うことは当然です。そして、現実に今、子どもたちはそこで生活しているのです。となると、生命を守るという基本的な<訓育>は当然の条件と考えなければなりません。
私の言う<訓育派>とは、子どもの本の中における<訓育派>であり、その仲介者としての<訓育派>なのです。つまり、子どもの読書に、教育的代償を求めようというものに対して批判してきました。
私は、私自身の創作した物語によって読者である子どもたちから、そうした代償を得たいとは思いません。そこから、なにかを学びなにかを読みとったとしても、それは読者の自由であり、そこまで作者が干渉できるものではありません。私は読者が私の創造した物語の世界を楽しんでくれたら、それで本望だと思っています。また、そのための努力もしてきました。荒っぽい言い方をすると、どのように読者を、私の創造した物語の世界へ引きずりこむかということを考え、試みてきました。
もうそろそろ、内容のあるものを書いたらどうかと、親切に忠告してくれた友人もいます。しかし、それが私の物語の内容なのです。そのあたりを作品で納得させられないのは、まだ私の力不足なのだと思うだけです。
また、私のそうした創作態度に対して「子どもにおもねることであり、子どもを甘やかすことであり、究極的には、子どもに対して無責任なのではないか」という批判もあります。
そうした批判が出始めたころから、私は<児童文学者>という肩書きはいっさいやめて、<児童読物作家>と名のることにしました。もし<児童文学>というものが、すべて、そのような<訓育的>な志向を持って子どもに迫るものであれば、せめて、私ひとりでも、そうではない<児童読物>を書きたいと思ったからです。
一口に「子どもにおもねる」といっても、これは容易なことではありません。へたなおもね方をしたらたちまち足元を見すかされますし、二度と相手にされなくなります。それは先刻のテレビの人気番組に対する子どもたちのさめた態度でもわかります。いいかげんなことでは、子どもはその「おもねり」にのってはくれません。
「子どもを甘やかす」にしても同じことです。へたな甘やかしは「冷かし」であることを、子どもたちはとっくに知っています。甘やかされているような顔をして、手ひどいしっぺ返しをすることぐらい、子どもたちにとっては朝めし前の芸当です。
そして、そういうことが「究極的に無責任だ」といわれる根拠が私にはわかりません。つまり、そこでは最初から、読書を<訓育>の手段とする発想があるからではないかと思うのです。「楽しくない読書でも、おしつけてしまおう」という魂胆を感じてしまいます。
私にとって、私の本とめぐり会った読者は大切なお客だと考えますし、<教え訓さ>なければならない相手とは考えません。私はたとえ、その読者がどんなに幼なくても、自分の本の中で、教え訓すなどという気持ちにはなれません。幼ないお客であればあるほど、ていねいに扱うべきだと考えるからです。
ですから、私はけんめいにお客を奉仕します。ご機嫌をとりむすぶために研究をします。そのお客に奉仕することが間違いなどと言ったら商売にはなりません。
もし子どもの読者を<お客>と考える態度は<無責任>だと言う人たちがいるとすれば、いったい、なんと考えたらいいのでしょうか。おそらく、その人たちは、読者である子どもたちを修養場へ来る修養者か、禅寺へ来る参禅者と思っているのかもしれません。
「本を読んだら、読みっぱなしはいけない」
「読みかけた本は、たとえつまらなくても、最後まで読みとおせ」
「姿勢を正して、静かに読もう」
「読んだからには、学んだことを記録に残そう……」
こうして、子どもが気楽に本を読むことをさまざまな言い方で禁じてしまうのです。
再三言うようですが、なぜつまらないものに最後まで、つき合わねばならないのでしょう。どうして、読みっぱなしにしてはいけないのでしょう。おもしろければ、子どもはなん度もくり返し読みます。これは、多分、自分たちの仲介する本が、初めから、子どもに受け入れられないと知っているのではないかと疑いたくもなります。
自分の料理の腕のまずさをたなあげにしておいて、この料理には、これこれの栄養素が入っている、もし万が一、その栄養素が欠けると、発育に、これこれこういう障害が出てくるぞ、とおどしをかけたり、この料理には、どこどこ産のなにが材料として使われている、その有難みのわからぬやつは、ふだん、下司なものしか食べていない証拠だなどと、居直る料理人がいたらどんなものでしょう。あげくの果てに、その料理を差し出すウエイターが、その料理を間違いなく食べた証拠に感想文というものを出せなどとわめきたてたりしたら、一体、だれがその料理を喜んで食べるというのでしょうか。
それとまったく同じことで、気むずかしい顔で食べる豪華な料理よりも、笑顔でとる粗食の方が、はるかに健康上有意義だと言います。
私は子どもが本を読むということは、きわめてプライベートなことだと考えたいのです。つまり一対一で、本を通じて作者と向かい合うことだからです。だから、読者の受けとり方次第で、アハハと笑おうと、クスンと笑おうと、それはすべて読者の自由なのです。みんながみんな同じように、フフフと笑わなければならないなどということはなにもないのです。そういう意味で、私はせめて、<訓育的>環境の息抜きにと、私の本にめぐり会う読者に、懸命に奉仕しようと思っているのです。
但し、私がここで「おもしろがらせる」と言っていることは、必ずしも笑いということだけではありません。スリリングな緊張も入ります。思わず涙することも入ります。登場人物に心から共鳴させることを「おもしろがらせる」と言っているのです。
もちろん、こうしたことを創作の信条としている作家を私はなん人も知っています。その人たちは、あえて私のように<児童読物作家>などと、変てこな肩書きをつけず、<児童文学者>ということにしていますが、私と同じ方向を別の道で歩いています。
ある作家は、とにかく「生きている人間」を描くことだと言っています。そして「人間というのはじつにおもしろく、汲めどもつきない興味がある」とも言っています。この作家は、それとなく<訓育派>の人たちが、人間ではなく、組織(集団)を描くことを皮肉っているのでしょう。
私は自分が物語の中で創造した人物が、より読者の身近な存在であるようにと考えます。そして創造された人物の生きざまに、読者が無関心ではいられなくなるように物語を構成しようと思います。そして、その一定のページ数の中で、作中の人物が経験したことが読者をひきつけることができるなら、それで私はこの上なく幸せです。
「おとなが子どもにかけるねがい」のさまざまな形が、さまざまな児童文学の分野を形成して、子どもの物語の本になっているのです。そこには、ときには、奇想天外なねがいもあるかも知れません。ずしりと身にこたえるようなねがいがあるかもしれません。
これだけの肥料を施したのだから、これだけの成長があるべきだといったことではなく、自然が日光を与え、雨を与えるように、なんの報いを求めず、たくさんのねがい、さまざまなねがいをかけられて育つ野の草のように育ってほしいと思うのです。
その意味で、子どもの本は消耗品であっていいと思います。たとえ一回かぎりのつきあいしかないくても、そのことに不服をとなえるべきではないと思います。子どもの成長とともに、忘れされあれることを悲しむべきではないと思うのです。
「あのとき、あんなにおもしろかったのに、いまみるとばかみたい」
そう言われることを恐れるべきではないと考えるのです。ある人が私と顔を会わせるたびごとに、「おまえの書くものはおもしろい。だが、名作として残るようなものを書けよ」と言うのですが、私は私が死んだあとのことまでおもんばかって、名作を書こうなんて気はありません。かりにもし、そう思ったとしても、そんなものが書けるわけがありません。名作として、残るか残らないかは読者が決めることであり、私が決めることではありません。私は今、生きている間、私にとって今生きている小さなお客様に奉仕するだけで精いっぱいです。私が死んだあとは、べつの料理人が奉仕すればいいのであって、先のことなど考えたくもありません。
それと同様に、おかあさん方は、今、子どもである人たちへ、その作家が作品というねがいにかえたものを、自分たちのねがいとして子どもたちに与えてほしいと思います。そして、それは自然の太陽の光のように、なに気なく、当然のこととして、愛する子どもたちの手に手渡してやってほしいのです。日照りが続きすぎても、雨が続きすぎても草木はいといます。それを調整するのが仲介人であるお母さん方です。もし、その芽が水を嫌ったら無理に雨を与えず、水を好んだら、無理に日に当てることはありません。
やがて子どもたちは、自分の読みたいと思うものを、自分たちの手で探し求めるようになるでしょう。そのときはもう、お母さん方はおいてきぼりを食わされてしまうのです。それまでの間、決して長いことではありません。
さて、最後に、この本をお読みいただいた方には無縁のことかと思いますが、現在、教職にある、私の古くからの友人がとてもおもしろい十か条をある雑誌に書いていますので、それをご紹介します。
読書ぎらいにする十か条
――これだけ実行すると子どもは本を読まなくなります――
1. 一時に大量に(本を)買い与えること。できれば、厚い全集物をそろえて机上に積んでやること。子どもは必ずツンドクをする。
2. 必ず「ためになる本ですよ」「あなたも、この本の中の人のようにりっぱなひとになってね」と道徳を押しつけること。
3. 読んだら必ず感想を書かせること。「読みっぱなしはいけません。書くのがいやなら、おかあさんに感想を離してごらん」と、強要すること。
4. 子どもの能力より少し程度の高い読み物を読ませること。さしえなどないもののほうがよい。
5. 「本を読め」と口うるさく言うこと。
6. 親はいっさい読書はせず、子どもにのみ読書をすすめること。
7. 「本を読むなら勉強しなさい」と、読書と勉強を切りはなすこと。
8. マンガ、雑誌類はいっさい禁止して、もっぱら良書のみ厳選して与えること。
9. 子どもの選択は許さず、いっさい親が与えること、。
10. 友達との本の交換などは禁止すること。
これは教職二十五年のベテランが言うのですから間違いはないようです。よく読むとわかりますが、要は親が<子どもの本ばなれ>をすることです。口に出したいのをじっとこらえてがまんの親になることです。もちろん、そうかといって、子どもの本への関心まで、閉じこめてしまえと言っているわけではありません。
さて、子どもの本の表側、裏側、そして中身とさまざまに探ってきました。あるいはこのことによって、子どもの本にかけておいでであった夢が破れてしまったかもしれません。けれども、裏側や中身に、そうしたいくつもの問題をかかえているにもかかわらず、きれいな色のついたケースに入っている本が、いかにもそうした夢につつまれて、鎮座していることの方がはるかにうす気味の悪いことです、
しかし、実際に子どもの本が政治活動の素材になってしまったり、道徳教育の教材になってしまったりしていることは、少しでも、子どもの本にかかわりを持つ人には、簡単にわかってしまうことです。そうした意味で、あらためて子どもの本を見直していただくことは、決して子どもの本そのものにとってはマイナスではないと考えます。「子どもの本に政治は無関係」と一般概念のベールを、そのままとりこんで、見えないところで政治的考慮や教育的考慮がはばをきかせているとしたら、子どもの本そのものは言うにおよばず、読者である子どもたちや、仲介者である親たちにとっても、不幸なことだと思います。
そして、現在、<子どもの本が大洪水>という現象はありますが、そうした現象だけで焦ることはなにもありません。そこからなにを取り出すかということさえ自分で判断できれば、この大洪水の量の増減は問題ではありません。もちろん、この状態がいつまでも続くものとは思えませんが、どんな状態になろうとも、基本的な問題は変りません。
そして、私も、その<子どもの本>の書き手の一人として、累々たる死屍の一つに入ることをいとうものではありません。日本の児童文学、児童読物の歴史はついこの間始まったばかりなのだということを、言いわけとしてではなく、誇りとして言える日が来ることを望んでいます。
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