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まずは、こけおどしに英文の引用からはじめます。 The story of Brotherhood Hall is a remarkable one. Treachery, plotting and intrigue, an uprising and a second mighty battle―these are just some of the ingredients. But there is also humour, a weird romance, and other truly strange events. Indeed, even the way the tale came to light is so peculiar that I feel it could only have happened to my dear but eccentric friend Cedric Willoughby. A journalist, broadcaster, and lover of ancient motor cars, he was driving perhaps his finest old machine on the annual London to Brighton Veteran Car Run ―an Armstrong Hardcastle Mouton Special Eight, the 1907 model. What a magnificent beast! It is brilliant red, with a vast plate-glass windscreen, four monstrous brass headlights, and distinctive bat-wing front mudguards. But it does - and this is important - suffer from one disadvantage peculiar to vehicles of its time: no roof. (Wild Wood, by Jan Needle,1981,Andre Deutch, pp.1-2) (組合本部の話ときたら実におどろくべきものだ。裏切り、策略、陰謀、蜂起、二度目の戦い―ちょっと挙げただけでもこのくらいある。しかし、愉快なことやおかしなロマンスもあり、じつに奇妙な出来事もある。じっさい、この話が明るみに出たいきさつからして相当かわっている。風変わりだけれど、私の親友のセドリック・ウィロビーだからこそ掘り出せたのだと思う。 彼は新聞記者兼キャスター、そしてクラシック・カー愛好者で、そのときはちょうど一九〇七年製のアームストロング・ハードキャッスル・モウトン・スペシャル8を運転して、ロンドン−ブライトン間のクラシツク・カー・レースに参加していた。この車が、まったくたいした代物だったね!車体は鮮やかな赤、分厚いフロントガラス、並外れて大きな真鋳のヘッドライトが四つ、前のどろよけが、コウモリのはねを広げたような独特の形をしていた。しかし―ここが大事なところなんだが―この時代の車特有の欠点はあった。屋根がついていなかったのさ。) これは、ある本の書き出しの部分なのですが、すでに読んでいる人は別として、こんな文章ではじまる物語がWind in the Willowsの政治的なparodyだとは、だれも気づかないでしょう。もっとも、引用の出所である本の題名がWild Woodだと知ったら、この二語はThe Wind in the Willowsの第三章'The Wild Wood'そのものであることがすぐにわかる人はいるかも知れません。では、もうすこし、枚数稼ぎのための拙訳の引用におつき合いください。 「このときのレースには、私は仕事の関係で、ウィロビーのナビゲーターになれなかった。彼には、これは不利な条件、どころかははっきり言えば絶望的な条件となった。なにしろ、彼ときたら、自宅の車庫かから車を出す間に道に迷うような男だった。その上、強い雨が降り続き、ロードマップが使い古しの吸い取り紙のようになってしまっていた。当然、ウィロビーは、レース仲間と一緒にブライトンに向けてA23をひたすら走るどころか、ロンドンと南岸地方の間の、どことも知れぬ脇道を一人驀進していた。 驀進という言葉はウィロビー自身がつかったのだが、まさにぴったりだったと思う。アームストロング・ハードキャスルの強力八気筒に、ベルメタルのマニフォルドとフォールディング・バフルプレートとなったら、抑えのきかない地獄の火を見るようなものだった。この車ときたら、手綱をゆるめようものなら、たちまち鼻息が荒くなる。排気管は真っ黒な煙と真っ赤な炎を交互にはきだす。ばかでかい四つのヘッドライトが前方の闇と雨をぎらぎら真っ白に照らし出す。思い切り加速されたエンジンは、耳障りな爆音を立てる―人の心に恐怖と興奮を吹き込む車だった。 事故は、文字どおり電光石火のうちにおこった。雷鳴とともに、ブレーキが悲鳴をあげ、クラクションが鳴り、アームストロング・ハードキャスルは、激しい金属音とともに一本の木にぶつかった。そして、すぐに、強く執拗に降り続く雨の音がすべてを包みこんでしまった。 ウィロビーが、フロントガラス越しに前を見ると壊れずについている二つのヘッドライトの光の中に、一人の男が身をちぢめてころがっていた。ウィロビーは、ゴーグルを額までもちあげて、車からとびおりた。男は、ひどく凹んでしまったバンパーからは、かなり離れたところに倒れていたので、ウィロビーは、首をひねってしまった。状態から判断するかぎり、男をひいたはずがない。ところが、目の前には、男が気を失って倒れている。…) まあ、こんな調子で話は始まります。倒れた男は、車と、それに乗っているウィロビーの服装に、ある男の亡霊が出たかとびっくり仰天し気絶しただけとわかります。そして、倒れていたこの老人が、一九〇七年におこった出来事を話してくれるのです。それこそが、巻頭に名前の出てくる「組合本部」、世間では「ヒキガエル屋敷」の名前の方でよりよく知られている邸宅をめぐっておこった不思議な物語―つまりThe Wind in the Willowsのparodyというわけです。 Jan Needleは、原作の主要な登場人物で、楽しい川辺の社会をつくっているMr. Toad, Water Rat, Mr. Badger, MoleたちをBankersと命名しています。つまりブルジョアジーです。 そして、原作の中で、雪の降る夜、Moleが迷い込んで恐ろしい目に遭うWild Woodの住人たち、イタチやテン達をWild Woodersと呼んでいます。彼らはプロレタリアートです。物語は、Wild Wooderたちが、大地主で大金持で横暴な自動車狂であるToadを中心としたBanker勢力を駆逐するために、入念な計画を立てるところからはじまります。彼らは、Bankerたちの象徴であるToad Hallを占領し、そこをBrotherhood Hallとして、プロレタリア政権を打ち立てます。しかし、彼らは寄り合い所帯なので、当然政見を異にしています。ある人たちは、Bankerの反撃にそなえて警戒を厳重にしていなくてはならないと主張します。別のグループは得られた現状に満足して、何もするつもりはなく、Bankerとの妥協の道を考えたりします。彼らの態度は、ほんとうに一九八〇年代初め頃のイギリスの政党―保守党、労働党、共産党などの主張や政治行動をじつに巧みに反映していました。 Wild Woodは、原作にある出来事全部、もちろん意味 の持たせ方などはちがっていたりしますが、とにかくそれを全部使って、原作よりはるかにスリリングな物語になっています。そして、きわめて風刺に富んでいます。 子どもの文学とparody Wild Woodを、私は政治的なパロデイと呼び、作者本人もそうだと言っていましたから、私達はこれをpolitical parodyと考えてさしつかえないでしょう。ところで、parodyはどのように定義されているのでしょう。研究社英米文学辞典の一九六一年版には「まじめな作品あるいは作家の思想やスタイルを模倣・戯画化してこれを嘲笑した文学作品をいう」とあります。一九六一年版は古すぎると思われる人がいるかもしれませんが、1991年版のペンギン版の文学用語・文学理論辞典にも、ほぼ同じことが書いてあるので、別にこういう事柄には新旧はあまりないと考えてよいのではと思います。しかし、子どもの文学で、ある作家の作品を滑稽にまねして、その作品を嘲笑するようなことが、出来るでしょうか。 大人の文学には、しばしばその例は見られました。近代小説の創始者の一人Samuel Richardsonが女性の美徳を書簡体で書いて広く読まれたPamelaは、彼のライバルといわれたHenry FieldingがJoseph Andrewsという作品でparodyしています。この場合、あきらかに嘲笑が感じられると思います。 子どもの文学にも、実例はあります。Lewis CarrollはAlice's Adventures in Wonderlandの中で、一八世紀の聖職者にして詩人だったIssac Wattsの子どものための教訓詩を滑稽な詩にかえています。たしかにお説教を茶化して無力にしているわけですから、嘲笑的とも感じられます。しかし、Wattsは一七四八年に亡くなっていますから、Carrollが嘲笑しても百年以上も昔の人の作品なのです。同時代の作家の評判作をparodyするのとはちがいます。それに、大人が書いたものを別の大人がparodyしても、読者が大人である場合は、問題点について、読者もはっきりと反応できます。しかし、子どもの文学の場合はふつう、大人同士のやりとりで読者はまずおきざりにされます。 子どもの文学でparodyが成り立つのは、古典ないしはそれに準ずる作品の場合ではないでしょうか。そういう作品は、みんなが知っているから、もじりをつくっても、みんなにわかつてもらえます。それに、皆に認められて読み続けられてきたものですから、それを嘲笑することはできません。必然的にparodyは、原作を素材にしてまったく新しいユーモアとナンセンス豊かな作品を創造することになるでしょう。 ニードルは、The Wind in the Willowsの愛読者で、Wild Woodを出版するにあたって、著作権者の了解を得たと言っていました。彼は、愛読する作品の魅力をそこなうことなく、人物や舞台を借りて、現代イギリスの政治状況をかなり鋭く風刺的につかんで表現した別の作品を創ったのだと思います。 しかし、ニードルが一九七〇年代のイギリスの政治状況をparodyで表現したくなる要因の一部は、グレアムの作品自体にあるのではないでしょうか。一九〇八年に世に出たこの作品には、変化する時代を映した現象がかなり見られました。まず、川遊びです。鉄道網が完備すると、それ以前の輸送の大動脈だった河川は役割を終えてレジャーに開放されました。だから、Mr. Toadはボートを漕いで登場するのです。新しいものにすぐとびつく彼は、次に自動車に熱中します。自動車もようやく日常生活の中に姿を見せはじめていました。馬車旅行、園遊会なども、この時期に盛んでした。飛行機が登場しないのがふしぎなくらいです。この作品には20世紀はじめの10年ほどがぎっしりつまっていた―だから、Robert Leeson(1928-)は、ヒキガエルやアナグマたちが、嵐の夜にヒキガエルの屋敷に侵入して、無断でそこを占拠していたイタチやテン達をぽかぽかなぐって追い出すシーンを、数年後におこった港湾労働者のストライキのとき、労働者たちに警官隊が襲いかかってなぐった事件に重ねて言及したりしたのでしょう。 単に、時代的特徴のある出来事や事物が話の中で取り上げられているというだけではなく、この作家のモチーフの中にも、社会との関わりの強い意識が在ったのではないかとも考えられます。彼自身、聖ジョージと竜の伝説のparodyと言える“Reluctant Dragon”を書いています。 話をJan Needleにもどしましょう。彼の紹介は、ふつう偏見の払拭をモチーフにしたAlbeson and the Germans(1977)からはじめて、現在のイギリスの学校における人種差別に焦点をあてたMy Mate Shofiq(1978)を分析し、続いてイギリス各地に見られるさまざまな段階での差別を扱った短編集、A Sense of Shame and Other Stories(1980)を語るなどであるべきでしょう。そして、こうした作品のほかに古典のparodyや、なんでも小さくしてしまう光線の発明をめぐるドタバタ喜劇調のThe Size Spies(1979)などの愉快な作品もあると付け加えるのがふつうなのでしょう。あえてひっくりかえしてみたのは、最良のparodyの大部分は、生来才能に恵まれた作家の手になるものであると、はじめの方で触れたペンギン版の辞典にもあるように、parodyは豊かな独創性のある作家のみに可能な形式だと思うからです。硬直した心と頭からは、真の意味のリアリズムは生まれてきません。 |
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