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菅忠道は「児童文学のリアリズムの確立過程が民主的芸術的児童文学の沈滞期に、プロレタリア児童文学の解体にからむ生活主義童話を中枢に進められた。それは集団主義の強調として現れ、坪田譲治によって追及された『子どもらしさ』のリアリズムとは確かにちがっていた。集団主義は題名にも象徴されたほどである。」(『日本児童文学体系第四巻』解説)といっていますが、そのリアリズムは今見てきたような特色と共通した弱点をその内部にひそませていたわけです。
といっても以上のような弱点に当時の作家たちが少しも気づかなかったというわけではありませんでした。塚原健二郎は『集団主義童話の提唱』の中で、北川千代氏の『世界同盟』という作品を例にひいて次のようにいっています。
「例えば北川千代氏の『世界同盟』などは集団的な作品であるが甚だしく観念的である(作品のあらすじは略します)国と国とが同盟して仲よくなる――-などということは、凡そ現実の世界には求め得られないことである。国家と国家の関係を科学的に分析することなしに同盟したり、八百やの小僧と町の子どもとが漫然と仲よくなったり、こういう架空的な作品は児童に正しい物の観方を教えることが出来ない。此の作品の示す如く、ただ集団を取り扱ったというだけでは集団主義童話ということはできないこと無論である。」
『子どもの会議』の作者が二年あまり後でこのような批判的な態度にかわったことは楽しいことです。しかしぼくが更に注意したいのはこの批判に続いて集団主義的な作品とはどんなものかという二、三の例をあげたあとでかかれた次の文章です。
「この中に(「集団主義童話」)明日の児童文学の萌芽を発見するものは独り私のみではあるまい。何故なら斯くの如き童話のみが明日の児童と共にあるものであり、又取材の範囲も無限に拡大し得るしまだ日本で行なわれたことのない長編童話の如きもここから生まれるのではないかと思うからである。」
これは重要な示唆を含んだ発言です。「集団主義童話」の中に明日の児童文学の萌芽を発見し、長編童話への方向を望んだのは正しい認識であったといえます。たしかに「集団主義童話」の持つリアリズムが正当な発展を示していたとすれば、それは今日渇望されている長編のものにまでたどりつくべき性質のものであったはずなのです。そしてこのリアリズムの成立は少年小説への道を開拓し、その確立を現在にもたらしていたにちがいありません。
だがそのリアリズムは内面の弱さを崩壊したまま、戦争という時代の弾圧と相まって生活童話へと風化して行ったわけです。
それは現実を浅くすくったスケッチ風な作品や、現象面を無批判にカメラに写したような風俗的な作品にあらわれてきました。更には申し訳程度の抵抗を暗示的に匂わせながらお茶をにごしたものや、時代の流れにうまく乗ろうとしたもの、そして遂には小国民文化に積極的に迎合した御用文学にまで堕落したのです。
もちろんこのような傾斜の中にあっても、一部の良心的な作家は菅忠道の言葉をかりると「国策的主題を回避し、ヒューマニズムを支えとして現実の矛盾をとらえ、回想的な題材を描くことで消極的な芸術的抵抗」をおこなったことは事実です。でも児童文学の大勢は次第に時局の流れを濃く反映しつつあったこともまた否定することのできない事実でした。
このような生活童話への過程はプロレタリア児童文学の解体から「集団・生活主義童話」によって確立されようとしたリアリズムの風化を意味すると共に、また他面においては日本の「近代児童文学」の弱点を暴露したものといえます。
ぼくはさきにその崩壊の原因の一つとして「集団・生活主義童話」のリアリズムの弱さをあげました。
本来ヨーロッパに発生したリアリズムは理性と一般性を持つ思想を支えとして「社会」と「人間」をとらえるための技術であるといわれています。日本の児童文学において、このようなリアリズムが最初に確立されようとしたのは、昭和の初期に時代の要求によって出現したプロレタリア児童文学運動でありました。ところがこのプロレタリア児童文学は未明以来の伝統を克服しようとしながら、結果は未明童話の持つ方法の欠陥を間接的に証明したのみで、目的意識と観念性の強い実験文化としての価値を残して挫折したのです。この後で「集団・生活主義童話」がおこったのですが、それは当時の支配階級の弾圧に少しでも抵抗しようとする意欲を示しつつもやはりその提唱が思想的には一歩後退したところで行なわれたことは否めないことでした。いいかえれば、「集団・生活主義童話」が、提唱された時、すでに生活童話への道を前進し始めていたともいえるのです。「集団・生活主義童話」がかかげた理念はその方向において一応正しかったとはいえ、それはプロレタリア児童文学の持った思想的裏付け比較して脆弱であり、作家たちは、その思想的より所を失いつつあったのです。このために戦争の開始と共に弾圧が更に激しくなると、それは生活童話となって急速なテンポで崩れさったわけです。これらの思想的な基盤の弱さは「集団・生活主義童話」という名称の中の「主義」という言葉が抜けて「生活童話」となったことによく象徴されているようにぼくには思われます。このことについて菅忠道は「戦時中の児童文学の衰退は、戦争という外圧だけによるのではなく、児童文学者自身の問題にもかかわっている。」といっています。事実プロレタリア児童文学から「生活童話」への敗北の原因は、弾圧、戦争という外的条件と共に児童文学の内部つまりリアリズムの弱さと、作家の抵抗意識の低さの内的条件を考えなければ正当な評価は不可能だといえるでしょう。
こうして「生活童話」は小国民文化となるにつれて、やがて再び未明童話の伝統に吸収されて行くのです。それは「生活童話」の危機に「童話精神」の再認識が叫ばれたことによってもあきらかだとおもわれます。
塚原健二郎は『童話文学の整備のために』(一九四三年一月「小国民文化」)のなかで、
「童話の本質が、厳しい現実を根底として詩精神と寓話性と象徴性と、その上になお広い意味の教科性を持つものであるとしたら、そしてそれらの全部を含めたものがおおらかな童話精神であるとしたら、生活童話という言葉は何と貧相な骨ばった印象しか吾々に与えぬことであろうとかいています。この「童話精神」は、そのまま未明童話の本質です。このような主張が「生活童話」が否定された時期に、しかも「集団主義童話」を提唱した塚原健二郎によってなされたことは意味の深いことです。
最後にぼくが『集団主義童話の提唱』を読んで興味を抱いたもう一つのことは、この提唱がその当時の集団主義的な教育の精神にもとずいてきたということです。
この集団主義的な教育、あるいは生活主義教育というものが、どのような教育であったか、その詳しいことを資料がないために(ぼくの眼についた範囲では満足な説明をえることが出来なかった)知ることは出来ないのですが、その頃盛んであった生活綴方運動と密接な関連があったことは容易に推察出来ます。そしてその集団主義的な童話が「教育論叢」という雑誌を中心とした新しい作家によって早く発表されていたことは面白いことだとおもわれます。
この二つの事実は多くの示唆をその当時とかなりの共通的な面を持つ現在のぼくたちにあたえてくれます。
現在行なわれている生活綴方運動はその頃よりもはるかに広範囲に浸透し、前進していることはいうまでも有りません。その生活綴方教育によって新しいタイプの子どもと集団的な活動が生まれつつあります。それは文学教育によって更によく深く、より大きく進展されようとなされています。このような子どもたちに読まれる児童文学は当然、すぐれた新しいものでなければならないはずです。だが現実にはそれらの子どもたちにこたえるような作品は殆どまだ製作されていないというのが実状です。それを先ず果たすのは、生活綴方教育をやり、子どもたちの作品を読み、子ども達の姿をよく知っているぼくたちであったいいわけです。いやそうでなければいけないといえます。塚原健二郎も『集団主義童話の提唱』の一番終わりのところで「いかにして児童の生活を把握するか」についてこういっています。
「各作家が進んで児童の集団的な場面に接触しそこから現実生活を掴えてくること以外にない。又及ばないところはいろんな手段で実験報告や資料を集めるのも方法であろう。そして出来上がった作品ができるだけ多くの児童達の批判を取り入れて幾度もかき変えられるならばそれに越したことはないであろう。即ち、児童こそ児童文学の最も有力な批判家である筈なのだから-――。」
この言葉は今日もなお生々とした生命を持っています。しかし、ぼくたちは再び「生活童話」がたどった綴方リアリズムへの転落をくりかえしてはならないのです。

『集団主義童話の提唱』補遺
塚原健二郎は、『集団主義童話の提唱』の中で、正しい集団主義的な作品の例として、
「教育論叢には一年生の教室(柴田正)子猫の裁判(小泉礼一)掃除当番(小泉礼一)また児童問題研究には子どもの会裁判(太田哲一)」
の四編をあげています。
ところがぼくは先月ある図書館で、図書新聞をめくっていて、前期の四編の内の三編が槙本楠郎の作品であることを知りました。
昭和三十年七月三十日付の図書新聞に掲載された『日本児童文学大系』の書評の中で槙本楠郎はこういっています。
「塚原健二郎の『集団主義童話の提唱』の中に注目すべき作品四編をあげてあるが、あの中の三編は私が変名で発表し、のち改題したりして全部単行本に入れてある。当時塚原氏と私は親交の仲だったので私はある時期数種の変名で執筆せざるを得なかった。『解説』でそのような当時の事情を説明してほしい。」
ぼくは覚え書の中で槙本楠郎の『掃除当番』をとりあげたが、それは前記の作品掃除当番(小泉礼一)の内容と一致し、「小泉礼一」は槙本楠郎の変名であることがわかったのです。ぼくはこの二つの作品の内容があまりにもよくにているため、槙本楠郎文を読むまでは、どちらかが盗作したのではないかと考えていたほどです。それが同一人だと知った時妙な気持ちでした。
槙本楠郎もいっていますが、もし他にもこのような事例があるとすれば、正しい文学史の検討の上からも出来るだけ早い機会に適当な人によって明らかにされるべきだと思います。
(「はくぼく」7号、昭和二十七年七月掲載)
テキストファイル化青木禎子