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一 予定変更 前回予告していたようにパトリシア・マクラクランの『海の魔法使い』のあとがきから始めるつもりだったんだけど、予定変更であります。というのも、こないだ翻訳者の久慈美貴さんに「『海の魔法使い』(あかね書房)と『青い馬の少年』(アスラン書房)、どちらもとても好きなんだけど、考えてみたら、二冊とも『名づけ』の話なのよね」といわれ、そういえばそうだなと思い、あとがきの内容をもう一度練り直すことにしたので。 というわけで、名前、名づけ、といったことを考えながら次回、この二冊を取り上げようと思います。けっこうこのテーマ好きです。それに両方ともあとがきがついてないし。 それじゃあ何にしようと考えて、アメリカ・インディアン作家シャーマン・アレクシーにすることにしました。児童書の作家じゃないから、このコーナーには合わないかもしれません。一般書には興味ないし、ましてアメリカ・インディアン作家なんて、もっと興味ないという方もいらっしゃるでしょう。また『リトル・トリー』のようなほのぼのした癒し系のインディアン物ならともかく、現代の生のインディアンの話なんかききたくないという方もいらっしゃるでしょう。そういう方は、どうぞ今回はこのコーナー、パスしてください。 現在のところ、日本では『リザベーション・ブルース』『インディアン・キラー』『ローン・レンジャーとトント、天国で殴り合う』の三冊の翻訳が出ていますが、そのうちの『インディアン・キラー』は大場正明さんがあとがきを書いてくださっているので、はずします。あとがきとは全く関係ないんだけど、『インディアン・キラー』の装幀、「ダヴィンチ」の装丁大賞に選ばれてます。これもまた全く関係ないんだけど、ぼくの訳した本はどれもいい表紙、いい装幀に恵まれていて、このほかにも『エンジェル・フアン』『ゼブラ』などが、装丁の賞に選ばれてます。 というわけで、まずは、現在のアメリカで最も攻撃的で最も新鮮なインディアン小説を書いているシャーマン・アレクシーの作品ふたつのあとがきを。 二 あとがき 訳者あとがき(『リザベーション・ブルース』) ブライアン〈ジョーンズ)がそれをかけてくれたんだけど、とにかくびっくり仰天だった。ブライアンに「誰なんだい」って訊いたら、「ロバート・ジョンスンだよ」って言うんだ。それで、「うん、だけど一緒に弾いているやつは誰なんだい」っておれは訊いてしまった。二本のギターが聞こえてね。〈キース・リチャーズ) 相手がロバート・ジョンスンのことを知らなかったら、そいつとは口をきかない。二十五歳になるまでは、ほとんどそんな感じだったね。(エリック・クラブトン) 「ロバート・ジョンスン/コンプリート・レコーディングズ」の解説より 十字路で悪魔に魂を売り、人間技とは思えないほどの天才釣なギターを弾くようになったものの、わずか二十九曲の録音を残して一九三八年に毒殺されたと伝えられている不世出のブルースマン、ロバート・ジョンスン。しかし彼は死んでいなかった。一九九二年、ワシントン州にあるスボーカン族のリザベーシヨンに忽然と姿を現す。ベニー・グッドマン・楽団の面々もエルヴィス・プレスリーもジミ・へンドリックスもジャニス・ジョップリンもみんな教えをこいにきたというビッグ・ママに救いを求めて。 こうしてロバート・ジョンスンの手を離れた悪魔のギターはスボーカン族のはみだし連中の手に渡り、オールインディアンによるブルース&ロックンロール・バンド「コヨーテ・スプリングズ」が誕生する。 無職でアル中にして根っからの悪ガキ、ヴイクター、いつもヴイクターの面倒をみているジュニア、そして主人公ともいうべきスボーカン族の語り部〈といっても、だれにも耳を傾けてもらえない)トマス。三人はそろってすでに三十歳を越えている。それにフラット・インディアンの美女ふたりが加わり、「ココーテ。スプリングズ」は紆余曲折を経ながらもスターデビューへの道を駆け登ろうとするが…… 何冊かの詩集を出したのち、短篇集『ローン・レンジャーとトント、天国で戦う』The Lone Ranger and Tonto Fistfight in HeavenでPENヘミングウェイ賞の候補になつたシャーマン・アレクシーの初の長篇小説を簡単に紹介するとこんなところだろうか。 この作品、出版と同時にアメリカのみならずイギリスでも大きな反響を呼び、アレクシーは現代アメリカを代表する作家のひとりになってしまつた。実際、このあとがきを書くのに参考にしたいからといつてエージェントにアメリカで出た書評をまとめて送ってくれといったら、一冊の本ができるくらい分厚いコピーが届いた。 そのうちからいくつか紹介してみよう。 ・過去からの亡霊が、それも歴史的な亡霊と個人的な亡霊がいっしょになってバンドの面々を襲い、過去に引きずりもどそうとしたかと思うと、未来へ押しやろうとする……。アレクシーのユーモアは、ときに楽しく、ときに辛辣で、そこにこめられたアメリカ社会への強烈な批判精神は決して鈍ることはない。(コマーシャル・アピール/ジェイスン・R・テレル) ・アレクシーのプロットは魔法使い顔負けである……歌や詩を使つたインディアンの伝統的な語りに、歌と詩と夢とヴィジョンと新聞の切り抜きとカリスマ的な登場人物とファウスト伝説に似た伝説とばかばかしいくらいにおかしい場面……こういつたものすべてが一体となつて驚くべき効果をあげている。(プルームズベリ・レヴユー/アビゲイル・デイヴィス) ・シャーマン。アレクシーは『リザベーション・ブルース』において、鮮烈な物語を紡ぎあげた。この作品はファンタジーと悲しみの間の細い線の上を歩いていく。〈ダルース・ニューズ。トリビューン/クレイグ・リンカン) ・このシュールリアリスティックで不条理な『リザベーション。ブルース』に不必要なものはなにひとつ入っていない。〈ハイタイムズ/ジョン・サヴロフ〉 ・インディアンの伝説やインディアン的な想像力の理解、それに加えてアメリカのポップカルチャーヘの深い造詣、そして幻想的な文章、これらが『リザベーション・ブルース』をエネルギーに満ちた作品に仕上げている。まさに群れて早原を疾走する野生馬の魔法に満ちた作品といっていい。(オーステイン・クロニクル/ジェシー・サブレット) ・「希望」は、アメリカ・インディアンのリザベーションの入り口でまたたくまに消えてしまう。しかし「夢」はそこでも図太く生き残る……『リザベーション・ブルース』は味わい深い小説で、ユーモアと限りない悲しみに満ちている。これこそまさにリザベーションでの生活にほかならない。(ノースウエスト・ヘラルド/グレッグ・モラーゴ) ・シャーマン・アレクシーが絶妙のコードをかき鳴らすとき、まさに名人芸としかいいようのない響きが生まれる。そしてそのとき、『リザベーション。ブルース』のなかで響いているのは「虐殺はまだ終わっていない」というメッセージだ。文化的同化はいまでもなお、読者のすぐそばにあるインデイアン・リザベーションの裏庭で続いているのだ。そこでは何を選ぼうとすべてが絶望につながってしまう。部族を維持するためにリザベーションにとどまって飢えるか、それともドブネズミのような白人の社会に入っていくか……(ストレンジャー/ライラ・ウォレス・グラント〉 現代インディアンの語り手でありトリックスターでもあるシャーマン・アレクシーは、途方もない大風呂敷を広げてとんでもない物語をでっちあげ、巧みに読者を引きつけては、足元をすくう。この現代の物語に秘められているのは、インディアンに対して臆面もなく「虐殺」と「搾取」を続ける白人社会への怒りであり、なすすべもなく立ちつくし同族内で憎しみ合うインディアンへの憤懣であり……そしてそういった状況から必死にはいだそうともがくインディアンへの深い共感である。しかしアレクシーはそういった気持をあからさまに吐露するようなことはしない。インディアンのトリツクスターであるコヨーテよろしく、おおらかなユーモアと、辛辣なウイットでもって笑い飛ばし、現代文学の手法を駆使して幾層にも重なつた物語を紡ぎあげ、過去と現在を巧みにコラージュしてみせ(たとえばキャヴァルリー・レコードのフィル・シェリダンはインディアンとの戦いで先頭に立つた十九世紀の将軍でもある)、要所要所にマジックリアリズムの手法を織り交ぜていく。こうしてできあがつた『リザベーション・ブルース』は、たまらなくおかしく、たまらなく悲しく、たまらなく切ない現代の叙情詩といってもいいだろう。そして読んでいくうちに、アレクシーの描くインディアンのリザベーションは次第に現代社会そのものと重なり、そこで苦闘する「コヨーテ・スプリングズ」の面々はわれわれの姿と重なっていく。 もうひとつ忘れてならないのは、アレクシーの場合、短篇長篇にかかわらず、現代的なテーマを現代的な手法で描きながらも、つねにエンタテインメントといっていいほど読みゃすくおもしろい作品に仕立て上げることだろう。『リザべーション・ブルース』も第一章を読み出したらもう最後まで一気に走り抜けるしかない。そのうまさとスピード感、これこそアレクシーの持ち味だと思う。 どうぞ、アメリカ現代文学の異端児、シャーマン・"コヨーテ"・アレクシーの作品、ぞんぶんに楽しんで下さい。 なお最後になりましたが、アレクシーの作品を高く評価して訳す機会を与えてくださつた編集者の山村朋子さん、翻訳に協力してくださつた小川美紀さん、原文とのつきあわせをしてくださった斎藤倫子さんコ心からの感謝を! 一九九八年十月十三日 金原瑞人 訳者あとがき(『ローン・レンジャーとトント、天国で殴り合う』) アメリカ映画もこの十年ほどでずいぶん変わってきたと思う。派手にその先頭を切ったのはおそらくスパイク・リーだろうか。「ドゥ・ザ・ライト・シング」「モ・ベター・ブルース」から「ラスト・ゲーム」までまさに黒人映画を撮り続け、それまでの〃黒人映画〃の概念を見事にくつがえしてくれた。「ハリウッドのあれは、〃黒人映画"じゃない。〃黒人が出てくる映画"だ」といったのはだれだっけ? そのほかにもチカノ(メキシコ系)のグレゴリー・ナヴァ監督による映画「ミ・ファミリア」(これが公開されたとき、ろくに評価しなかった〔おそらく観もしなかった〕日本の映画批評家たちに呪いあれ)、中国系のチン・ウォンスク監督による「ジョイ・ラック・クラブ」、韓国系のウェイン・ワン監督による「ニューヨーク・デイドリーム」などなど。アメリカ映画もやっと変わってきたなと思う。 そしてついにクリス・エア監督の「スモーク・シグナルズ」。アメリカで、いや世界で初めてのアメリカ・インディアン原作・脚本・監督・主演・助演のインディアン映画の登場である。 これはアメリカで大きな話題を呼び、九八年のサンダンス映画祭で観客賞と映像作家トロフィー賞をダブル受賞し、第十一回東京国際映画祭にも出品された。 スパイク・リーが一貫して現代の黒人に焦点を当てて映画を撮るのと同じように、新進気鋭のクリス・エアは現代のアメリカ・インディアンを、ときに辛辣に、ときに温かく、ときに美しく、そして感動的に撮ってくれた。 この原作となったのがシャーマン・アレクシーの『ローン・レンジャーとトント、天国で殴り合う』のなかの「アリゾナ州フェニックスってのは」およびその他いくつかの短篇と、『リザペーション・ブルース』のなかのエピソードである。もちろん脚本もシャーマン・アレクシーが担当していて、これもアメリカで出版されている。 日本では『リザベーション・ブルース』が最初に出版されたが、アレクシーは九一年から詩集を発表し続けながら(現在までに八冊)、この短篇集『ローン。レンジャー……』でフィクション・デビュー。それから長篇『リザベーション・ブルース』『インディアン・キラー』(いずれも小社刊)と続く。詩人としての評価も高かったが、この三冊のフィクションで一気に、現代アメリカ・インディアン文学を、いや現代アメリカ文学を代表するひとりになってしまった。 雰囲気的には、『リザベーション・ブルース』の快くユーモアとウィットのきいた切ない物語が、ウォン・カーウァイでいえば「恋する惑星」か「天使の涙」だとすれば、この『ローン・レンジャー……』は「欲望の翼」というところだろうか。ユーモアもウィットもあるが、色調はいささか渋くて、いささか攻撃的でちょっと投げやりで多少アナーキー。ほとんどがワシントン州にあるスポーカン族のリザベーションを舞台にした作品ばかりだが、現代のインディアンの置かれた厳しい状況を反映した暗い作品もあれば、そのなかで必死に生きていくインディアンたちの心温まる物語もあれば、絶望と苦境からなんとかはいあがっていく物語もあれば、近未来SF風の実験小説もある。そうそう無鉄砲な若書きの雰囲気は、カーウァイのデビュー作「いますぐ抱きしめたい・香港チンビラストーリー」にも似ているかもしれない。のちに『リザベーション・ブルース』や『インディアン・キラー』に発展していく要素はあちこちに見られるけど、もっと初々しく新鮮で荒削りな魅力がこの短篇集にはある。 これが出版されたとき、アメリカでは驚くほどの反応があった。というのも、もちろんそれまでにスコット・ママディ、レスリー・マーモン・シルコー、ジェラルド・ヴァィズナーといったアメリカ・インディアン作家が意欲的な作品を発表していたにもかかわらず、インディアンといえば、やはり『ブラック・エルクは語る』『ドン・ファンの教え』『リトル・トリー』といった作品に象徴されるような、素朴で、神秘的で、ファンタスティックで、癒しと安らぎを与えてくれる「高貴な野蛮人」という認識が強かったからだろう。そういった見方に対して、アレクシーは真っ向から「ノー!」といい、その一方であちこちにインディアン的な物語とユーモアを仕掛けて、読者の足をすくってしまう。レスリー・マーモン・シルコーは、「おかしくて、笑って笑って、最後まで一気に読み通しちゃった」といっているし、「スモーク・シグナルズ」の監督クリス・エアも東京映画祭のとき、インタヴューにこたえて、「インディアンが観ると、最初から最後まで笑い通しなんだ」といっていた。 さて、白人や日本人が「スモーク・シグナルズ」を観たり『ローン・レンジャー……』を読んだりして、どこまで笑い通せるかはよくわからないが、そこに通底している「絶望」と背中合わせの「笑い」を秘めた「物語」のすばらしさはしっかり伝わってくると思う。 悲劇と貧困と絶望を生きる糧に変えるのは「物語」であり、「想像力」なんだと思う。 「想像力は死んだ、想像せよ」とは、サミュエル・ベケットの名言。 そう、『リザべーション・ブルース』のあとがきでも書いたが、現代のアメリカ・インディアンの置かれている絶望的な状況はまさに現代そのものだと思う。われらの絶望を生き延びる道は「物語」であり、それを支えるのは「想像力」なのだ。それと「笑い」かな。 「親父がいつも「おれはウッドストックで……」という短篇のタイトルについて一言書き添えておくと、ジミ・へンドリックスがウッドストックで演奏したのは〈星条旗よ永遠なれ〉ではなく、アメリカの国歌〈星条旗〉。映画の字幕、いくつかの辞書、レコードやCDの解説でこのふたつを混同している例が多く見られるが、早く改めてほしいと思う。ちなみに〈星条旗よ永遠なれ〉は〃マーチ王"と呼ばれたジョン・フィリップ・スーザの行進曲である。 もう一点、この短篇集の主要登場人物である、トマス、ジュニア、ヴィクターの三人は、『リザべーション・ブルース』にも登場しているが、そこでの設定とは微妙に食いちがっている。 なお最後になりましたが、日本でどんな評価を与えられるかまるで見当のつかないアレクシーの良さを理解して三冊丸ごと翻訳をまかせてくださつた編集の山村朋子さん、『リザベーション・ブルース』『インディアン・キラー』で翻訳の手助けをしてくださり今回は共訳者として活躍してくださった小川美紀さん、短期間で原文とのつきあわせをしてくださった斎藤倫子さん、たくさんの質問に丁寧に答えてくださった作者と、その取り次ぎをしてくださったクリスティに心からの感謝を! 一九九九年二月十日 金原瑞人 三 シャーマン・アレクシーの紹介(ちょっと長いです) シャーマン・アレクシー論 シャーマン・アレクシー(Sherman Alexie):一九六六年生まれ。ワシントン州スポーカンの近くにあるウェルピニットのリザベーションで生まれ育つ。スポーカン族とクール・ダレーヌ族の血を引くインディアン作家・詩人。二00一年四月現在、八冊の詩集、二冊の長編小説、二冊の短編集を出している。 1 『インディアン・キラー』 シャーマン・アレクシーは、一九九六年に出版された『インディアン・キラー』(Indian Killer)で、アメリカ現代文学という大舞台に躍り出た。アメリカの文学界が、アメリカ・インディアン作家をこれほど熱狂的に迎えたのは、スコット・ママデイが一九六九年にピューリッツァー賞を受賞したとき以来かもしれない。もちろん、レスリー・マーモン・シルコー、ジェイムズ・ウェルチ、マイクル・ドリスほか、アメリカ文学に大きな足跡を残したアメリカ・インディアン作家は少なくない。しかしアレクシーのこの作品はある意味、非常にジャーナリスティックでセンセーショナルな側面を持っていた。 舞台は現代のワシントン州シアトル。この作品は主にふたりの視点から語られている。まずインディアンでありながら白人夫婦に引き取られ、自分の部族の名前も知らずに育った青年ジョン・スミス。ジョンは白人社会にとけ込むことができず、かといってインディアンのフェスティバルや集会にいってもなじむことができない。やがて精神に破綻をきたし、この世界で最も悪い白人を殺さなくてはという妄想に悩まされることになる。 もうひとりはスポーカン族の大学生マリー。マリーはワシントン大学でインディアンの権利を要求して様々な活動をする一方、ホームレスの人々のためのボランティアもしている。マリーはプライドが高く、過激で、インディアンのことをわかっているつもりの白人知識人にはとくに厳しい。まず、大学でアメリカ・インディアン文学史を教える白人のマザー教授がその格好のターゲットになる。マザー教授の配ったリーディング・リストには『リトル・トリー』が入っている(『リトル・トリー』の作者フォレスト・カーターはチェロキー・インディアンということになっているが、じつはクー・クラックス・クランの最高幹部だった)。そのうえ、『ブラック・エルクは語る』『インディアン魂』『ラコタ・ウーマン』はインディアンの自叙伝とされてはいるものの、三冊とも白人との共著だ。残りの七冊は白人が監修したものや研究したものばかりだ。そのうえジャック・ウィルスンという、いかがわしい地元の白人ミステリー作家の作品が上がっている。マリーはこのリストを攻撃し、インディアンかぶれの教授にかみつく。そして怒りをぶつける。 「インディアンが平和だの美だのを気にかけるとでも思ってるの?……だとしたら救いようのないバカね。ウォヴォカが生き返ったら、激怒するわ。本物のポカホンタスが生き返ったら、自分がアニメの主人公になってるのを見て喜ぶと思う? クレイジー・ホースやジェロニモやシティング・ブルが生き返ったら、あんたたち白人がインディアンにした仕打ちを見て、戦争を始めるでしょうよ」[1] ここにはまず、インディアンの狂気と怒りがある。 それを背景に、白人が次々に頭の皮を剥がれて殺されるという事件が起きる。現場にはフクロウの羽根が残されている。犯人はだれか……それを台風の目に、シアトルの街にさらに大きな狂気と怒りが渦巻き始める。 白人も過激に反応する。たとえばラジオのDJ、トラック・シュルツは次のように聴取者を煽る。 「われわれはインディアンを救うためにあらゆることしてきたのに、彼らはそれをいっさい認めようとしない。われわれがいかに彼らを教育したか、いかに食べるのに困らないよう配慮してやったか……それを頑として認めようとしないんだ。今日に至るまで、彼らは自分たちの知っている唯一の方法でわれわれの前向きな努力に反応してきた。その方法とは、暴力だ」[2] またインディアン・キラーに殺された青年の兄も、仲間と街をまわり、インディアンを次々にリンチにかける。 さらにそれに刺激されて、マリーの従兄のレジーが白人を血祭りにあげる。 こうしてシアトルの街における白人とインディアンの対立構造があきらかになる。なにかきっかけさえあれば、爆発しかねない火薬樽のような構造が。日本語版のあとがきで大場正明が、この作品をスパイク・リー監督の『ドゥ・ザ・ライト・シング』と比較しているのも十分にうなずける。 そしてもうひとりここに、インディアンを搾取する典型的な親インディアン派の白人、ジャック・ウィルスンが登場する。ウィルスンは不幸な子ども時代を送り、インディアンに憧れ、インディアンに関する書物を読みまくったあげく、インディアンを主人公にしたミステリーで作家デビューする。そしてやがて、このインディアン・キラーによる連続殺人を題材に小説を書こうとして、ジョン・スミスと接触しようとする。 こうして狂気と怒りはどこまでもふくれあがっていく。 作者の意図は明らかだ。描こうとしているのは、現代アメリカでインディアンとして生きている人々の状況であり、そういう状況を生みだした白人社会である。 じつはこの作品の構想はずいぶん早くからアレクシーの頭にあったらしい。それは高校時代にまでさかのぼる。アレクシーはそもそもリザベーションとは相性が悪く、約二十マイルほど離れた白人ばかりの高校にいくことなるのだが、そこでもまわりとなじめず辛い経験をする。リザベーションで疎んじられ、白人社会にも適応できなくて苦しむうちに、この作品の骨格ができあがったらしい。ある意味でジョン・スミスはシャーマン・アレクシーの分身でもある。 そしてまたインディアンのことをわかったつもりの白人知識人を蔑視しているマリーも、ある意味で作者の代弁者である。アレクシーは「ネイティヴ・アメリカン」という「政治的に正しい」用語を使わない。それは良識的でリベラルな白人たちの後ろめたさからできあがった無意味な名称だからというのがその理由だ。アレクシーはあくまでも自分たちを「アメリカ・インディアン」と呼ぶ。 ここには大草原を馬に乗って疾駆するインディアンの戦士の姿はどこにもない。母なる大地に癒しを求める姿もない。この作品にあるのは、貧困、飢餓、差別……そして狂気と怒りである。 しかしそれをアレクシーは単眼的に図式化して描いてはいない。ひとりひとりをしっかり、リアルに描いていく。最右翼のDJのトラック・シュルツでさえ、ある意味でよく描かれている。シュルツの反インディアンの主張はいつも保守的な人々の共感を呼ぶ部分があるのだ。そしてまた、ジャック・ウィルスンも、ただ類型的なインディアン像を利用して人気を得ようとしているだけの作家としてではなく、両親をなくして親戚をたらい回しにされる、ある意味での被害者として描かれている。白人社会での被害者である白人が、理想化されたインディアンのイメージに救いを求める……しかしシュルツもウィルスンもさらにインディアンの怒りと狂気を煽っていく……といういまわしい構図が、この作品ではとても的確に捉えられている。 いうまでもなく『インディアン・キラー』はミステリーの体裁を借りているが、実際にはミステリーとして完結していない。ジョン・スミスがインディアン・キラーだったのかどうかが明らかにされていないし、そもそも犯人はわからないままで、血まみれの頭皮を持った殺人者の踊りでしめくくられる。怒りのメッセージがこめられた作品の象徴的な終わり方である。 以上、『インディアン・キラー』のセンセーショナルでジャーナリスティックな側面を中心に紹介してきたが、この小説のもうひとつの大きな魅力に触れておきたい。それは最後のあたりでジョン・スミスが「シアトル最後の高層ビル」から飛び降りる場面によく表れている。 「ジョンは歩道に落ちた。初めは静かだった……ジョンは沈黙に耳を傾け、背骨に重圧を感じて両目を開けた。ジョンは歩道に突っ伏していた。起き上がると、体のなかで何かが引きはがれるような痛みが走った。歩道にめりこんだ体を見下ろして立つ……ひざまずき、歩道にめりこんだ死体に触れてみる。まだ温かい……ジョンは立ち上がり、死体をまたぐと、砂漠に足を踏み入れた……」[3] それまであくまでもリアリスティックに進んできた物語を、アレクシーはここで一気にひっくり返してみせる。幻想小説風のエンディングと呼んでもいいし、マジック・リアリズム風にひねったエンディングと呼んでもいい。呼び方はなんでもかまわない。それまで淡々と、ある意味冷ややかに筆を進めていた作者はここで咆吼する。緻密に築き上げてきた現実的な世界を渾身の力をこめてうち砕く。そしてジョン・スミスを生き返らせる。「怒り」と「祈り」をこめて。だれにも真似することのできないアレクシーのアレクシーらしさがここに最もよく表れていると思う。 この短い章ひとつでこれは、作者がインディアンであるないという次元を越えた力強い作品にしあがっているのだ。 2 映画『スモーク・シグナルズ』と短編集『ローンレンジャーとトント、天国で殴り合う』 さて九八年、アレクシーは再びセンセーショナルでジャーナリスティックな話題を呼ぶ。九三年に出版された短編集『ローンレンジャーとトント、天国で殴り合う』(The Lone Ranger and Tonto Fistfight in Heaven)のなかの数編を元にした映画『スモーク・シグナルズ』が、サンダンス映画祭で観客賞、映像作家トロフィー賞をダブル受賞したのだ。脚本はシャーマン・アレクシー、監督はクリス・エア。 この映画はアメリカでかなり評判になった。なにしろアメリカ初、いや世界初の、アメリカ・インディアン原作・脚本・監督・主演・助演のインディアン映画だったのだ。スパイク・リーが生きのいい本物の「黒人映画」を撮ったように、アレクシーとエアは本物の「インディアン映画」を撮った。 「ネイティヴ・アメリカンがようやく自分たちの声とヴィジョンを映画という形にした。スパイク・リーが黒人の誇りのために撮り、ウディ・アレンが都市の社会的不適応者のために撮ったように……スポーカン族の詩人であり小説家でもあるシャーマン・アレクシー三十一歳と、シャイアン/アラパホ族の映画監督であるクリス・エア二十八歳が……」[4] この映画のもとになっているのは、主として『ローンレンジャー……』に収録されている「アリゾナ州フェニックスってのは」という短編だ。ワシントン州にあるスポーカン族のリザベーションが舞台で、主人公はヴィクターという青年。幼い頃に家族を捨てて出ていった父親が、アリゾナ州のフェニックスで死んだという知らせをきいて、その遺灰を取りにいくという話だ。同行するのは、そう親しくもないくせに金を出すから連れていけといってきかない同い年の〈火おこしのトマス〉。トマスはだれかれかまわず、物語をきかせるストーリー・テラーだが、だれひとり耳を傾ける者はいない。このふたりがぎくしゃくした関係のままフェニックスに向かう。 テーマはエア監督にいわせれば、「許し」。たしかに映画のほうでは、ヴィクターが父を許すようになっていく過程がていねいに描かれている。しかし短編のほうは、同時にヴィクターとトマスとの心の触れあいの物語でもある。この短編の最後はこんなふうに結ばれる。 「おれがどこかで物語を話しているとき、一回でいいから、立ち止まってきいてくれないか」 「一回でいいんだな」 「一回でいい」 ヴィクターは承知した、とトマスに向かって手を振った。公平な取り引き。ヴィクターが人生でずっと欲していたものだ。ヴィクターは家をめざして、父親のピックアップを走らせた。トマスは家に入り、ドアを閉めた。その後の静寂のなかで、物語が新たにやってくる音がきこえてきた。[5] この短編にはもうひとつ忘れてはならないテーマがあった。そう、「物語」である。 インディアンの多くはそのコミュニティにストーリー・テラーを抱えている。ストーリー・テラーは、昔から伝えられてきた物語を縦糸に、現在と自分を横糸に物語をつむぐ。トマスも、自称そのひとりなのだが、あまり評判がよくない。『ローンレンジャー……』のなかには「しきたりという名のドラッグ」をはじめとして数編、トマスが登場する短編があるが、トマスの語る物語はたまにどこか変で、いまひとつよくわからなかったりする。ときには妙に象徴的で、ときにはインディアン側からみた白人たちの虐殺の報告そのままだったりする。相手がきいていようがきいていまいが、本人はあまり気にしていない。そういう態度が気に障るのか、仲間のヴィクターやジュニアからいつもいじめられている。現代のリザベーションでは、「物語」もいじめられているのかもしれない。 「〈火おこしトマス〉の審判」では、このトマスがスポーカン族の留置所に放りこまれる。「〈火おこし〉には前科がありますからな……真実をいわなきゃ気のすまない、ストーリーテリングのオタクです。危険人物ですな」[6]というわけで、裁判にかけられる。トマスは裁判の途中、インディアンの悲惨な歴史を語ったあげく、終身刑をいいわたされ、刑務所に向かう護送車のなかで、チカノや黒人に乞われて、また物語を始める。 じつはこのトマス、どこかでアレクシーと重なっている。というのも、この短編集で、アレクシー自身、じつに多様な物語を、スパイシーなコメントを加えながら語ってみせてくれるのだ。 この短編集はヴィクター、トマス、ジュニアの三人を中心にそえたものが多いが、そのほかにも、多彩な作品がいくつも含まれている。 たとえば「距離」は、ほとんどの白人が死に、インディアンが生き残った世界を描いた近未来SF。あと「イエス・キリストの異父弟はスポーカン族リザベーションで元気に暮らしている」とか「お気に入りの腫瘍のだいたいの大きさ」といったユーモラスなタイトルのものもある。 ここには現代のインディアンの姿を描く、アレクシーのユーモラスでアイロニックな語りの楽しさがある。 3 『リザベーション・ブルース』 『リザベーション・ブルース』(Resevation Bules)に話を移そう。主人公はスポーカン族リザベーションの三人組、ちょっと間抜けなストーリーテラー〈火おこしのトマス〉、アル中の悪がきヴィクター、ヴィクターの親友ジュニアだ。『ローンレンジャー……』のなかに何度も登場する三人だが、この作品ではちょっと性格も背景も異なっている。ともあれ、アレクシーはこの三人を自分の分身と考えているのは間違いない。 さて話は少しさかのぼる。一九三八年、黒人のブルースマン、ロバート・ジョンスンが毒薬入りのウィスキーを飲んで死亡した。ジョンスンは、「悪魔に魂を売ってギター・テクニックを手に入れた」と噂されていたほどのギターの名手で、歌も抜群にうまかった。南部デルタ地方の伝説的なブルースマンだ。しかしロバート・ジョンスンは死んでいなかった。悪魔のギターにとりつかれて逃げ回り放浪したあげく、一九九二年、ワシントン州にあるスポーカン族のリザベーションに忽然と姿を現す。ビッグ・ママに救いを求めて。ビッグ・ママというのは、年齢はおそらく数百歳、あるいは数千歳。その名の通り、スポーカン族の「ビッグ・ママ」であり、音楽の天才だ。 「世界中のミュージシャンというミュージシャンがビッグ・ママに音楽を教わりに、家をおとずれるのだった。とはいっても、ビッグ・ママもほかの優秀な教師同様、目にかなった生徒しか教えない。生前のジム・モリスンがドアをノックしたときには、ひたすら居留守を使って出ようとしなかった。近頃は死後のジム・モリスンが訪ねてくるのだが、やはり居留守を使っている」[7] ロバート・ジョンスンはビッグ・ママに救われるが、彼のたずさえてきた悪魔のギターはスポーカン族のはみだし三人組の手に渡り、オールインディアンによるブルース&ロックンロール・バンド「コヨーテ・スプリングズ」が誕生する。これにフラット・インディアンの美女ふたりが加わり、「コヨーテ・スプリングズ」は紆余曲折を経ながらもスターデビューへの道を駆けのぼろうとする。 しかし次々に悪夢が彼らを引き回し、翻弄する。その悪夢とは、白人のインディアン虐殺の歴史であり、現代の白人の差別意識であり、ニューエイジかぶれのインディアン崇拝者たちである。しかしそれだけではない。リザベーションのインディアンたちも彼らの前に立ちはだかる。 「ブルースはスポーカン族のために記憶を創り出したが、スポーカン族は受け入れることを拒否した。ブルースは新しい道を照らしたが、スポーカン族は古い地図を引っぱりだした」[8] 部族の人々の目は冷たく、部族議会は緊急会議を開いて、コヨーテ・スプリングズの追放を審議する。そしてジュニアは自殺し、ヴィクターは元のアル中にもどり、トマスとフラットヘッド族の女ふたりはリザベーションをあとにする。 ここ十年以上、インディアン的なものはアメリカでも、その他の国々でも、いや日本でも人気がある。ニューエイジズムがはやり、インディアンの工芸品が出回り、スーパーモデルの間で「わたしの体にはインディアンの血が少しだけど流れているの」と自慢するのが流行し、たしかにインディアン的なものはヒップでポップになりつつある。が、それはインディアン以外の人々にとってのことだ。多くのインディアンは、リザベーションに住んでいようが、都市に住んでいようが、あくまで貧しいマイノリティに過ぎない。 とくにアメリカのほとんどのリザベーションは悲惨な状況にある。 「たとえば一九八五年には、インディアン労働者の半数に仕事がなく、ある地域では失業率は七五%にもなった。居留地は住宅不足で、その住宅も五五%は水準以下である……多くのインディアンは意気消沈し、自発性や自信に欠け、自らの文化のなかでも、白人の文化のなかでも、成功をおさめることができずにいる……自殺と事故死がインディアンの最大の死因となっている。自殺率は全国平均の二倍で、事故死のほとんどはアルコールの飲み過ぎと麻薬の乱用に関係している。居留地における傷害事件の発生率は、全国の十倍である」[9] 絶望のなかに止まるか、絶望を覚悟で外に出るか。現代のインディアンたちは(ナバホ族リザベーションなどごくわずかの例外を除いて)、どちらかを選択しなくてはならない。 「『リザベーション・ブルース』のなかで響いているのは『虐殺はまだ終わっていない』というメッセージだ。文化的同化はいまでもなお、読者のすぐそばにあるインディアン・リザベーションの裏庭で続いているのだ。そこでは何を選ぼうとすべてが絶望につながってしまう。部族を維持するためにリザベーションにとどまって飢えるか、それともドブネズミのような白人の社会に入っていくか……」[10] いくつかのインタビューを読む限り、アレクシー自身リザベーションはあまり居心地がよくなかったらしく、そのせいで前にも書いたように白人の高校に進学するのだが、そこでももちろん居心地は悪かった。そのうえ、早熟で早くから本を読んでいたアレクシーには大きな不安があった。もし自分が何かを書くとしたら、いったいだれに向かって書くのか、という不安だ。自分のまわりはほとんどが本など読まないし、本を読むことは変なことだし、インディアンの作家や詩人なんてだれひとり知らない。日本では想像しがたいかもしれないが、これがアメリカのマイノリティの一面なのだ。 たとえば、ウォルター・ディーン・マイヤーズという黒人作家も、『バッド・ボーイ』(Bad Boy)という自伝小説で、まったく同じ不安を描いている。マイヤーズも子供の頃から本を読み始めるのだが、まわりには本を読む子供などひとりもいないので、それを内緒にしていた。だから高校生になり、多くの古典や現代小説を読んで、自分もなにか書こうと思ったとき、だれに向けて書くかというところで不安を抱く。白人に向けて書くつもりはまったくないが、読んでくれる黒人はいそうにない。 マイヤーズは絶望して戦場にいき、復員してからボールドウィンを初めとする黒人作家を知るようになって初めて、作家になろうと決意する。それと同じように、アレクシーは大学のとき(医学部志望だった)生まれて初めて、自分と同じインディアンが詩や小説を書いていることを知る。その最初の本が『海亀の背中にのっかった世界からの歌』(Songs from This Earth on Turtle's Back)というアメリカ・インディアンの詩のアンソロジーだった。この本で、アレクシーはリンダ・ホーガン、サイモン・オーティス、ジョイ・ハージョー、ジェイムズ・ウェルチ、エイドリアン・ルイスといったアメリカ・インディアンの詩人や作家を知った。 さて、リザベーションやアメリカのマイノリティの状況についてはこのへんにして、『リザベーション・ブルース』にもどることにしよう。この作品で、現代のインディアンと彼らを取り巻く状況を描くアレクシーの手法は非常に鮮やかである。同じくマイノリティである黒人の伝説的なブルースマンと悪魔のギターを導火線に使い(悪魔との契約 "treaty" はいうまでもなく、白人がインディアンと結んだ多くの "treaties" を象徴している)、その一方で「コヨーテ・スプリングズ」というダイナマイトを準備し、さらにフラットヘッド族の美女というガソリンを用意したあげく、不発に終わらせ、物寂しい銃声を一発響かせて、すべてをばらばらにしていく。 またコヨーテ・スプリングズに目を付けるレコード会社の設定も面白い。名前はキャヴァルリー(騎兵隊)・レコード。この会社はインディアン・ブームに乗って、「コヨーテ・スプリングズ」を売りだそうとして失敗すると、インディアンかぶれでニューエイジかぶれの白人女二人組をその代わりに立てて売り出そうとする。このレコード会社のスタッフである、フィリップ・シェルダンとジョージ・ライトは、ふたりともかつてインディアンや馬を虐殺した騎兵隊の指揮官と同姓同名である。いや、それだけではない。ジョージ・ライトのほうは実際に過去の将軍であり、そして同時に現代のレコード会社のスタッフという不思議な設定になっているうえに、この小説全体の底に響く八百頭の馬の悲鳴がそれにからんでくる。さらにこのジョージ・ライトの虐殺は『ローンレンジャー……』に収録されている「〈火おこしトマス〉の審判」のエピソードとしても用いられている。 さて、シャーマン・アレクシーの代表作として『インディアン・キラー』をあげる人は多いが、それは誤解を生みかねない。というのも、アレクシーの持ち味であるユーモアとペーソスと突飛な想像力がそこからは抜け落ちているからだ。アレクシー自身それについて、次のようにコメントしている。 「『インディアン・キラー』を書いたのは、なにより『ローンレンジャーとトント、天国で殴り合う』に対する批評家や読者の声のせいなんだ。みんな口をそろえて、『暗くて、絶望的で、カフカ的で、床をゴキブリが這っているような悪夢みたいな本』っていうわけ。だけどさ、あそこに入っている短編は、すっごくおかしいんだ。いくつかの短編はハッピーエンドだしさ。で、思ったんだ。『へえ、そう。みんな暗くて絶望的な本を期待してるの? じゃあ……というわけで『インディアン・キラー』を書いたんだ」[11] このコメントには『ローンレンジャー……』を暗く絶望的な作品と読みたがるアメリカ人の感性と後ろめたさがよく表れていておもしろいが、ここで注目したいのはアレクシーの "Actually they're very funny" という言葉だ。実際、アレクシーの作品はおかしいものが多いし、本人自体もおかしい。とてもユーモラスでウィッティでアイロニックなのだ。 「インディアンってさ、マフィアとアメリカ政府の違いがよくわからないんだ。マフィアがやってきてリザベーションを乗っ取ったとしたら、おれたち大歓迎すると思う。だってうまく機能する組織ができるし、政府もおれたちに手出ししなくなるだろ。それにうまいパスタが食べられるようになる。クラフト社のマカロニ・アンド・チーズで我慢しなくてすむようになるんだ」[12] 『リザベーション・ブルース』には、アレクシーのこういったユーモラスな側面がよく表れている。 アレクシーは大風呂敷を広げてシュールで不条理な冒険小説を書いた。それもリザベーションのインディアンが悪魔のギターに引っぱられて、ロックバンドを組み世に出るとい変な物語だ。そこで俎上にあがるのは、搾取と虐殺を続ける白人社会、なすすべもなく立ちつくし同族内で憎しみ合うインディアン……そしてそういう状況から必死に這い出そうともがくインディアンたちだ。しかしアレクシーはそういったテーマをあからさまにぶつけたりはしない。インディアンの民話によく登場するひょうきんなトリックスターであるコヨーテよろしく、おおらかなユーモアと辛辣なウィットでもって笑い飛ばし、現代文学の手法を駆使して幾層にも重なった物語を紡ぎ上げ、過去と現在を巧みにコラージュし、要所要所にマジックリアリズムの手法を織り交ぜていく。こうしてできあがった『リザベーション・ブルース』は、たまらなく悲しく、たまらなく切ない現代の叙情詩といっていい。そして読んでいくうちに、アレクシーの描くインディアンのリザベーションは次第に現代社会と重なり、そこで苦闘する「コヨーテ・スプリングズ」はわれわれの姿に重なっていく。アレクシーの書くインディアンたちは必ず現代人すべてに通じる悲しさと切なさを抱えている。 最後にもうひとつ忘れてはならないのは、アレクシーの作品すべてに共通するスピード感と新しい感性だろう。それを言葉で説明するのはむずかしい。映画でいえば、『トレイン・スポッティング』『ロック・ストック・アンド・ザ・トゥー・スモーキング・バレルズ』『ノッキング・オン・ザ・ヘヴンズ・ドア』といった新しい監督の映画に共通している感覚なのだが、それはもう感じてもらうしかない。 4 最後の最後に「詩」 アメリカの多くのマイノリティのなかでインディアンはなぜか詩と小説の両方を書く人が驚くほど多い。スコット・ママデイ、レスリー・マーモン・シルコー、ジェイムズ・ウェルチ、リンダ・ホーガン、ルイーズ・アードリックなど、数え上げればきりがない。そしてアレクシーのそもそものスターティングポイントは「詩」であり、出版された詩集の数は小説の数よりも多いし、「ニューヨーク・タイムズ・ブック・レヴューの注目すべき本」に選ばれたり、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ賞の候補にあがったものもある。しかし詩を論じるのはむずかしい。それに紙面もつきた。ひとつエピソードを紹介して終わりにしたい。 「シアトルの空港にいたとき、十歳くらいのインディアンの男の子がやってきて、こういった。『ぼく、あなたの詩、好きだよ』ってさ。そしてどの詩が好きなのか教えてくれたんだ。その瞬間、理想の芸術の持つ不思議な魔法がそこに現れた……ありきたりで、ロマンチックでセンチメンタルにきこえるかもしれないけど、素晴らしい瞬間だった。ああいうささやかな瞬間こそが人を救うんだと思う」[13] 【引用文献】 [1]シャーマン・アレクシー『インディアン・キラー』金原瑞人訳(東京創元社、一九九九年)三三一頁 [2]同(三六四頁) [3]同(四二四〜五頁) [4]Bill Gallo, "A Brilliant Red", Westward, 7/22, 1998. [5]シャーマン・アレクシー『ローンレンジャーとトント、天国で殴り合う』金原瑞人・小川美紀訳(東京創元社、一九九九年)九0頁 [6]同(一0八頁) [7]シャーマン・アレクシー『リザベーション・ブルース』金原瑞人訳(東京創元社、一九八八年)二四九頁 [8]同(二一八頁) [9]マイノリティ・ライツ・グループ編『世界のマイノリティ事典』マイノリティ事典翻訳委員会訳(明石書店)四二頁 [10]Cidney Gillis, "Sherman Alexie's First Novel: Assimilation Blues", Stranger, 7/26, 1995. [11]Tomson Highway and Sherman Alexie, "Spokane Words: Tomson Highway raps with Sherman Alexie", Aboriginal Voices, 1997. [12]同(36) [13]Erik Himmelsbach, "The Reluctant Spokesman", Los Angles Times, 12/17, 1996. 四 最後に というわけで、今回は児童文学にまったく関係のない話でありました。申し訳ありません。 次回はぜひ、最初に書いたとおり、名前、名づけといったキーワードを交えながら『海の魔法使い』と『青い馬の少年』のあとがきみたいなものを書こうと思っています。 |
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