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たとえば次のような英文があるとする。
'Mary and I walked to the park'
翻訳学校なんかでこれを訳してみてというと、ほぼ全員が「メアリーとわたしはあの(いつもの)公園にいった」と訳す。するとぼくは得意げに、「いや、そうじゃないだろう」といって次のような訳例をあげる。
・わたしはメアリーといっしょにあの公園にいった。
・わたしはメアリーに連れられてあの公園にいった。
・わたしはメアリーを連れてあの公園にいった。
メアリーとわたしの関係によっていくつかに訳し分ける必要があるが、日本語の一人称というのは、こういうものだと思う。「メアリーとわたしは公園にいった」などという「日本語」はない……と思っていたし、そう教えてきた……が、ついこないだ、ちょっと待てよと考えてしまった。というのは、ちょうどいま『プリンセス・ダイアリーズ』という作品を訳しているのだが、これがまっことアメリカ的な現代娘(この表現自体むちゃくちゃレトロだが、これはわざと)の日記。で、共訳者の代田亜香子さんが、これをまっこと、ぶっ飛んだ若い文体で訳してきてくれた。それも体裁としては横書き(まあ、最近の若者は日記を書くとしたら横書きだと思うけど、『ブリジット・ジョーンズ』だってやっぱり日本では縦書きになってしまう)。現在、河出書房新社の編集者、田中さんが縦にするか横にするかで頭を抱えている。さあて、どちらになるんだろう。
それはさておき、ここで考えたのが、「英語じゃ、こういうふうにいうのよ」という翻訳のスタンスもあるんじゃないか、ということ。だから「メアリーとわたしはあの公園にいった」というのもいいのかもしれない。英語ではそういうんだから。それに、編集者によっては、日本語としてこなれすぎている訳文をみると「これ、ちがう」と思ってしまうこともあるらしい。これも翻訳家としては考えざるをえない問題だろう。
しかしこれをつきつめていくと、「なにが彼女をそうさせたか」とか「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」とかいった直訳体の訳文がどんどん出てくる。それでいいのか……いや、それは日本語の危機だろう……とまあ、こんなことを考え始めると、翻訳はにっちもさっちもいかなくなってしまう。
さて、犬飼先生というのは、本当に不思議な人で、興味の範囲が異常に広く、囲碁は玄人はだし、麻雀もかなりの腕、運動も山登りもOK、渓流釣りも好き(腕はぼくのほうが上)、浮世絵の蒐集百枚以上(?)、骨董いじり(これはぼくが師匠)、海外研究の期間はなぜか四川大学で二年ほど教鞭をとり、そのときに集めた中国画を集めて甲府で中国画展を開いたこともあり、ついでに四川省の成都に自費で日本文化研究所を設立(日本の書籍およびビデオが中心)。そういえば、この研究所用のビデオを集めているとき、本棚がすべて日本映画のビデオで埋まっていた。そして部屋に遊びにいくと、「金原君、・・・は見たかね?」ときかれて、「ええ、見たけど、すっごくつまんなかったです」というと、「いや、そんなはずはない。あれは面白いはずだ」という返事。「先生、見たんですか?」とたずねると、「いや、見てはいないけど、この日本映画の紹介本によると、星五つになっている」。どうやら星の数の多い作品から順番に買いそろえていったらしい。だから、ビデオ自体は見ていないものの、星の数だけは人一倍くわしかった。
それはともあれ、犬飼先生の特徴をひとことでいうと、すべて自分でやる……ということにつきると思う。すべてひとりでこつこつやっていくのがスタイルらしい。そして使えるところでは教え子を使って、いろんな人に紹介していく。よく口にする言葉は「ぼくをもっと使えばいいのに」
その犬飼先生が十五、六年まえに法政大学の国際シンポジウムで、「世界の中の児童文学と現実」という企画を立ち上げた。海外からピーター・カーター、オトフリート・プロイスラー、レオン・ガーフィールド、エリック・C・ホガード、キャサリン・パターソンを招き、日本からは神宮輝夫、猪熊葉子その他を招いての二日間にわたる児童文学シンポジウム。じつはこのほかにも上野僚、清水真砂子も予定に入っていたのだが、不幸な行き違いがあって、当日不参加(このいきさつ、内部事情を知っているわれわれとしては笑うしかないのだが、まあそのへんはそのうち)。このときの記録は、ぬぷん児童文学出版の本にまとめられているので、興味のある方はどうぞご一読を。ちなみに、ぼくはレオン・ガーフィールドの講演と分科会を担当。
そしてこのときもまた犬飼先生は、教え子と知り合いだけを中心に使ってこの企画をやってしまった。赤木幹子もぼくも、受付をやってたし、江戸学の大家になってしまった田中優子先生もレセプションその他でいろいろ協力してくださった。場所も法政の多摩キャンパスで、海外の作家たちはみんなそこの宿泊設備に泊まっていたので、その世話もすべてわれわれ……偉い先生がまわりにいなかったので、思う存分(英語力の許す限り)いろんな作家と話しもできたし……これはとてもいい想い出になっている。
海外の作家の案内も、結局われわれがやることになり、ぼくはプロイスラーとその娘さんを連れて、歌舞伎座の猿之助の公演に。同伴者は、翻訳家の久慈美貴さん。歌舞伎見物のあと興奮さめやらぬままライオンのビアホールで飲んでいると、プロイスラーがドイツのビール祭の話を始めて、テーブルに置いてあった紙ナプキンになにか描こうとした。横に座っていた久慈さんは、すかさず自分の手帳をとりだし、プロイスラーにいろんな絵を描いてもらっていた。いいなと横目でながめていたのをよく覚えている。
とにかくこの法政の国際シンポジウム、当時としては画期的な試みだったと思う。というわけで、ぼくもあと数年後には、こんな企画を立てたいと思っている。自分自身の夢でもあるし、ある意味での恩返しとして。
いま海外の作家を呼ぶとしたら、ウルフ・スタルク、フランチェスカ・リア・ブロック、ルイス・サッカー、パトリシア・マクラクランあたりを中心にしようかな(もし生きていればここにロバート・ウェストールが入ったんだけど)……とか、あれこれたまに考えている。
しかしまあ、かりに実現するとしてもちょっと先の話。とはいえ、こういうお祭りみたいな企画、絶対に楽しいと思う。
さて、先日、SF大会に呼ばれていってきた。評論家の三村美衣さんの司会で、児童文学のファンタジーの分科会。ゲストは上橋菜穂子さんとぼく。上橋さんは予想通り、とてもとても話の面白い文化人類学者。アボリジニの話なんか、三日か四日は話していられるんじゃないかと思う。
ちなみにこの分科会の時間に、うちの創作ゼミ出身の古橋秀之と秋山瑞人(ふたりとも電撃文庫の売れっ子)が分科会をやっていて、客の入りは、こちらのほうがわれわれのほうの二倍以上だったらしい。くやしいけど、とりあえず、めでたい。
で、SF大会のファンタジーの分科会で、「小説」って、なにが「小さい」でしょうね……という話題をふった。小説があるからには大説ってのもあるんでしょうか……とか。 で、その答えはちょっと長くなるので、こちらの「あとがき大全・第四回目」に掲載とかいっちゃったので、ここに書いておこう。ま、前回書いたイギリスの一八世紀、小説の発生とかなり関連してくることでもあるし。
小説の「小」というのは、「小人」の「小」。小人といっても「こびと」じゃなくて、「しょうじん」のほう。「小人閑居して不善を為す」ということわざの「小人」。この場合の小人というのは、一般庶民のこと。つまり小説というのは一般庶民の読むお話しというくらいの意味。昔ながらの言い方をすれば、「女子どもの読み物」(田嶋先生怒るだろうな) この「小説」という言葉、中国では早くも『漢書』に出てくる。そして中国でいえば、『西遊記』『三国志』『水滸伝』『金瓶梅』『聊斎志異』なんかがそれにあたる。おもしろい話、おかしい話、不思議な話……といったところかも。では小人ではない人々、つまり君主は何を読むかといえば、孔子、老子、孟子、韓非子、孫子……などなど。つまり天下国家を語る書物や兵法書を読むわけ。武士たるもの、黄表紙なんぞを読んではいけなかったのである。
さて、この「小説」という言葉、日本ではあまり使われていなかったが、明治以降やたらと登場することになる。坪内逍遙の『小説神髄』を読んでわかるように、いわゆる欧米の 'novel' を指して「小説」といったわけ。で、これは前回にも書いたように、イギリスをはじめとする欧米の国々における「近代の中産階級を中心に描いた作品」を表すのに、ある意味都合がよかったらしい。
われわれがよく口にする「小説」は、イギリスでは一八世紀に誕生するわけで、日本でも明治以降はじめて「近代小説(novel)」を表す言葉として定着する。そしてこの「小説」という概念を見事にゆさぶってみせたのがラテン・アメリカのマジック・リアリズム……という話は前回に書いたので省略。
さて、今回のあとがきは三つ。
最初はマクラクランの『明日の魔法使い』。昔、赤木幹子が電話をよこして、『のっぽのサラ』よりずっといいといったのがこの作品。なるほど、幹子らしいなと思ったことをよく覚えている。マクラクランからのメッセージには「わたしの書いたゆいいつのファンタジーです」とあるが、このあと『海の魔法使い』いう作品を書いている。『海の魔法使い』は、十年近くあちこちの出版社に持ちこんだのだが、なかなか引き受け手がなかった作品。作品そのものはとてもいいんだけど、絵本にするには長すぎて、読み物にするには短すぎるというのが難点。しかし昨年ようやく、あかね書房から出た。『のっぽのサラ』のときと同じように中村悦子さんの絵がたっぷり入っている。この作品、ファンタジーのアンソロジーに収められた一編なのだが、原書のほうはもう絶版。現在、おそらく世界中で日本でのみ入手可能な作品になった。
話はもとにもどるが、ぼくは幹子といささか意見が違って、やはり『サラ』のほうがいいと思う。それは、全体の構成と物語の作り方かな。作品そのものの出来としては、『サラ』のほうが上だろう。おそらくマクラクラン自身、『サラ』の完成度を越える作品はまだ書いていないような気がする。
次はウェストールの中編ふたつをおさめた本、『ブラッカムの爆撃機』。ウェストールの真骨頂は短編だと思う。だから自分としては『かかし』よりはこちらが好き。前回言及した『ブリッツ・キャット』にしても長編というよりは連作。だからおもしろい。そのうちウェストールの短編集を編みたいと思っている。
『ブラッカム』の翻訳にあたってはずいぶん戦闘機に詳しくなった。イギリスは日本と同じで資源にとぼしく、布張りの爆撃機のみならず、木製の戦闘機も作られたとか。あるいは燃料タンクがゴム製になったいきさつとか……とにかく、こういうのを調べていると楽しくてどんどん深入りしてしまう。チャスじゃないけど、戦闘機、軍艦、潜水艦、銃器などの話になると、妙に血が騒いでしまう。このあたりは女性と男性の違いなのかもしれない。だって銃器マニアとかって、圧倒的に男性が多い。最近女性の翻訳家がずいぶん多くなってきたけど、ハードボイルドなんかは、その手の話が好きな男性が訳したほうが絶対にいいと思う。
こないだも「その用心棒は尻のポケットから僧侶帽を取り出した」という誤訳にお目にかかった。用心棒がポケットから取り出したのはベレッタというピストル。男ならまずこんな誤訳はしない。たいがいベレッタくらいは知ってるはず。ついでにこの誤訳は編集も校閲も気がつかなかったらしい。
そういえば立教大学出身のミステリー作家、若竹七海もウェストールが好きらしく、ある作品のなかに「ブラッカム」という店が出てくる。
さて、最後はクリストファー・ホープの『ブラック・スワン』。あとがきのなかにも書いてあるが、ハッチンスンという出版社が企画した中編小説のシリーズのなかの一冊。ぼくはその十数冊の要約を頼まれて全部読んだのだが、そのうち一番衝撃的だったのがこれ。アラン・シリトー、ブライアン・オールディス(スピルバーグの駄作『AI』の原作者)、ルース・レンデル、フェイ・ウェルダン、J・D・バラードなど有名どころがずらっと並ぶなかで、ひときわ光っていた。そして編集者の中楚さんに頼んで訳させてもらったのがこれ。しかし『満たされぬ道』といい『ウルティマ、ぼくに大地の祝福を』といい、ほれこんで訳した本はたいがい売れない。なぜなんだろう。そういえば、来年早々ポプラから出る予定の『エルフギフト』『エルフキング』というダーク・ファンタジーの二部作(スーザン・プライスの新作)、まさにアンチ:ハリー・ポッター、これもすごくほれこんでいるんだけど……
『明日のまほうつかい』 訳者あとがき
小学生むきの短編や中編を書いている英米の作家のなかで、パトリシア・マクラクランはばつぐんにセンスのいい作家ではないでしょうか。ニューベリー賞を受賞した『のっぽのサラ』はいうまでもなく、まだ翻訳はないものの『キャシー・ビネガー』や『七回連続キス』や『はじめてアーサーって呼んでくれたね』など、どれも印象的な作品ばかりです。 なかでも『明日のまほうつかい』は、『のっぽのサラ』とはまたちがった味わいのある作品で、マクラクランのもうひとつの魅力にあふれています。
二年ほどまえ、いくつかの女子大の英語購読の授業でマクラクランの作品を使ったことがあります。前期は『のっぽのサラ』、後期は『明日のまほうつかい』を読んだのです。(そのころ、マクラクランの本はまだ一冊も訳されていませんでした。)
そして最後の授業のときに「どちらがおもしろかったか、感想をそえて書きなさい」というアンケートをとったところ、なんと九十パーセントの学生が『明日のまほうつかい』をあげました。これはショックでした。まったく逆を予想していたのですから。
学生たちのおよその感想をまとめてみると「ユーモラスで、かわいくて、ほのぼのとした楽しさのある、とってもすてきなお話。さし絵もばつぐん!」といったところです。
そこで考えてみたのですが、『のっぽのサラ』はどちらかというと人生経験の豊富な大人が読んでおもしろい、しみじみとした味わいの本なのではないでしょうか。それにたいして、『明日のまほうつかい』のほうはユーモラスで、どちらかというとあらけずりなのですが、のびのびとした気持ちのいい物語になっています。それに、明日のまほうつかいとマードックと馬の三人(?)のなんとも魅力的なこと!
またこの作品のなかのエピソードのいくつかが、昔ながらのお話のパターンにはまっていないのもおもしろいと思います。たとえばジニーバの話なんか、「えっ、これでいいの?」と首をかしげた人もいるのではないでしょうか。エリックがみたのはほんとうに、ねん土の鼻をつけていないジニーバだったのでしょうか。マクラクランらしい、ひねった落ちのつけかたです。「かんぺきなバイオリン」の落ちも、かなりひねってあります。それに最後の、明日のまほうつかいと大まほうつかいの話だって、なかなかふくみのあるしめくくりになっているではありませんか。
それから、キャシー・ジャコビのさし絵も、この本の大きな魅力のひとつだということはいうまでもありません。そう、「さし絵もばつぐん!」です。
なお最後になりましたが、この作品のすばらしさを訳者以上に理解してくれた編集の米田佳代子さんに、心からの感謝を。 一九八九年九月二十五日 金原瑞人
(関連書評が「児童文学書評」に2編)
『ブラッカムの爆撃機』 訳者あとがき
英米の児童文学やヤングアダルト向けの本を読んでいて思うのは、なんといっても層が厚いということだ。質の高さもさることながら、ジャンルとしての幅もずっと広く、短編集もかなりの数にのぼる。それもかなりすぐれたものが多い。ぼくが児童文学の翻訳をはじめて、まず思ったのは、いい短編を紹介したいということだった。ところが日本のほとんどの児童書の出版社は、短編集といっただけで、取りあってくれない。売れないというのがその理由だ。もちろん一般書にもこの傾向はあって、数年まえまではやはり短編集の翻訳はあまりでなかった(このところ次第に訳されはじめてきている)。児童文学の場合、それに加えて、短編集は課題図書にならないという問題がある(やれやれ)。
そんなわけで、短編好きのぼくは出版社に断られるたびに、酒を飲んでうさを晴らした。いい短編がごろごろしてるというのに。
とくにロバート・ウェストールの短編はすごいのだ!
ロアルド・ダール、スタンリー・エリン、レイ・ブラッドベリ、シャーリー・ジャクスン、サキ、といった名だたる短編作家を相手にまわして、いささかもひけをとらない。いや、それ以上かもしれない。
ところが昨年、福武書店からOKがでた。まあ、それほどいうなら、『かかし』もかなり売れているから、出してみましょうかということらしい。
かくしてついにウェストールの短編集、その第一冊目がでたわけである(第一冊目と書いたのは、もちろん、次つぎに出るであろうという予測と期待をこめてのことだ)。
『かかし』が、とくにヤングアダルトによく読まれている。訳者にとって、とてもうれしいことだ。だが、ウェストールの最も完成度の高い作品は、この本におさめられた『チャス・マッギルの幽霊』ではないだろうか。第二次世界大戦を舞台にしたタイムスリップものだが、雰囲気といい、迫力といい、歯切れのいいユーモアといい、後半に流れる悲しくやりきれない雰囲気といい、それをきれいにひっくりかえすエンディングのみごとさといい、短編のお手本のような作品だ。
『チャス・マッギルの幽霊』、これこそウェストールなのだ!
内容については、それ以上なにもいわない。とにかく読んでみてほしい。
とはいえ、この作品を取り巻く背景についてだけは話しておいたほうがいいだろう。主人公は、『機関銃要塞の少年たち』の主人公チャスである。チャスの父親は一九三八年にイギリス空軍に入隊するのだが、三九年の冬、扁平足という理由で除隊になり、四〇~四一年の空襲の期間は家で過ごすことになる。そして世界はどうなっていたかというと、一九三九年の九月一日、ヒットラーがポーランド侵入を開始し、イギリスとフランスは同三日、ドイツに宣戦布告をしている。この九月三日が日曜日で、つまり『チャス・マッギルの幽霊』のはじまりの日というわけだ。
『ブラッカムの爆撃機』に移ろう。これも短編の名手ウェストールの面目躍如の作品だ。とくに真ん中あたりの、燃えるドイツ機の鬼気迫る描写はすごいし、それにやはりシェパード犬の扱いがにくいほどよくきまっている。ぼくの大好きな作品だ。
さて、一九四〇年六月二十二日、フランスを降伏させたドイツは、イギリス本土侵攻をくわだてるが、なにしろ陸軍、空軍が強力なわりに海軍力が弱いため、まず制空権を握ろうと、空から大々的な攻撃をかけることになる。これが同年八月。そしてイギリスは総力をあげて、それを阻止しようとした。いわゆる「大英戦争」(「バトル・オブ・ブリテン」)という、ドイツ対イギリスの大規模にして熾烈な空中戦が繰り広げられることになる。結局これはドイツの惨敗に終わる。理由は、根本的な作戦の誤りというのが、大方の軍事評論家の意見だ(百三ページ参照)。
このあと戦況がよくなるにつれてイギリスはドイツ爆撃に入り、そのときに出かけていったのがランカスター爆撃機やウェリントン爆撃機。ついでにいっておくと、ユンカースについているシュレーゲ・ムジークという機銃は、普通はコックピットから斜め後方につきだしている。これだとパイロットのディーターが撃てるはずがないので、作者にきいてみたところ、斜め前方に突き出ているものがあるのだそうだ(戦闘機や爆撃機に備えつけてある銃器は、口径の大小によって機関銃と機関砲とにわかれるのだが、煩雑なので、一括して機関銃あるいは機銃と訳しておいた)。
その他、書けばきりがないのだが、予備知識などなくても十分に楽しめる作品なので、まずはこれくらいにしておく。やわな児童文学など吹きとばすくらい重量感のあるウェストールの短編、存分に楽しんでいただきたい。
最後になりましたが、この本を訳すにあたっては、多くの資料と、そしてなにより多くの方々のお世話になった(これを人海戦術というのだろう)。『チャス・マッギルの幽霊』は斉藤倫子さんに、『ブラッカムの爆撃機』は石原万里さんに原文との付き合わせをお願いしたし、軍用機の資料については因埜信子さんに協力していただいたし、戦時中のことにかんしては夜遅く、山崎長雄さんに電話で色々と教えていただいたし、ジョン・マイルズさんにはわざわざ原文を読み直していただいたし、締切まぎわには作者に電話でいくつかの質問に答えていただいたし、さらに編集の上村令さんにはいつもながらすべてにわたり大変お世話になった。みなさんに心からの感謝を! 一九九〇年六月十三日 金原瑞人
(関連書評が「児童文学書評」1編)
『ブラック・スワン』 訳者あとがき
クリストファー・ホープは一九四四年、南アフリカのヨハネスブルグで生まれ、七五年にイギリスに移っている。作品が日本に紹介されるのはこれがはじめてだが、現在イギリスを代表する作家のひとりであり、ウィットブレッド賞をとった『クルーガーズ・アルプ』をはじめ、『ホッテントット・ルーム』や最新作『マイ・チョコレート・レディーマー』などいくつかの長編小説で高い評価を受けている。これらの作品はすべて、なんらかの形で生まれ故郷のアフリカを扱ったものばかりで、どれもがリアリスティックな描写と幻想的なイメージが交錯するユニークな文体に痛烈な風刺がこめられている。
たとえば「南アフリカの過去と現在と未来の夢、それも黙示録的な夢である」(ガーディアン紙)、「ホープのとどまることを知らない怒りはまさにスウィフトを連想させる」(ニューヨーク・タイムズ紙)といった言葉は『クルーガーズ・アルプ』の書評から引用したものだが、これらはそのままほかの作品にもあてはまる。また「リリカルなイメージのちりばめられた詩的ファルス」といってもいいかもしれない。
そもそもホープは詩人としてデビューしており、処女詩集は七四年の『ケイプ・ドライヴズ』である。詩集としてはこのほかに『ブラック・ピッグの国にて』がある。
また子ども向けの絵本も二冊出している。一冊は『ピンクのチョッキを着たドラゴン』、もう一冊は『王様と猫とバイオリン』で、こちらのほうは世界的に有名なバイオリニストであるメニューインが協力している。
とまあ多岐にわたる活躍をしているイギリスの現代作家なのである。
こんなふうに書くと、ずっと以前からホープの作品を読んできたような印象を与えるかもしれないが、残念ながらホープとの出会いは一年前、この『ブラック・スワン』がはじめてだった。いってみれば一目ぼれといったところだろう。ちょうどその頃イギリスのハッチンスンという出版社から中編小説のシリーズがでていた。なかなか面白い企画で、アラン・シリトー、マルカム・ブラッドベリといった純文学の長老格から、SF作家のブライアン・オールディス、ミステリー作家のルース・レンデル、ニュージーランド生まれニュージーランド育ちのフェイ・ウェルダン、南アフリカ生まれ南アフリカ育ちのホープといった、とにかく現代イギリスで活躍している様々な作家に中編小説を依頼し、それに挿絵をつけて出版するというものだった。このシリーズ、予想以上の評判を呼び、すぐにペーパーバッグになっているし、作品数もすでに十冊を超えている。最近のものではスピルバーグ監督で映画化された『太陽の帝国』の原作者J・G・バラードの『ラニング・ワイルド』がやはりこのシリーズから出て評判になっている。
このハッチンスンの中編シリーズ、どれもそれぞれに味があり、結局出ている分はすべて読んでしまった。そしてそのなかで妙に気になったのが、フェイ・ウェルダンとクリストファー・ホープだった。
なにが気になったのかはっきりとはいえないのだが、カート・ヴォネガットやジュマーク・ハイウォーターやガルシア・マルケスの作品にはじめて出会ったときの気持ちとでもいったらいいだろうか。ひどく斬新で新鮮なのに、なつかしいような感じといったらいいだろうか。とにかく妙な気持ちだった。
その気持ちは、この『ブラック・スワン』を訳し終えたあとでもそのままである。
この作品は南アフリカを舞台にしているが、いわゆるアパルトヘイト反対を訴えた作品ではない。もちろんアパルトヘイトや南アフリカ政府に対する(そして日本に対する)辛辣な風刺はあちこちにみられるものの、作品自体はリアリスティックでかつファンタスティックな、それだけで独立したユニークな世界となっている。この世界のなかで主人公ラッキーと、ドイツからやってきた女教師イルゼの悲喜劇が交錯していくのだが、ふたりの悲しくて切なくて恐ろしい運命を中心にしたこの作品で作者が描きたかったものは何だったのか、いや、この作品そのものが作者にとって何だったのか、つい問いたい気持ちになってしまう。
もちろん作者に質問したところで納得がいくはずのないことはわかっているし、どんな答えをだれからもらおうが納得できないこともわかっている。しかし問いかけないではいられない。そんな快い苛立ちを誘う何かが、この作品にはあるらしい。それはホープのほかの作品についてもいえることである。
この作品はイギリスやアメリカで、多くの書評に取り上げられた。そしてほとんどの書評子はこの作品のラストを「想像力の勝利」といった感じで受け取っているのだが、さて、どんなものだろう。
作品中の訳語について、’township’は「黒人街」と訳すのが普通だが、ここでは「黒人町」と訳し、’white-city’を「白人街」と訳しておいた。
また最後になりましたが、絶対にこの作品を訳したいというわがままをそのまま通してくださった編集の中楚さんと、本文中の不明箇所に対する質問の答えを締め切り間際にファックスで送ってくださったクリストファー・ホープ氏に心からの感謝を。 一九八九年一一月二三日 金原瑞人
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