あとがき大全10

金原瑞人

           
         
         
         
         
         
         
    
一 言葉、言葉、言葉
「言葉、言葉、言葉(Words, words, words.)」。ただ「言葉」を三つ重ねただけだが、なんとなく魅力的に響くこの言葉は、『ハムレット』のなかの有名なハムレットの科白。ポローニアスに、「殿下、何をお読みで?」と問われて、本を読んでいたハムレットが「言葉、言葉、言葉」と答える。このあと小田島訳では「いえ、内容でございます」「なに、内容? いや、あるように思えるが」と続く(手元に本がないので、細かい部分は違っているかもしれないが、まあ、こんな感じの訳)。手元にある福田訳では次のようになっている。言葉遊びでは小田島訳のほうが面白いが、原文の意味に近いのはこちらのほう。気になる方は原文参照。

「ハムレット様、なにをお読みで?」
「言葉だ、言葉、言葉」
「いえ、なかには、どんなことが?」
「なに? 誰と誰とのなかだ」

 ところで、翻訳をやっていれば当然かもしれないけど、いろんな意味で言葉は面白いなとよく思う。そのうちのひとつは語源というやつ。じつは、語源が気になりだしたのは、浪人で東京にやってきたときだった。場所は忘れもしない、西武池袋線桜台駅前の立ち食いの蕎麦屋。典型的なおのぼりさんだったぼくは、その店にはいって、壁にかかっている品書きをざっとながめた。すると、目に飛びこんできたのが「たぬきそば」という札だった。へえ、なんだろう……という素朴な疑問が胸に浮かび、次の瞬間、「たぬきそば!」と大声で注文していた。その言葉は、岡山出身の自分の耳に、いや、目に、とても新鮮に映ったのだ。関西中国四国はうどんをよく食する。そのなかでも有名のが「きつねうどん」である。これは甘辛く煮た油揚げが上にのっかっている。キツネ(お稲荷さん)は油揚げが好きだから……という、いたって単純な命名である。ところが、なんと、東京には「たぬき」なるものが存在するのだ。もちろん、「きつねそば」と隣に札があるからには、油揚げがのっているわけではないだろう。たしか、精進料理の「狸汁」は、狸の肉の代わりに蒟蒻(こんにゃく)が入っているが、まさか、蕎麦の上に蒟蒻が……?
 などなどとわくわくして待っていると、なんと、蕎麦の上に天かす(関東ではよく天玉という)が散らしてある。そして申し訳程度の刻み海苔と葱が。
 え!
 これの、どこが「たぬき」?
 というわけで、すぐにそこのおやじさんに、「これ、なんでたぬき蕎麦っていうんですか?」とたずねたら、「ううん、どうしてだろうね?」という返事。
 この謎はなかなか解けなかった。かなりの人にきいてみたが、意外と知らないものである。ちなみに『日本国語大辞典』にも語源までは載っていない。不親切である。
 それが、あるとき、きれいに解けた。
 これは蕎麦の上に「天かす」がのっている。それが重要らしい。つまり、刻み海苔や刻み葱に気を取られてはいけないのだ(たまに、鳴門がのっているものもあるらしいが、これも無視である)。つまり、「天かす」というのは、天ぷらのタネ抜き、つまり、「たぬき」という洒落らしい。これ以上にもっともらしい説明にいままで出会ったことがない。もしさらにもっともらしい説をご存じの方があったら、ぜひご連絡を。
 というわけで、この頃から語源というものがとてもとても気になりだした。そして当時の師匠であった犬飼先生がまたこれに詳しかった。あるとき語源談義に花が咲き、「金原君、熊の語源をしっているかね」と問われて、「?」という顔をしたところ、「あれは熊の鳴き声からきているらしい。うむ、熊は『クーマ・クーマ』と鳴くのだ!」とのたまわった。まわりにいた五、六人の学生が全員、「?!」という顔をしてみせた。犬飼先生は、なぜかたまに、こういうあまりにつまらない洒落や冗談をいうことがあるのだ。
 ところが、それから数日後、朝日新聞の天声人語に、「熊の語源は小熊の鳴き声からきているという説がある」と出ていた。そこで次のとき、犬飼先生に「あれ、本当だったんですね」といったら、「君たちは天声人語は信用しても、ぼくの言葉は信用できないのかね」とのたまわった。そのときもまわりの学生は、当然でしょうという顔をしていた。
 ともあれ、そういうこともあって、とにかく学生の頃は「言葉」が妙に気になってしょうがなかった。そしてそのうち、ぶつかったのが「忌み言葉」である。これが面白い。
 大学で講義をしていても、この忌み言葉について話すと、とてもうけがいい。というわけで、いっそのこと落語形式にしてみようと思って、噺を作ってみた。あとで読み直してみたら、やっぱり落語ほど面白くはない……けど、まあ忌み言葉については、簡単に説明できてるから、これをこのまま載せてみたい。
 ちょっと、いや、かなり長いので、面倒な方は、第二章を飛ばして、第三章へお進み下さい。

二 隠居の忌み言葉(忌み言葉解説・落語風)
 受験で失敗して、じつは二年浪人をしているのですが、その浪人のあいだに一度、こんなことがありました。小田急の電車のなかで、つり革につかまってると、前に小学校の3年か4年くらいの男の子と女の子が並んで腰かけてて、その女の子ってのが、めっぽう賢そうで、いや、話をきいていると賢いというのがすぐにわかってくるという女の子で、その隣にいるのが、もうみるからに鈍い、そして将来は女に苦労しそうな男の子でした。で、その女の子は文学の話をしているのです。「ねえ、××君、夏目漱石の『坊ちゃん』って読んだ?」まあ、当然、男の子は引きますね。と、それをみて女の子が『坊ちゃん』のストーリーをかいつまんで教えてやるわけです。きいていると、ほんとに賢いんだなあというのがよくわかるような、よくまとまった要約なんです。男の子は思わずききいってしまって、ふうん、へえ……で、それがひとしきり終わって、女の子が今度は「ねえ、××君、シェイクスピアって知ってる」……とひとこと。男の子はかなりのけぞって、「う、うん」とひとこと。女の子はたたみかけるように「あたしね、『ハムレット』ってよくわかんなかったんだけど、『ロミオとジュリエット』はすっごく好きなの。ねえ、××君、読んだ?」 男の子はもう顔面蒼白で、「う、うん……」といいながら、しばらくして「『ロミオ』は読んだけどさ、『ジュリエット』のほうはまだ読んでないんだ」……
 このエピソードはエッセイに書いたこともありますし、講演でも何度かお話ししてます。で、これをきいていて、わたしははっとしたわけです。その男の子というのが、まさに小学校時代の自分だったんです。というのも小学校時代、ぼくはほとんど本という者を読まなくて、図書館にいくといつも、隅の方に追いやられているポプラ社の怪盗ルパンのシリーズとか明智小五郎のシリーズとか、ああいうケバい拍子のものばーっかり読んでたもんですから。それで、あるとき女の子といっしょに図書館にいて、その子にいろいろ本の話をきかされて、思わずそばにあった本を引き抜き、「あ、ぼく、この作家好きなんだ。うんとね、『トロッコ』とか書いてて、ええっと、チャガワリューノスケっていうんだけど」といったら、女の子が「金原君、それ芥川って読むのよ。もうお茶目なんだから」といわれ、思わず赤面、夏の水族館の焼けたコンクリートの上のトド状態で、口をぱくぱくやってました。そのときのことは強烈に印象に残っているのですが、じつは、わたしはそのとき芥川龍之介を読んだのです。あ、その女の子にはあっさりふられました。が、わたしはそれと引き替えに芥川を読んだわけで、恥を知るとともに物を知るという貴重な経験をしたわけです。こういう物を知るという体験はいつになっても快いもので、そのうち教えるという職業についたのかもしれません。が、とりあえず今日は「忌み言葉」についての講座であります。いろんなことを知るという楽しみを味わっていただければ、なによりでございます。で、今回、普通なら講義形式で行うところを、なんと落語形式でやってみようと……まあ、はじめての試みでございますゆえ、いたらぬところも多々ありましょうが、そこは目をつぶって、いえ、耳をふさいで、しばらくおつき合いくださいますよう、お願い申し上げます。

源さん「ちわーっ」
ご隠居「おや、源さんじゃないか、久しぶりだね。まあお上がり。急ぎでもなさそうだな。お茶でもいれよう」
源「どうもありがとうございます。いやあ、今日ここに参りましたのはちょっとおききしたいことがありましてね」
隠居「ほう、どんなことかな」
源「いえね、ついこないだからうちのかかあが、そこの辻をくだったとこにある蕎麦屋に手伝いにいくようになったんですよ。あっしはやめろっていったんですがね。なんたって大工だ、おめえひとりくらい十分に養ってやってるじゃねえか、って。ところがその蕎麦屋ってのは親戚がやってるとこで、手が足りなくなったっていいやがる。まあしょうがねえか、というわけで、そこへ手伝いにいきだした。いや、そりゃあいいんですよ、あちらも助かることだし、こっちだって多少は銭が入ってきますからね。ところが、しばらくすると、かかあが妙なことをいいだした。あっしが、おいスルメあぶってくれっていうと、あらアタリメね、とこうきやがる。で、あっしが、おいオカラはねえのか、っていうと、ああ卯の花は一昨日のがあったんだけど、さっきみたらちょっといたんでるみたいなんで、捨てちゃいました、とこうきやがる。なんか、こう、いやーな感じなんですよ。スルメといやあ、アタリメときやがるし、オカラというと卯の花ときやがるし、どうも面白くねえんで、いちいち言い換えるじゃねえ、すり鉢ぶつけるぞっていうと、あら、当たり鉢なんて、あぶないあぶない、けがでもしたらどうするんですと、こうだ。ええい、うるせえ、このあたりこぎで、ぶんなぐるぞ、といったら、あら、それはすりこぎ、とこうくるし。ええい、四の五のいわずにさっさと、すり胡麻を持ってきやがれといったら、あら、当たり胡麻ね……とまあ。
 ご隠居さん、ありゃいったいなんなんです? なんかもう頭がくらくらしてきて……」
隠居「源さん」
源「はあ」
隠居「それはね、忌み言葉というやつだよ」
源「は?」
隠居「忌み言葉」
源「はあはあ、あの、最後にひとことってやつですね。はいはい。いやあ、わたしんとこには豚が三十匹いる、きみんとこは?」
隠居「ちがうちがう。きみんとこは、じゃなくて、忌み言葉」
源「なんですか、それは?」
隠居「源さん、おまえさんいま財布はお持ちかな」
源「えっ、なんですか、いきなり」
隠居「こういうのを方違え論法という。つまり、なにかきかれて、すぐそれに答えないで、方向性を変えて、まったく関係のなさそうな質問をする。で、相手が驚き、あきれて、なにか答えると、そこを手がかりにさっきの質問に答えるという、まあレトリックでよくある、いささか高等な弁論術のひとつだな」
源「それ、万引きしてつかまりそうになったときに、あっ、ブルガサリだ!といって、相手がそちらを見た隙に逃げる……というやつですか」
隠居「いやいや、それとはちょっと違うな。とにかく、財布はお持ちかな」
源「そりゃ、まあ。この通り」
隠居「源さん、その財布、よくお金がたまりますか」
源「いえ、それがこれっぽっちも。金は天下の回り物とはいうものの、あっしのところだけは回り道をして通るみたいで、いつも空なんですよ、これが」
隠居「その財布、いつお買いになった」
源「これですか。こいつはたしか去年の冬前だったかなあ……」
隠居「それそれ、それがよくない」
源「といいますと?」
隠居「財布はな、買うときがちゃーんと決まっているんだよ。今度買うときは春、お買いなさい」
源「そりゃまた、どうしてです」
隠居「験(げん)ですよ、験」
源「え、あっしですか、あっし」
隠居「いやいや、そうじゃない。源さんの源じゃなくて、験がいい、験が悪いの験です。縁起とでもいうかな。つまり、秋の財布は、空き財布といって験が悪い。春の財布は張る財布といって験がいい。そういうわけですな」
源「はあ、なるほど。じゃ、次はぜひ春買いましょう。しかし、さっきの『きみんとこは』の話はどうなったんです」
隠居「いや、忌み言葉ですよ、忌み言葉」
源「なんですか、それは」
隠居「源さん」
源「はい」
隠居「上野にですな、十三屋という店があるんだが、なにを売っているかご存じかな」
源「ご隠居さん、またですかい。さっきのブルガサリ」
隠居「はい、方違え論法ですな、また。上野だけではなく、京都にも奈良にも、さがせばまだまだあるはずなんだが、その十三屋。さて、何屋さんと思いますかな」
源「ご隠居さん、それなら知ってます。ええ、知ってます」
隠居「ほう、ご存じか」
源「知ってまさあ、そのくらいは。常識でしょうが、常識」
隠居「ほう、常識でしたか」
源「もう子どもの頃から知ってますって。はい、焼き芋屋」
隠居「はずれ」
源「はずれ? だって、栗よりうまい十三里っていうじゃありませんか」
隠居「はい、たしかにそういいますな。栗と九里をかけて、それに四里を足して十三里としゃれた言い方です。が、それだとサツマイモが十三里、ということは焼き芋屋は十三里屋ということになるでしょうが。あたしがいったのは、十三屋」
源「降参します」
隠居「その九と四はあっておるのですよ。つまり九と四、ク・シ。櫛屋」
源「はあ、なるほど」
隠居「九は苦しみに通じる、四は死に通じる、たがいに縁起が良くない……というわけで、九と四を足して十三、櫛屋を十三屋と言い換えたわけですな、これが。そういう意味では、櫛というのはもともと縁起のいい言葉じゃあない。とくにお年寄りはこれをきらいます。お婆さんに櫛なんぞを贈ったりするもんじゃあない。また、櫛の歯がこぼれると、九と四が少なくなったといって、縁起がよいというくらいですからな」
源「はあ、なるほどねえ」
隠居「ところで、源さん……」
源「ご隠居さん、もう勘弁してください。もうその方違えのなんとかってのは。それがスルメとどういう関係があるんです?」
隠居「いや、そのスルメというのも、いままでの話と関係があるのだな、これが。つまりスルメというのは、『する』というので縁起が悪い。お金をする、すりへる、すってなくなる、な、縁起が悪い。というので、『当たる』という縁起のいい言葉に置き換えて、アタリメという。すり鉢もまた、同じようにあたり鉢といってやる、すり胡麻もあたり胡麻……とまあ、こういうわけですな」
源「あ、なるほど。験をかつぐというやつですか。それでいくと、『すりがすり足で歩いていくと、すりガラスが割れていたので、スリッパを履いて、スリランカまで歩いていった』というのは『当たりが当たり足で歩いていくと、当たりガラスが割れていたので、アタリッパを履いて、アタリランカまで歩いていった……」
隠居「ばかなことをいいなさんな。これを忌み言葉といいます」
源「あ、やっと出ましたね、きみんとこは」
隠居「そうではない、きみんとこはじゃなくて、忌み言葉。忌むというのは、忌まわしい、つまり縁起の悪い言葉、もともとはスルメとかという言葉を忌み言葉といっていたのだが、そのうちにその縁起の悪い言葉に代わって使う言葉、つまりアタリメとかという言葉を忌み言葉というようになった……わかるかな」
源「はあ、それはわかりましたが、じゃあオカラはどうなんで」
隠居「オカラというのは、もともと豆腐の絞りかす、つまり空。というわけで、オカラ。空じゃ縁起が悪かろうというので、そのオカラが白いところから『卯の花』と呼ばれるようになったな。ついでにいうと、大鍋で炒って作るところから、『大入り』などともいわれて、とくに落語や芝居の方面ではよくそう呼ばれているそうな」
源「なるほど。それじゃ、波の花ってなあ、なんでしょう」
隠居「塩のことだな。塩は『死』を連想させるというので、縁起が悪い。そこで波の花と呼ばれるようになった。また果物の梨は『なし』、ないというのは縁起が悪い、そこで『なし』の逆の意味のめでたい『ある』という言葉をつけて、『ありの実』と呼ばれるようになったな。いやいや、食べ物だけではない。たとえば……猿。そう動物の猿だが……」
源「はあ、猿ねえ」
隠居「そうそう、猿という言葉は、『去る』つまり、いってしまうという意味に通じるから、縁起が悪い。そこで数が増すという言葉にひっかけて『ましら』ともいうな」
源「あ、なるほど、ましらですか。よく白波物なんかに出てきますね。ましらのなんとか」
隠居「そうそう、ましらというのが猿の忌み言葉。ところで……おまえさん、いちばん嫌いな生き物はなんだい」
源「いちばん嫌いな生き物ねえ。ええっと……おっ、あれあれ、あれですよ」
隠居「そうそう、あれ」
源「細くて」
隠居「細くて」
源「長くて」
隠居「長くて」
源「のたくって」
隠居「のたくって」
源「気持ちの悪い」
隠居「気持ちの悪い」
源「サナダムシ!」
隠居「そう、サナダムシ……じゃないよ、源さん」
源「じゃないよとかいわれたって、あっしはあいつがいちばん苦手なんです」
隠居「いや、困るなあ、それじゃあ。サナダムシはいけません。この場ではいけません。そうじゃなくて別のものがあるでしょう。もっと嫌な生き物が」
源「もっと嫌いな生き物ですかあ……ええっと……ううんと……おっ、あれあれ、あれですよ」
隠居「そうそう、あれ」
源「細くて」
隠居「細くて」
源「長くて」
隠居「長くて」
源「のたくって」
隠居「のたくって」
源「気持ちの悪い」
隠居「気持ちの悪い」
源「ムカデ」
隠居「いや、困るなあ、それじゃあ。ムカデはいけません。この場ではいけません。そうじゃなくて別のものがあるでしょう。もっと嫌な生き物が」
源「じゃ、ヤスデ、ミミズ、ゴカイ、ホンムシ……」
隠居「違う!」
源「違うったって、いったいなにですかその気持ちの悪い生き物ってのは。あっしは、とにかくああいう長くて細くて気味の悪いやつが大嫌いなんですよ」
隠居「源さん、おまえさんそこまでいって、なんでヘビが出てこないの」
源「えっ、ヘビですか」
隠居「そうだよ、ヘビ。ヘビ。あたしはさっきからずうーっとその一言を待っていたのに、おまえさんときたら、サナダムシだ、ムカデだ、ヤスデだ、ミミズだと、もうあたしは、もう……」
源「ご隠居さん、泣くこたあないでしょうが、泣くこたあ」
隠居「で、やっと出てきたヘビだ。なんたって、人間、これほど嫌いな生き物はまずない。なにしろユダヤ神話でもだな……」
源「ご隠居さん、なんですか、そのユダヤ神話ってのは」
隠居「『旧約聖書』のことだな、うん」
源「『旧約聖書』はあっしだって知ってまさあ。だけどそいつは『旧約聖書』って名前でしょうが」
隠居「いいかい源さん。聖書、聖書、聖なる本っていうけど、ありゃある地方の神様の話だ。それも旧約はユダヤの神様、エホバの話。どうも維新以来、西洋の文明・文化が入ってきて、聖書聖書と小うるさいが、もとをたどればいにしえのイスラエルとかいう辺境の地の未開の連中が信仰していた神様のことを書いた本にすぎないんだよ、あれは。我が国には『古事記』があり『日本書紀』があり、またギリシアにはギリシアの神話があり、インドにはインドの神話がある。みーんなおんなじなんだ。どれもこれも神様の話で、おしなべてみんな神話なんだよ、わかるかい」
源「はあ、まあ……」
隠居「で、そのユダヤ神話の初めのあたりに、アダムとイブの話が出てくる」
源「そのくらいは知ってます」
隠居「ほう、そりゃ偉いねえ」
源「なにやら昔の話でしょう」
隠居「まあな、そりゃ昔々の話だ。なにしろ神様がいらした頃のことだからな。神様はニーチェの時代までは生きていらっしゃった」
源「へ」
隠居「『神は死んだ』と宣言したのがニーチェだな、これが」
源「で、だれが殺したんで?」
隠居「人間だよ、人間。人間が神様を夢にみて、神様を作って、その神様が人間を作って、その神様の作った人間が神様を殺した。それが現代てえもんじゃあないかい、なあ源さん」
源「ってえことは、現代にはもう神はいないってことですかい」
隠居「まあ、そうなるかな」
源「そこにもう神はなく、いまはただかみさんがいるだけ……」
隠居「という具合に、話を持っていっては困るな。なにしろ、田島陽子さんにしかられてしまう。と、ままあそういうことはさておきだな、さっきの聖書に話をもどそう。で、源さん……女はどうやってできたか知ってるかな」
源「えっ、女ですか。女ねえ……ところで、ご隠居さん、いったいいつになったら本題にもどるんですか。ずいぶん遠回りしてきちゃいませんか」
隠居「源さん、急がば回れ。これですよ、これ。あわてちゃいけない。がっついちゃいけない。順々に外堀を埋めて、それから内堀を埋めて、そして準備万端整ったところで、一気にいくんですよ、これがあらゆることの基本です」
源「ですか……そうですねえ、女はなぐって作る」
隠居「源さん、田島先生がいなくてよかったですな。おまえさん、そんなこといったら、生きて帰れませんよ」
源「しかしですねえ、ジョン・ウェイン主演の『史上最大の作戦』ってやつにあったでしょうが。ジョン・ウェインが車かなにかが故障したときに、どかんと蹴って、一言。『女と機械は殴れば直る』って」
隠居「それで、おたくのかみさんはなおりましたか」
源「いえね、あっしが結婚したはじめの頃に、なんかちょっとけんかして、こうちょっとはたいたんですよ。こう、ちょっとね。パン……じゃなくて、パ……というか……まあ、ポン……くらいにね。そしたら次の瞬間に鉄瓶が飛んできまして、頭七針縫いました。もうそのとき以来、二度と女房に手をあげるなんて恐ろしい真似はしてません」
隠居「まあ、それが賢明かもしれない。しかしあたしが、女がどうやってできたかとたずねたのは、そういう答えを期待してのことではない。ユダヤ神話でどうなっているかということなんだな、これが」
源「どうなってるんですか」
隠居「では、話してきかせよう。ユダヤの神エホバは、あるとき粘土をこねて、自分の姿に似せて、アダムという男を作った。そしてしばらくするうちに、アダムもひとりでは寂しかろうと、その連れを作ろうとしたな。そしてアダムの肋骨を一本抜き取って、それに息を吹きかけると、それがもぞもぞ動き出して、女になった……というわけだ。つまり、女というものは、男のいちばん大切な心臓に最も近い部分からできていて、それでいて、男の一部でもある……という意味が、ここにはこめられている」
源「はあ。じゃあ、うちのかみさんは、あっしの一部ってえわけですか」
隠居「ユダヤ神話によれば、そうだな。もしそういうのがよければ、おまえさんもイスラエルにいきなさい」
源「ところで、ご隠居、それがヘビとどんな関係があるんですか」
隠居「まあ、あわてなさんな。今日の授業は……おっと間違った……今日の話は、おまえさんが持ってきたアタリメから始まって、財布の買い時にいって、十三屋にいって、スルメにもどって、オカラ、塩、梨と進んで、ましら、ヘビと巡って、聖書のアダムとイブまできたわけだ」
源「はい、長い道のりでございました。なんかねえ、あっしはなにがききたくてここにきたのか、もう忘れちゃいました」
隠居「すぐに、そこへもどるから、もうしばらく辛抱しなさい。聖書の話だったな。で、アダムとイブはしばらく幸せに暮らした。イブはアダムの一部であって、それも最も大切な心臓のすぐそばの部分からできていた。まあ夫唱婦随というやつだ。田島陽子がなんといおうと、ユダヤ神話は夫唱婦随なの! と、それはさておき、しばらくしたある日のこと、イブがエデンの園を歩いていると、向こうに知恵の木がみえる。美しい実がたわわになっている。とまあ、その実がリンゴだったのかイチジクだったのか……という点については、いまだはっきりした答えは出ていない……が、まあイブはその木のほうへ、まるで吸い寄せられるかのように近づいていったわけだ。と、そこにいたのが、ヘビ。ヘビはイブに向かって、イブさん、ほら、どうぞといわんばかりにその実を差し出した。イブは、いえ、神様が知恵の実を食べてはいけないとおっしゃったから……と断る……が、ヘビはしつこく、なぜ神様食べてはいけないものをこの園に生やしておきましょう……といって、さらに勧める。イブはつい耐えきれず、その実を受け取り、一口かじってしまう。と、かじった瞬間、恥じらいの気持ちが生まれて、裸でいる自分が恥ずかしくなってしまう。しばらくしてやってきた、アダムはそれをみて全てをさとり、ふと考える。イブは神様のいいつけを破って、知恵の実を食べてしまった。間違いなく、この楽園を追われるだろう。自分は、この楽園にひとりとどまるか、あるいはイブと共に追放されるか、そのどちらかだ。そうだ、イブのいない楽園にひとりでいるよりは、イブと共に荒野で生きていこう……そう決意して知恵の実を口にする」
源「ああ、あっしは泣けてきました」
隠居「いうまでもなく、ふたりは楽園を追放。そのうえ神からの罰を背負ってしまう。男にはこれから子々孫々にいたるまで、額に汗して働く苦しみを。女にもまた、子々孫々にいたるまで、産みの苦しみを。そしてイブを誘惑したヘビは、天使によって手足を切断され、まるでゴボウのようになって荒野に放り出される。そしてエホバの神様からこういいわたされる。『汝これを為したるによりて、汝はすべての家畜と野のすべての獣よりもまさりて、呪わる。汝は腹ばいて、一生のあいだ塵を食らうべし。また我、汝と女のあいだ、および汝のすえと女のすえとの間に怨恨(うらみ)を置かん。彼は汝の頭を砕き、汝は彼の踵を砕かん』」
源「うっわー、むっちゃくちゃ難しい言葉ですねえ」
隠居「つまり、ヘビはイヴを誘惑して知恵の実を食べさせたがために、神様によって、未来永劫にわたる呪いを受けたというわけなんじゃよ。どんな家畜や獣よりも人間に嫌われ、一生大地をはいずりまわって、子々孫々にいたるまで女に忌み嫌われ、みつかると頭を砕かれる。またヘビはヘビで、女をみれば、そのかかとに食らいつく……とまあ、そういう定めとなったということなんだな、これが」
源「はい、質問!」
隠居「なにかな、源さん」
源「てえことはですね、ご隠居、ヘビには手足があったってことですかい」
隠居「いいとこに気がついたね。うむ、そうなんだ。昔の宗教画をみると、ヘビは人間に近い形をしていてな、イヴにこうやって、知恵の実をさしだしているんじゃよ」
源「えっ、なんですか、ヘビには昔、手足があったと……」
隠居「まあ、ユダヤ神話によれば、そういうことになっているな」
源「しかし、それが忌み言葉とどういう関係があるんですか」
隠居「そうそう、そこなんだよ、源さん。いいかい、古今東西、ヘビは嫌われ者なんだ。いわんや、この日本においてをや。というわけで、この日本でもずうっと昔からヘビは忌み嫌われていたわけだな。とにかくヘビとやつは霊力を持っている、不思議な力を持っている、たたる……というわけで、人々はなるべく『ヘビ』という言葉を使わないように努めたわけだ。こうしてヘビの忌み言葉がどんどん増えていった。ウワバミ、クチナワ、オオムシ、オカウナギ……もういくらでもある……とまあ、さあ、ずいっっと、隅から隅までー!」
源「ヘビは嫌われてた……と」
隠居「なんだよ。というわけで、我が国の生き物のなかで最も忌み言葉が多いのが、このヘビ。そしてその次がサルなんだ。猿という獣は、まことに人間に似ているうえに、賢いときている。ある意味、獣離れした存在で、恐れられたわけだ」
源「ご隠居、ありがとうございました。なんとなく、その忌み言葉ってえのが、わかってきたような気がします。こいつぁ、なかなか面白いや。今日は大変に勉強になりました」

 と、ここで終わると、なんとなく落語・教養講座その一……というふうにまとまるのですが、ここでは終わらないのでございます。というわけで、第二部。

源「ちわーっ」
隠居「おや、源さんじゃないか、久しぶりだね。まあお上がり。急ぎでもなさそうだな。お茶でもいれよう」
源「どうもありがとうございます。いやあ、今日ここに参りましたのはちょっとおききしたいことがありましてね」
隠居「ほう、どんなことかな」
源「それがですね、こないだ教えてもらった忌み言葉なんですねどね」
隠居「ほう、それが?」
源「ええ、うちのかみさんに、隠居さんの話をきかせてやったら大喜びでしてね、もうあれ以来、あそこの蕎麦屋は験担ぎにつぐ験担ぎで、もうたくわんの枚数に気を遣う次第なんでさあ」
隠居「ほうほう、うれしいね、そこまで気を遣うようになってもらうとなると」
源「そりゃもう、念が入ってますよ。たとえばこれから鉄火場にいこうなんてやからがくるってえと、小皿にたくわんが一切れ。客が、『なんでえ、なんでえ、けちくせえ』などといおうもんなら、うちのかみさんが『いえいえ、お客さん、そうじゃありません。さっきからお話をうかがっていると、これから鉄火場へ、博打をなさりにいかっしゃるということじゃござんせんか、それならたくわんは一切れでございます。一切れは『人を切る』に通じます。戦国の武将は、合戦のまえにはかならずたくわんは一切れしか口にしなかったとのこと。最も忌み嫌われるのは三枚、つまり三切れ、これは『身を切る』に通じるといって、古来嫌われたものでございます』と、まあ、こんな具合でさあ」
隠居「うれしいねえ、そういう具合に、言葉ってえものに気を遣うようになってもらえると。なにしろ、我が国は『言霊の……国だ』」
源「と、そこなんですよ、ご隠居」
隠居「というと?」
源「こないだ、そういう験担ぎのことをあれこれしゃべっていたんですがね、なかにひとりずいぶんとそのへんに詳しい人がひとりいて、『言霊』がどうのこうのというんですよ」
隠居「ふうむ」
源「ご隠居さん、なんですか、その『言霊』ってえのは?」
隠居「まあ、結局話はそこへいくのかな。少し説明してあげましょう。いいかい、この身体というものは、魂の入れ物であるという考え方があるのは知ってるだろう」
源「そりゃまあ、そのくらいは」
隠居「いいかな、それと同じように、言葉というもののもまた、魂の入れ物なのだな、これが」
源「え、なんですかい、言葉にも魂が宿ってる……と、そういうことで」
隠居「その通り。たとえば万葉集にある山上憶良の歌にこういうのがある。『そらみつ、倭(やまと)の国は、皇神(すめがみ)の厳(いつく)しき国、言霊の幸(さき)はう国と語り継ぎ、言い継がひけり』とあるな。また柿本人麻呂の歌にも『磯城島(しきしま)の日本(やまと)の国は言霊の幸(さきは)う国ぞ、ま幸(さき)くありこそ』とある」源「へえ」
隠居「つまりだ、言葉を大切にしなさいということだ。言葉はただの、物を言い表す記号ではないのだ、言葉はそれそのものなのだ……という考えかな」
源「ご隠居さん、ばかいっちゃいけねえや。だいたい、言葉てえのが、それそのものなんだとかとなると、ここであっしが、金百両っていうと、小判が百両出てくるわけですかい?」
隠居「まあ、それは極端な例で、言霊とはいえ、それほどのものではない。が、たとえば子どもが生まれてくるな。その子に、おまえはばかだばかだといって育てれば、その子は決して賢くはならない。おお賢い賢いといって、育てれば、それほどの才覚を持っていない子でも、賢く育つ……これは言葉にある種の力がある証拠じゃないか。あるいはだな、結婚式に行く、すると『別れる・切れる』は縁起が悪い。もし言葉になにも力がこもってないとしたら、『別れる・切れる』といおうがなんの差し支えもない、が、やはりその場にいる人々にとっては、そういう言葉はききたくない……というのは、やはり言葉にそれなりの力がこもっているということの証拠ではないかな」
源「あ、なーるほど、そういわれれば、たしかに」
隠居「だから、とくに昔の人は言葉を大切にしたな。こないだおまえさんに話した忌み言葉というのは、その最たるものだ。昔の人々はもしかしたら、そういう言葉の本質を知っていて、まじないとか呪いといったものにたけていたのかもしれないな」
源「えっ、なんですか、そのまじないってえのは」
隠居「考えてもごらん。まじないってえのも、呪いってえのも、どちらも言葉だ。つまりは言葉によって、人の病をいやす、あるいは人を病気にする、あるいは人を殺す……ということだろう」
源「えっ、言葉で」
隠居「そうとも。まじないで、呪文で、相手を殺すということなんだ。それは、言葉に力があればこそできる技だろう」
源「ま、まあ、そうですねえ」
隠居「で、あたしは最近、ふうっと思うんだが(声が小さくなる)、ねえ、源さん」
源「はあ」
隠居「源さん!」
源「あ、びっくりした」
隠居「あたしはときどき考えるんだよ」
源「なにをです」
隠居「言葉の力ってえものを本当に理解したら、この世界だって支配できるんじゃあないかってね」
源「ご、ご隠居さん。いったい、なにをいいだすんで」
隠居「というのもね、こないだの忌み言葉の続きなんだが、じつはこういう説があるんだ。こないだは最も忌み嫌われる動物のことたずねたが、源さん、最もいやな『動詞』はなんだろう」
源「動詞っていいますと?」
隠居「走る、歩く、生きる、食べる……といった言葉だな」
源「そりゃ、死ぬって言葉でしょうが」
隠居「だな。そうそう。死ぬという言葉は、人間にとって最も忌み嫌うべき言葉だ。だから、こないだのヘビじゃないが、動詞でもっとも忌み言葉の多いのがこの『死ぬ』なんじゃよ。みまかる、なくなる、いく、逝去、他界する、崩御……数え上げればきりがない」
源「たしかにねえ」
隠居「というのは、とりもなおさず、人間にとっていちばんいやなことは死だということじゃないか」
源「そりゃ、そうでしょう」
隠居「というわけで、人々は次から次に『死』に代わる言葉を考え出して、つまり忌み言葉だな、これを使うようになった」
源「なるほど」
隠居「ところがさらにだ、もしかしたらこの『死』という言葉自体、もともと『死』を表すもともとの言葉があって、それを表す忌み言葉として考え出されたものなんじゃないか……という考えが、昔からあった」
源「てえことは、『死』を表すもともとの言葉が別にあったってえことで」
隠居「そうなんだ。じつはだな、江戸時代に起こった国学はそのへんをさぐっていた。下河辺長流、僧・契沖、伏見の神官・荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤といった国学者が、心底解明しようと企てていたのは、天皇家の再興とか、古事記・日本書紀の時代の真理の探究などではなく、じつはこの『死』にあたるもともとの言葉をさがすことだったらしいのだ」
源「えっ、ほんとうですかい」
隠居「そうらしいのだ。考えてごらん。もしかして、そのもともとの言葉に本当に死を呼ぶ霊力がこもっているとしたら、それこそ天下も自分ものにできるじゃないか。で、」
源「で?」
隠居「で、そのもともとの言葉を、ついに平田篤胤が発見した!」
源「どうやって」
隠居「それは謎なんだが、どうもそうらしい。そしてその言葉を弟子に伝えた。そして、わたしはそれを知ってるのだ」
源「!」
隠居「知っているのだ」
源「!」
隠居「源さん、知りたいかい、それを」
源「え、ええ、まあ」
隠居「ううむ……耳をかしなさい」
源「は、この耳ですかい」
隠居「そうそう、その耳……で、その言葉というのはな……××××××……」
源「えっ、なんです、それが……ですか? なんか、ごじゃごじゃしてるけど、なんてことない言葉じゃないですか」
隠居「はっはっは! 嘘じゃよ、嘘」
源「また、ご隠居さんも人が悪い。あっしは、そろそろこれで……」
隠居「はいはい、またいらっしゃい」

 というわけで、この場はこれで終わったのですが、なんとその次の日の朝、ご隠居の耳にとんでもない知らせが飛びこんでいまいります。

熊「ご隠居、ご隠居、大変です」
隠居「これは、どうしたね、熊さん」
熊「ご隠居、あの源の野郎が死にやがったんですよ」
隠居「えっ、あの源さんが? 昨日、ここにきて話をしてたときには、ずいぶんと元気そうだったがねえ」
熊「それが、昨日、うちにもどってきてから、具合が悪くなって、床に伏したまま死んじまった……てえんですよ。なんか、心臓がどうのこうのというのが医者の見立てだってえことで」
隠居「人の命というものは、明日を知れぬもの。いい人だったがなあ……」
熊「じゃ、あっしはほかにも回らなくちゃいけねえところがあるんで、これで」
隠居「いい人を亡くしましたな……亡くす……これも忌み言葉だったか……?……?……忌み言葉……『死ぬ』・みまかる、なくなる、いく、逝去、他界する、崩御……忌み言葉……ま、まさか! あたしが口にした、あの『死』のもともとの言葉が源さんの死を……まさか……」

 ご隠居、まっ青になりました。一日、二日、三日とたつうちに、いよいよその言葉が頭のなかに響き渡って、寝ようにも寝られないありさま。もしかして、あのとき源さんにいった、あの言葉はもしかして……ほんとうに元来「死」を意味する言葉だったのかも……
 一週間ほどたったある日、ご隠居は意を決して、警察署に出頭いたしました。

遠山の銀「で、そのほうか、なんぞ申し出があるというのは?」(すいません、なんとなく奉行所の感じ)
隠居「はい、さようでございます……じつは……」
遠山の銀「ふむ、ほう……な、なんと……そのほう、源の死はそなたの申したその言葉が引き起こしたのではないかと、そう申すのか?」
隠居「はい、そうなんで。もしかしてそうではないかと、そのことばかり頭を巡っていて、この数日間、ほとんど眠れませんでした」
遠山の銀「その言葉はなんというのだ?」
隠居「いえ、それはですね……ちょっとお耳を……」
遠山の銀「待て! 待て待て! 万が一、その言葉がまことに死をもたらすものであったら、わしも死んでしまうではないか」
隠居「はい、じつはそうなのです」
遠山の銀「じつはそうなのですではない!」
隠居「というわけで、わたしとしても確かめようがないのでございます。それからもうひとつ、じつはわたくしが源に教えたその死を意味する忌み言葉というのはまったくの、口から出たでたらめだったのでございます」
遠山の銀「な、なんとな!」
隠居「あたりまえでございましょうが。なんでわたしごときが、そんな言葉を知っておりましょう。その場の、冗談だったのでございます。が、万が一、いや億が一でございましょうが、その口からのでまかせが、まさにその死を表す言葉であったのかも……で、あれこれ考えた結果、ここに出頭したという次第でございます。さて、どうしたらよいのでございましょう?」
遠山の銀「ふうむ、なるほどな……その言葉、まことに日本の言葉における真の死を意味する言葉であるのかどうか、それを確かめるのがまず第一ということかのう」
隠居「確かに、その通りで……しかし、それをどうやって確かめましょうか」
遠山の銀「ふうむ……じつは、××町を仕切っている極道がおってな……こいつがまことにもって、悪逆非道、泣かされた町民は数を知れず、それでいて一向に尻尾をつかませない……じつは奉行所でも手を焼いておるのだ……もし、その男にその言葉を吹きこんでみたら……いや、失敗してもともと、万が一、そなたが考えるように、まことにそいつを死に至らせることができれば、それこそ万民の喜ぶところ……」
隠居「ということは、それを試してみろと……」
遠山の銀「とはいえ、はいこんにちはと近づいていって、耳にその言葉をささやくというのは、相当に難しい。なにしろ、子分がわんさと取り巻いておるからな。だが、鉄火場なら、相手も気を許すかもしれない。なにしろ一寸の鉄も帯びてはならないという決まりだからな。ご隠居、よかったら一度、ちょっと手を貸してはもらえねえか?」

 というわけで、このあとご隠居はまんまと鉄火場にもぐりこみ、極道の親分の耳にその言葉をささやき、見事、亡き者にしてしまう……という「明治・三人のご隠居」第一部、「忌み言葉のご隠居」、今日はここまで……

三 言霊と名前
 おそらく勘のいい方はもうお気づきのことと思うが、前回の予告通り、今回は「名前・名づけ」の話。その前置き、つまり枕が、この「隠居の忌み言葉」なのだった。枕にしては長いが、そのぶん本文が短い。
 忌み言葉のバックボーンをなすのが、隠居もいっていた「言霊」の思想。「言霊の幸はう国」とはよくいったもので、日本語はこの言霊の影響がまだまだ残っている。そしてその典型的な例が名前だと思う。隠居の言葉を借りよう。
「言葉はただの、物を言い表す記号ではないのだ。言葉はそれそのものなのだ」
 だから人は「死ぬ」などとはめったにいわなかった。なぜなら、「死ぬ」といったら、その言葉が「死」を呼び寄せるから。「言葉=そのもの」なのだ。
 そしてこういう考えは決して、日本固有のものではない。あらゆる文化が多かれ少なかれ持っている。とくにアミニズム的な色合いの強い文化にはこの傾向がよくみられる。ヨーロッパでも、もちろんそうで、17、18世紀などの古い作品を読むと、たまに「d***l」などという表記がある。いうまでもなく、「devil(悪魔)」のことなのだが、それをそのまま書くのがはばかられるから(あるいは、悪魔が本当に出てくるから)、こういう伏せ字にしてしまう。そしてもちろん、作品のなかで、そんな罰当たりな言葉を吐くのは悪党かごろつきに相場が決まっている。
 「言葉=そのもの」という発想は、いうまでもなく「名前=その人自身」という発想に結びつく。これはさらにいえば、相手の名前を知ると、相手を思いのままにすることができる……という発想につながっていく。
 たとえば、グリムの童話にも、小人のような魔物と結婚しなくてはならなくなったお姫様が、相手の名前をつきとめることによって難を逃れる……その名前を口にした瞬間、魔物が悲鳴を上げて逃げる……という話がある。これなんか、その典型といっていい。相手の名前を知るということは、相手を自分のものにしてしまうということなのだ。
 欧米ではこういう感性はどんどん薄れてしまったが、日本にはまだ残っている。そしてこの名前に関していえば、ネイティヴ・アメリカン、つまりアメリカ・インディアンのある部族はかなりこういった感性を強く持っていた。
 たとえば、自分の本当の名前は、親しい人にしか教えないという風習があった。そして部族のなかでは普通、あだ名で呼ばれていた。その人がだれかに自分の名前を教えるということは、自分を相手にゆだねるということなのだ。そしてその本当の名前を知った者は、相手を意のままに操ることができる。
 という話をすると、まずふたつほどアメリカの児童文学が頭に浮かんでくるだろう。アーシュラ・K・ル=グインの『ゲド戦記』とスコット・オデールの『青いイルカの島』だ。両方とも、そういうインディアンの部族に残っている「言霊」をとてもうまく使った作品だと思う。
 名前、名前、名前である。
 しかしアメリカだけではない。ロイド・アリグザンダーの『プリデイン物語』にも、似たようなエピソードが出てくる。
 また話が日本にもどるが、日本でも「名前」はとても大切にされてきた。たとえば、昔ミッション系の学校で外人教師が日本の学生をヨーロッパ風に、姓ではなく名で呼ぼうとしたとき、ずいぶん抵抗があったらしい。「親や目上の親戚の人以外に名を呼ばれるのはいやだ」というのだ。いや、これは昔だけの話ではなく、現在でもそういうくすぐった感じはあるのだと思う。ぼくも外人に「Mizuhito」と呼ばれると、やっぱり気恥ずかしい。しかし大昔は、気恥ずかしいどころではなく、それは一種のタブーだった。その人の名前を呼ぶということは、相当親しい関係でもない限りはあり得なかったのだから。
 たとえば、「太郎」という名前は、名前である……というと、なにを当たり前なことをという人がいるかもしれないが、「太郎」というのは、もともとは名前ではない。「長男」という意味の普通名詞だった。『日本国語大辞典』の「太郎」の項をみると、まず一番に「長男の称」とある。そして用例のなかに、こんなのが載っている。「太郎は惣領の子也。次郎は二男也。三郎は三男也」。つまり、「次郎」も「三郎」も、もともとは名前ではなく普通名詞だったのだ。
 なぜこんな言葉が生まれたかというと、その人の名前そのものを呼ぶのがはばかられたからで、「金原さんとこの瑞人君は」というのがはばかられたから、、「金原さんとこの太郎さんは」などと、遠回しに呼んだ、というわけ。
 そして金原さんちの太郎さんの次男は「太郎次郎」などと呼ばれていた。
 そういった普通名詞がそのうちに固有名詞になっていく、ということらしい。
 このあたりの名前に対する感性は、日本人とネイティヴ・アメリカンはかなり共通するものがある(もっとも、ネイティヴ・アメリカンの場合、部族によってずいぶん文化が異なるので一概にはいえない。たとえば、ある部族では、自分が変わると名前が変わる、まさに「名は体を表す」といわんばかりの風習が残っているところもある。ほかにも様々な部族の例があるが、その多くに共通しているのは、名前を大切にするという考えだろう)
 その点、欧米の場合それほど名前にこだわらない人が多い。まあ、親もそれなりに考えて名前をつけるんだろうけど。ケネディ元大統領夫人ジャクリーンと結婚した船舶王オナシスは、アリストテレス・ソクラテス・オナシス。親の思いがあまりにわかりすぎておかしい。あと欧米でたまに、首をかしげてしまうのが、父親の名前をそのまま息子につけるケース(なぜか、母親が娘に自分の名前をそのままつけることはあまり多くないと思う) 代表的な例が、カート・ヴォネガットで、彼はずっとカート・ヴォネガット・ジュニアと呼ばれていたが、父親が亡くなって、最後のジュニアが取れた。だから昔の彼の本は「カート・ヴォネガット・Jr」とその名前が書かれているが、ある時期以降この「Jr」が消える。父子同名の場合の息子の一番の悩みは、自分にきた手紙まで父親に開けられてしまうことらしい。
 閑話休題。つまり日本とネイティヴ・アメリカンは名前に関して感じ方が似ているという話だったが、もうひとつ名前で共通しているのは、名前に自然界のものをよく使うことだろう。アメリカでネイティヴ・アメリカンの人に会って自己紹介するとき、「Kanehara Mizuhito」といってから、「Kanehara means golden field」と説明するととても喜んでくれる(金原という名字をみて、先祖はさぞかし貧乏だったんだろうなという人もいるけど、自分としてはやはり「金色の輝く草原」というイメージがいい) あと、山田、田中、松井、川原、石川、海原、巌谷、布川、秋川……数え上げればきりがない。
 そして同じように、ネイティヴ・アメリカンの場合、「鷲の息子」「座る雄牛」「気のふれた馬」「囁く川」などなど。「狼と踊る男」……というのは、インディアンのなかで暮らすようになった白人の男につけられた名前(あまり好きな映画じゃないけど、まあ、参考までに)。
 そんなふうに言葉を大切にする、そして名前を大切にするネイティヴ・アメリカンの感性を見事にとらえて、それを生まれつき目の見えない男の子の成長に重ね合わせてできあがった絵本が『青い馬の少年』。文章がビル・マーティン・ジュニア(かわいそうに、この人もお父さんと同じ名前らしい)とジョン・アーシャンボルト、絵がテッド・ランド。出版社はアスラン書房。ちなみに、これは平成一四年版の日本書籍の六年生国語の教科書に載る予定。
 もう十年以上前に、アメリカ政府の招待で、東から西まで八箇所を回ったことがある。これはインターナショナル・ヴィジターという制度で、アメリカをいろんな国の人々に知ってもらおうという好企画。その年は、「エスニック文化」を研究しているというので、ぼくが招待されることになった。そのとき尽力して下さったのが、故金関寿夫さんと、迫村裕子さん。おかげで一ヶ月、通訳兼エスコートつきで、いろんなところを回って、いろんな人に会ってきた。作家、詩人、編集者などなど。そのときの一番の収穫がルドルフォ・アナヤというチカノ作家。アナヤについてはまたの機会にゆずるとして、この旅行のとき、ニューメキシコ州のアルバカーキからサンタフェに向かう途中にインディアン・ミュージアムがあるというので、寄ってみた。あまり大きいものではなかったが、南西部のネイティヴ・アメリカンの資料がとてもわかりやすく並んでいた。そこをざっと見て回って、売店でふと目についたのがこの絵本だった。水彩で描かれた表紙がとてもきれいで、手に取ってめくってみたら、中の絵もすばらしかった。とくにおじいさんと孫が馬に乗って、いっしょに丘を登っていく絵は強烈に印象に残った。というわけで、絵にほれて買ったのだが、日本にもどって読んでみて、驚いてしまった。物語がその絵以上に素晴らしかったのだ。すぐにアスラン書房に電話をしてしまった。インディアン物の絵本なんて、日本の普通の児童書の出版社では出してくれそうになかったので、『カラスとイタチ』を訳させてくださったアスラン書房にまず連絡をと思ったのだ。アスランの藤本さんからはすぐに連絡がきて、「いい本ですね!」とのこと。すぐに翻訳に取りかかることになった。そのときに藤本さんが、「最初に読んだとき、主人公の少年が目が見えないというところがわからなかったのよ」といっていたが、日本語でも読んだ人からも同じことをいわれたことがある。それくらい、その部分はさりげなく、そしてたくみに描かれている。
 欧米の絵本を訳す場合、普通はある程度削りながら訳すことが圧倒的に多い。どうしても日本語にすると長くなってしまう。かといって、活字をあまり小さくするわけにもいかない。ところが、この絵本は文章がよくて、削りたくなかった。それは編集の藤本さんもまったく同じ意見で、結局どこも削らずに全訳で出ることになった……そのせいで、文章が絵の部分まではみ出てしまった。ほかの出版社の編集や、絵本をよく知っている人からは、「目障りだ」と何度も指摘されたが、あれがぎりぎりの妥協線。あれ以上、活字を小さくすると見づらくなってしまう。どうしても原文を削りたくなかったという気持ちをくみ取ってほしい。それくらいに無駄のない、削りどころのない文章なのだ。
 じつはこの絵本の原題は『Knots on a Counting Rope』。おじいさんが孫に話をきかせるたびに、ロープに結び目をひとつ作る、そのロープの結び目ことなのだが、さすがにこれを日本版のタイトルにするわけにはいかず、じゃあどうするかと考えて、ふと頭に浮かんだのが『青い馬の少年』。読んだ方はもうおわかりと思うが、この主人公の少年の名前が「青い馬の力をさずかった少年」。そう、これはさっきも書いたとおり、名付けと少年の成長の物語。ぼくもとても気に入っている絵本の一冊だ。作家の荻原さんにも、翻訳家の久慈さんにも、この絵本だけはずいぶんと気に入ってもらえたらしい。

四 そしてもう一冊
 パトリシア・マクラクランの『のっぽのサラ』を訳したとき、ほんとにうまい作家だなと思った。マクラクランの多くの作品は、人物設定、状況設定、プロット、言葉遣い、すべてがきれいにかみあっている。ああいううまさは、いったいどこから生まれてくるんだろうと、たまに考えたりするが、まあ、考えてもしょうがない。たぶん本人にもわかってないのだろう。
 中編をよく書くマクラクランが『海の魔法使い』という短編を書いた。それも珍しくファンタジー。マクラクランは『海の魔法使い』以外あまりファンタジーを書いていない。そしてこの作品、「あとがき大全(8)」でも書いたとおり、本国アメリカでは絶版になってしまった『Dragons & Dreams』というファンタジーのアンソロジーに入っている。だから、この作品を書店で買って読めるのは日本だけ。
 この短編を発見したのはもう十年以上も前で、それも発見したのはぼくではなく、石原万里さん。犬飼先生のところで翻訳を勉強していた後輩である。石原さんがラフに訳してくれたのを手直しして訳し直した原稿を持って、いくつもの出版社を回ったのだが、なかなか出そうというところがなかった。絵本にして出すには長すぎるし、一冊の本にして出すには短すぎるというのが、その理由だ。
 そして当時、ぼくはバベルの翻訳教室で教えていて、これを何度かテキストに使い、使うたびに訳文が変わっていった。もう何度訳し直しただろう。
 そのうちやっと、あかね書房の重政さんが編集長と相談して、なんとか出しましょうといってくれた。そのとき編集長から「中村悦子さんの絵でやりたい」といわれて、びっくりした。というのも、ぼくもぜひ中村さんの絵でやりたかったからだ。そしてこれを十年以上前に訳したときにすでに中村さんに見せてあって、中村さんもぜひやりたいといっていたのだ。いうまでもなく『のっぽのサラ』の表紙と挿絵は中村さん(それを決めたのは、当時の福武の編集者、角田さん)。
 というわけで、『のっぽのサラ』以来、十年ぶりくらいで中村さんとの共同作業が始まった。出来は、見ての通り。
 読んだ方はもうご存じだろうが、これも「名づけ」の物語。海に住む赤ちゃん魔女が、(魔法使いの決まりに従って)自分の名前を決めなくてはいけないのだが、この子は、どんな名前で呼ばれても、にこにこ返事をしてしまう。どんな名前も気に入ってしまって、どれかひとつに決めるなんて、つまんない、できないと思ってしまう。いろんな名前がいい……という赤ちゃん魔女の願いはかなうのだろうか……という物語だ。
 マクラクランは、このエンディングを見事に決めてくれた。ほんとに、この人はうまい。読み終わって、思わず拍手を送りたくなるような作品だと思う。
 ちなみに、原題は『All the Names of Baby Hag』。ぼくは最初、『赤ちゃん魔女の名前』にしたのだが、出版社の判断で『海の魔法使い』になった。どちらもそれぞれに、捨てがたく、できれば両方のニュアンスを兼ね備えたタイトルをつけたかったが、マクラクランのような「うまさ」がない悲しさで、後者ひとつだけのタイトルになってしまった。

 というわけで、今回は『青い馬の少年』と『海の魔法使い』の長い長いあとがきでした。